第13章『閉ざされた瞳の中で』
夜明けがゆっくりとパロ・サントの街を洗いはじめる。
空は青とも金ともつかない淡い色で、冷えた風が通りを抜けた。
ジェーンはポケットに手を入れ、ひとりで歩く。
地平を仰ぎ、そっとため息を落とす。
――
真っ白な部屋。
窓はなく、影もない。
息づかいさえ痛むほどの静寂。
希佐はそこにいた。手首と足首に拘束具、目には黒い布。
冷たい床に膝をつき、身体を小さく丸める。
わずかな呼吸の音だけが、静けさを揺らした。
布の隙間から、涙がこぼれる。
「……お母さん」
「……お父さん」
「ティアラ……イヴェット……ミサキ……ユカリ……」
震える声。
「……ごめんなさい」
――
同じように白い別室。剣は壁にもたれ座っていた。
顔にはガーゼ、視界は同じ黒布に覆われている。
消毒薬と、敗北の匂い。
「ここから……どうやって出るんだよ」
果てのない天井へ顔を上げる。
「……全部、無駄だったのか?」
金属音とともに扉が開く。
剣の身体がこわばる。
見えない。だが、感じる。落ち着きと、確かな気配。
「気分はどう?」女の声が問う。
ケイシー。
彼女はゆっくり近づき、布を外した。
白光が目を刺し、世界が輪郭を取り戻す。
「これで私が見えるわね」
表情は微動だにしない。
「昨夜の戦闘であなたは気絶した。ジェーンに、あなたは私が預かると直談判したの」
剣は驚きに口を開く。
ケイシーは、ほんのわずかに視線を落とした。
「彼女は冷たく見えるかもしれないけど、いい人よ」
「……姉さんは?」かすれ声。
「姉さんは無事か?」
ケイシーは答えない。
影が、その瞳をかすめる。
扉のそばから衛兵の声。
「大統領、被験体“バスタード”の移送を開始します」
ケイシーが背を向ける。
剣は跳ね起きた。
「待ってくれ! 希佐に手を出すな、頼む!」
ケイシーが振り返る。
ガラスのような眼差し。
「君がここに留まる時間は長くない。すぐ家に帰してあげる」
それで十分でしょう――と言外に告げる。
剣は歯を噛みしめる。
「……ちっ」
――
病室。
アリステアは跳ね起きる。
「うっ……頭が……」
メアリーがすぐに立ち上がる。
「やっと目が覚めたのね」
「ここは……? どこ……?」
「医者は今日中に退院できるって。重症じゃないわ」
「待って、ゆっくり……。昨夜……襲撃の時……」
「覚えてないの?」
アリステアは目を閉じる。
「地下へ降りた。君と一緒に――希佐たちを助けに」
「その後は……頭と胸が割れるように痛んだことしか」
メアリーが視線を落とす。
「あなたは倒れたの。そのすぐ後で……」
唇が震える。
「FATEが現れた」
アリステアは身を乗り出す。
「なんだって?」
メアリーの手が微かに震えた。
「夢みたいだった。……いや、悪夢」
「あの“何か”が来た瞬間の、皆の絶望が見えたの」
目に涙が滲む。
「希佐も、オードリーも、剣も拘束された。……負けたのよ。しかも、FATEは野放しのまま」
アリステアは拳を握る。
メアリーは震える声で続けた。
「FATEは、私たちの世界を消す」
「メアリー!」彼は遮る。
見上げる彼女の目に、決意を宿す。
「二人を助けてくれ。……希佐たちを。解放する手段を探すんだ。頼む」
彼女は逡巡する。
「でも、ケイシーは――」
「ケイシーは信用できない。FATEを止められる可能性は、希佐たちにしかない」
「俺たち二人じゃ、どうにもならない」
二人の手が静かに重なる。沈黙の盟約。
「彼らに頼るのは怖い」メアリーが吐露する。「でも、何もしない方がもっと怖い」
彼女は涙を拭い、立ち上がる。
「やってみる。でももし彼らに何かあったら――」
「わかってる」彼はその手を強く握る。「信じてくれ」
――
白い独房。
オードリーは鎖につながれ、視界を布で覆われている。
扉の音。布が外される。
「え……?」
開いた瞳の前に、ケイシーが立っていた。
「落ち着いて」彼女は、ほとんど母のような声音で言う。
「様子を見に来ただけ。君とあの少年は、まもなく解放する」
「希佐をどうするの!」オードリーは震えながら叫ぶ。
「彼女は敵じゃない! 助けようとしてるだけよ!」
ケイシーは沈黙したまま見つめ、背を向けて出て行く。
長い通路を遠ざかる影。足音とため息が重なる。
「……立花希佐」
顔つきが鋭くなる。
「あなた、彼らに何をしたの? どうやって味方に引き入れたの?」
――
希佐は白いテーブルを挟み、椅子に座っていた。
目隠しが落ち、涙に濡れた瞳が露わになる。
向かいに、ケイシーが腰を下ろす。
空気は重く、粘る。
「始めましょう」
希佐は答えない。
ケイシーは両手を机に置く。
「話して。FATEに何が起きたの? あなたはそれをどうするつもり?」
沈黙。
――
同じ頃、メアリーは自室へ滑り込み、扉をパスコードで施錠する。
幾枚ものホログラムを起動。
「ここからなら……収容区画にアクセスできる」
震える指がコンソールを叩く。
「よし、居場所を――」
――
「答える気はないのね?」ケイシーの声が冷える。
「なら、容赦はしない。……あなたに未来は変えさせない」
彼女は希佐の顔を両手で挟んだ。
氷のような触れ方に、希佐の肩が震える。
「あなたは“誤差”」低い囁き。
「この時代に引っかかった残滓。……破壊のために来た存在」
希佐は荒い息を整え、涙をこぼす。
「違う……誰も傷つけたくない。私は……自分の時代に帰りたいだけ」
「誰を犠牲にして?」ケイシーの声がわずかに強くなる。
「あなたの願いのために、どれだけの無辜が巻き込まれると思ってるの」
空気が変わる。
白い光が、一瞬、鈍い赤に揺らいだ。
「FATEを使って帰還する――その瞬間、この時代は丸ごと刈り取られる」
「無実の人々。あなたの知らない命ごと」
「どうして、そんなことが言えるの!」希佐が叫ぶ。
ケイシーは瞬きをしない。
「もう、やった人間がいるから」
希佐の動きが止まる。
呼吸が震え、途切れそうになる。
「善意の仮面をかぶった傲慢」ケイシーは続ける。
「FATEで未来を変える。時間をさかのぼって“人類の過ち”を正す」
声は氷の囁きへ落ちる。
「結果は――崩壊」
脳裏に焼ける街。灰色の空。
ケイシーは希佐の瞳をまっすぐ射抜く。
「あなたとFATEが――最悪の未来を連れてくる」
音が消えた。
ただ、静寂だけが広がる。




