050 自らの意志で前へと進め
白んでいく空を横目で呆然と見つめながら、結局俺は寄宿舎に帰ってきてしまった。
……いや、帰り着いた。仲間が俺を迎えに来てくれたんだ。
てなければきっと、森で出会った謎の人物に首を絞められて事切れていただろう。
ごめん、ともう一度呟く。
ソファに座らせられたはいいものの他になんの言葉も出てこない。視界には自分の足先が映るだけ。
俺を連れ帰ったクララも対面に座るアレクサンダーも何も言わなかった。
しばらくして、厨房に向かったクララがホットミルクを手に戻ってくる。
テーブルの上に置かれ、立ち上る湯気と優しい香りが視線と心をゆっくりと持ち上げてくれるようだった。
「精神状態が危うくなる理由は様々あり、また人それぞれだ。他者が易々と改善の指摘をできるわけではないが、今の君には深い睡眠と思考を整理させる時間が必要だろう」
アレクサンダーが白衣から小瓶を取り出した。
蓋を開け、中身をホットミルクに注いでソーサーに添えられていたスプーンで掻き回す。
「さあ、飲みたまえ。夢を見ることすらない良質な睡眠が短時間で得られるはずだ。小生も魔導具の鍛造に集中したいときによく服用した薬なのだよ」
目の前で飲み物に薬を盛られた。
だけど了承を取ろうとする姿にいつかの約束が守られていることに気付いて、口角が勝手に横に広がっていくのを感じる。
カップを両手で包み込むように引き寄せた。
温かい。少しだけ甘く味付けされたホットミルクが奥底に寄せられていた記憶を刺激する。
小さい頃、寝付けない俺に母さんがよくホットミルクを作ってくれたな。
そして飲み終わったら、俺の心を落ち着かせるように名前を呼んでくれた。
「おやすみ、カズミクン」
「おやすみなさい、カズミ」
震える瞼を閉じ、心地のいい声を最後に俺は全身をソファに預けた。
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あれだけ重かった頭が軽くなっている。
ズキズキと脈打つ痛みはなく、心に巣食っていたモヤモヤも少しだけ晴れたのか抵抗なく身体を起こせた。
また俺は自分の部屋のベッドの上にいる。
服は昨日のままだ。ローブだけが脱がされており、新しい服と共に綺麗に畳んで机の上に置かれていた。
寝起きから触れた人の優しさがじんわりと沁みる。
ああ、久しぶりの感覚だ。母さんがまだ元気だった頃のことを思い出す。
どんなに忙しくても綺麗にアイロンをかけてくれていた。
自分でやるようになってから、それがどれだけ大変なことかを知れたのも記憶に新しい。
すっかり目が覚めた俺は両頬を勢いよく手で挟んで瞼をしっかりと持ち上げた。
大丈夫、大丈夫だ。昨日は後ろ向きな思考で頭が埋め尽くされていたけれど今は違う。
衝動的過ぎたと客観視できる自分がいる。
周りの優しさに感謝の念が浮かんでくる。
俺に何ができるのかを考えられる。
大きく息を吸ってゆっくりと吐き出す。そして布団から出て新しいシャツに袖を通した。
衣服も心の武装のひとつ。手入れの行き届いた布地は俺の背筋をしゃんと伸ばしてくれる。
この世界に召喚されてからずっと着ている賢者のローブも肩に羽織るだけで力をくれた。
「頑張れ和己。俺が進めば、きっと導は見えるんだ」
右手をぐっと握りしめ、ここぞという時に推しが自分を励ます言葉を真似して口にする。
立ち止まってもいい。後ろを向いてしまう日があってもいい。
それでも自分の意思で前へ進もうとしなければ何も始まらないのだから。
クララとアレクサンダーにお礼を言ってアニカのお見舞いに行こう。
意識が回復しないのは、あの時の俺みたいに魔力切れを起こしている可能性だってあるんじゃないか?
そうでなくとも、傍に行くことで何かが変わるかもしれないんだ。
あのシスターにもちゃんと話を聞きたいし、副団長や第四副隊長にも迷惑をかけたことを謝りたい。
やることはひとまず決まった。
一歩一歩ここにいられる現実を踏み締めながら一階へ下りる。
談話室にはいつも通りティーカップを傾けるアレクサンダーと、いつも通り窓のくもりを拭き取るクララの姿が在った。
二人ともアニカのことで動じていないはずがない。
それでも日常を示してくれているのだ。逃避しようとした俺のために、現実はここに在るのだと言外に教えてくれている。
もちろん別の意図があるのかもしれない。
だけど、いい。少なくとも俺はそう受けとったし、二人も俺の答えを否定したりはしないだろう。
いつだって俺を否定するのは俺自身だ。
ここに来てまだ自分を否定するということは、この世界で俺を肯定してくれた大切な人達の思いを否定するのと同じ。
それは嫌だ。託された信頼を無碍にするのだけは、絶対に嫌なんだ。
二人分の視線がこちらへ向けられる。
俺はいつもより少し大きくはっきりと声を張った。
「おはようクララ、アレクサンダー」
前者からは優しい眼差しが、後者からはお茶を飲下す音が返ってくる。
「昨日はありがとう。おかげでちゃんと、目が覚めたよ」
「生気が戻ってきてるみたいで安心したわ。今日はこれからどうするの?」
「アニカのところに行こうと思う。だから……その、一緒に来てくれないか?」
「そう、決心が着いたようね」
コンソメの柔らかい香りが鼻腔をくすぐった。
スープを一口含んで喉を潤せば自分がどれだけ空腹だったかを知る。
クララが作ってくれたスープは相変わらず野菜の芯まで味が染みていて、咀嚼すればするほど食べる手が止まらなくなった。
「小生は遠慮しておくよ。代わりにこれを持っていくといい」
アレクサンダーは白衣の内側から輪っかを二つ取り出して俺に寄越す。
装飾なんてほとんどない。それぞれにキラキラと光る小さな石の欠片が嵌め込まれているだけ。
一見ガラクタのようだけど、この男が渡してくるものといえばひとつしか思いつかない。
「……これも魔導具、なんだよな?」
「魔力接続の腕輪とでも考えるといい。君を廃村から連れ帰ってきた騎士団員にさわりを聞いたのだが、カズミクンとアニカクンの魔力は同一のモノらしいではないか」
同一……確かに手を貸してくれたシスターがそんなことを言ってたような気がする。
「そのような発想は今までになかったが、考えてみるとなるほどどうして納得させられる。治癒魔法の効果に差が生じてしまう要因にも関わりが見い出せるやもしれん。有り合わせの試作品だが一助になるだろう」
使い方は簡単だ。俺とアニカの腕に装着して魔力を腕輪に注ぎ込むだけ。
対の腕輪に魔力が移動して勝手に装備者へ流れる……らしい。詳しい仕組みは聞いてもよく解らなかった。
理解できなくてもいい。アニカを救う手段がまたひとつ増えたんだから。
それにしてもアレクサンダーはこんなに凄い魔導具を一日程度で作ってしまったのか?
俺達のために、一から考えてくれたのか?
ティーカップから手を離したアレクサンダーは立ち上がり、それ以上何も言わずに階段を上っていく。
足音からして、二階に占拠した実験室ではなく四階の自室に戻ったのだろう。
「………………ありがとう」
二度目のお礼はきっと誰にも届いていない。
それでも胸がいっぱいになって吐き出したくなった。
これほどまでに優しい気持ちに満たされることが俺の人生にもまだあったんだな。
食事を終えて食器を洗うと、クララもアニカ用のお弁当を作り終えたところだった。
どれも胃に優しい物ばかり。いろんな香りがするのにひとつとして邪魔していない。
はは、この匂いを嗅いだらお腹が空いてアニカも目が覚めるかも。
「じゃあ、行くか」
寄宿舎を出た俺達は、あまり言葉を交わすことなくアニカがいる病室へと早足に向かった。




