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神様の外交官  作者: 山下小枝子
第一部 第七章
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5 人の死。

 まだアフマドの姿は、顔は、見ていない。


 たくさんの人の列の最後尾で、佐知子とヨウは泣き叫ぶアイシャを見ている。そして順番に手向けが始まった。


 白い、小さな一輪の花を渡される。それを順番にアフマドの体の上にのせて、お別れをする。


 徐々に近づいてくる順番。どうすればいい、何をすればいい、どんなお別れを……どきどきとしながら、佐知子は順番を待った。


 そして、いよいよ前の人が終わり、佐知子の番、佐知子はミイラのように布に包まれ、顔だけ出たアフマドを見た。


「!」


 しかし見た瞬間、パッと顔をそらしてしまった。



 瞬時に感じたのは、本能的な恐怖と嫌悪だった。



 後から申し訳ないと思った。

 最低だと思った。

 けれどその時、初めて見た遺体……人の死体は、『モノ』だと思った。


 決して綺麗なものなどではなく。青白く、生気がまったくない。生きている時とはまるで違う。



 『モノ』。



「…………」


 佐知子はその場で凍りつく。


 顔を背けてしまったこと、この後どうすればいいか、また遺体を見なくてはいけない。でも、お別れはちゃんとしたい。


 様々な想いが駆け巡る。


(ダメだ……! ちゃんとお別れしなきゃ! あの時みたいになっちゃう!)


 佐知子はアフマドとの生きていた時の最後の別れを思い出した。

 せめて肉体があるうちに、最後のお別れはちゃんとしよう……佐知子は大きく息を吸い込んで、ぐっと口を引き結ぶ。そして改めてアフマドを見た。


「…………」


 今度は先程の感情はわかなかった。ちゃんとアフマドを見られる。

 しゃがみこんで胸元に白い花を手向ける。


 アフマドを見つめた。つらい。涙がにじんできた。


 顔にはいくつもの切り傷がヨウと同じくあった。乾燥して皮膚がかさかさとしている。死因は知らない。わからない。


 体は布に覆われて、隠れていて見えない。顔は真っ白で頬がこけていた。口は半開きで唇もかさついていて、目は閉じられている。


 黒い緩いウェーブの髪は変わらずそのままだった。左目の下の泣きぼくろも。変わらないものを見ると涙がにじんだ。


 でも、生気はまったくない。顔は白い。いつ亡くなったのかわからないが、もうしばらく経つのだろう……少し異臭がする……。


 生きていた頃のアフマドの姿とはまるで違う姿。死んでしまうとこんな姿になってしまうのか……と、佐知子は思う。


 あふれた涙がぽたりと零れて落ちた。勇気を出してそっと頬に触れた。肌はやはりかさついていて、この暑さなのにぬくもりは当然なく、頬は冷たかった。


(さようなら、アフマドさん……少ししか関わり会えなかったけど、私はあなたのことを忘れません……)


 佐知子は布に包まれた白い頬のこけたアフマドの顔をじっと見つめた。



 記憶にとどめる。

 最後の姿。

 これが、彼との一生の別れ。



「ありがとうございました」


 アイシャにお辞儀をし、涙をぬぐい立ち上がる。

 アイシャは佐知子を見ず、うつむいて泣きながら頷いていた。


 後ろにいたヨウとすれ違う。ヨウは瞳を伏せていた。何となく心情を察し、何も言わず、触れず、そのまま少し離れた所で待つことにした。背後からアイシャの大きな泣き声が聞こえた。


 佐知子には立ち入れない世界だ。



 しばらく離れた所で待つと、ヨウがやってきた。


「埋葬だって……」

「あ、うん!」


 ヨウは暗い面持ちだったが、泣いてはいなかった。


 二人でアフマドの埋葬場所の前へと行く。そこにはぽっかりと穴が空いていた。人、一人が入れる分の。


 みんなに囲まれながら、アフマドの布に包まれた体が穴へと運ばれる。アイシャは泣き叫んでいた。その声もあり、佐知子も次から次へと涙があふれる。


 初めての身近な人……と、呼んでいいかわからないが……身近な人と呼びたい人の死だった。


 ついこの間まで生きていた人が、死ぬ……亡くなる。

 佐知子には死ぬという言葉さえ使えなくなる心境の変化だった。死んだという言葉が死者に対して失礼な気がして、なんとなく『亡くなる』とう言葉を使いたくなる……アフマドの死は、そんな心境の変化までもを佐知子にもたらした。


 アフマドの体に、土がかけられる。どんどん土がかけられる……体が……顔が……見えなくなる……。


「っ……」


 アイシャはずっと泣いていた。泣き叫んでいた。アフマド、アフマドと泣き叫び、乾いた地べたにしゃがみこみ、大声で泣いていた。


 旦那を亡くし、母子二人で生きてきたのに、ここまで育てた息子までもを失くしたのだ……当然だろう。


 佐知子も拭っても拭っても涙が止まらない。もう、拭うのをやめた。

 人の死は、こんなにも辛いのかと痛感した。



 戦争の悲惨さを痛感した、一番の日だったかもしれない――。



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