そのろく
二月の終わりに、三月一杯でバイトはやめる、と、浪速が申し出てきたのには、閉口した。まさか、そんなことを言い出すとは思わなかったからだ。
「それは、転勤拒否っちゅーことか? 」
「そういうことになるな。」
「今から就職先を探すつもりか? みっちゃん。」
「いいや、もう決まったからええねん。」
「はあ? まさか、前から計画しとったんか? 」
「いいや、まあ、なんていうか、就職は勝手に決まったっちゅー感じかな。・・・ところで、引継ぎとかどうするんや? 堀内さん。」
実際問題として、浪速のやっていた仕事を誰かに引き継ぐとなると、大事になる。それこそ、堀内の転勤を引き延ばす羽目になりかねない。すでに、足掛け七年で、浪速が堀内から、すっかり引き継いで勝手に動かしていた代物だからだ。
「引継ぎって、そないに簡単にいくかいな。なんでや? なんで、おっちゃんの仕事をしてくれんのじゃっっ。」
「転勤はできひんねん。ここで、仕事しててええんやったら、今まで通りに働ける。」
「なんでや? 別に、今更、親から、なんか言われることはあらへんやろ? 天涯孤独と変わらんおまえに、転勤できひん理由なんかあるんかい? 」
浪速は、高校を卒業する前に、親元からは独立した。それからは、音信不通だ。今更、その親が、どうということもない。というか、親が、どう言おうと浪速は従わないだろう。
「許可がでぇーへんのや。」
なんだか、珍しいくらい嬉しそうな微笑で、浪速が言う。ああ、あのガキの仕業か、と、堀内も気付いた。たぶん、転勤するな、と、言い出したのだろう。
「あのガキが、おまえの借金の肩代わりして、そう言うたんか? 」
「借金のカタとは違う。・・・そういや、あの金のこと、どうするか相談してないな。」
「え? 」
浪速は、普段、無口で無表情で何を考えているのかわからない男だ。それが、もう、嬉しそうな顔で、そう言うのだ。ぴんとクるものがあった。
「告白でもされたか? 」と、尋ねたら、「俺が押し倒した。」 と、これまた、浪速らしからぬ照れた表情で言う。
「はあ? おまえがぁ? 」
「あー先に、剥いたのは、花月やけど、やろうと言うたんは、俺や。ま、そういうことで、許可はでぇーへんようになった。」
「せやけどな、みっちゃん。あいつ、一時の気の迷いとかやったら、おまえ、捨てられるんやで? だいたい、男同士なんてもんは、付いたり離れたり忙しいんや。」
「・・別にええがな、それでも・・・」
堀内の心配からの苦言にも、浪速は、そう答えた。これはいかん、と、堀内は、しばし考えた。別に転勤したくないというのなら、それでもいい。現状維持でも充分に、仕事は回せる。ただ、それだけではいけないだろうとも思う。そういう関係の人間ができたことは、浪速には喜ばしいことではあるが、それが壊れた場合が問題なのだ。
「おっちゃんは、納得できひんな。」
「堀内さんは、関係ないやろ。」
「関係はある。みっちゃんは、わしの大切な愛人や。それを勝手に横取りされては困る。それなりに仁義通してもらわにゃならん。」
「はあ? 指でも詰めるっちゅーんかい。」
「こらこら、わし、堅気やぞ。そうやない、あのガキに土下座のひとつでもしてもらわんと気が済まんっちゅーくらいのことや。」
「あほらしい。」
もう、ええわ、話にならん、と、浪速が立ち上がった。しかし、堀内のほうも立ち上がって、浪速の腕を掴まえた。
「しばらく、みっちゃんには、ここで暮らしてもらおう。あのガキが、取り戻しに来たら、ちゃんと土下座して、わしに詫びを入れてもらう。」
「なんで、花月が、そんなことせないかねんっっ。」
「わしの面子の問題と、あのガキの本気さ加減も見せてもらう。みっちゃんは、大人しいしとったらええ。」
事務所の傍には、社員寮がある。そこへ、浪速を無理矢理に連れて行き、ひと部屋に放り込んだ。外から、鍵をかけて閉じ込める。しばらくは、ドタバタと扉を蹴っていたが、それも無視して、堀内は寮を出た。花月の居所は、ちゃんと掴んでいる。身辺調査もしてやろうか、と、目論んでいたから、携帯番号も控えている。
深夜近い時間になってから、堀内は花月のアパートに赴いた。扉は開いたままだから、勝手に中へ入った。
「おかえり、話はついたんか? 」
布団に転がり本を読んでいる花月は、こちらを見ずに、そう言ってから、顔を上げた。そして、げっ、という顔をした。
「わしの愛人を横取りするとは、どういうことや? 」
「愛人やないやろ。手当をもらてるわけでもないし、あいつは、そんなつもりは毛ほどもあらへんやんけっっ。」
不遜な顔で、そう告げたら、相手は噛み付いてきた。堀内は、堅気には見えない容姿と服装だ。凄めば、それなりの迫力はある。それでも、負けん気が強いのか、花月も引くつもりはないらしい。ゆっくりと立ち上がって、睨みつけてくる。
「わしが大切に育てたみっちゃんを、いつ、収穫するかは、わしの勝手じゃ。そろそろ熟れてきたから、手を出そうってとこで横取りされたら怒るのが筋っちゅーもんや。」
「相手の意思は関係ないんか? 」
「あらへん。」
「それは強姦じゃっっ。」
「最初は、そういうもんやろ。みっちゃんは、そういう方法でしか手に入らんタイプや。おまえかて、そうと違うんか? 無理矢理、みっちゃんを押し倒したんやろうがっっ。」
「なんやとぉぉぉ。」
経緯は、浪速から聞いている。浪速が受け入れたのだともわかっている。だが、激こうさせるには、これが一番の方法だ。ニヤリと堀内は笑った。
「わしの愛人を傷物にした詫びは入れてもらう。一千万で手を打つ。ここまで、金を運んで来い。」
事務所の場所を書いた紙切れを、そこに落とし、堀内は、スタスタと部屋を出た。これで、挫けるような人間では、浪速は扱えない。試すための嘘だ。学生の身分で、そんな金は作れない。どんな手で、浪速を迎えに来るのか、堀内は、それが楽しみだった。
となりで、ぷかぁーとたばこの煙を吐き出している浪速の顔を見て、堀内は噴出した。すると、浪速のほうも釣られるように、ぶっっと噴出す。
確かに、花月は、次の日の夜やってきた。もう、それは、事務所で語り草にされるような、とんでもない方法で迎えに来たのだ。
「いや、俺も、あんなこと考えるとは思わへんかったわ。」
「何ぬかすんじゃっっ、みっちゃん。わしなんか、どんだけ笑い堪えるのに苦労したと思てんねん。・・・あのどあほ・・・くくくくくく・・・今、思い出しても腹が痛いてっっ。」
もちろん、その光景を知っている浪速も、くくくくくく・・・と前かがみになって笑い出す。懐かしいが、忘れられない光景だった。
堀内の前に、花月はやってきて、唐突に、コートの前を開いた。そこには、どう見ても、ただの黄土色の紙で作ったであろう筒と、そこから、荷造り紐が飛び出ているとしか思えない、あからさまに偽モノなダイナマイトが十本、花月の腹に巻かれていた。さらに、手にはチャッカマンと、どう見ても、テレビのリモコンにしか見えないリモコンがあった。
「水都を返せ。返さへんのやったら、おまえらと心中じゃっっ。」
と、真剣な表情で、花月は怒鳴った。そこにいた人間が絶句したのは、言うまでもない。事情を説明していたから、堀内以外の人間は驚いたものの慌てて、警察に連絡するようなヘマはしなかった。すぐに浪速が連れて来られたが、連れて来られた浪速ですら絶句した。
「水都っっ、帰るでっっ。」
それでも、差し出された手には反応した。すぐ手を取って、事務所から走り出した。花月の部屋に戻ると、そこには、ちゃんと逃亡するための荷造りがされていた。浪速の分も、ちゃんと、作られていた。
「おまえの入用やと思うもんは、ここに詰めた。とりあえず、逃げる。」
どうせ部屋は知られているのだ。ここにはいられない。金がないのが、かなり手痛いのだが、逃げないわけにもいかないと、銀行で貯金は全額下ろしてあった。
「待ってくれ、花月。逃げるって・・・どこへ? だいたい、おまえ、もうちょっとしたら研修に・・・」
就職先の研修が、来月の途中から始まる。それほど逃げていられるわけではないし、それまでに住む場所を確保しておかなければならない。そんな瀬戸際の時に、逃亡なんてしている暇はない。
「研修まで逃げて、とりあえず、ウィクリーマンションでも借りる。」
本当に真剣に、いろんなことを考えたのだと、浪速にもわかった。たぶん、いろいろと考えて、自分を迎えに来てくれたことが嬉しい。
「そこまでせんでも大丈夫や。」
「あほかっっ、あんなやつらは何するかわかるかいっっ。おまえ、何にもされてないやろうな? 」
「・・うん・・・」
何もされていないというより、いつも通りに仕事をさせられていただけだ。部屋からは出してもらえなかったが、食事は、それなりの弁当が支給されていたし、着替えも差し入れられていた。
「とりあえず、このまま、夜行バスに乗る。」
荷物を引っ掴むと、花月は立ち上がる。ちゃんと、逃亡ルートも考えたらしい。だから、そこまでしなくてもいいんだと、水都のほうが説明しようと思ったら、堀内が追い駆けて、部屋にやってきた。凄んでいるわけではなくて、普通の顔をしていた。まあ、普通の顔でも、一般人が見たら怖い顔ではあるだろうが。
「へぇー逃げる気満々で結構や。」
綺麗に片付けられた部屋から察せられただろう。堀内は、水都に向かって、嬉しそうな顔を一瞬だけ向けた。何が、そんなに嬉しいんだろうか、と、水都にはわからなかった。
「手切れ金なんか一銭もないっっ。」
「別に、手切れんでもええんやがな。」
「こいつは、おまえの愛人でもなんでもあらへんのやっっ。」
誰が手切れ金だ? 誰が? とんでもないことを花月は吹き込まれたらしい。ああ、それで逃亡するわけか・・・と、そこで、ようやく、俺にも納得がいった。たぶん、堀内は、なんちゃってやくざのマネなんぞして、花月におかしなことを吹き込んだに違いない。そして、真っ正直な花月は、それを信じたから、あんな芝居をしたのだろう。
「ええ加減にせいよ、おっさんっっ。花月に、何を言うたんやっっ。」
さすがに、これには腹が立った。
「あることないこと、いろいろや。」
もちろん、堀内のことは、よく知っているので、本当のことなんか教えてくれるわけがない。
「バイトさせてもろたんは感謝してるけど、それとこれとは別や。」
「まあな。とりあえず、おっちゃんを袖にするみっちゃんに意地悪したかったんや。でも、ほら、おっちゃんは、みっちゃんが大好きやからな、そこのあほガキに八つ当たりしといたんや。」
「もうええやろ? 」
「せやな。もうええな。・・・転勤なしで、就職の方向で頼むわ。それと、これは支度金や。」
ポンと堀内は、封筒で、俺の肩を叩いた。そして、そのまんま手に渡される。転勤拒否は受理されたらしい。それから、堀内は、花月に向かって、「俺の大事にしてたみっちゃんを、大切に、大切に、それはもう、お姫様のように大切に世話してくれ。」 と、言い置いて、大笑いして帰っていった。よくよく考えたら、俺は花月にバイト先のことを話したことがなかった。堀内が、やくざだと言ったら信じるだろう。それから、事情を説明して、逃げることも、手切れ金を支払うこともないのだと納得させたら、花月は、「二度と堀内に会いたくない。」 と、怒っていた。
「花月は、まだ、おっさんのことが苦手やねん。」
笑いが収まってから、浪速は、そう言って、堀内に冷酒を注いだ。今から考えたら、恥ずかしい青春の汚点だろう。そして、どんなに自分が、世間知らずで力がないのかも思い知らされた。それを、知られている堀内が、花月は苦手だ。
「まあなあ、それはわかるけどな。おっちゃんは、あのボケが大好きなんやけどなあ。」
なりふり構わず、それこそ、猿芝居みたいな真似までして、浪速を迎えに来た吉本を、堀内は認めている。若いから、あんな無茶しか思いつかなかった吉本だが、それでも真剣に、浪速と居ることを選んだことは、自分にとっても嬉しかったからだ。ちゃんと後日、浪速には内緒で詫びを入れて、浪速のことを頼んだ。
「おっさんに言われる筋合いはないわいっっ。」 と、ケンモホロロに怒鳴ったものの、ちゃんと詫びてきた堀内に、「水都に寂しい思いはさせへん。」 と、宣言もした。あれから十数年しても、ちゃんと、ふたりして楽しく暮らしているから、堀内も安心している。浪速が、生きているだけの状態ではないのが、そのいい証拠だ。
「好きなんやったら、黙って見守ったってくれ。」
「そうやねんけどな。なんか、わしが寂しいやんけ。」
「俺が相手したってるのにか? 」
「せやけど、みっちゃん、そろそろ、帰宅時間やろ? あのボケのことやから、十二時過ぎたら電話してくるぞ、絶対に。」
時計は、そろそろ深夜枠だ。たぶん、花月は、今夜、誰と飲んでいるか気付いているだろう。電話してくることはないだろうが、あんまり遅く帰ると、苛められそうな気はする。
「ほんだら、お開きにしてもらおうか? 」
「そうやな。そうせんと、また、ダイナマイトを腹に抱いて、あほが来るかもしれへんし。」
「いや、今度は普通に来ると思うで。」
「わかるかいな、三つ子の魂百まで、って昔から言うやないか。」
立ち上がって、勘定を堀内が済ませる。ぶらぶらと、大通りまで歩いて、タクシーを捕まえた。堀内のほうは、すぐ近くのホテルだから、このまま徒歩だ。タクシーに乗り込んだら、浪速の携帯がブルブルと震えた。