第0話 エピローグ
「ーーでは、あなたにとって『愛』とは何でしょう」
曇りのない目でじっとこちらを見ながら、優しい声で尋ねられた。
男性は三十代半ばくらいの見た目だが、冒頭の自己紹介では副社長だと自称していた。
「ーー端的に言えば、『不要な偶像』です」
俺のぶっきらぼうな回答にも、副社長は嬉しそうにうんうんと頷いている。
「しかし、現代ではありとあらゆる思考や行動に影響する、重要なものだと考えられていますよね」
「だからこそ、です。目には見えないし、無くても全く困らない。それなのに、さも大事なものとして扱われ、持たない人は差別されてしまう」
「なるほどーーでは、限りなく安全で合理的な社会と呼ばれる"このシステム"については、どう感じますか」
副社長は、一本伸ばした人差し指を下に向け、「このシステム」を強調して見せた。
このシステム。
この世界の、今、ここにある、このシステム。
「ーー胡散臭いと、思っています」
俺は至って真面目に、そして正直に答えた。
まるで誰かにとって都合の良いように誤魔化されたかのようなーー胡散臭い、このシステム。
「……わかりました。ありがとうございます」
一瞬の沈黙の後、副社長はにこやかに目を細め、顔に皺を作った。
部屋の温度が少しだけ下がったような気がした。
「ーー合否や今後の詳細については追ってご連絡します。本日はお忙しいところありがとうございました」
便宜的な挨拶を済ませて、冷房のよく効いた白い部屋を出ると、スーツを着た小柄な女性が廊下に立って待機していた。
女性は半ば面倒そうに「どうぞ」と、エレベーターホールへ促し、下降ボタンを押した。
「ありがとうございやしたー」
エレベーターに乗り込んだ俺に頭を下げながら何とも適当な挨拶をしてきて、俺もひとまず頭を下げた。
面接からして怪しいものではあったが、そいつのふざけた態度も相まって「こんなところが社会の中枢機関で大丈夫なのか」と思いながら、近代的なビルを後にした。
外は日差しが強く、湿度も高い、夏のような春だった。
ふと、駅直結のファッションビルに付けられた大型ディスプレイを見上げてみる。
『アフェクションをコントロールして、健康で安全な毎日を』
政府主導のスローガンが、明るく大きく映されていた。
駅まで歩く道中、座り込む女性の姿があった。
彼女が首から下げた段ボールの切れ端には『愛を恵んでください』と書かれていて、その目は虚だった。
今日では決して珍しいことではないが、なぜか目が離せなかった。
ハートロス症候群ーー心が愛を失くす、不治の病。人類を窮地に追いやった恐ろしい病は、まだ無くなったわけではないのだ。
じっと見ていると目が合いそうになって、慌てて目を逸らし、駅へと足を速めた。
恵んであげられるような愛など、生憎持ち合わせてはいないから。