第5章『災厄が始まった日』
月のない夜、森は影の海のように広がっていた。
湿った空気に、古い根の匂いが混ざる。三人の足音が草を踏むたび、かすかな音が闇に消えた。
キサが立ち止まり、鋭い眼差しを前へ向ける。
「……着いたわ。」
ねじれた木々の向こうに、錆びついた廃墟のような研究所が姿を現した。
蔦が建物を覆い、まるで世界から隠されているかのようだった。割れた窓は、空洞の目のように沈黙を見つめている。
「入りましょう。」
キサの声に、オードリーとソードが辺りを見渡す。虫の鳴き声と、心臓の鼓動のような不安が混じり合っていた。
「この場所……なんだか背筋が寒くなるわ。」
「昔はきれいな場所だったのよ。信じられないかもしれないけど。」キサは歩みを止めずに答えた。「ここでは、自然に優しいエネルギーや資源の研究をしていたの。人にも、地球にも害のない方法でね。」
「それって……いつの話ですか?」ソードが尋ねる。
「七百年前よ。」
「えっ……?」オードリーが息を呑んだ。
キサはほんの少しだけ振り返り、静かに歩き続けた。
「当時、ファーシーと人間は手を取り合って、多くの進歩を遂げたの。」
崩れた天井から月光が差し込む広間に出る。
中央には円形の金属構造——まるで失われた装置の台座のようなもの——が、床を削るように埋もれていた。
キサは歪んだロッカーの列に手を伸ばし、ひとつをこじ開ける。
「……あった!」
中から密封された袋を取り出し、安堵の息を漏らす。「ふふっ、服が無事みたい。ちょっと着替えてくるから、ここで待ってて。」
キサが暗がりの奥に消えると、ソードは静かに辺りを見回した。
埃が舞い上がり、光の筋の中で時の流れを描く。
「ここで何があったんでしょうね……」オードリーが呟く。
「わからない……。」ソードは壊れたコンソールに触れた。「でも、何だか悲しい場所だ。」
しばらくの沈黙のあと、彼はふと笑った。
「それと……助けてくれてありがとう。」
「いいのよ。」オードリーは照れくさそうに微笑み、唇に手を当てる。「困ってそうだったし……それに、」——彼女は頬を赤らめた——「キサを見たとき、あの耳が本物なのか気になっちゃって。」
ソードは小さく笑い、手を差し出す。
「君の化粧品、壊してしまってごめん。モデルの仕事って高いものを使うんでしょ? ちゃんと弁償するよ。」
「えっ……どうしてそれを?」
「君の部屋にあった雑誌の表紙で見たんだ。僕の母もモデルなんだ。いつか会えるといいね。」
オードリーは驚いたように目を開き、そして小さく微笑んで握手を返した。
「ありがとう……それと、ごめんなさい。あの路地裏で、あなたを誤解してた。」
「はは……。」二人は気まずそうに笑い、言葉を探した。
「――はいっ!」
キサの声が響く。
「じゃーん!」
いつもの服に着替えたキサが戻ってきた。乱れた髪が風に揺れ、その瞳には強い決意が宿っていた。
視線が研究所を一巡し、円形の台座に止まる。
「ここで……何があったんだ?」ソードが尋ねる。
「説明するのは難しいわ。」
「でも、聞かせてください。」オードリーの声には真剣さがあった。
「最近のニュース、見てる? “原因不明の爆発”が起きたビルの話。」
「ええ、CROWSの施設ですよね?」
「そう。——あれを起こしたのは私よ。」
沈黙が落ちる。二人の目が見開かれた。
キサは傾いたホワイトボードに近づく。
そこには古い写真や、無数のメモが貼られていた。
机の上の一枚を手に取る。写っているのは、五人の少女たち——中央には若き日のキサの姿。
「彼らは“エネルギー”を持っているの。この惨劇を再現できるほどの……。」
キサは写真を握りしめた。「私は、その“エネルギー”を追っているの。」
「……“エネルギー”?」ソードが眉を寄せる。
「フロリアン・アウリオン・テオス・エオス。——略して、FATE。」
室内の空気が一瞬で重くなる。
三人の脳裏に、廃墟となった都市の幻が浮かんだ。
崩れた塔、裂けた地面——その中心で、光の文様が呼吸している。
「世界の運命を左右するエネルギーよ。」キサが呟く。
「CROWSは……それに関係が?」
「昔、今のCROWSの施設が建っている場所には、FATEを研究していた研究所があったの。だから、私はそこに手がかりがあると思ったの。」
「僕の姉たちが協力できるかも……」
「駄目!」キサが鋭く遮る。「これ以上、誰も巻き込みたくないの。」
「どうして……私たちにそんな話を?」オードリーの問いに、キサは柔らかく微笑んだ。
「あなたたちが助けてくれたお礼よ。もしこの時代に何か起こるなら……大切な人を守って。」
「……キサ。」
「ソード、オードリー。ここから先は私ひとりで行くわ。無関係な人を危険に巻き込むわけにはいかない。短い時間だったけど……あなたたちのおかげで、また前を向けた。——帰って。」
街の別の場所。
ジェーンは机に突っ伏し、溜め息をついた。
散らかった書類が、まるで彼女を責めるように広がっている。
ガチャリ、とドアが開いた。
「また残業か?」
低く落ち着いた声。現れたのは、整った顔立ちの男——アリステア。
その後ろには、少し反抗的な雰囲気を纏った若い女性、メアリーが腕を組んで立っていた。
「君の妹から聞いたぞ。最近、ちゃんと休んでいないらしいな。」
「健康に悪いですよ。」メアリーが続ける。「“バスタード”の件が、あなたを蝕んでいるようです。」
ジェーンは机に額を押し付けたまま呻く。
「あなたがここにいることが、一番の悪影響よ。何の用?」
「そんな怖い顔をするなよ。」アリステアは両手を上げ、笑ってみせた。「ただ心配で来ただけだ。」
「……。」ジェーンが手で追い払おうとするが、彼は言葉を続けた。
「“バスタード”の件、俺に任せてくれないか?」
「絶対に嫌よ。」
「頼むって! 一緒にやろう!」
ジェーンは無言で彼を睨む。
アリステアはにやりと笑い、少し身を乗り出した。
「不可解な爆発事件、それに伝説の種族“ファーシー”との遭遇。これを怪しいと思わないか?」
「で、何が言いたいの?」
「つまり、俺たちは理解できない何かに巻き込まれてるってことだ。情報もないまま、ただ命令に従う羊みたいに。」
「……もういい。」ジェーンは立ち上がり、上着を手に取る。
「待てよ!」
「“バスタード”の件は渡さない。でも……」
一瞬だけ彼女は振り返る。
「このこと、ケイシーには黙っておくなら——手を出してもいいわ。」
アリステアの目が輝き、口元に笑みが戻る。
「よし、約束だ!」
彼女が去る背中を見送りながら、メアリーが呟いた。
「アリステア……何を考えているの? 他人を危険に晒すようなことはやめて。」
「心配するな、メアリー。俺を信じろ。」
男の笑みは、どこか不穏な光を帯びていた。
夜の街はガラスの川のように光を流していた。
ソードとオードリーは並んで歩き、沈黙が心地よく包む。
「これから……どうする?」
「わからない。何もなかったことにするしかないわ。」
「え?」
「キサの存在を誰にも話しちゃいけない。」
ソードは見上げた。
ビルの群れが空を覆い隠し、星の光を飲み込んでいた。
「FATE……世界の運命を決める力か。」
二人は四つに分かれる交差点に立つ。街灯の光が、四方向へと道を照らしていた。
「ここでお別れだね。」
「ええ。……モデルの仕事、頑張ってね、オードリーさん。」
「あなたも元気でね、ソード。」
別れ際、空を裂く轟音が響く。
銀色の鱗を持つ巨大な竜——バスタードが、炎の軌跡を描いて飛び去った。
二人は息を呑む。
竜はビルの上に降り立ち、その姿が光に解けて人の形へ戻る。
キサだった。
彼女は欄干に手をつき、小さく息を吐いた。
「……ふぅ。」
古い携帯を取り出す。
画面には、五人の少女が笑う写真。——あの夏の日の記憶。
その時、携帯から耳障りなノイズが走った。
「……っ!」
FATEレーダーの反応。
次の瞬間、衝撃。
キサは反射的に腕を上げ、金属と肉の衝突音が夜を裂く。
風の中から現れたのは——リリアナ。
「ふふ……これなら楽勝ね。どうして今まで気づかなかったのかしら。」
「リリアナ……! どうやってここに……?」
「今の私たちには、どこにでも“目”があるのよ。今度こそ逃がさない!」
彼女の瞳が光り、胸元で青い粒子が爆ぜた。
キサが息を飲む。
「あなたがまたCROWSの施設を狙うと思ってた。だから、先に来たの!」
リリアナが一瞬で距離を詰め、拳を突き出す。
衝撃。
「ぐっ……!」
キサは踏みとどまるが、屋上の端で足が滑った。
その時、彼女は見た——リリアナの胸に刻まれた、古い傷跡のような印。
青い光が脈打ち、まるで生きているように輝く。
「それは……FATE?」
同じ頃、遠くの通りでソードが突然崩れ落ちた。
「げほっ……! げほっ!」
「ソード!?」オードリーが駆け寄り、抱きとめる。
屋上では、キサの携帯がけたたましく鳴り続けていた。
「……っ!」
「集中しなさい!」リリアナの蹴りが迫る。
キサは腕で受け止めたが、その衝撃で壁に叩きつけられた。
「くっ……!」
リリアナがゆっくりと近づく。
「思ったより弱いのね。……それとも、本気じゃない?」
彼女の瞳がさらに深く光る。キサは歯を食いしばった。
FATEレーダーの音が、夜を貫くように鳴り続ける。
遠く離れた場所。
時間の流れから切り離されたような白い花畑。
そこに並ぶのは、電源の落ちた無数のテレビ。
その前に、一人の男が背を向けて立っていた。
男はゆっくりと顔を傾け、唇に笑みを浮かべる。
「……ああ。」
光の届かない微笑みが、やがて歪む。
「ようやく……始まったか。」




