005 元いた世界への未練
青い顔をして震えている勇者に伸ばしかけた手を止め、俯いた顔をそっと覗くように声をかけた。
「勇者……? 大丈夫、か……?」
「ごめんなさいっ!」
「えっ……?」
「あたし……賢者さんを召喚できればみんなを守れるって……〝勇者〟として立派になれるって王様や宰相さんに言われて……そうなんだ! って喜んで……召喚も無事に成功したことがすごく嬉しかったんですけど……」
勇者は瞳を潤ませてあわあわしながらも懸命に口を震わせる。
「でも、さっきの副団長さんの話を聞いて、そうじゃないんだって気付きました……賢者さんにも大切な人や物がたくさんあるはずなのに、あたし、勝手にそれを……!」
目いっぱいに涙を溜めた勇者はまっすぐに俺を見つめた。副団長に差し出されたハンカチをぎゅっと握り締めているのに、その姿からは弱さは微塵も感じない。
「副団長さんっ。今からでも賢者さんが自分の世界に帰れるようになんとかできませんか……!?」
むしろ、強い人だと思った。
純粋に喜び、それを言葉にすることを厭わない。
手が届いたと思っていた希望が目の前ですり抜けることになっても、自分にできることを探そうとする。
出会ってからまだ数時間と経っていない。感情表現の豊かな勇者が――アニカという少女が、俺には本当に眩しく見えた。
「んー、過去に召喚された賢者が異世界に戻ったって話は聞いたことないね。一応調べてみるけど、あんまり期待はできないかな」
「なら、あたしが見付けます! 絶対ぜったい、賢者さんを家族のところへ帰してみせますっ」
決意を新たに、涙を拭ったアニカが立ち上がる。
彼女なら本当にやってくれるかもしれない……なんて思えるほど、まさに勇者足る姿をしていた。
そう、彼女は勇者なんだ。
彼女の力を必要としている人がいる。彼女の助けを求めてやまない人がいる。
なら、俺のことで手を煩わせていいわけがない。いや、そもそもの話――
「――大丈夫。その必要はないから」
二人ともきょとんと目を丸くして短い驚嘆の声を上げた。
別に強がっているわけじゃない。落ち込んでいるわけでも、無理に明るく振舞っているわけでもない。
本当に必要ないんだ。
「俺を待ってる人は、あっちにはいないから」
「それって――」
勇者が何かを言おうとした途端、ガチャンとティーカップがひっくり返って紅茶が床の上まで溢れ出した。
「あちゃ~、ごめんごめん。うっかり倒しちゃった」
「わっ、急いで拭かないと大変なことになっちゃいますねっ。あたし、倉庫から雑巾取ってきます!」
軽い足取りで部屋を飛び出した勇者を副団長は手を振りながら見送る。申し訳なさそうな顔が一瞬で消えたな、なんて考えていたところでふと違和感を覚えた。
あれ、副団長のカップ……空じゃなかったか? と。
「さーてと、カズミくん。あの子がいないうちに聞いておきたいんだけど」
なるほど、わざと紅茶をこぼしたのか。彼女なら自分から道具を取りに行くと踏んだのだろう。
たかが数時間の付き合いの俺でもそう思うんだ。この人なら想定していても頷ける。
「本当に手段を探さなくていいのかな? 元いた世界に未練はないの?」
「未練は……なくはないけど」
好きなモノだってあったし、バイト先でよくしてもらった人達に謝罪ひとつできないことが申し訳ない。友人にだって、別れの挨拶くらいはしておきたかった。
後悔を考えればいくらだって出てくる。だけど――
「――俺を待ってる家族はもういないんで……心配しなくても、俺にできることなら賢者でもなんでもしますよ」
俺にできることなんて限られてるけど。
なんてこぼせば、副団長は眼鏡をくいっと持ち上げて隣に立った。湛える笑みは勇者とは違った意味で力強い。
頼もしい大人だと、そう思わせてくれる。
「……そっか。よしきた! それじゃあここにいる間、君のしたいことはこのお兄さんがサポートしてあげよう!」
「は……!? いや、マジで探さなくて大丈夫なんで……」
「まぁまぁ、物のついでに探すくらいはいいでしょ? アニカちゃんなら一人でも探そうとすると思うよ? ほっとくより、おれも手助けした方があの子のためにもなると思うんだけどな~」
自分の直感が間違っていないと再確認した矢先に、人の良心をくすぐる言い方をしてくるなんて……ははっ、ずるいなこの人。
「じゃあ……よろしくお願いします」
「オッケー。お兄さんに任せたまえ」
沈みかけていた空気はどこへやら。明るい雰囲気の中で戻ってきた勇者を迎え、二人に混ざって片付けをする。
わちゃわちゃしながらついでのように王城や騎士団本部の施設を説明され、覚えきれないと返せば地図を渡された。流石副団長、用意がいいな。
まぁ、お礼を言ったあとに「国家機密だからなくさないように」なんて注意されたら持ち歩くのが怖くなってしまったけれど。
一通り綺麗にして、三人でちょっとしたお茶会を楽しんだ。
魔法薬を作るには必要な道具があるらしく、その手配も副団長がしてくれるのだとか。道具だけじゃなく、魔法薬師として習練しやすいように本部に一室確保するとまで約束してくれた。
俺のやりたいことをサポートしてくれるってのはどうやら本気みたいだ。
あんまり遠慮するのも気を遣わせてしまう気がする。副団長の申し出をありがたく受け取り雑談をしていると扉をノックする音が聞こえてきた。時計を見遣ればだいぶ時間が経っている。
誰かと話してあっという間に時間が過ぎる感覚は久しぶりだった。
副団長の返事を待って入ってきたのは、俺よりも少し年上くらいの女の人だ。騎士団の制服を着ているところから察するに彼女も団員の一人なのだろう。
「ラインハルト副団長、賢者様用の寄宿舎の準備が整いました」
「ありがとね。じゃあ早速案内してこうか」
「そちらは私にお任せください。アルベルト団長があなたのことを探していましたよ」
俺達の案内は副団長からこの人に引き継がれるようだ。何やら話し込む二人の邪魔をしないように、その間に勇者と地図を確認し合う。
勇者が言うには、新人&単身者用の寄宿舎が騎士団本部の敷地内にあるらしい。所属する隊ごとに棟のある場所が違ったり大きさの差異はあるものの、設備はどの棟も同じ。
「ちなみになんですけど、隊長さんとかの部屋だけは少し広いものが用意されてるみたいなんですっ」
緊急の泊まり込みなどにも使うため、住んでいなくても役職持ちの人の部屋はあるようだ。常在している人はいても副隊長までがほとんどだが、例外もいるとのこと。
その辺りもまぁ、おいおい確認していくとしよう。
他には、食堂や銭湯は併設されていないため、そちらは隊の区別なく使えるように用意されているのだとか。住むにあたってこれは絶対に覚えておかなくちゃな。
俺が暮らすことになる寄宿舎はどこなのだろうと勇者が期待の声をこぼす頃、話がまとまったのか副団長が俺達を呼んだ。
「それじゃあおれはここで離脱するから、あとはうちの子に案内してもらってよ」
「初めまして、賢者様。私はエマ・フォン・シュライバーと申します。基本的には騎士団の本部にいますので、今後何か困ったことがあれば是非声をかけてくださいね」
彼女とも挨拶を交わし、バイバイと手を振る副団長に見送られて三人で部屋を後にした。