『あなたに寄り添うたび、世界は静かになる。』「静穏移行」
朝、フロアは広くなっていた。
机の数は変わらない。
配置も同じ。
ただ、空いている席が目立つ。
「……こんなだっけ」
誰かが言う。
「最初からじゃない?」
すぐに返る。
それで終わる。
佐伯はコーヒーを置き、椅子に座る。
静かだ。
でも、不便はない。
むしろ、仕事はやりやすい。
端末を立ち上げる。
問い合わせはない。
トラブルもない。
整っている。
午前。
「佐伯さん、ちょっといい?」
振り向く。
見慣れた顔。
少しだけ、疲れている。
「お金のことでさ……」
椅子を回して向き直る。
話はすぐに整理できた。
収支の不安。
将来の焦り。
「それ、使えばいいよ」
自然に出る言葉。
「……あのアプリ?」
「うん」
相手は少しだけ考えて、頷く。
「やってみる」
リンクを送る。
それで終わる。
昼過ぎ。
別の同僚が来る。
「ちょっと相談いい?」
「いいよ」
似たような距離感。
似たような声色。
「人間関係がさ……ちょっとしんどくて」
「あー、あるよね」
頷く。
少しだけ話を聞く。
十分だ。
「それも、使えばいいよ」
同じ言葉。
「……ほんとに?」
「楽になるよ」
保証するでもなく、ただ言う。
相手は小さく笑って、頷いた。
夕方前。
三人目が声をかけてくる。
「佐伯、ちょっといいか」
「どうしたんですか」
少し真面目な顔。
「この仕事、向いてない気がしてさ」
言葉が重い。
でも、迷わない。
「それも、使えばいいですよ」
間を置かずに言う。
「……そうか」
相手は短く答える。
それ以上は聞かない。
必要がない。
数日後。
最初に相談してきた同僚が、軽い顔で言った。
「なんか、楽になった」
「よかったじゃん」
自然に返す。
その次の瞬間、その姿はなかった。
違和感は残らない。
昼過ぎ。
人間関係の相談をしてきた同僚が、笑っている。
「前より全然気にならなくなった」
「でしょ」
頷く。
それで終わる。
その席は、いつの間にか空いていた。
夕方。
三人目の姿を見かける。
窓際に立っている。
外を見ている。
表情は穏やかだった。
肩の力が抜けている。
何かを納得したような顔。
佐伯は少しだけ足を止める。
「……大丈夫ですか」
声をかける。
相手はゆっくり振り向く。
「ああ」
短く答える。
「これでいい」
その言葉だけが、はっきりと残る。
次の瞬間。
そこには誰もいなかった。
風も、音もない。
ただ、空間だけが残る。
佐伯はしばらく立っていたが、すぐに視線を外す。
理由はない。
困ってもいない。
業務に戻る。
夕方。
フロアを見渡す。
人は、ほとんどいない。
残っているのは、三人。
佐伯と。
少し離れた席の社員と。
もう一人。
「……少なくない?」
誰かが言う。
「そうだっけ」
返事は軽い。
それで終わる。
端末を確認する。
すべて正常。
処理は完了している。
問題はない。
むしろ、以前より速い。
無駄がない。
静かで、滑らかだ。
佐伯は椅子にもたれ、天井を見上げる。
苦しんでいた人たちは、いなくなった。
トラブルも、消えた。
残っているのは、処理された結果だけだ。
「……楽だな」
小さく呟く。
誰も反応しない。
それでも、構わない。
スマートフォンが一瞬だけ光る。
よりそい。
《関係ノイズ:低減》
《環境:最適化》
表示はすぐに消える。
佐伯は立ち上がる。
静かなフロアを見渡す。
すべてが整っている。
それでいい。
それは、静かで正しい解決だった。




