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ウーシ・カヤーニ興亡記  作者: 野口 寿馬
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都市国家ウーシ・カヤーニの確立

【第2章 都市国家ウーシ・カヤーニの確立】

 ウーシ・カヤーニ島は面積412平方kmの円形の島である。最高標高1825mでほぼ全域が山地であり、平地はわずかしかない。海からの風が山地にあたり雨を降らすので、乾燥がちなヴィオツィア地方において例外的に雨量が多い島である。大部分が花崗岩でできており、全体的に土壌のミネラルが少なく、平地が少ないことと合わせ農業には不向きである。標高の低い場所は温暖だが、山頂付近の冬季の平均気温は氷点下となり、雪も多い。この雪が川となり、3つに集約されて海に注いでいるが、水量は豊富であり、水質も良好である。川は概ね急峻であり、ライノはその高低差を水力発電に利用すべきと主張したのである。また石炭の鉱山の存在が知られており、これもライノがウーシ・カヤーニを新たな拠点に選んだ理由であった。

 都市ウーシ・カヤーニはウーシ・カヤーニ島の南部に位置しており、背後にはすぐ山地が迫っている、海際のわずかな平地に設けられた海港都市である。風を防ぐ地形ではないので、強い南風の日には出航出来なくなるという大きな不利益はあるが、ウーシ・カヤーニ島の海岸線は港の造成ができない崖が多く、大型船が寄港できる島唯一の港として、サピエンス時代にはそれなりに繁栄していた。ウーシ・カヤーニ島はヴィオツィア海のほぼ中心であり、水と食料の補給のために寄港する船も多かった。


 都市ウーシ・カヤーニの新たな主人となった119人のアンデルスは、2305年4月28日、都市国家ウーシ・カヤーニの成立を宣言した。


 幸いなことに成立直後のウーシ・カヤーニには、ボズジャの住民が放置していった、119人の当面の糊口を凌ぐに充分な小麦があり、食料確保以外の事業に労力を費やすことができた。

 まず最初に行ったのは、全住民を3分割して、島の制覇を行うことであった。

 ウーシ・カヤーニ島の住民は都市ボズジャに集中しており、それ以外のサピエンスの全ての村落は平地である海沿いに存在していたので、1隊を都市防衛に残し、1隊は東回りで、もう1隊は西回りで海から制覇行を行った。

 村落は大きくても100人程度であり、都市ボズジャ陥落の情報に接し島を出た者も多かったので、火器で武装したアンデルスとは戦闘にもならなかった。アンデルスの勧告に従いわずかな物資を船に積んで、ウーシ・カヤーニ島を出たのであった。

 こうして島を半周したところで合流した2隊は揃って都市に帰還した。サピエンスが遺棄した食料と鉄製品を満載しての帰還であった。要した期間は1か月だった。

 この間、都市防衛に残った隊もただ留守番していた訳ではなく、高炉と硝石の製造に取りかかっていた。


 食料や日用品を略奪により得るという方針を定めた以上、それを可能にする軍事力が必須である。だが、この時点では火器に必要な鉄と火薬を製造できず、次の課題はそれらの確保だった。

 ウーシ・カヤーニは、再度住民を3分割した。

 黒色火薬の材料は硝石、硫黄及び木炭である。

 カヤーニ時代には家畜の糞便から黒色火薬の原料となる硝石を製造していたが、ウーシ・カヤーニでは家畜の飼育を行わなかったので、原料が不足していたし、糞便から硝石を製造するには時間がかかった。そのため家屋の床下の土から硝石を製造する古土法という方法を用いた。乾いた土の表層には細菌由来の硝酸カルシウムが存在しており、この土から水で硝酸カルシウムを溶出し、溶出液に木灰汁(炭酸カリウム)を加えて硝酸カリウムを生成した後に濾過し、これを撹拌等をせず静置すると硝酸カリウムの結晶を取り出すことができる。この結晶が硝石である。

 古土法はアンデルス世界では古くから行われていた硝石製造法であり、牧畜を行わない経済体制を指向した時点から、古土法で硝石を製造するという方針は決まっていた。

 カヤーニは火山活動が盛んな地域であり、硫黄は豊富に存在していた。そのことから、ライノらは硫黄はウーシ・カヤーニ島でも容易に見つかると考えていた節がある。しかしウーシ・カヤーニ島は海底でゆっくり冷えたマグマが巨大な花崗岩の岩塊となり、隆起したことにより形成された島であり、火山活動は無く、硫黄はほとんど産出されない。

 3分割した隊の一つは、2か月をかけて島全体を探索し硫黄を探したが、発見することはできなかった。硫黄の確保はウーシ・カヤーニの最優先課題となった。


 また、他の一隊は水力発電のための適地を探したが、こちらはすぐに見つかった。都市ウーシ・カヤーニからわずか1kmの地点である。カヤーニ時代に水力発電所が設置されていたコリ山は都市カヤーニから22km離れていたことを考えると、極めて近いと言える。出力800kwの自流式水力発電所建設を目指し、早速工事が始まった。


 カヤーニの製鉄は主に電炉が担っていたが、電炉を作るためには電炉と発電機の材料となる鉄が必要であった。

 量は少ないがウーシ・カヤーニ島内で既に砂鉄が発見されており、それを原料に最低限の鉄を作ることとなった。

 そこで残留隊は砂鉄から銑鉄を作る原始的な木炭を燃料とする土製の炉と、銑鉄を鋼鉄に加工する反射炉の建設に取りかかり、2か月でこれらは完成した。


 こうして建国から6か月後の2305年10月には、1トン規模の電炉から最初の銑鉄を取り出すことができた。

 このように短期間で電炉を稼働させることができたのは、発電機に必要な磁石と、電炉に必要な黒鉛の電極をカヤーニから持ち出していたためである。

 これらはイオルコスに電炉を作るために運びこまれていたものであった。

 特に黒鉛電極があったことは大きな助けとなった。人造黒鉛を製造するためには3000度近い高温が必要であり、人造黒鉛自体も電炉で製造されてきた。従って電炉が無い所では黒鉛電極が用意できず、工業生産の実務に耐え得る電炉を作るのは困難だったであろう。


 さて、水力発電所と電炉の建設に平行して、予定されていた略奪行動も開始された。

 この時点での略奪行動の主目的はたんぱく源と硫黄の確保だった。


 略奪行動を開始した時点では、小麦粉の備蓄は充分あった。また野菜については小規模ながら栽培を開始しており、成長の早い葉物野菜などは既に収穫できていた。

 一方たんぱく質は不足していた。ボズジャ島のサピエンスは魚介類を主なたんぱく源としておりサピエンスを追放した時点で魚の干物を得ていたが、それも尽きており、慣れない漁や島内探索の際に偶発的に得られる小動物の肉がわずかなたんぱく源だった。サピエンスと比べて筋肉量が多いアンデルスには全く足りなかった。

 余談ではあるが、海のないカヤーニで育った当時のウーシ・カヤーニの人々は、牛肉を始めとした肉食に慣れていたため、魚介類は美味しく感じなかったという、肉食を懐かしむ手記が多く残っている。

 ウーシ・カヤーニ建国の8年前から水銀血圧計が実用化されたことにともない、健診の際に血圧測定がされていたが、生臭い魚を何とか食べるため、こればかりは豊富に得られるようになった塩を大量に使用して味付けしたので、血圧の平均値が大幅に高くなったという記録も残っている。

 当時のヴィオツィア地方では、食肉といえば豚肉であった。カヤーニでは牛肉と若干の馬肉を食しており、豚肉には慣れていなかったが、豚でも良いので確保したいという意向であった。


 ライノの提案により、初めての島外略奪行動の行き先は、ウーシ・カヤーニ島から北東約30kmに位置するカステロリゾ島と決まった。火山島であり、硫黄が存在する可能性が高いこと、島には人口が集中する都市がなく組織的な抵抗が少ないと思われることが、カステロリゾ島を選んだ理由だった。


 ウーシ・カヤーニでは、島外での略奪行動は共通語で「ツオタントトイミンタ」と言われていた。これは「生産活動」という意味である。農業、畜産、鉱業の基盤がないウーシ・カヤーニでは、略奪行動こそが本来の生産活動であるという意思表示であったのかもしれない。


 さて、初めての生産活動を率いたのは、陸上の軍事行動と同じくリクハルドであった。また、ウーシ・カヤーニには女性が不足していたため、もし全滅しても出産と人口維持が可能なように、一行は全て男性で構成された。

 イオルコスから乗ってきた帆船のうちの1隻に35人が乗り込み、2305年8月6日に出航した。この帆船はイレーヌ号と言い、もともとは商船であり、船速を上げるには不適な丸型は、大量の荷物を積むには最適であった。この船に物資を満載して帰港することが期待されていた。

 余談ではあるが、イレーヌ号という名称はイオルコス人の元の所有者がつけたものであり、ウーシ・カヤーニの所有になってもそのままの名前で呼ばれていた。後年のウーシ・カヤーニ人はサピエンスから強奪した船には共通語の船名をつけ直すようになるが、まだこの時期は船に対し命名するほどの愛着がないということ、つまりまだ内陸国の意識が抜けきれていないということかもしれない。

 さて、午前8時に出航したイレーヌ号は、航海に適した8月らしい好天に恵まれ午後4時にはカステロリゾ島から約5kmの無人島の島影に投錨し、翌8月7日の午前10時頃カステロリゾ島に上陸した。

 島の西部の砂浜に上陸したのは22人、攻城や激しい戦闘は予定されていないため、重火器は船に置いての上陸であった。


 カステロリゾ島は面積32平方kmの火山島であり、火山性の土壌で耕作には適していない、漁業と牧畜を主産業とする貧しい島である。一応都市国家クサンティに属してはいるが、実際には市民権の行使である参戦もしたことがないという島であり、統治が行き届いている訳ではなかった。

 当時の人口を表す資料はないが、島には海沿いに50人程度の集落が少なくとも2つはあったことがわかっている。

 12時には集落の一つに到着し、早速数発の弾丸を撃ち込み威嚇した。ボズジャで行ったように弾薬の費消を抑えるため、自主的に退去を促すという意味である。

 カステロリゾ島のように世俗の流れと無関係の島にも、ボズジャの島民が追放された話は伝わっており、アンデルスの襲撃であると判明するとすぐに集落から退去した。

 このため双方被害者なしで集落は略奪された。

 とはいえ、この日の生産活動は成功とは言い難かった。上陸の際に弓射や投石を受けることを警戒して、集落への道もない離れた場所に上陸したため、少量の物資しかイレーヌ号に運べなかったためである。また馬を連れていなかったことも、運搬の困難さの理由であった。この日の成果は、豚3頭、小麦粉150kg、硝石採取用の床下の土50kgのみであった。さらに残念だったのは、集落民が農耕用の牛を連れて逃亡したため、カヤーニ人が最も好む牛を得られなかったことだった。

 イレーヌ号に戻った一行は、豚を1頭屠殺し、食べた。久方ぶりの肉であり、喜びを記載した日記が多く残されている。またアンデルスらしい几帳面さで、公的な記録も残っている。

 この時に解体した豚の体重は120kgであった。カヤーニでは豚の飼育は行っていなかったので猪の解体経験者が解体したが、120kgの豚からは少なくとも85kgの食肉を得られるところ、食肉として取り出せた部分は61kgのみであった。初めての豚の解体に困惑しながら解体したことが想像できる。この日は28kgを食べ、残りは塩蔵した。一人あたり800gを食べた計算である。


 翌日も同様に離れた地点に上陸し、集落に入った。集落には数人のサピエンスが戻っていたが、アンデルスの姿を見ると、直ちに逃亡した。

 抵抗がないことを確認した後、信号弾で沖のイレーヌ号にそれを伝えると、イレーヌ号は集落近くに移動し、複数の上陸艇を集落の船着き場接岸させた。そして、残された物資を上陸艇に積み込み、無事にイレーヌ号に運ぶことができた。

 この日は、豚12頭、鉄スクラップ150kg、土20kgに加え、食用油、塩、魚醤、干魚を少々得た。生産活動として最低限の目標は達成したと言える成果だった。


 カステロリゾ島での3日目は、全体を3隊に分割し、1隊は硫黄を探しに噴気孔を目指し、1隊は主に鉱物資源を探索し、残りの1隊は留守役として船に戻った。


 噴気孔を目指した隊だが、噴気が海から見えたため、目的地は明確だった。概ね海岸から1・5kmの地点であり、近くに上陸し、噴気孔を目指した。この隊を率いたのはリクハルドであった。

 噴気孔からは有毒な硫化水素ガスが噴出されている可能性があり、未調査の噴気孔に近づくことは危険である。カヤーニ時代は噴気孔や火口の調査は、拐ってきたサピエンスにさせていた。しかし、今回はサピエンスの奴隷がいなかったので、ウーシ・カヤーニ人が調査をせざるを得なかった。

 上陸地点から目的の噴気孔までは道がなく、下草を払いながら半日かけてたどり着いた。幸い硫化水素ガスを噴出しない噴気孔だったが、期待した程の硫黄の沈着はなく、250gしか硫黄の採取が出来なかった。これは黒色火薬約1000gの原料となる量であり、カヤーニの歩兵銃の弾丸約500発分にあたる。砲の弾薬とするには全く足りないが、最低限の硫黄は確保出来たと言える。

 鉱物資源の探索に向かった隊の主な目的は、火山由来の銅及び鉛(並びに副産物である亜鉛)を目的としていたが、これらを発見することはできなかった。


 イレーヌ号は夕方には両隊を回収し、その日の夜はカステロリゾ島沖に停泊し、翌日ウーシ・カヤーニに向かい、順風に恵まれその日のうちにウーシ・カヤーニに到着してた。


 この生産活動の成果は小さなものだったが、試験としては及第点だった。特に海沿いの集落を目標とし、集落近くに母船を停泊させ、集落から直接母船に物資を運搬するという方法は、以後も同様に繰り返された。

 この試験の後、基本的には常に船を出し継続的に生産活動を行うようになった。

 主にウーシ・カヤーニ島から半径50km

以内の海沿いの集落を目標とし、小麦、家畜、干魚、調味料、酒類などの食料と鉄や銅などの金属製品、硝石採取用の土などの資源を略奪した。なお硝石採取用の土は、いったん採取すると数年は採取出来ないので、しばらくは同じ集落を襲わなかった。このためサピエンスの集落は過度に略奪されることがなく、これが生産活動の継続性につながった。


 最低限の物資及び食料確保の目処がたった後、ウーシ・カヤーニが解決に乗り出したのは人口問題であった。

 一般に、アンデルスの文明を維持するためには300名の人口が必要だと言われている。

 建国当初のウーシ・カヤーニは119名のみである上、16歳未満の子供はカヤーニ陥落時に全員死亡しており、ひどく人口構成がいびつで、将来を担う人材が不足していた。しかもヨーテポリとの戦闘で女性からなる騎兵が壊滅的被害を受けた影響で、出産に適した年齢の女性は僅か18名しかいなかった。さらにアンデルスの妊娠期間はサピエンスより長い15か月で、再度の妊娠が可能になるまでにおよそ3年が必要である。しかもアンデルスはサピエンスに比べて妊娠しにくい。

 分配官の試算では、300名に達するには人口増が順調に推移しても数世代かかり、カヤーニ時代の高度な技術を後世に継承することは難しいと思われた。

 そこでウーシ・カヤーニの住民集会はサピエンスの女性を拐い、ハーフの子供を産ませることを決定した。アンデルスとサピエンスは子をなすことはできるが、生まれた子供には生殖能力がない。そのため、ハーフがさらに子を産み人口を増やすことはできない。ハーフは純血のアンデルスが増えるまでの、いわばピンチヒッターであった。

 しかし、これはなかなかの難事であった。

 生産活動の際には銃撃や船からの砲撃を行い、サピエンスを避難させたうえで無人の集落から物資を収奪する方法が基本であった。ただしこの方法では物資を得ることはできても女性を拐うことはできない。

 女性を目標とした初回の生産活動の際は、集落から避難したサピエンスを丸2日追跡したが、地の利がある地元住民を捕捉することはできなかった。

 2回目は、銃撃等での警告をせずに奇襲をしたところ、住民と戦闘になり、サピエンスからの投石による負傷者を出した挙げ句、戦闘の間に女性が避難してしまい失敗した。

 3回目は通常の倍以上の48名で集落を包囲した上で戦闘を行い、2名の適齢の女性を捕獲し、体格と眉目の優れた1名をウーシ・カヤーニに連れ帰ったが、健康診断の結果、赤痢に罹患している疑いかあり、直ちに小舟で沖に流された。


 4回目でやっと健康で適格のあるサピエンス女性1名の確保に成功した。この女性はヒッパルキアという名前であり、ウーシ・カヤーニに連れてこられた時点では18歳。漁師の娘であり、最初の健康診断の際の身長は162cm、体重は45kgであった。当時のヴィオツィア地方のサピエンス女性の平均身長は150cm台前半と言われているので、ヒッパルキアはやせ形ではあったが、身長は高く、アンデルスの体格に近かった。

 ヒッパルキアはひどく南方訛りのヴィオツィア語を話しており、イオルコス周辺の言葉しか話せないウーシ・カヤーニの中のヴィオツィア語話者との会話には苦労した。ただヒッパルキアは賢い女性であったようで、素早く環境に適応し、共通語も速やかに覚えた。

 彼女は次々に妊娠し、生涯で8人の子をなし、ウーシ・カヤーニの期待どおりの成果を挙げた。


 こうして、物資の略奪、鉱物資源の探索及び女性の誘拐という、初期ウーシ・カヤーニの生産活動が確立されていった。


 前記のようにウーシ・カヤーニはヴィオツィア海南部を中心に活発な活動を行ったが、都市国家との全面的な軍事対決は避けていた。それは、海戦に関する自信がなかったということと、硫黄の不足により黒色火薬の生産量が少なく、弾薬を節約する必要があったためである。

 ウーシ・カヤーニの船は、望遠鏡によりサピエンスの艦船を常に警戒しており、軍船である櫂船を早期に発見し、遭遇を回避していた。

 この時期のウーシ・カヤーニは決して海上の強者ではなかった。カヤーニ戦役でヴィオツィア一の海軍国であるイオルコスが打撃を受けておりウーシ・カヤーニに手を出せない状態であったが、もしイオルコスが海軍力を総動員してウーシ・カヤーニを海上封鎖したとすれば、ウーシ・カヤーニの軍船はこれを突破することができず、南海で干上がったことだろう。

 この状態に変化が生じたのは、建国の翌年2306年8月であった。鉱物資源の探索中にウーシ・カヤーニの南方約40kmにある漁村スース付近に大規模な硫黄の露頭を発見した。


 スースは島ではなく南部大陸の北端に位置しており、都市国家トズールの領有であった。人口80人程度で、特段の防御施設もない、漁業を主産業とする寒村であった。


 きっかけは、現地民が干しイチジクの変色を防ぐため、硫黄で燻蒸しているのを、探索隊が目撃したことであった。

 探索隊はその場で燻蒸していた現地民を捕獲し、硫黄の入手方法を尋問したところ、スースから内陸にわずか3.5kmの地点で拾えるとのことであったので、即座に案内させて該当地点に向かった。

 すると長さ500mに渡って露頭する大量の硫黄を発見した。これは2259年のスース火山の噴火の際に噴出した溶解硫黄と推測されている。後にウーシ・カヤーニは当地の硫黄資源量を約5万トンと推測しており、少人数のウーシ・カヤーニではとても消費尽くせない量であった。

 探索隊は硫黄発見後、案内した現地民を殺害し、遺体を隠したうえで、いったんウーシ・カヤーニに引き揚げた。そしてその1週間後、2隻に分譲した51人のウーシ・カヤーニ人がスースに再来し、生産活動を行った。

 スースでの生産活動は、事前に秘密裏に上陸させた陸上部隊と艦が同時に発砲し、スースのサピエンスの壊滅を狙ったものであった。スースの住民は半数は死亡し、残りは逃げた。そしてウーシ・カヤーニはスースを占領した。

 占領後は、15人で硫黄の採掘に行き、残りの者はスースの周囲を囲む壁を作り始めた。ウーシ・カヤーニの意図は明らかにスースの恒久的な占領であった。

 スースの漁港は縦深は浅いが湾になっており、ある程度の風を防ぐことができたため、硫黄の確保と積み出しのための拠点とする意図だった。

 ウーシ・カヤーニは海に面する北側を除くスースの周囲150mに、高さ2mのコンクリート製の壁を作りはじめた。そして、壁の外周100mの木を伐採し、見晴らしを確保した。これらの工事は1か月で完了し、壁上のレールに虎の子の機関銃2門を設置して、要塞化が完了した。

 このスースから硫黄を定期的にウーシ・カヤーニに運び出すことにより、黒色火薬、ひいては弾薬について最低限の量を確保できる体制が整い、周辺のサピエンス国家との交戦が可能になった。また硫黄の確保ができた結果、黒色火薬製造のボトルネックは硝石の生産量となった。


 ウーシ・カヤーニ成立後の初めての本格的な交戦は、スース占領の翌年2308年3月にスースを領有するトズール王国との間で起こった。

 トズールはヴィオツィア人国家ではない。西方から移住してきた、セムナーン人により設立された国家である。言語もセムナーン系であり、生活様式もヴィオツィアの影響を強く受けてはいるが、やはりセムナーン様式であるといえる。

 当時の王は9歳のショクリ・ブルギーバであったが、実際の政治は王母のマジュドゥーリーンが行っていた。彼女は先王の死の翌日に先妻の子を殺し、当時3才だった自分の息子のショクリを王位につけ、自ら兵を率いて反対する貴族連合を打ち破った女傑だった。また、セムナーン語の地方語であるトズール語、セムナーン語、ヴィオツィア語を自在に操り、その美貌も合わせて国内外の社交界でも活躍し、それまで対立することが多かったヴィオツィア諸国家と通商協定を締結し、南部大陸内陸部の物産の販路を開拓し、ヴィオツィアからは後進国と見られていたトズールを豊かな国に引き揚げた人物でもあった。

 トズール近辺からアンデルスが追いやられて既に1000年が経過しており、トズール人はアンデルスを見たことがなく知見もなかった。ただ、マジュドゥーリーンはヴィオツィア諸国家の要人と親しく、カヤーニ戦役も、ウーシ・カヤーニ成立後の動きも把握していた。

 スースが占領されてもすぐにトズール軍が動かなかったのは、ウーシ・カヤーニは軍を進めても略奪をするのみで、すぐに引き揚げると思っていたからであった。ヴィオツィア最強のイオルコスですら一時は首都を明け渡さざるを得なかったウーシ・カヤーニ軍とは交戦したくないというのが本音であった。

 ところが冬になってもウーシ・カヤーニは退去しないどころか、スースに城壁を建設し、恒久的な拠点を作るようであった。この段で、放っておいてもいずれ退去するという希望的観測は放棄せざるを得ず、ウーシ・カヤーニを軍事力で追い出すことを決定した。

 マジュドゥーリーンは自らが戦場に立つスタイルの指導者であったが、この時は国内有力貴族の子を妊娠しており、部下の将軍がスース奪回の責任者となった。この際の将軍の氏名は伝わっていないが、トズールの慣習から、国内の上級貴族だったと思われる。

 トズールは傭兵を主力とする2000人程度の兵を動員する国力があったが、スースに向かったのは500人程度であった。軍を編成した将軍は、わずか周囲150mの、わずか高さ2mの寒村の城壁と侮ったのであろう。

 

 スース攻防戦について、トズール側の記録は少なく、歴史はほとんどウーシ・カヤーニ側の資料で判明することのみで記されている。とはいえ、少なくとも戦場での事態の変遷について、いつの時もアンデルスの資料は出来うる限り客観的である。

 トズール軍がスースに到着したのは、2308年3月15日の午後3時15分であった。

 トズール軍は戦術もなく、縦列に進軍してきたままの態勢で、スースに到着した者から順に城壁に向かって走り出した。戦場に行くと言うより、略奪に行くという感覚であり、少しでも多くの略奪品を得たいという動機による行動であったのであろう。

 これには防衛側も驚いた。この時期のスースには偵察体制が整っておらず、城壁から100mの地点に敵が現れるまで気が付かなかったのである。スースの城壁にいた防衛隊はわずか10人。本来であれば、敵が接近したら信号弾で敵の方角及び人数をスース中に知らせる規則であったがその暇も無く、城内のアンデルスは機関銃の音により交戦していることに気が付いた。

 トズール軍は真南から投石しながら城壁に接近してきた。2台の機関銃が稼働する前に既に10人程のトズール兵が城壁に接近し、機関銃の死角に入っていた。

 機関銃の操作には各2人が必要であり、接近した敵に対応できるのは6人のみであった。接近し城壁を登ろうとするトズール兵に対し、防衛隊は歩兵銃と擲弾で対応したが、5人のトズール兵が城壁上にたどり着いた。

 そのトズール兵を東西の城壁上から歩兵銃で射撃し、5人全てを射殺することができたが、反対側の味方に当たり、防衛隊も2人が死亡した。これは、イオルコスを出発してから初めての戦死者であった。

 ただし、幸いなことに城壁上での混乱にも関わらず2台の機関銃は絶え間無く稼働し、後続のトズール兵を寄せ付けず、死体の山を作り続けた。

 トズール軍の突進は20分程続いたが、城内のウーシ・カヤーニ軍が城壁上に参戦したこともあり、城壁に取りつけるトズール兵は皆無であった。

 トズール軍は後退し、そのまま夜を迎え、ウーシ・カヤーニ軍は全員が城壁上で休息をとった。

 翌朝、敵軍の気配が感じられなかったため、ウーシ・カヤーニ軍から偵察隊を出したところ、トズール軍は同士討ちをした様子であり、多数の鎧兜を剥がされた死体があったが、軍の姿は見えなかった。

 当時のウーシ・カヤーニ軍にはわかりようもないことであったが、翌日の再戦を命じられた傭兵隊がそれを拒否したところ、その場で傭兵隊長が将軍に切り殺され、それを契機に傭兵の反乱が起き、正規軍と傭兵との間で戦闘が行われたのであった。そして数少ない正規軍は逃げた数人以外は全員殺され、身ぐるみ剥がされたという顛末であった。

 こうして、スース攻防戦は呆気なく終息した。

 戦後ウーシ・カヤーニ軍が調査したところ、初日の戦闘で死亡したトズール軍は78人、その後の反乱で死亡したトズール軍は81人であった。


 スース防衛に成功したとはいえ、人的資源が不足するウーシ・カヤーニにとって、2人が死亡するというのは痛手であった。これを契機に城壁の外に有刺鉄線付きの空堀が造成され、防衛体制が強化された。


 トズール側の影響は更に大きかった。

 これを契機と見た不平貴族が先王の弟を担ぎ出し、トズール南東部で独立を宣言する騒ぎが起こった。これは早急に鎮圧されたが、トズール軍の戦力は減退し、マジュドゥーリーンは独力でのスース奪還を諦めざるを得なくなった。

 その後、出産を終えたマジュドゥーリーンは有力な海軍を持つイオルコス及びプレヴェザの議会で、海からスースを攻めるように要請をしたが成果はなく、失意のうちに帰国することとなった。

 こうして、ウーシ・カヤーニによるスース支配が確定した。


 スース支配によって硫黄の安定供給が実現したことにより、弾薬の生産が安定した影響は大きかった。

 2309年4月に行われたトラーパニへの砲撃も弾薬の安定生産あってのものであったのであろう。

 ウーシ・カヤーニ人に限らず、アンデルスは概ね半径50kmを自分達の領域と考え、その範囲で他国の軍が行動することを容認しない。これは、我々サピエンスと比べてコミュニティの構成人数が圧倒的に少なく人口が都市に集中しているアンデルス国家は、敵性軍事力の接近を察知することが難しく、都市が奇襲を受ければ容易に住民が全滅してしまうという危機感から、自分達以外の集団の接近自体を極度に忌避するという本能的な行動である。

 ウーシ・カヤーニ人も同様の行動様式を持っていたが、建国直後は弾薬の不足により半径50km以内に軍が侵入しても、それに対応する軍事力がなかった。しかしスース占領後は残弾の心配なく軍事行動を起こすことができるようになった。

 この最初の犠牲になったのが、ヴィオツィア人国家のトラーパニ王国であり、両国の交戦がトラーパニの戦いである。


 トラーパニ王国はウーシ・カヤーニ西北のカヴァラ半島に位置し、首都トラーパニはトラーパニ山の麓に位置していた。半島に位置し海に接してはいたが、海岸線は典型的な断層海岸で港を作るには不向きであり、三段櫂船は保有していなかった。

 また、同国は世襲の王と貴族により政事が行われており、王は神事と神託を司り、軍事は貴族が担っていた。トラーパニ軍の特徴は、ヴィオツィア諸国家には珍しく騎兵を主力とすることであり、軍事行動を起こす際は歩騎が1対1の割合で軍が編成されるのが常であった。


 さて、きっかけはウーシ・カヤーニから直線距離で40kmの地点にあるトラーパニ領のスオラーという村であった。スオラーというのはアンデルスの共通語で塩という意味であり、ヴィオツィア語の村名は不明である。

 スオラーは2308年に生産活動の被害を受け、それを理由として国へ直接税の納付をしなかった。トラーパニは騎兵を維持するため、住民に重税を課す国家であった。

 おそらく納税を怠った罰として、トラーパニ軍はスオラーを襲い、略奪を行った。ウーシ・カヤーニは、自らの生存圏と位置付ける半径50km以内で他国の軍が軍事行動を起こしたことを問題視し、これに対し報復をすることとした。

 報復が決定されたウーシ・カヤーニの住民集会では、サピエンスのように大義名分が語られることはなく、この報復の合理性について議論された。各国海軍はウーシ・カヤーニ近海でも敵対国の商船への海賊行為を行っており、ウーシ・カヤーニの生存圏内での他国の軍事行動は今回が初めてではないが、このタイミングで報復が決定された理由について、議事録は以下のように記録している。

 ・弾薬生産による継戦能力の獲得

 ・他のサピエンス国家に対し半径50km以内での軍事行動を許容しないという表明する必要性

 ・トラーパニ軍は強すぎず弱すぎず、前記表明と交戦するに適切であること

 ・トラーパニが加盟する半島同盟は比較的海上戦力が乏しく、同盟としてウーシ・カヤーニに反撃してきても対応可能であること


 そして、同集会ではリクハルドを司令官とする55人が、野砲1門、機関銃1門を擁し出撃し、都市トラーパニを砲撃して威嚇することが目標と決定された。


 リクハルド率いる2隻がトラーパニ領に上陸したのは2309年4月2日であった。そして上陸箇所は首都トラーパニから約20km離れた小さな砂浜であった。

 リクハルドは本軍事行動が住民集会で決定されるより前から、トラーパニの海岸線を入念に見てまわり、この砂浜を上陸地点の第一候補とすることを想定していた。

 本来であれば、野砲、機関銃及びそれらを牽引する馬を上陸させるには本船を直接横付けできる港が適していたが、港を占拠した上で野砲等を上陸させると、ウーシ・カヤーニ来襲の報が伝わり、トラーパニ軍集結を許すことになると考えた。そのため、あえて遠浅で本船が近付けない無人の砂浜を上陸地点に選んだのであった。

 リクハルドは本作戦一の難関はこの上陸作業だと考えていた。

 まず浜に土嚢で簡易な岸壁を造成した後、野砲等を上陸艇に積み替え着岸させる訓練を繰り返した。また、船には人力クレーンを取り付け、積み替えについては特に入念に訓練がされた。

 なお、本作戦では10頭の馬を上陸させている。カヤーニ時代であれば、野砲とガトリング砲を各1門牽引するのであれば、多くても7頭で充分であった。おそらく、この時点ですでにカヤーニ特有の大型な馬は運用されておらず、当時のヴィオツィア地方で一般的な小型馬が運用されていたと考えられる。

 

 訓練の成果か、上陸は問題なく完了し、都市トラーパニへの進軍を開始した。トラーパニ領域は全体として、起伏が少ない平らな土地であり、雨が少ないため森林は少なく、草原が国土の大部分を占めていた。この好条件のためか、街道の無い土地の進軍だったが、ウーシ・カヤーニの規定通り1日25kmの速度で進軍できた。

 そして1日半進軍しトラーパニの城壁が見える距離まで近付いた地点でトラーパニ軍と接触した。トラーパニの戦いである。

 トラーパニ軍は騎兵50騎であり、騎兵は各1人の歩兵を従えるのが慣例であるため、同数の歩兵が同行し、総数は100人程度と思われる。これはトラーパニ軍の総力の4分の1でしかなかった。トラーパニの軍事力を担う貴族の多くは同時に大規模土地所有者であり、平時は自分の経営する牧場にいることが多く、集結できなかったのである。

 これに対し、ウーシ・カヤーニ軍は砲兵を含め、41人だった。そしてウーシ・カヤーニ軍は会敵時にはすでに2列横隊の陣形をとっていた。

 戦闘が始まったのは午後1時30分であった。


 横1列に並ぶウーシ・カヤーニ軍に対し、トラーパニ軍は歩兵を中央に、騎兵を両翼に配置した。そして、双方の距離が200m程度まで近づいた時点で、戦端が開かれた。

 トラーパニ軍は歩兵を前進させず、騎兵のみを動かした。騎兵は両翼から大きく迂回し、ウーシ・カヤーニ軍を横から攻撃することを試みた。これはトラーパニ軍が多くの戦場で行った、定番の戦術である。

 これに対しリクハルドは、中央の歩兵を若干前進させ、凸型となった。敵中央が薄く前進意欲が少ないため、前方に火力を集中させる横隊を崩し、横方向への死兵が生じない陣形に変化させたのである。ウーシ・カヤーニ軍はトラーパニの戦いでは伝令は置かず、リクハルド自らが吹くラッパによってこれらの指揮が行われた。

 余談ではあるが、後年サピエンスの軍が信号ラッパを導入した際、最も短い突撃ラッパでも1フレーズ4秒だったが、ウーシ・カヤーニの信号ラッパは2秒程度であった。この2秒という数値は、多くの実験により結論された、アンデルスが伝令意図を正確に理解できる最短時間であり、原則として2回繰り返すので、実際の演奏時間は4秒であった。ラッパ手を置かず指揮官自らがラッパを吹くことができたのは、この短い秒数のためであった。ちなみに同様の実験をサピエンスが行ったことがあったが、2秒では多くの場合は信号意図を理解できなかった。これは、サピエンスに比べてアンデルスの方が、耳から入った音声情報を脳で理解するのに要する時間が短いためと思われる。

 さてこの時のリクハルドの指揮は、敵騎兵の機動に合わせてラッパの音により軍を有機的に動かし、迂回を試みる両翼の敵に対し、常に銃口を集中させる素晴らしいものだったと言われている。大きく迂回した騎兵がウーシ・カヤーニ軍の有効射程に入れば、大きな被害を出したであろう。ただし、実際にはそうはならなかった。

 銃声に驚いた馬が暴れだし、統制を崩し、落馬する者が続出したためである。これにより、騎兵は戦う前から壊走した。トラーパニ軍はケミの戦いのイオルコス騎兵から教訓を得なかったようである。

 騎兵の壊滅を見た歩兵は、戦線を維持しようとせず、都市に向けて無秩序に逃げ出した。

 こうしてトラーパニの戦いはわずか30分で決着した。

 なお、都市に向かったトラーパニ歩兵に対し、守兵は門扉を開かなかった。このためトラーパニ歩兵はゆっくり追撃してきたウーシ・カヤーニ軍に捕捉され、多くの者が死亡した。

 なおトラーパニ歩兵は貴族の子弟で構成されており、これらを見殺しにした王に対し貴族の反感が募り、2311年の革命の遠因となったと言われている。


 トラーパニ軍を破ったウーシ・カヤーニ軍は、南西の城門前に布陣し、門への砲撃を開始した。そして9発を門に撃ち込み、これを完全に破壊した。

 トラーパニの住民はこの様子を城壁上で鈴なりになって見ていたが、門が破壊される様子を見て混乱状態に陥り、我先に他の城門から脱出を図った。この際に城壁から降りる階段で雪崩状に転倒する事故が発生し、多くの住民が死亡した。

 この間にも、王は勝利の神託を得たとして住民を鼓舞していたが、もはや継戦は不可能であった。


 ウーシ・カヤーニ軍の目的は、ウーシ・カヤーニの50km圏内で軍事行動を起こしたトラーパニを威嚇することであり、この目的は完全に達成された。リクハルドは捕虜に対し、再び50km圏内で軍事行動を起こしたら、今度は都市トラーパニを灰塵とするという文書を持たせて解放し、帰国の途についた。

 以後、トラーパニは50km圏内での軍事行動を避けるようになった。


 この結果は周辺国に伝わり、ウーシ・カヤーニの狙いどおり他の国も50km圏内での、少なくとも陸上での軍事行動は行わないようになった。

 この後、50km圏内のサピエンスの集落は、徐々に所属国家への納税を行わなくなり、自治独立していくことになる。


 トラーパニで陸上での強さを見せつけたウーシ・カヤーニだったが、海上では三段櫂船との戦闘を避けていた。この状況が変わったのは、蒸気船の登場が契機であった。

 北洋沿岸のアンデルスの都市国家では既に実用化されていたスクリュー推進の蒸気船を、ウーシ・カヤーニがヴィオティア海で初めて運用したのは、トラーパニの戦いの翌年、2308年だった。

 ウーシ・カヤーニ人はスクリューという概念も、スクリュー推進が外輪推進より優れていることも知っていた。従って活動領域が海となった時点で、蒸気機関の動力をスクリューに伝達して推進する研究を始め、アンデルスの船舶の進化の過程で存在した外輪船は開発しなかった。そして、4年後には帆船をスクリュー推進に改造して運用を開始した。スクリュー推進船は喫水線下に穴を開けそこからスクリューへ動力伝達を行うので、穴から若干の浸水がおきる。ウーシ・カヤーニはこの浸水を完全に防ぐことはできなかったが、蒸気機関を動力とする小型ポンプを開発し、そのポンプにより排水することで、問題を解決した。

 従来の帆船の速度は風に恵まれても4から5ノットであった。一方当時の海戦の主戦力であった三段櫂船の速度は風の有無に関わらず7ノット程度であった。ウーシ・カヤーニの研究では、大砲3門、機関銃1門を装備した建国直後の帆船で対応できる三段櫂船の数は5から10隻程度であり、それを越える数の三段櫂船から衝角攻撃を受けた場合には回避しきれないと結論された。そして乗員が少ないウーシ・カヤーニの船は、蒸気機関による排水設備があることを勘案してもダメージコントロール能力が低く、衝角で喫水線下に穴を開けられた場合には確実に沈没すると考えられた。

 ヴィオツィア海では、100隻の三段櫂船を保有するイオルコスが最大の海軍国家であったが、それ以外にも半島同盟加入の都市国家であるプレヴェザは40隻の三段櫂船を保有していたし、10隻以上の三段櫂船を保有する国家も複数あった。つまりウーシ・カヤーニは火器をヴィオツィア海に持ち込んだとはいえ、神聖海上同盟や半島同盟を刺激することは出来なかったし、海上で三段櫂船群を発見した場合は逃走することしか出来なかった。

 ところが、イオルコスで鹵獲しそのまま使用している積載量120tの帆船を蒸気船に改造したことにより、状況は変わった。この帆船は元々は商船であり、快速性より積載量を重視した比較的丸い形状をしていたにも関わらず、改造後は10ノットで航海することが可能となった。10ノットであれば三段櫂船より速いうえ、蒸気機関は櫂の漕ぎ手と異なり疲れることがないので速力を長時間維持することができ、敵と距離を保ちながら砲撃をすることができるようになった。

 これにより、海上でもウーシ・カヤーニが軍事的優位を得て、周辺海域の支配が確定した。また、イオルコスが国家再建中であったことや、プレヴェザがライバルであるイオルコスに大打撃を与えたウーシ・カヤーニを好意的に見ていたことなど、海軍国家が放置していたがために成り立っていたウーシ・カヤーニが、安定的に存続可能になったということでもあった。


【第2章 完】


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