001 賢者が召喚された日
目を眩ませるほどの光が今も脳裏に焼き付いている。
ただ眩しかっただけなのか、それ以外に理由があるのか――この時の俺は深く考えることもないまま光の束縛から解放されたことに安堵し、その数秒後、明暗を取り戻した視界に見知らぬ少女が映り込んだ。
会ったことはない。それなのに、少女は心底嬉しそうな笑みを浮かべて俺を見つめていて。力強い瞳には喜色と期待が滲んでおり、わずかなためらいすらなくこちらに手を差し伸べた。
「あたしと一緒にこの国のみんなを守りましょう!」
求められるがままに頷きかけた己を辛うじて呼び止め、目を閉じる。
――ここはどこだ? この子は誰だ? 俺は何をしていたんだっけ?
直前までの出来事を思い出すべく、必死に記憶を呼び起こした。
なにがし賢者の叙情記
~異世界に賢者として召喚されたので夢だった≪魔法薬≫を作りたい~
事の始まりはなんの変哲もない日常だった。いつもと違うことがあるとすれば、今日が俺の十九歳の誕生日だってことくらいで。
けれどいつも通りバイトへ行くために玄関を開いた――その扉の先で、日常が非日常へと切り替わる。
晴れた空のただ中に光の玉が浮かんでいた。
初めは野球ボール程度だったのに、ゆっくり、ゆっくりと大きくなっていく。風もないのに身体が引き寄せられ、ふわりと帽子が頭から浮いたことでようやく危機感を覚えた。
慌てて頭を押さえたものの、眼鏡とマスクが光の中に吸い込まれていく。眼鏡は伊達だ。なくても視界がぼやけることはないが、普段より広がる視野に不安が募る。
扉を閉めようにも、ここから走りだそうにも、じわじわと光に引き寄せられるばかりで足がうまく動かない。
確実に迫ってくる光に目が眩み、耐えられずに瞼を閉じれば大地を踏みしめる感触が失われていき――今はもう光の中にいるのだと、瞼の奥で理解した。
「――――っは」
そして俺の意識は冒頭へと戻る。
長いようで一瞬だった光の中から解放されて視界が安定してくると、まず見えたのは蠟燭の明かりだった。次に、歓喜の声につられて周囲に人がいることに気付く。右も左も見渡せど知っている顔がなく、薄暗い部屋の装飾にも見覚えはない。
夢かとも考えたが、打ち付けた尻の痛みが思考の放棄を許さなかった。
あれ、痛みって夢の中でも感じるのか?
夢じゃないなら、ここはなんだ?
緊張を自覚してようやく、周りの声が言葉として耳に入ってきた。華美な装いの老人達は俺を見て満足げに笑っている。
なんだ、これは。何が起きているんだ?
混乱するあまり声も出せずに呆然とする。冷静なわけでは、決してない。
そんな俺の視界に、きらりと光が飛び込んできた。
「あなたが賢者さんですね!」
いや、光ではない。明るい髪を光のように思ったのだろうか。他人事のようだが、周囲の薄暗さがかえって彼女の輝きを浮き上がらせているようだとさえ思う。
ともかく、俺と同じか、少し年下くらいの女の子が、なんの陰りもない嬉しそうな顔をのぞかせた。
「あたし、アニカって言います。アニカ・フォン・シェーファー! あなたは?」
「俺は……薬師寺、和巳……」
「ヤクシジカズミさん! 勇者としてはまだまだ未熟者なんですけど……あたしと一緒にこの国のみんなを守りましょう!」
言った端から強引に俺の手を取った女の子は、腕が引きちぎれそうなほどぶんぶんと大きく縦に振る。
幼さの残る見た目に反してそのパワーはあまりにも強い。襲い来る衝撃をなんとか耐えて顔を上げれば、この世の善を集めたような輝かしい瞳が俺の心をまっすぐに射抜いた。
「…………あー、その」
「はい! なんですか?」
「……ちゃんと説明してくれると、助かるんだけど」
引き気味の腰はさておき、どうにか言葉を紡ぎ出す。俺とは対照的に興奮気味に語る彼女の話を要約するとこんな感じだ。
ひとつ。ここは俺がいた世界とは異なる世界だってこと。
ふたつ。アニカと名乗ったこの少女が〝勇者〟だってこと。
みっつ。〝勇者〟と最も相性がいい異世界の人間を〝賢者〟として召喚する儀式によって俺がここにいるってこと。
よっつ。これは周りの声が主だが、俺は賢者として国を守るために力を使う運命にあるってこと。
他にもいろいろと言っていた気がするけれど、言葉の意味をちゃんと理解できたのはこのくらいだった。国のしきたりの話もしていたが、正直右から左へ流れていくだけ。
はぁ、夢ならそろそろ覚めてほしい。誕生日に見る夢がこんなファンタジーだなんて……バイトも通信制の高校もそれなりに楽しんでいるつもりだけど、もしかしたら心のどこかで脱却を望んでいたのかもしれないな、なんて考えて。
「何を憂うことがある。君はこれから賢者として我が国に繁栄をもたらすのだ。これ以上に素晴らしい生き甲斐はないだろう?」
だけど、肌で感じる視線は夢とは思えないほどリアルだ。だんだんと蝕まれていく胃から意識を逸らそうとすれば、嫌な言葉がさらに胃を重くする。
いっそ耳を塞いでしまおうか。
なんて逃げを打とうとした俺を引き留めたのは、騒がしい中でも不思議と耳に届いた彼女の声だった。
「あたしは……この国を守りたいんです。ひとりじゃムリだって言われて落ち込んじゃったこともあるけど、賢者さんと一緒ならこの国を救うことだってできるんだって教えてもらいました」
一生懸命で、ひたむきで。
その子の言葉は、どうしてか初対面の相手とは思えないほど嫌気なく耳に入る。
「大変なこともたくさんあったのにみんな前を向いて頑張ってるんです。あたしは〝勇者〟に選ばれたから……ううん! そうじゃなくても、みんなのためにできることをしたいんです!」
わずかに落とした視線の先に、彼女は何かを見ていた。
薄暗くてよく見えないが、うっすらと涙が膜を張っている気がする。勇者に選ばれたと言っていたがそれが何か関係しているのだろうか?
その理由を想像する間もなく、決意に満ち溢れた瞳が再び俺とかち合った。
「お願いします、賢者さん! どうかあたしに、あなたの力を貸してくれませんかっ?」
ああ……眩しいな。
暗い部屋の中で目を細めた俺は、この世界に残る意味を考える。
夢か、現実か。
簡単に帰れるのか、帰れないのか。
勇者とは一体なんなのか。
賢者と呼ばれたものの、俺に何ができるのか。
そして――
「どうせ……」
――元いた世界に帰ったとしても、俺を待っている人はいない。
だったらここに残って、光のようなこの子に手を貸すのもいいんじゃないか?
「? 賢者さ――」
「……解った。俺にできることがあるなら、力貸すよ」
「――やったぁ! ありがとうございますっ!」
夢なら夢でいい。夢から目覚めるその時まで、この世界で生きていくだけだ。そのくらいの逃げは許されるだろう。
「賢者さんが一緒にいてくれたら百人力です! 一緒に頑張りましょうね、賢者さんっ」
「……うん、よろしく」
全身で喜びをあらわにする彼女を見ていると、陰った心が少しだけ洗われるような、そんな気がした。