002 〝賢者が望む〟モノ
こうして異世界に召喚された俺は〝賢者〟と呼ばれ、〝勇者〟と共にこの国を守るべく残留することを決めた。
ここがどういう国なのか、そもそも国の名前すら教えられていない。
それでも決意したのは、目の前で嬉しそうにはしゃぐ女の子――アニカ・フォン・シェーファーの顔を曇らせたくない……なんて後付けの理由で自分を納得させた。
いや、解ってる。解ってはいるのだ。
元の世界に帰ったとしても、俺を待っている人はいない。
感情の行きつく先が自分でも上手く掴めない……そんな現実に直面したくないだけだって。
「もしもーし、賢者さん?」
俺の現実逃避の第一歩は思考を言葉で埋めることだ。一種の自衛でもあるそれは、周りの音をシャットアウトしてしまうこともよくある。
いつの日か友人に「悪癖」だと言われたことがあったっけ。
SNSで知り合って数年の付き合いで彼らとは会ったことすらないけれど、好きなモノを共有できる存在がいることは救いだったな。
再び思考に没入しかけた俺に、勇者は距離をつめてこっそりと耳打ちをした。
「あっちのおじいちゃん……あっ! 五賢星っていう偉い人なんですけど、賢者さんに聞きたいことがあるそうですっ」
見遣れば、豪華な装飾が施されたローブを着込んだ人影が五つある。そのうちの一人が顔を隠した頭巾を横にずらしており、手入れの行き届いた口髭に触れながら一瞬だけ視線をこちらへ向けた。
「賢者よ。貴殿の要望を聞こうではないか」
声はかすれているのに、老人とは思えないほどの重さがある。高圧的と表現した方が正確だろうか。せっかく薄れていた胃の痛みがぶり返してきた。
身体の震えを抑えたいのに、数多の人に注目されているさなかではしゃがむこともできない。
俺は右手をぐっと握り込む。その手で帽子のつばを掴むことで周りの視線を遮って、口に出す言葉が震えないよう全身に力を込めた。
「……食事は、どうすればいいですか」
「一定期間ごとにこちらから金銭を工面する。貴殿が望むのであれば現物支給も考えよう」
「……俺が住む場所は」
「王城の一角に貴殿の部屋を用意している。賢者はこの国にとって重要な賓客だ。最高峰のもてなしを約束しよう」
王城……!? そんな場所に俺が住むなんて……想像すらできない。というか、考えるだけで息が詰まってしまいそうだ。
この申し出は絶対に断ろう。でなければここに残ったことを明日にでも後悔している自分を簡単に想像できてしまう。
「いや……流石にそれは生き辛いので、別の場所にしてもらえると……」
「ふむ。それでは騎士団の寄宿舎から棟をひとつ用意しよう」
「……下町とか、ひっそりした場所でいいんですが」
「ならぬ。貴殿の安全を確保するにあたって、城下に住まうなどもってのほかだ。王城か寄宿舎か、貴殿が選べるのはこの二択のみ」
「…………じゃあ、寄宿舎の方でお願いします」
悩んだ末に少しでもマシな方を選んだ。この世界で王族や騎士団がどういう存在なのか、あとでちゃんと聞いておいた方がいいだろう。
『食』と『住』が確約された。生きるためにまず揃えるべくはあと――『衣』。
衣服については、食と住以上に望んでいることがあった。
「眼鏡と……マスクがほしいです」
足元を探してみたが、俺より先に光の玉へ吸い込まれたはずの伊達眼鏡とマスクが見当たらない。見付けたとしても踏まれているかもしれないし、マスクに至っては使い捨てだ。新しい物を用意するしかない。
「承知した。二点ともこちらで手配しよう。眼鏡の型に希望はあるか?」
「いえ」
「マスクは……この者と同じ型では眼鏡をかけられぬ故、あの者と同じ型でいいだろう。無論、布は最上級の絹を使用する」
老人がまず指差したのは、顔面の全てを覆うサイズのマスクをつけた大男だった。形状はペストマスクに近い。
次に指差したのは、白い三角巾で口元を覆った女の人だった。イメージするマスクとは違うものの、前者を付けるよりもはるかにマシだ。
けれど最上級の布を使われるとなると日常的に使うのもはばかられるし、かといってわざわざ使い捨てのマスクを作ってもらうのはいかがなものだろうか。
はぁ……汚したらと想像するだけで胃がひっくり返りそうだ。
「……眼鏡だけでいいです」
「服飾の望みはそれだけかね?」
「マスクの代わりに、顔を覆える服ってありますか? 例えば、フード付きのパーカーとか、そんな感じでいいんですけど……」
言えば、老人と俺との間に数拍の沈黙が流れた。さっきまで淀みなく話していたのに突然黙られると少々気味が悪い。
老人が喋りだしてからはガヤの声も途切れていたから、返事を待つ間が嫌に長く感じた。
「ならばフードローブを用意しよう。歴代の賢者のための型がある。あつらえるのは先々代以来になるが、我が国の針子ならばすぐに仕上げられるはずだ。そちらでよろしいかな?」
「……ちなみに、何色ですか?」
「女神様の御姿にあやかって藍色を基調としている。それが何かね?」
「いや……それで、お願いします」
暗めの色ならもし汚しても洗えば目立たない、か……?
そもそも高い布って普通に洗ってもいいのか?
ローブの色自体が藍色でも、この老人達のように煌びやかな装飾が付けられていたらどうする?
やっぱり違う服を用意してもらった方がいいかもしれない。
いや、一度頷いておいてすぐに取りやめるのは不興を買う可能性が高いな。
ああ、ダメだ。考えれば考えるほど、他に言いようがあったんじゃないかと後悔が押し寄せる。考える端からいつも後悔して、だけど考えずにはいられなくて、結局伝えずに終わってしまうのだ。
今までならそれでもよかったかもしれない。いや、よくはないが、俺が諦めれば済むことではある。だが、この世界でもそれが通用するのだろうか?
一人になってしまったあの部屋を基準にしてしまっても、大丈夫だろうか?
「……い……おい、おい! 聞いているのかね!」
「…………えっ」
「ふぅ、召喚されたばかりの貴殿が呆けるのも無理はない。しかし、賢者としての自覚は持ってもらいたいものだな。少なくとも、我々の言葉を無碍にすべきではないと思うがね」
あからさまに吐かれたため息が耳に残る。
無視してしまったことは申し訳ないけれど、どうしてそれを俺にじゃなくて勇者に向かって言っているんだろう。これ以上威圧的になられても困るが、謝る勇者を見ると胃がぎゅっと掴まれている気分になった。
俺も謝りつつ老人の話を促す。すると彼はさらに深いため息と共に呆れたようなそぶりを見せた。
「それらが賢者の望みだとでも言うのか? まったく……茶番をするために儂が口を開いたのではないぞ。言え、貴殿の望みはなんだ?」
「なら……ローブ、あんまり派手じゃない方が助かります」
「はぁ? 何を言っているのかね。衣食住など些事であろう。貴殿が賢者である以上、無理難題にも応える用意はあるのだ。あまりこちらの手を煩わせないでいただきたい」
語気に苛立ちを感じる。老人が何を意図しているのかを考えてみるけれど、これといって浮かばない。
元の世界へ帰還を強いられることを想定していたのだろうか?
賢者の条件が「勇者と最も相性がいい異世界の人間」と言ってたから、帰られてしまうとお偉いさんも困るのかもしれないな。
……いや、「無理難題にも応える」ってことは違うか?
やっぱり、俺が今、賢者として何を望まれているのかが解らない。
衣食住の確保もできているなら、ひとまず生活の心配をすることもないだろう。
なら、現段階で国相手に望むことなんて、身の安全くらいのものだ。それも約束されているのであれば充分だ。
「すいません。今は思い付かないんで、また必要な時にでもいいですか?」
「……承知した。ならば儂から言うことはもうない。ここは窮屈だろう。早急に地上へ出るがいい」
老人は身体の向きを変えることなく「おい」と呼びかけ、三角巾マスクをした女の人が腰を低くして俺に近付いてくる。
掲げた両手には白い布があった。促されるままに手に取って広げてみればフードローブだと解る。
「これは……」
「簡易的な物だが、賢者用のローブができるまではそちらを代用するといい」
「なるほど……ありがとう、ございます」
シミひとつない真っ白なローブはこんな場所でも眩しく見える。着るべきか悩んでいる俺の手からローブが消えたかと思えば、勇者がばさりと広げて背中に覆い被せてきた。
一仕事終えたようなニコニコ笑顔の勇者はきっと善意でやってくれたのだろう。その好意をムダにしないよう、俺は抗うことをやめて袖を通し、ついでにフードも被っておいた。
眼鏡とマスクはないが、視界を狭められる分さっきよりも落ち着くな。
「賢者さんはあたしがご案内します! 暗いので、足元気を付けてくださいねっ」
一息吐く間もなく、勇者が俺の手を引いて歩き始める。
奇異の眼差しから逃れられるのだ。俺としてもいち早く外へ出たい気持ちはある。
けれど、仮にも異世界から召喚した人間をこんなにも簡単に開放するものなのだろうか?
それとも〝賢者〟を召喚したのが先々代以来なだけで、召喚自体はメジャーなことなのだろうか?
蝋燭の灯りだけで照らされた階段を上りながらも、相変わらず思考の渦は止まなかった。