第4章『煙の匂い』
煙の匂いがまだ空気に残っていた。
謎の少女はゆっくりと瞬きをしながら、混乱した様子で辺りを見回した。まるで現実に追いつこうとする意識が遅れているかのようだった。
「あなたたち……誰?」
恐怖の色はなく、好奇心と警戒が奇妙に混じった声だった。
水色の髪の少年は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「えっと……」
スポーツウェア姿の少女が顔を少し傾け、眉を上げた。
「ちょっと、まさか……知り合いじゃないの?」
少年は目をそらし、落ち着かない様子で答えた。
「俺は……ただ助けただけだ」
少女は疑いの眼差しを向けた。まるで嘘を見抜こうとするかのように。
一方、謎の少女は首をかしげ、状況が理解できていない様子だった。
少年は再び謎の少女を見つめた。
「君は突然、空から落ちてきたんだ。俺が見つけるずっと前から傷を負ってたみたいだった」
謎の少女の目が大きく見開かれ、自分の状態をようやく自覚したようだった。
そのとき、警察のサイレンが空気を切り裂いた。
「……」謎の少女の体がこわばる。
「……」少年も同じく。
スポーツウェアの少女は舌打ちした。
「やっぱり来た……ここにはいられない。ついてきて!」
少年はすぐ立ち上がり、謎の少女も抵抗せず、少女に導かれるまま路地を駆け抜けた。
CROWSの建物の中は、外とは対照的に冷え切った静寂に包まれていた。
細くも力強い手が、金属製のデスクに一枚の写真を落とす。写っているのは戦闘の最中に撮られた謎の少女――「堕天の焔」。
「……あの子か」
低い声が闇の中から響いた。
作戦担当の女はまばたきもせず写真を見つめた。
「知っているんでしょう?」
暗がりに立つ男が目を細める。
「……あの男の娘だ」
女の視線が一瞬だけ鋭さを増す。
そのとき、宙に浮かぶような女の影が男の肩にゆっくりと乗った。地面に足はついていない。ふわりとした、不気味な存在感。
「本当に……あの子なの?どうやってここに来たの?」
女は笑っていたが、その瞳は冷えていた。
男は自分の手を見つめた。何か目に見えないものがそこにまとわりついているかのように。
「あの子は……昔の知り合いの娘だ。まさか“あの事故”で、彼女まで巻き込まれていたとはな……」
フラッシュのように過ぎる光景――五つのグラスを掲げる手。音もなく鳴り響く乾杯。
「想定外の異物ね」女の声が冷たく響いた。「……今すぐ、あなたとスヒョンがあの子を私のもとへ連れて来なさい」
男の視線は刃のように鋭くなり、スヒョンと呼ばれた女は肩の上で楽しそうに微笑んだ。
夜の街にそびえるマンション。階ごとに灯る明かりが、ガラスの塔のように輝いている。
スポーツウェアの少女は鍵を回し、扉を開けた。
「どうぞ、入って。今日は両親いないから」
中はスタイリッシュで、無駄のないミニマルな空間。冷たい色合いと整った家具が並んでいる。
謎の少女は目を輝かせた。
「わあ……すごい!」
「ありがと」少女は軽く微笑み、靴を脱いだ。
少年は入口で少し緊張して立ち止まっていた。
「そんなに固くならなくていいよ。化粧品の件はあとで請求するから」
「え……ああ、うん。おじゃまします」少年はようやく中に入った。
「私はシャワー浴びてくるから、リラックスして。あとで話そう」
謎の少女はきょろきょろと部屋中を眺めている。一方、少年の顔にはわずかな不安の色が浮かんでいた。
「知らない人の家に突然招かれるなんて……嫌な予感がする」
少女は肩越しに小さく笑い、バスルームへと向かう。
その腕を謎の少女がつかんだ。
「まって!」
「え?」
「私もお風呂入りたい。煙と灰と……濡れた犬みたいな匂いするし」
少女は一瞬きょとんとしたが、思わず吹き出した。
「……いいよ。服も貸してあげる」
2人が廊下の奥に消えると、少年はソファに腰を下ろした。
テーブルの上に置かれた雑誌に目が止まる。表紙には、ついさっきのスポーツウェアの少女がモデルとして写っていた。
「……彼女って」
同じ頃、CROWSの建物から1人の少女が出てきた。
街の光を見つめ、水色の髪を風になびかせる。
「……ママとパパが見たら、どう思うかな。ジェーン」
その声は夜に溶けるように小さかった。
彼女の前に、兵士の部隊を従えたリリアナが現れる。
「もう帰るの? アシュリーちゃん」
アシュリーと呼ばれた少女は立ち止まらない。
「……めんどくさい」
背を向けたまま歩き去る彼女を、リリアナは笑みを浮かべて見送った。
ジェーンは静まり返ったオフィスでモニターの光に照らされていた。
ヘッドホンを外し、深く息をつく。
「……少し、休もう」
浴室のドアが開き、蒸気がリビングへと流れ出した。
2人の少女が戻ってきた。清潔な服に着替え、湯上がりの空気を纏っている。
謎の少女は気持ちよさそうに伸びをした。
「あ〜……気持ちいい〜」
彼女たちはソファに腰を下ろし、剣の正面に座った。
「で、どう? 気分は」
「すごくスッキリした!」
スポーツウェアの少女が脚を組み、2人を見回す。
「せっかくだし……色々聞いてもいいよね?」
謎の少女は首を傾げた。
「え?」
「私たち、君のことがちょっと気になってるんだ。……君はいったい何者?」
少女はしばらく黙り込み、それからゆっくりとテーブルの上に立ち上がった。
真剣な顔で――いや、真剣すぎる顔で、特撮ヒーローのようなポーズを取る。
「わたしの名前は、立花希佐! ハーフヒューマン・ファーシーよ!!」
「……は?」
「えっ?」
2人は同時に間の抜けた声を漏らした。
「ファーシーって……おとぎ話の竜のこと?」
希佐は胸を張った。
「そのとおり!」
「じゃあ、君……おとぎ話の世界から来たってこと?」
「ちがうっ!! ファーシーは本当にいるんだから!」
剣は眉をひそめた。
「じゃあ……この時代まで生き延びたか、あるいは――時間を越えてきたってことか」
少女は頭を振った。
「そんなのあるわけ――」
希佐が耳をピクッと動かす。
少女は固まった。
「……うそでしょ」
「ふふん」希佐が得意げに笑う。
少女の視線が剣に向く。
彼は少し肩をすくめた。
「俺の名前は剣 イッツェル。さっき路地で言ったとおり、ただ助けたんだ。君は落ちてくる前から、まるで戦った後みたいにボロボロだった」
希佐は今度は少女を見てにっこり笑った。
「じゃあ、次はあなた!」
「えっ、あ、わたしは……オードリー・プライド。よろしく、2人とも。で――」
彼女は希佐の名前を繰り返す。
「立花希佐……」
3人の間に一瞬の沈黙が落ちた。
そして、2人が同時に口を開いた。
「どうしてこんなことが可能なの?」
希佐は何も答えず、テーブルから軽やかに飛び降りると、ドアの方へ向かった。
振り返り、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
「ついてきて。……未来の人たち!」
夜の空気には、まだ煙の匂いが残っていた。
そして、その奥で――何かが目を覚まそうとしていた。




