008 和巳の恩人(おし)
「カズミさんっ、『コウコウ』ってなんですか?」
「高校は……学校、だな。この世界にはないのか?」
「学校ならありますよ~っ。貴族の方が通う学び舎ですよね!」
なるほど、この国では勉強をするにもかなりの格差があるわけか。
当たり前に義務教育を受けてきた俺とは生きる土台から違う。
となると……アニカはどっちなんだ?
「あたし、勉強は村長に教えてもらいました! 武器の使い方はお兄ちゃんにちょっとだけ」
小さい頃からせがみにせがんで、十六歳になってようやく戦い方の基礎から教えてもらっていたらしい。
けれど半年もしないうちに例の事件が起きてしまい、最後まで指導してもらうことは叶わなかった。
今は騎士団の人に鍛えてもらっているようだけど、本当なら先代勇者から学びたかっただろう。
……いや、他人の気持ちを勝手に考え過ぎるのはよくない。相手にとっても、俺にとっても。
「あれ? ってことは……はっ! もしかしてカズミさんもお母さんのことが解らなくなったことがあるんですか?」
「いや、俺はそういうんじゃないけど……」
さっきの話を噛み砕いていて気付いたのか、アニカは神妙な顔をした。
その顔になんだか気が緩んで、俺も昔の記憶を懐かしむ。
「簡単に言うと……何もできなくなったんだ」
「動けなくなったってことですか?」
「めちゃくちゃ頑張れば身体そのものは動くんだよ。だけど心が言うことを聞かなくて……人ともなかなか会えなかった」
嘆いてはいない。今はそれも俺の一部だと思ってる。
……今でも、症状が出ることはままあるけれど。
「話すのは嫌いじゃないんだ。それでも、人と会うと途端に身体が言うことを利かなくなって……誰かが俺を見てると思うと足が竦んで、ありもしない周囲からの視線を意識して吐き気がした」
周りは別に俺を見ているわけじゃないって頭では解っているのに、気付けば呼吸すら安定しなくなった。
だんだん学校にも行けなくなったし、母さん以外とはSNSの文面でしか話せない時期もあったな。
俺が肩まで髪を伸ばしたのも人の目からなるべく隠れたいからで。
この世界に来てまで眼鏡やマスクを求めたのは、自分を隠すことで少しでも心を安定させたかったからで……。
考えながら喋り続ける俺に、アニカは嫌な顔をすることなく頷きながら聞いてくれた。
「悲観してベッドの中から出られなくなったこともあるけど……そんな俺を救ってくれた人がいたんだ」
「その人はカズミさんのこと待ってるんじゃ……」
「ううん、そういうんじゃないよ。相手は俺のこと、知らないから」
その相手は現実の人間じゃなくて物語に登場するキャラクターだったけれど、彼女は間違いなく俺の心を救ってくれた。
ほんの少しずつでもいい。前に進みたいという気持ちを芽生えさせてくれた。
今俺が自嘲もなく話せているのも彼女のおかげだと思う。
いろんな意味で彼女は俺の恩人だ。
元の世界への心残り、他にもまだあったんだな。
ゲームのストーリーはめちゃくちゃ読み込んだし、アイドルとして歌う彼女の曲は全部聴いてきたし、アニメだってセリフを言えるほど観てきたし。
大丈夫、忘れていない。推しという存在が、俺の心の一部を支えてくれている。
魔法薬という未知の技術に惹かれた理由も彼女にある。
いや、正確に言えば推し――小熊星が所属するアイドルユニットのリーダーが発端だが……まぁ、彼女が夢見た魔法の薬であることには間違いない。
考えてみれば、リーダーとアニカは似ているところがあるな。
元気で、前向きで、一緒にいたら楽しそうだと思わせてくれる不思議な魅力がある。
それを思えば、今のポジションも楽しんでいける気がしてきた。
思い出すのは悪い記憶ばかりじゃなかったことに安堵し、自然と口元がほころんだ。こんな俺と話しながら、彼女はなおもちゃんと俺の言葉と向き合ってくれる。
アニカと出会えたんだ。異世界に召喚された俺の運もまだ捨てたもんじゃない。
「あたしの村では心が病気になった人はずっと寝たきりで弱っていたんですけど……カズミさんは違いますね。なんていうか、会ったばかりのあたしにもこんなに優しく話してくれて、まるでお兄ちゃんみたいに話しやすいなって思ってて……」
聞く限り、俺と先代勇者は似ても似つかないと思うけど、向こうも安心感を抱いてくれているようでよかった。
名前は確か、ルーカスだったっけ? その人のことも今度副団長に聞いてみよう。
そういえば副団長は「ルカ」って呼んでたな。アニカとも仲良いみたいだったし、先代勇者とも近しい間柄だったのかもしれない。
もし俺にも妹がいたなら……っとと、また思考が脱線してしまった。
「俺もしばらくはずっと寝たきりだったよ。こんなことしてる場合じゃないって自責の念に駆られて、でも動けなくて」
このまま俺の状況をポジティブに解釈され過ぎても困る。俺は運が良かったんだと念押ししておかないと。
「だけど、そんな時に出逢った『とある人』が立ち上がる原動力をくれたんだ」
「さっき言ってた人ですね! それってどんな人なんですかっ?」
「ええっと……アニメ、って言っても解らないか。架空のアイドル……パフォーマー……歌ったり踊ったりする人で……」
「あっ、それなら解ります! 踊り子さんですよねっ。あたし、いつか踊り子さんをこの目で見るのが夢のひとつで!」
いろんなことに瞳を輝かせる子だな。
そんな反応をされると、ファンの布教心が疼いてしまう。
「……これとかこれ、星のマークになってるだろ? これがその人の証で……俺のお守りなんだ」
白いローブを脱ぎ、アニカにも見やすいように帽子とTシャツを見せた。
生地の〝青〟は小熊星のイメージカラーで、白の〝星マーク〟は小熊星のトレードマーク。シンプルなデザインながらも彼女から力をもらえている感じがしてよく身に付けていた。
右手の人差し指にはめたシルバーのリングも小熊星のグッズだ。右手を握れば、いつだってその星が視界に入る。俺の心を安定させてくれるモノのひとつだった。
小熊星と仲間達が懸命に生きる姿を見て俺は再奮起でき、こうして今でも勇気をもらっている。
高校は留年してしまったけど、通信制に入学し直すことができた。
勉強しながらレストランで働く日々もそれなりに楽しんでいたし、卒業したら社員にならないかという話ももらえていた。
俺は本当に運がいい。そう思えるようになったのも、一度立ち止まって動けなくなった俺が再び前進できるようになったのも、間違いなく小熊星という存在のおかげだ。
いわゆる二次元アイドルだけれど、俺の中で彼女は生きている。俺を助けてくれた彼女に報いたくて生きてきた。
恩返しがしたいなんて自己満足でしかない。それでも、可能性があるのなら挑戦したいと、そう思った。
「副団長室で話した魔法薬のことなんだけど……」
「えーっと……なんでしたっけ?」
きょとんとするアニカを見て思い出した。そういえばあの時は賢者を召喚する重大さに気付いて悩んでいたんだっけ。
この世界で俺が何がしたいのかを副団長との会話を交えながら説明すると、目の前の明るい髪がひときわ大きく揺れる。
「なるほど、カズミさんはその人のために魔法薬を作りたいってことですねっ」
「うん。国を守りたいってアニカの思いと比べると、独りよがりな力の使い方だけど……」
「そんなことないです。誰かのために何かをしてあげたいって気持ち、あたしはすっごく素敵だなって思いますっ」
「……ありがとう」
アニカの前向きさは、考えすぎる俺の思考にもすっと溶けるように入ってくる。
素直な気持ちをそのまま吐き出せば、彼女はまた嬉しそうに笑った。
それからは少しだけ話をして解散することになった。
アニカはどんな魔法薬を作りたいのか気になるとはしゃいでいたが、それでも眠気に耐え切れずだんだんと瞼が落ちているのが目に見えて解る。
どうやら昨日の夜は賢者に会えることを楽しみにし過ぎて上手く寝付けなかったらしい。
続きはまた今度話すと約束し、目をこすりながら三階の個室へ向かうアニカの背中を見送った。
オレンジ色に染まる窓の外を眺めて、テーブルの上に置いたフォークを再び手に取る。
ひとりでの食事なのに、不思議といつもより食が進む。珍しく感じている空腹を満たすべく、二人で作った料理を時間をかけて完食した。