家臣オーエン、魔女と呼ばれた妃に惑わされる
「おい、来たぞ」
隣に立つトムが、低い声でささやいた。
「あぁ・・・ミンスタの魔女か」
思わず俺は口にした。
妃=ミンスタ領から来た女、魔女と噂されている。
城門の前に、一台の豪奢な馬車が止まる。
この小さな領には場違いなほど、きらびやかな造りだった。
今日は、俺が仕える主の御子ーーグユウ様のもとへ、正妃が嫁いでくる日だ。
しかも相手は、あの強大なミンスタ領の姫。
噂に違わず、美しくも恐ろしい女が降り立つのだろう。
胸の奥にざらりとした緊張が広がり、俺は無意識に拳を握りしめていた。
ーーこの婚姻は、愛などとは無縁の政略にすぎない。
ミンスタ領の領主、ゼンシ――冷酷無比と名高い男。
妹を嫁がせ、若きグユウ様を手玉に取り、やがてはこのワスト領を丸ごと呑み込むつもりなのだろう。
だが、夫となるグユウ様は、そんじょそこらの男ではない。
幼い頃から“女嫌い”として知られ、
この結婚のために離縁した前妻とも、ろくに言葉を交わさなかったほどだ。
そんな御方が、果たしてミンスタの姫をどう扱うのか――領内の誰もが固唾を呑んで見守っている。
馬車の扉が開いた。
紫色のドレスの裾が、濡れた石畳にそっと降り立った。
次いで現れたのは――
噂よりも、恐ろしいほどに美しい女だった。
金の髪に、澄んだ青の瞳。
城門前に並んだ家臣たちを、一瞥しただけで空気が凍りついた気がした。
「・・・やはり魔女だ」
思わず、俺は息を呑んだ。
周囲の兵も緊張で固まる中、
ただ一人、グユウ様は彫像のように立ち尽くしている。
その姿に合わせ、俺も背筋を伸ばしたが――
どうしてだろう、視線は何度も、彼女の横顔へと引き戻されてしまう。
目が離せなかった。
◇
翌日の婚礼の儀。
グユウ様は相変わらず一言も発さず、妃と目を合わせることすらなかった。
無言で並ぶ二人の姿は、夫婦というより、冷えた石像のようだ。
その隣に立つ妃は、澄んだ瞳と同じほど深い青のドレスを纏っていた。
異国の宝石のように光を放ち、場に集う者すべての視線を奪ってゆく。
「・・・ミンスタの魔女め」
俺は睨みつけるように、その横顔を見た。
すると、まるで挑むように――妃がふいにこちらへ顔を向けた。
青の瞳が、まっすぐ俺を射抜く。
その視線に射抜かれた瞬間、胸の奥が強く跳ねた。
睨んでいるはずなのに、心臓が勝手に早鐘を打つ。
「・・・っ」
慌てて視線を逸らす。
だが遅かった。
あの青の瞳が頭から離れない。
ーーこれは惑わされただけだ。
魔女の術に違いない。
そう自分に言い聞かせても、耳の奥に残る鼓動は、しばらく止まらなかった。
◇
翌日の披露宴では、空気ががらりと変わっていた。
あれほど「ミンスタの魔女に惑わされるな」と警告していたはずのグユウ様の父が、
今や目尻を下げて妃を絶賛しているのだ。
「これほど美しい女性は見たことがない」
その言葉に、胸の奥がざらりと逆立った。
周囲を見れば、重臣たちも兵も、鼻の下を伸ばして妃に見惚れている。
――馬鹿どもめ。俺は絶対に騙されない。
そう言い聞かせながら、俺は再び妃を睨んだ。
今日の妃は、淡い水色のドレスに身を包み、昨日よりも柔らかな雰囲気を纏っている。
すると――妃がふいにこちらへ顔を向け、にっこりと微笑んだ。
「・・・っ」
慌てて視線を逸らす。
昨日よりも早く。
あの笑みを直視していたら、心臓がどうにかなってしまう気がしたからだ。
ただ一人、夫となるグユウ様は無表情のままだった。
妃に心を奪われた様子もなく、淡々と席に座している。
――それだけが救いだった。
周囲がどれほど浮かれていようと、少なくとも主君は魔女の微笑みに惑わされてはいない。
そう思うことで、俺もかろうじて平静を保てた。
◇
妃が嫁いで一週間。
毎日見ているうちに、グユウ様の表情が明らかに変わっていった。
これまで無表情で、無感情で、無口だったお方が――
妃と並んでいるときだけは、柔らかな空気を纏うようになったのだ。
涼やかな黒の瞳の奥に、熱を隠しきれずに。
領務の最中でさえ、廊下ですれ違う妃を見かければ、わずかに落ち着きをなくす。
ソワソワとした仕草は、誰の目にも明らかだった。
ーーバレバレだ。
あのグユウ様が、恋に落ちた。
しかも、あのミンスタの魔女に。
ーーグユウ様。あなたなら、決して心を乱さぬと思っていたのに。
胸の奥がちりちりと疼き、俺はそっと唇を噛みしめた。
ある日、妃は重臣たちと談笑しながら、片手に剣を持っていた。
しかも自ら刃を磨いているではないか。
思わず目を疑った俺に、重臣のひとりジェームズが笑いかけてきた。
「オーエン、お前の剣も研いでいただくか?」
「滅相もありません」
慌てて頭を下げ、妃を一瞥する。
――女に剣を触らせるなど、ありえない。
またある日は厩に籠り、袖をまくって馬の毛並みにブラシをかけていた。
「・・・また、あの妃」
つい声を荒げてしまい、グユウ様が振り向かれる。
女は部屋に籠って縫い物でもしていればいいのだ。
ああして出しゃばり、男の真似事をして・・・やがてこの領を乗っ取るのだ。
それなのに、グユウ様ときたら――
「そのままで良い」などと口にされたのだ。
信じられなかった。
剣を握り、馬に触れる妃を咎めるどころか、受け入れるなど。
ーーやはり魔女の術にかけられているのだ。
そうでなければ、あのお方があんな言葉を言うはずがない。
◇
妃が嫁いで二週間が過ぎたある日。
用向きで主の屋敷を出て、裏庭を横切ったとき――俺は見てしまった。
そこに、妃の姿があったのだ。
空はどんよりと曇り、今にも雨が落ちてきそうな気配。
それだというのに、妃はひとり、大きな樹の下に立ち、枝葉を仰いでいた。
まるで何かを待っているかのように。
あるいは、雨を歓迎しているかのように。
――何をしているのだ?
思わず足を止め、妃の足元に目をやる。
籠の中に並んでいるのは、花ではなかった。
ただの草ばかりだ。
――ひとりなのか。乳母は?
不安が胸をよぎり、周囲を見渡す。
遥か遠く、庭の端に老女の姿があった。
妃と同じように、夢中で草を摘んでいる。
妃はふいに手を伸ばし、太い枝を掴んだ。
ーー何をしている。
声に出すことはできず、俺はただ固まった。
次の瞬間、裾を気にもせず、するすると木に登り始めたのだ。
目を疑った。
妃ほどの身分の女が、庭先で木登りなど――前代未聞だ。
ありえない。
だが、枝葉の間から覗く金の髪は、驚くほど楽しげに揺れていた。
白いドレスの裾が、風にひらめく。
妃は咲きかけた蕾へと手を伸ばしていた。
だが指先は届かず、何度も背伸びしては諦めきれない様子だ。
――見なかったことにしよう。
俺は知らない。
気づかない。
あの妃が勝手に木登りをしているだけだ。
そう自分に言い聞かせながらも、目はどうしても離せなかった。
ポツリ。
泣き出しそうな雲から雨粒がこぼれ落ちた。
やがて妃は枝にそっとつま先をかけ、ぎりぎりまで身体を伸ばす。
その指がようやく蕾を掴んだ、その瞬間――メリッ、と嫌な音が裏庭に響いた。
「何をしているのです」
ついに我慢できず、声をかけた。
「見てわからないの? 木登りよ」
妃は平然と答える。
――こんな状況でも強気か。
「枝が折れそうです」
言葉を強めた瞬間、空の奥で雷鳴が轟いた。
「知っています」
顎をわずかに上げ、青い瞳が俺を射抜く。
――気が強い女だ。気に入らない。
そう思ったはずなのに、胸の奥がざわついた。
妃は慎重に幹へと手をかけた。
その瞬間、長い裾を踏んでしまい、バランスを崩す。
「・・・っ!」
妃の身体が大きく傾いた。
裾が絡まり、枝から外れた足が宙を切る。
「危ない!」
考えるより先に、俺の腕が伸びていた。
白いドレスごと、細い身体を抱きとめる。
受け止めきれず、俺は彼女ごと地面に倒れ込んだ。
その瞬間、雨脚が強まり、裏庭は水の幕に閉ざされた。
「大丈夫ですか」
痛みで顔を歪めながら、妃に問いかける。
至近距離で見上げてくる青い瞳。
だが青の瞳は、怯えるどころか、挑むように俺を見返してくる。
胸が熱くなる。
呼吸が乱れる。
なぜだ。
――こんな暴れ馬のような女に、見惚れるはずがない。
必死にそう言い聞かせながら、俺は雨音に紛れる鼓動を押さえ込んだ
激しい雨が、容赦なく二人の身体を叩きつけていた。
すぐそばに作業小屋の影が見える。
「・・・あそこに行きましょう!」
俺は妃の手を掴み、駆け出そうとした。
だが二、三歩進んだところで、妃が急に立ち止まった。
振り返ると、白い顔がわずかに歪んでいる。
「どうしました」
問いかけると、妃は濡れた裾を押さえながら小さく息を吐いた。
「・・・足が・・・」
ーー挫いたのか。
一瞬、言葉を失った。
魔女だ、気に入らない女だ。
だが、領主の正妃であることに変わりはない。
抱き上げようと腕を伸ばした俺に、妃は濡れた髪を振り払いながら言い放った。
「一人で歩けます」
青い瞳が、強くまっすぐ俺を射抜く。
逆らうわけにはいかない。
俺は無言で従おうとした。
――本当に、生意気な女だ。
その瞬間、空を裂くような落雷が走った。
地が震え、腹の底まで響く轟音が裏庭を揺らす。
「・・・!」
妃が思わず身を寄せてきた。
濡れた肩が胸に触れた瞬間、心臓が跳ね上がる。
雨よりも激しい鼓動を必死に抑えながら、俺はただ立ち尽くした。
この胸のモヤモヤが堪えきれず、苛立ちに任せて俺は彼女を抱き上げた。
「なっ・・・!」
彼女の驚きの声が耳元で弾む。
構わず腕に力を込め、そのまま作業小屋まで駆け抜ける。
ずぶ濡れの裾が揺れ、雨の冷たさが肌を刺す。
簡素な作業小屋の扉を乱暴に閉めると、途端に屋根を打ち付ける雨音が轟き渡った。
木板の壁を震わせるその響きの中、狭い空間には俺と彼女、二人きりの息遣いだけが残る。
彼女の白いドレスは雨に打たれ、肌にぴたりと張り付いていた。
布地の下の線が淡く浮かび上がり、目を逸らさなければならないのに、視線が勝手に吸い寄せられる。
目を逸らす。逸らせない。
喉が渇くように息苦しい。
「・・・っ」
思わず奥歯を噛みしめた。
――馬鹿な。魔女の術に惑わされているだけだ。
そう言い聞かせながらも、胸の奥のざわめきは、雨音よりも大きく広がっていった。
「・・・着替えを」
歩くたびに床に水たまりができるほど、妃の白いドレスはずぶ濡れだった。
幸い小屋には着替えがあった。
だが、それは使用人が作業に着る粗末な男物の服――麻のシャツとズボン。
とても領主の正妃に着せるようなものではない。
「こんなものしか・・・」
思わず言葉を濁す。
妃は濡れた髪をかき上げ、服に視線を落とすと、あっさりと微笑んだ。
「十分よ。乾けばいいわ」
胸がどくりと鳴った。
高慢な女だと思っていたのに、思いがけない柔らかさ。
――惑わされるな。
必死にそう言い聞かせながら、俺は差し出した服を彼女の手に押し付けた。
同じ室内に響く、濡れた布を脱ぐ音。
思わず耳が赤くなり、俺は慌てて暖炉に身をかがめ、火を起こすことに必死になった。
やがて、衣擦れの気配が止む。
ふと顔を上げた俺は、思わず目を見開いた。
着替えを終えた彼女がそこに立っていた。
飾り気のない質素な衣装――それなのに、いや、それだからこそ。
かえって彼女の女性らしさが際立ち、目を離すことができなかった。
「あなたも・・・着替えたら?」
彼女は濡れた髪を指で絞りながら言った。
「・・・はい」
俺は部屋の隅で、張り付いたシャツを脱ぐ。
そのとき――強い視線を感じて振り返ると、妃がじっとこちらを見ていた。
「・・・なっ!」
思わず声が漏れそうになる。
ーー何を見ている。
問い詰めたい衝動を、必死に押し殺した。
仮にも目の前の女は、領主の正妃なのだ。
「どうされましたか」
無理に落ち着いた声を作る。
「男の人の裸って、あまり見たことがないから」
妃は淡々と告げた。
「オーエンはどうかな、と思っただけ」
開いた口が塞がらなかった。
――何を言っているんだ。
普通の女なら、顔を赤らめて目を伏せるはずだろう。
だが妃の青い瞳には、並々ならぬ好奇心が宿っていた。
――変わっている。とんでもない女だ。
それがよりによって“妃”だなんて。
彼女の視線に耐えきれず、俺は戸棚の影に逃げ込むように身を隠し、急いで着替えを済ませた。
――なぜ、俺が隠れてコソコソ着替えねばならんのだ。
・・・逆だろう?
雨音は相変わらず激しく、屋根と窓を打ちつけていた。
――今頃、城内では妃が行方不明だと大騒ぎになっているだろう。
「当分、止みませんね」
窓の外を見やりながら言うと、彼女は炉端に腰を下ろし、黙って頷いた。
「足を見せてください」
俺は彼女の足元にしゃがみ込んだ。
手当をしなければならない。
白い足首は腫れ上がっている。
ため息をつきつつ、首に巻いていたスカーフをそっと巻き、固定した。
「・・・なぜ木に登ったのですか」
女性が木登りなど、聞いたことがない。
「ニワトコの木があったから」
彼女は気まずそうに目を逸らす。
「ニワトコ?」
怪訝に眉をひそめる。
「その花が咲いたら・・・煮てシロップにするのよ」
「聞いたこともありません」
「ミンスタでは飲んでいたの」
「・・・だからといって、木登りまでする必要はないでしょう」
呆れて布をきゅっと縛ると、彼女は小さく顔をしかめた。
「本当かどうか、この目で確かめたかったのよ」
強気な瞳が、まっすぐ俺を見返してくる。
――どうにも気が強い。
いくら見た目が良くても、俺はごめんだ。
・・・グユウ様は、なぜこんな女を。
彼女は黙って暖炉の火に当たっていたが、細い肩を小刻みに震わせていた。
周囲を見渡すと、毛布も布切れ一つもない。
作業小屋だから仕方がないとはいえ、このままでは身体を冷やしてしまう。
小屋の隙間から吹き込む雨風に、彼女はそのたび寒そうに身を縮めた。
――仕方がない。
「・・・私の背中に、もたれてください」
思わず口から出た言葉に、彼女は怪訝そうに目を瞬かせた。
「私は・・・そこに座ります。もちろん、背中を向けていますから」
暖炉の火と俺の背中に挟まれれば、いくらかは温もりが増すだろう。
必死に理屈を並べながらも、胸の鼓動は落ち着かなかった。
「私は寒くないです」
彼女は顎を上げて言い放った。
――いや、寒いだろう。
「全然、寒くないわ」
そう言いながら、濡れた髪を無理に乾かそうとしている。
「怪我をした後は・・・身体が冷えるものです」
諭すように告げても、彼女は肩を震わせながら首を振った。
「大丈夫よ」
震えを抑え込もうとする姿に、思わずため息が漏れる。
――本当に可愛くない女だ。
ここで『寒いです』と素直に身を寄せれば、どれほど可愛げがあるか。
「・・・そうですか。では俺の方が寒いので。妃に背中を温めてもらえたら・・・嬉しいです」
一歩譲るように口にすると、彼女はすぐに頷いた。
「それならいいわ」
彼女はあっさり承諾した。
――めんどくさい女だ。
そう悪態をつきながらも、俺は暖炉に背を向けて腰を下ろした。
彼女はわずかに躊躇った後、そっと背中を預けてくる。
その温もりに、胸が不覚にもざわめいた。
背中に感じるその温もりは、炉の火よりも生々しく、落ち着きを奪った。
――落ち着かない。
呼吸が浅くなる。
鼓動の速さを悟られまいと、わざと肩に力を込めた。
ただ温め合っているだけだ。
そう自分に言い聞かせても、胸の奥のざわめきは止むことはなかった。
こんなにも俺は緊張しているというのに。
背中にかかる重みが、ふいに増した。
振り返ると――彼女は、すやすやと寝息を立てていた。
――嘘だろ。この状況で眠れるのか?
俺は張り詰めたまま、身じろぎ一つできずにいた。
こんな暴れ馬のような女が、背中で安らかに眠っている。
胸の奥で、苛立ちと戸惑いと、名のつけようのない感情が渦を巻いた。
彼女の身体がゆっくりと横へ傾いた。
慌てて振り向いた俺は、そのまま腕で受け止めてしまう。
腕の中で、彼女はぐっすりと眠っていた。
――黙っていれば・・・美しい。
目を開けば気の強さで人を射抜き、口を開けば小生意気なことばかり言う。
だが今だけは、ただ静かな姫の寝顔だった。
思わず視線が吸い寄せられる。
長いまつ毛がわずかに震え、唇がかすかに笑みを形づくったように見えた。
その様子を、遠くから無表情で見ていた男がいた。
領主グユウである。
その瞳には、すでに全てを見抜いたような光が宿っていた。
扉が激しく開かれる音が小屋に響いた。
小屋の入り口に立っていたのは、肩で荒く息をつきながら俺たちを見つめるグユウ様だった。
グユウ様は、彼女を抱えている俺をじっと見つめている。
――まずい。誤解されかねない。弁解しなければ。
背中を冷たい汗が伝う。
「グユウさん」
腕の中で妃が目を覚まし、微笑んだ。
「雨に降られて・・・ここに避難したの」
そう言いながらゆっくりと身体を起こすが、立ち上がろうとして顔を歪めた。
「足を捻ったようです」
慌てて俺が口を添える。
「・・・そうか」
グユウ様は妃に歩み寄り、腕を差し伸べた。
「グユウさん、私、一人で歩けます」
妃がその手を払い除けようとする。
「そうか」
短く返すと、彼は静かに妃の背に手を添えた。
「・・・オレが抱えたいだけだ」
その言葉とともに、妃を軽々と抱き上げる。
「・・・それなら良いです」
妃の頬は赤く染まっていた。
扉を出る直前、グユウ様は足を止め、低く俺の名を呼ぶ。
「オーエン」
顔を上げた俺に、短く言葉が落ちた。
「感謝する」
だが、その黒い瞳には深い影が潜んでいた。
――シリに触るな、と雄弁に語る視線。
自分の卑しい気持ちを見透かされたようで、胸がざわつく。
「と、とんでもございません」
俺は慌てて深く頭を下げた。
◇
翌日。
昨日の雨が嘘のように、空は澄み切っていた。
領務を終えた俺は、兵具蔵の調整をしてもらうため厩に足を運ぶ。
馬丁と話しながら、干し草の上に腰を下ろした。
もう夕刻、窓の向こうには見事な夕焼けが広がっていた。
そのとき――聞き慣れた声が馬場から響いた。
彼女とグユウ様が並んで歩いている。
「・・・あの二人、仲がよろしいですよね」
馬丁が微笑みながら言った。
顔を上げた俺に、さらに笑みを向ける。
「夕方になると、いつも散歩をなさるのです」
妃は真剣な表情で政治の話をしていた。
今後の国の動きについて、熱心に言葉を重ねている。
――女のくせに政の話をするのか。
聞き入っているグユウ様も・・・どうかと思う。
思わず口にしてしまった。
「いくら見た目が良くても・・・あれでは」
その声が届いたのかどうかはわからない。
だが、次の瞬間、グユウ様がふいにこちらを見た。
一瞬、目が合ったような気がする。
――まさか。馬場からここまで気づくはずがない。
そう思った刹那。
グユウ様は彼女に顔を寄せ、ためらいなく口づけを落とした。
胸の奥で、何かが大きく揺れた。
彼女は抗議するように、グユウ様のシャツを掴んだ。
だが、グユウ様は構わず、さらに深く唇を重ねる。
――まるで、俺に見せつけるように。
やがて彼女の手が力なく離れ、二人の唇がようやく分かれた。
彼女は顔を真っ赤にして、何か言葉を投げかけている。
だが次の瞬間、グユウ様が耳元に囁くと――その表情は花が綻ぶように変わった。
――あんな顔、見たことがない。
その笑みを向けられるのは、グユウ様だけ。
胸の奥で、何かが弾けた。
好いている? いや、そんなはずはない。
思わず拳を握り締めた。
「・・・それにしても、グユウ様は変わられましたね」
隣で光景を眺めていた馬丁が、コホンと咳払いをして言った。
「・・・あんな情熱的なお方だったとは」
俺は黙って俯いた。
――それは、あの女が魔女だからだ。
そう吐き出したかったが、言葉にはならなかった。
「・・・俺は騙されない。ミンスタの魔女に」
夕焼けが、やけに赤く滲んで見えた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
この短編は『秘密を抱えた政略結婚』本編のスピンオフで、
家臣オーエン視点によるエピソード(第5作目)です。
短編だけでもお楽しみいただけますが、
本編を読むと二人のすれ違いや政略の背景がより深く伝わります。
本編はこちら
『秘密を抱えた政略結婚 〜兄に逆らえず嫁いだ私と、無愛想な夫の城で始まる物語〜』
(Nコード:N2799Jo)
https://ncode.syosetu.com/n2799jo/
今回のお話は、昨日、公開した短編とつながっています。
オーエン視点とグユウ視点――対になる二つの短編です。
グユウ視点の短編
『寡黙な領主、初めて嫉妬した夜に妻を独り占めしたくなった』
https://ncode.syosetu.com/n0923lb/
2つ読んでみると、秘密を抱えた政略結婚の世界が楽しめると思います。
そして、この短編を気に入ってくださった方へ。
短編をまとめた連載版『<短編集>無口な領主と気丈な姫の婚姻録』も公開中です。
https://ncode.syosetu.com/N9978KZ/
※この短編も、1週間後に短編集に追加予定です。