第9章『感情が交わる場所』
夜明けはまだ訪れていなかった。研究所は静寂の息をしていた。埃と記憶に満ちた空気が、一つの呼吸ごとにわずかに震えている。希佐はソファに身を横たえ、まぶたを震わせていた。まるで遠い昔の夢から抜け出そうともがいているかのように。
――黄金色に染まる夕暮れの教室。時計の針が止まったように、世界が静まっていた。
「キサ、キサ。」
その声は柔らかく、どこか懐かしい。夕陽のように輝く少女が机の上に身を乗り出し、優しい笑みを浮かべていた。
「……ゆかり?」
「また居眠りしてたの? もう、放課後だよ。ティアラたちが待ってるんだから、早く帰ろ。」
「テストのために頑張ったんだもん。少しくらい休ませてよ……」
ゆかりは小さく笑い、そっと額を寄せた。「ふふ、変わらないね、キサは。」
希佐は目を開け、彼女の瞳に自分の顔を見つけた。その背後の空が、ゆっくりと朱に染まっていく。ドアの方ではティアラが手を振っていた。
「帰ろう、キサ。」
差し出された手を取った瞬間、あたたかさが夕陽と溶け合い――世界が霞んでいった。
夜明けが夢を裂いた。希佐は目を覚ます。一筋の涙が頬を伝い、薄明の光が部屋を包み込む。崩れた天井から差し込む陽が、金色の埃を舞わせていた。どこかで金属音が響く。訓練の音だ。
外では、ソードとオードリーが火と鋼のように動いていた。燃える糸が空を切り、赤い軌跡を描く。ソードは息を切らしながらも、わずかな隙を縫ってかわしていたが、炎の糸が足を絡め取る。
「……っ!」
オードリーが糸を引き、ソードの体を宙に放り投げる。空中で二人の視線がぶつかった。彼女が微笑み、彼は息を呑む。次の瞬間、糸が爆ぜ、ソードが地面に落ちた。
「悪くないわね。でも、私に追いつくにはまだまだよ。」
オードリーが手を差し伸べる。ソードは笑ってそれを掴んだ。
「モデルなのに、戦いもうまいんだな。どこで覚えたんだ?」
「……それは、今は秘密。」
二人が笑い合うと、背後から声が飛んだ。
「うるさい!」
入口に立っていた希佐が、寝巻き姿で眉をひそめていた。
「ごめんなさい!」
ソードとオードリーが同時に謝り、また笑い声が広がった。
――その頃、CROWSの体育館。ジェレマイアとリリアナが火花を散らすような戦いを続けていた。衝撃で床が軋み、空気が震える。ジェレマイアの蹴りが決まり、リリアナが倒れる。
「ふぅ……もう一回!」
「子ども相手に勝っても楽しくないな。」
リリアナがむっとしながら立ち上がる。そこにタオルが投げられた。
「十五回。」
「え?」
リリアナが顔を上げると、スヒョンが立っていた。腕を組み、冷たい笑みを浮かべている。
「十五回、床に叩きつけられたわ。」
リリアナは頭を抱えて座り込み、悔しそうに笑った。スヒョンが膝をつき、彼女の目線まで降りる。
「リリちゃん。わかってるわよね、あなたがなぜ戦うのか。」
「……スヒョン。」
「もうすぐ、立花希佐が来る。彼女は出口を探して必死になってる。その時こそ、あなたの出番よ。」
スヒョンの声は甘く、熱を帯びていた。リリアナが立ち上がると、スヒョンはその肩にそっと触れる。
「誰の言葉にも惑わされないで。自分を失ったら、終わりよ。」
そして背後から抱きしめた。
「立って。今度は一緒に戦いましょう。」
ジェレマイアが二人を見つめ、静かに言った。
「好きにしろ。」
――CROWS本部の上層階。まだ夜の名残が漂う中、ジェインはゆっくり目を覚ました。肩に小さな重みを感じて顔を向けると、アシュリーが眠っていた。
「アシュリー……帰ったと思ってたのに。」
机の上には山積みの書類と、家族写真。壁には、かつての思い出が並んでいた。ジェインは微笑み、アシュリーを抱き寄せる。
「ママとパパに約束したの。あなたたちを守るって。」
夜明けの光が二人を包み、部屋に静かな温もりを落とした。
――同じ頃、別のオフィス。電子音と光が入り混じる空間。アリステアは複数のモニターに囲まれ、目を赤くしながらデータを追っていた。そこへ勢いよくドアが開く。
「アリステア!」
「メアリー? 今日は休みじゃなかったのか。」
メアリーは分厚い資料を机に置いた。
「夜通し調べたの。見つけたわ、エリアス・マクスウェル。」
古びた写真。上半分が破れた顔の残骸。
「一九八二年、電磁エネルギー理論の若き天才。電気と磁気、そして光を一つの理論にまとめ上げた。でも、彼も研究も忽然と消えたの。」
アリステアの目が細まる。
「FATEとの関係は?」
メアリーがホログラムを起動する。空中に古い新聞記事が浮かび上がる。
《イブ・モリヅキとエリアス・マクスウェル——新たな未来の構想・プロジェクトFΔ》
「彼の共同研究者。二〇〇七年、交通事故で死亡。」
静寂。モニターの光だけが二人を照らした。
「FATE、マクスウェル、モリヅキ……全部、同じ線の上にある。」
アリステアは立ち上がり、コートを羽織る。
「行くぞ。現場を見に行く。」
メアリーは頷き、後を追った。
――訓練を終えた庭。ソードとオードリーが息を切らし、希佐が錆びたドラム缶の上で笑っている。
「いい感じじゃない。ちゃんと休みなさいよ。」
「キサは? 訓練しないの?」
「今日はエネルギー温存の日。」
三人が笑う中、ソードの携帯が鳴った。
「……ジェイン?」
『ソード? どこにいるの? アシュリーと心配してるのよ。』
「……友達と一緒。すぐ帰る。」
通話を終えると、彼はしばらく黙り、息を整えた。
「でもその前に、やらなきゃいけないことがある。」
二人が首を傾げる間に、彼は走り出していた。
――朽ちた屋敷。埃が光に踊る。
「ここね。イブ・モリヅキの家。」
アリステアとメアリーが中に入る。壁にはひびが入り、床には古い写真が散らばっていた。
「俺がCROWSに入ったきっかけを話したことあったか?」
「……まさか、大統領ケイシーのこと?」
アリステアは頷き、階段を登る。
「一年前、彼女が突然訪ねてきた。俺の過去も未来も全部知っているようだった。『新しい夜明けを見に行こう』と言われたんだ。」
埃まみれの黒板には、「FATE」「マクスウェル」「モリヅキ」の文字。アリステアが指でなぞり、息を吐く。
「この場所……時の残響を感じるな。過去と未来が交差している。」
メアリーが何か言おうとした瞬間、青白い閃光が廊下を走り抜けた。
二人は同時に振り返る。
――誰もいない。風の音だけが残っていた。
――ソードの部屋。机の上の写真に手を触れる。そこには、両親とジェイン、アシュリー、そして彼自身の笑顔があった。
「……より良い未来のために。」
彼は静かに手紙を置き、立ち上がる。
夕暮れ。街を染める光が、ゆっくりと沈んでいく。ジェインの運転する車の中で、アシュリーが眠っていた。
――そして研究所の屋上。希佐が空を見上げる。
「準備はできた?」
オードリーとソードが頷く。
「明日、CROWS本部を攻める。FATEがもたらした破壊に終止符を打つ。」
風が吹き抜ける。沈む太陽が三人を照らした。
空が燃えていた。
過去と未来が、再び交わる瞬間だった。




