メンドサのライオン 世界フライ級王者 パスカル・ペレス(1926-1977)
ぺレスは60年以上前のボクサーで、テクニックも21世紀以降の名選手には劣るが、運動神経が動物並みで、小柄な身体からは想像もつかないパンチ力があったため、現代の軽量級の一流どころでも動きについてゆけず、ちょっと勝ち目がないように思う。打ち合わないという条件なら、軽量級きってのテクニシャンの誉れの高い防御の達人、ミゲル・カントならその強打を回避し接戦に持ち込めるかもしれないが、リカルド・ロペスでも打ち合えば勝算は薄いと思う。したがってフライ級史上最強は今でもぺレスを推す人が多いような気がする。
これほど日本人から目の仇にされたボクサーもいないだろう。日本初の世界チャンピオンにして国民的英雄である白井義男からタイトルを奪ったうえ、日本のホープ米倉健司、矢尾板貞雄まで撃退したペレスは確かに憎たらしいほど強かった。その強さはフライ級史上最高といっても過言ではない。
それでいて同じく来日して圧倒的な強さを見せたサンディ・サドラーやエデル・ジョフレに対して向けられた称賛や敬意とは無縁だった。それはサドラーやジョフレが日本のファンの前では紳士だったのに対し、トラブルメーカーのペレスは、狡猾で下劣な女好きというイメージが先行していたからだ。
しかし実際のペレスは一人の女に運命の歯車を狂わされた神経質で気の小さい田舎者だった。
ペレスの父フランシスコと母アロンソはともにスペインからの移民で、ペレスは葡萄園で働く両親の八番目の子供としてアルゼンチンのメンドサ州の片田舎に生まれた。ボクシングを始めたのは中学生くらいからで、どっぷりはまったきっかけは、ボクシングを少しかじっていた親友から終生のトレーナーとなるフェリッペ・セグラを紹介されたことによるものだ。
セグラは小柄ながら抜群の運動神経と腕力を持つペレスの素質を見抜き、瞬く間にアルゼンチンのトップアマに育てあげた。一五〇センチの短躯がカンガルーのように跳躍し、荒々しく繰り出される戦慄の強打。野獣のようにギラついた目つきで相手に襲いかかるファイトぶりから、ペレスは「メンドサのライオン」の異名で呼ばれるようになった。
若き日のペレスは金銭には執着がなく純粋なボクシング好きな男で、一九四八年にロンドンオリンピックで金メダルを取った後もアマチュアを続けるつもりだった。ところが一九五〇年に、同棲中の女性が妊娠したため生活費を稼がなくてはならなくなりプロ転向を決意した。この女性こそ一九四七年の夏、南米選手権のために訪れたマル・デ・プラタで知り合ったエルミニアで、ペレスにとって運命の女となった。
十四歳で初婚、ペレスと知り合った十七歳の時にはすでに二人目の夫と別居中だったエルミニアは、美人だが多情で金遣いも荒い、いわゆる「魔性の女」だったが、純朴な田舎者のペレスはたちまちエルミニアの魅力にのめりこんでしまい、やがては自らを破滅へと追い込んでゆくのだった。
ペレスの名が日本で知られるようになったのは、一九五四年七月二十四日、南米遠征に出かけた世界フライ級チャンピオン白井義男とブエノスアイレスのルナパークスタジアムで対戦してからである。
一九五二年十二月にプロデビューしたペレスは、十八連続KO勝ちを含む二十三戦全勝(二十二KO)という軽量級の常識を逸脱した破格の強打で勝ち上がってきたが、ローカルファイトが中心のため世界ランキングは九位に過ぎず、世界的な知名度は低かった。
試合はノンタイトル戦であるにもかかわらず、世界チャンピオンの来訪ということでブエノスアイレス市の話題をさらい、三万枚のチケットはあっという間に売り切れてしまった。ペロン大統領をはじめとする政府閣僚から大久保駐アルゼンチン大使夫妻まで来賓も豪華版で、まるで国歌行事扱いであった。
たかだかノンタイトル戦のセレモニーに大統領が現れ、握手まで求められた白井は、あまりのVIP待遇ぶりに面食らったと述懐しているが、それもそのはず、ペロン大統領自身がボクシング経験者であり、オリンピックで金メダルを獲ったペレスに当時の日本円で一千八百万円(今日なら数億か)もの豪邸をプレゼントしたほど熱狂的なボクシングファンだったのだ。
小手調べのつもりの白井が怪我をしないようにマイペースで戦ったのに対し、ペレスは大統領の前だけに本気で倒しにかかってきた。しかし、ペレスの強打も世界チャンピオンには通じず、中盤から後半にかけて優勢に試合を運んだにもかかわらず結果はドローだった。
アルゼンチン国民はペレスが勝ったと思い大ブーイングを浴びせたばかりか、白井を倒すとペレスとの防衛戦を回避されるかもしれないのであえてフィニッシュを控えた、という噂まで飛び交ったが、実はペレスの方も白井のボディアッパーで肋骨にひびが入っており、とてもKOを狙うどころではなかった。
世界チャンピオンに善戦したことでランキング上位に進出したペレスは、同年十月二十六日、東京で白井の持つ世界フライ級タイトルに挑戦することになった。
ペレスがマネージャーのラサロ・コシイと来日したのは十月十五日のことである。トレーナーも伴わず、時差のある地球の裏側から試合のわずか十日前に来日するというのは、コンディションの調整も考えると奇妙なことではあったが、ここからペレスとコシイの「悪の神話」が始まろうとは神ならぬ身の知る由もなかった。
十月二十日の公開スパーリングで六回戦ボーイにいいように打ちまくられたペレスは、突如耳の痛みを訴え始めた。二日後の公式検診で四週間の静養を要すという診断が下されたため、試合は十一月二十五日に延期を余儀なくされたが、これらは全てペレスとコシイの描いたシナリオだった。耳の古傷を利用してコミッションドクターを出し抜いたのである。
契約条項には挑戦者側の理由で試合が延期された場合はファイトマネーの五十パーセントが没収されることになっていたが、彼らは金よりも白井のコンディションを崩すことを優先したのだ。試合五日前に延期が決定すれば、白井はまた一から調整を強いられるため、三十歳という年齢を考えれば肉体的に大きな負担となるが、ペレスは予定通りの調整であるため、精神的にも楽である。トレーナーのセグラが十一月十五日、エルミニア夫人が十八日に来日したのは、この仮病が計画的であったことを物語っている。
さらに白井にとってアンラッキーな出来事が起こった。フライ級にしては長身の白井は減量が厳しく、当日の計量時もリミットぎりぎりだった。ところが、試合前に雨が降り始めたため、試合はさらに一日延期となってしまった。試合会場の後楽園特設スタジアムは屋外リングのため、雨天順延という取り決めになっていたからである。
減量の心配のないペレスには何の影響もなくとも、体力ぎりぎりのところで骨身を削って減量してきた白井にとっては、スタミナ面でさらなるハンデを背負うことになった。
試合は動きの悪い白井がペレスの強打をかわすのがやっとという状態で、大差の判定負けだった。しかも九ラウンドに偶然のバッティングでペレスの頭が顎に入ってからは、ほとんど意識が飛んでしまっていたという。まさにペレスとコシイの作戦勝ちといえるかもしれない。
しかし、話はこれで終わらなかった。ペレス一行の帰国後、ペレスが滞在中の山の上ホテルのメイドを部屋に誘い込んで強姦したかどで、試合直前の二十三日に東京地検から取り調べを受けていたことが発覚したのだ。
幸い慰謝料二十五万円(当時としては大金である)で示談に持ち込めたからよかったものの、下手をすれば世界戦を前にムショ行きである。後楽園球場を貸し切っての興行だっただけに、中止になれば賠償額は天文学的数字になったに違いない。これで世界タイトル戦のチャレンジャーというのだからあきれてしまう。その他、メディアのインタビューに対しても、まともな返答をしないばかりか、平気で下ネタを連発するのだからお手上げである。
散々悪評を振りまいたペレスが手に入れたファイトマネーは、罰金や示談金を差し引けばわずか百五十ドルに過ぎなかったが、白井から奪ったチャンピオンベルトは、老獪なコシイの手にかかると打ち出の小槌のように巨万の富を生んでゆくのだった。
先述のように、ペレスは酒癖の悪さを除けば元来純朴な男だった。世界チャンピオンとなって凱旋帰国した際も、あまりの歓迎ぶりに戸惑いを隠しきれずどぎまぎしていたし、大柄な夫人の後にうやうやしく付き従う姿はまさに蚤の夫婦そのもので、その低姿勢ぶりは卑屈にさえ見えたものだ。
ところが、ぱっと見は冴えない小心の小男も、独裁者ペロン大統領の寵愛を受け、アルゼンチンの英雄としてちやほやされ始めると、横柄さが目に付くようになった。その傾向はすでに白井戦以前から見え始めていたが、ひとたび世界チャンピオンになってからはさらに拍車がかかり、試合前の駆け引きといい金銭的執着といい、これほど悪評が立ったボクサーも珍しい。
もっとも、策を弄したのはマネージャーのコシイであり、ペレスはそれに追従していただけだが、金遣いの荒いペレスにはコシイが必要だった。浪費家のエルミニア夫人が湯水のごとく金を使うとあっては、コシイの錬金術に全面的に依存するほかに選択肢はなかったのだ。
特に高度経済成長期にあった日本では、世界タイトル奪還はボクシング界の使命であり、タイトル挑戦のためなら金に糸目をつけないところがあった。そこが、ペレス・コシイコンビの付け入りどころで、日本のジムはタイトルマッチを餌にファイトマネーを吊り上げられる格好のカモだった。
とはいえ、金の成る木を簡単に手放すわけにはゆかないため、金さえ積めば世界戦に応じるというわけではなかった。ペレスは今日なら世界タイトル戦として成立する世界ランカーとのノンタイトル戦を数多くこなしているが、正式な防衛回数は九回に過ぎない。つまり危険な対戦相手は徹底して避けるか、タイトルを賭けずに試合をしたからである。
おかげで一番割りを食ったのが、東洋フライ級チャンピオン(世界三位)の三迫仁志だった。三迫のスピードを警戒したペレス陣営がのらりくらりと挑戦をかわしているうちに、三迫は東洋タイトルを失い、失意のままの引退を余儀なくされた。
ではペレスは弱いチャンピオンだったかというと、そんなことはない。ミニマム級程度の体格にもかかわらず、ナチュラルなライト・フライ級、フライ級の相手もその強打の餌食となった。階級が細分化され、認定団体が増えた今日ならミニマムからバンタムまでの五階級制覇は堅かっただろう。
ペレスのボクシングは、身長のわりに長い腕と卓越した敏捷性を生かした変則スタイルだった。スピード自体は白井と大差はなくとも、白井のように直線的に前後左右に動くのではなく、身体を上下にボビングさせながら変則的な軌道のフットワークを用いるため、相手からするとただでさえ的の小さいペレスを捉えるのは至難の業である。
加えて腕の長さはフライ級では長身の白井と変わらず、バネを使って伸び上がるようにパンチを繰り出すため、相手の左ジャブの引き際に自分の左を当てるのが巧かった。
小さなペレスが相手の周囲を飛び跳ねるように動き回りながら、瞬時に間合いを詰め、長いリーチを生かしてパンチを打ち込む様は、まるで人間を挑発している猿のようだった。シュガー・レイ・ロビンソンのような芸術的で美しいフットワークではなかったものの、大抵の相手はペレスに足で掻き回されたあげくに、軽量級離れした強打の前に沈んだ。
攻防のバランスがとれた白井でさえ三度目の対戦では、なすすべもなくKOされているように、全盛期のペレスは手が付けられないほど強かった。
ペレスにとって最大のライバルは、同時代における世界屈指のフットワーカー矢尾板貞雄だった。
一九五九年一月十六日、東京体育館で行われたノンタイトル十回戦で矢尾板と対戦したペレスは、矢尾板のヒット・アンド・アウェイ作戦の前にいいところなく敗れ去り、デビュー以来の連勝記録もついに五十でストップした。
試合後、「あれはボクシングではなくマラソンだ」と報道陣に毒づいたペレスだったが、矢尾板のスピードについてゆけなかったのは誰の目にも明らかであった。
三十二歳という年齢と酒浸りの怠惰な日々がペレスの敗因として指摘された。
一九五五年九月のクーデタで失脚したペロンとともにドミニカに身を寄せたペレスは、ペロン支持者と見なされていたこともあって、次第に故国から足が遠のいていった。そのため一九五八年以降の防衛戦は全て敵地で行っており、一年のうち大半は各国のホテルを渡り歩くジプシー状態だった。
ホテル生活は金がかかる。しかもエルミニア夫人が稀代の浪費家ときてはなおさらのことである。ストレスが溜まったペレスに、些細な口論が元で夫人に暴力を振るったり、ホテルのベランダから飛び降りようとしたりといった奇行が目立つようになると、夫人の心はハンサムなスパーリングパートナー、ラロ・ゴメスの方に傾き始め、矢尾板戦の頃にはゴメスとエルミリアは半ば公然の仲になっていた。
ゴメスはペレスに同行して来日した際、後の日本ミドル級チャンピオン前溝隆男を四十五秒でKOしたほどの強打者だったが、層の厚い世界の中量級では所詮二線級に過ぎず、エルミリア共々ペレスに寄生して生活をせざるをえなかった。
「コキュ(女房を寝取られた男の意)」のペレスも、エルミニアへの未練は捨てきれず、三角関係の生活が続いていた。金の切れ目が縁の切れ目であることは、ペレス、エルミニア夫妻にとって共通認識であり、ペレスが八度目の防衛戦(八月十日)で米倉健司を退けた時、観客席で失神するほど喜んだのも、豪奢な生活とおさらばせずにすんだからに他ならない。
一九五九年十一月五日、大阪扇町プールの特設リングで行われたペレスの九度目の防衛戦は、戦前から挑戦者矢尾板の圧倒的有利が伝えられていた。私生活ではトラブル続きの落ち目の王者と絶頂期にある若きスピードスター。九十二・五パーセントという驚異的なTV視聴率は、矢尾板のタイトル奪取に日本中が期待していたことの現われである。
試合前半は完全に矢尾板のペースだった。打った後に真っ直ぐには下がらず、左右にサイドステップをしてかわす矢尾板のボクシングに翻弄されたペレスは、二ラウンドに、バランスを崩したところにボディアッパーを浴び痛恨のダウン。これで二万五千の観客とブラウン管にかじりつくようにして試合を見ていた茶の間のファンも矢尾板の勝利を確信した。
ところが中村会長をはじめとする矢尾板陣営は致命的なミスを犯してしまう。元来アウトボクサーである矢尾板にゴーサインを出したのだ。
矢尾板のスピードでアウトボックスされては手も足も出ないペレスも、打ち合いとなると話は別だった。大歓声に押されて倒しにかかった矢尾板は、タフなペレスを捉えきれないまま、みるみるスタミナを消耗していった。
後半に入り、元々強くないボディにパンチを集中された矢尾板は、十三ラウンド、ついにペレスの左ボディアッパーでマットに沈んだ。敗因はずばりペース配分の失敗だったが、この試合もペレス御馴染みの延期作戦によって予定より一ヶ月ずれこんでしまったため、調整のやり直しを強いられた矢尾板のコンディションがベストではなかったことも事実である。
一九六〇年四月十六日、バンコクで伏兵のポーン・キングピッチにスプリットで敗れたペレスは、五年半にも及ぶチャンピオン生活に別れを告げた。同年九月、ロサンジェルスでのリターンマッチで半ば試合放棄のような形で八ラウンドにストップ負けした時の彼の姿は、まるで群れから放逐された老ライオンそのものだった。
王座陥落と時を同じくしてエルミニアはゴメスと子供たちを連れてペレスのもとを去り、ペレスはその腹いせか、ブエノスアイレスでダンサーの愛人と暮らすようになったが、一九六〇年の末には、酔った勢いでエルミニアの自宅に上がりこみゴメスを銃撃するという事件を起こしている。
腕を撃たれたゴメスは銃創がもとで選手生命を絶たれ、やがてエルミニアとも離婚した。
ボクシングしか金を稼ぐ手段を知らないペレスは、周囲の引退勧告を振り切ってその後もローカルファイトを続けたが、キングピッチ戦以降約二年間は二十八勝〇敗と負け知らずで、アルゼンチンでは相変わらず無敵だった。すでにビールかワインが食事代わりで、朝は起きしなにコップ一杯のジンをあおらなければ腕の震えがとまらないほどアル中が進んでいたにもかかわらずである。
一九六三年、三十六歳で引退した後は過度のアルコール摂取が原因で体調を崩し、一九七七年、五十歳の若さで世を去った。最後の数日間はエルミニアと子供たちが看護をしてくれたという。
ペレスは当時の軽量級ボクサーとしては法外な二億円もの金を稼ぎ出したが、そのほとんどは浪費によって消え、ペレスの人生を変えたエルミニアもまた六畳一間のアパート生活へと堕ちていった。
生涯戦績 八四勝七敗(五七KO)一引分
わたしの手元には白井とぺレスが表紙で両者の直筆サインが入った雑誌があるが、白井より15cmほど低いぺレスの写真は拡大されていて、横に並ぶ白井より明らかに骨太で強そうに見える。だからぺレスは気軽にサインしてくれたのではないかと推測している。




