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ウーシ・カヤーニ興亡記  作者: 野口 寿馬
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都市国家ウーシ・カヤーニの成立

【第1章 都市国家ウーシ・カヤーニの成立】


 完新世暦2304年4月から始まる、ホモ・アンデルス(以下、アンデルスという)の都市国家、カヤーニとホモ・サピエンス(以下、サピエンスという)の都市国家、イオルコスが争ったカヤーニ戦役及びその後のウーシ・カヤーニ成立に関する記述をする前に、アンデルスと当時の情勢を説明する必要がある。


 アンデルスは我々サピエンスと同じヒト属の人類であるが、成人男性の平均身長は195cm、成人女性の平均身長は170cmと背が高く、サピエンスより大きな脳を持ち、肉体的な能力はもとより、複雑な物事を理解する能力、理解するスピード、合理的に考える判断力、現在ある知識や技術を組み合わせて新しいものを創造する能力についてサピエンスより優れている。今日では我々サピエンスも使用している、大陸で氷河が消滅した年を元年とする完新世暦もアンデルスによる発明である。一方、優れた知性ゆえか架空の事象を実在するものと信じる能力に欠けている。アンデルスはその特徴ゆえに架空の行動規範である宗教や法律を共有する他人と団結することが出来ず、実際に会って信頼関係を構築した者としか協力できない。そのため、共同体の人数は500人程度が限度であり、アンデルスはサピエンスに対し常に数的劣位であった。個人ではアンデルスに劣るサピエンスが、ゆっくりにせよアンデルスの居住地域を侵食することができたのは、アンデルスに架空の事象を信じる能力がないためであると考えられる。

 有史以前から、サピエンスはアンデルスの居住地域を徐々に侵食してきたが、完新世暦1800年頃からアンデルスが火器で武装するようになると、サピエンスの数的優位をアンデルスの質的優位が打ち破る場面が多くなってきた。さらにアンデルスの文明が発展すると、生産の効率化による継戦能力の向上と火器の更なる発展を促し、完新世暦2300年頃にはアンデルスの居住地域がサピエンスのそれを侵食して拡大することさえあった。

 アンデルスは、都市人口が500人を越えると政治的な意思決定が難しくなり内紛につながることを歴史上の経験から良く知っており、500人前後の都市はどのように人口を減らすか判断を迫られることになる。この場合、100人程度を都市から出して新たな定住地を探す(この都市から出る者を探索者という)か、都市の全力を尽くして近隣都市を攻略し2つの都市に別れて定住するという選択肢がある。近隣都市の攻略は難しいうえ、防衛が手薄になった隙に母都市を他の都市に占領される可能性がありリスクは高いが、半ば追放するような形になる探索者を選別する政治的決断をすることができず、他都市の攻略を選択することもある。こういった理由により、アンデルスの都市は自然下では徐々に増加する人口の受け入れ先を常に探している、つまり自都市の余剰人口の植民先とするために、常に近隣都市の攻略を狙っている。このためアンデルスの都市はサピエンスと比べて人的資源を軍事部門に割く割合が格段に多い。


 サピエンスの都市国家であるイオルコスは、完新世暦2285年から2295年まで続いた10年戦争を常勝将軍アッピアノスの指導のもとで勝ち抜いたことにより25の都市国家が加入する神聖海上同盟の盟主となっていたが、完新世暦2297年に宗教上のスキャンダルによりアッピアノスを追放してからは政治的に安定しない状況が続いていた。

 都市国家としてのイオルコスは、海港都市イオルコスと周辺地域、合わせて約1900平方km(海外領土を除く)をその領域としていた。都市国家イオルコスは民主政を採用しており、都市イオルコスが3、周辺地域が4、計7の選挙区に別れていた。毎年選挙が行われ、選挙区毎に統治官が選任され、7人の統治官の合議制により政治が行われていた。

 アッピアノスが統治官に当選していた頃は、たびたび軍事的経済的成果があったが、アッピアノス追放後の政治は、アッピアノス時代の成果は維持していたものの、新たな目立つ成果をあげることはなかった。そのため特に都市の選挙区は毎年違う統治官を選任し、政策に一貫性を持つことができなかった。

 民主政国家の政治家は、市民の支持、もっと具体的に言えば票がなければ政治家たることはできない。いかに市民の票を得るかが大命題となるのは制度上の必然である。そのためイオルコスでは以前から全市民への小麦の無料配給という市民に理解しやすい福祉政策が選挙公約に挙がることがあったが、配給を行うためには増税か軍事費の削減が必要であり、主に都市以外から選出された統治官の反対により実現していなかった。都市以外の選挙区の市民は農場主が多く、食の保障には興味を示さなかったためである。


 完新世暦2303年に統治官に当選したクレオン・ガブラスは、カヤーニ領域内のケミ銀鉱床を攻略し、その収益を財源にして配給を行うことを提案した。

 当選前のクレオンの来歴はよくわかっていない。ただ、富裕階級は騎兵として参戦した10年戦争に、クレオンは重装歩兵として参戦していたことから、特別な富裕階級ではないことはわかる。また、当選した時点では30歳代後半であった。10年戦争終結後は福祉派の大物政治家タレスの集会で政策論議に参加していたところ、タレスに鮮やかな弁舌と美しい容姿(イオルコスでは容姿は神から授かったものとされ、政治家には重要な要素だった)を認められ、そのうしろだてで当選したものと思われる。

 当選後のクレオンは都市以外の選挙区を精力的に回り、ケミ銀鉱床の占拠と配給の実現を市民を訴え続けた。

 カヤーニの騎兵は城壁で囲まれた都市に侵入することはなかったが、周辺地域にはたびたび現れ、農具等の鉄資源や塩を略奪していった。人命を奪われることは少なく、カヤーニは塩以外の食糧には興味を示さなかったが、農場主にとって農具を失うことは死活問題であり、周辺地域ではひどく憎まれていた。そのためケミ銀鉱床の占拠は周辺地域の市民の支持も得るようになり、選挙民の動向を受けて、周辺地域選出の統治官もクレオンの提案に賛成するようになった。

 最終的には完新世暦2303年6月に全統治官一致により以下の事項が決定された。

・完新世暦2304年春にケミ銀鉱床に出兵する

・神聖海上同盟諸都市への派兵要請はせずにイオルコスの兵のみを派遣する(加盟都市の領域外に同盟軍を派遣するには全都市会議による議決が必要なため)

・兵力は重装歩兵を主力とする約12000人とする

・総司令官はクレオン及び統治官デモステネスとする

・ケミ銀鉱床の支配が安定化した後に全市民への小麦配給を実施する


 カヤーニ戦役前のイオルコスの推定人口は市民(成人男性)2万人、市民の家族6万人、在留外国人1万人、奴隷6万人の計15万人であり、重装歩兵は市民のみで構成されることを考えると、12000人を派兵するということは、イオルコスの全力を動員した事業であったと言える。

 このように母都市を空けて派兵できるのは、10年戦争の終結及び神聖海上同盟結成と、イオルコスとは常にライバル関係にあった都市国家ピリッポイが完新世暦2303年4月に発生した奴隷の大規模反乱の対応に忙殺されていたことにより、外敵による脅威が相当程度少なくなっていたためであろう。ピリッポイは奴隷の人数が市民及びその家族の10倍にのぼる都市でありしばしば奴隷による反乱が起きたが、完新世暦2303年の反乱奴隷は保有が禁じられている槍で武装していたことから、当時から支援した外部勢力の存在が疑われており、おそらくはクレオンが影で動いたものと思われる。この反乱に加わった奴隷は10000人に及び、キュントス山に立てこもった反乱勢力を鎮圧するのに2年2か月を要した。ピリッポイはカヤーニ戦役の全期間を通じ国内問題にかかりきりになり、イオルコス及び神聖海上同盟諸都市の権益に手を出すことは出来なかった。

 12000人の徴兵については各選挙区ごとに行われ、各選挙区が市民からなる計1600人の重装歩兵及び騎兵並びに傭兵からなる100人の補助兵を集めることで実現された。

 主戦力である重装歩兵は政府から支給された槍、盾、投槍を装備していた。広大な領域を有する国家が存在せず、領域の狭い多数の都市国家からなるヴィオティア地方では、サピエンス国家としては少ない人口を活かすため、戦闘に従事するのは一部の職業軍人のみではなく、市民(参政権を有する者)全員の義務であり権利であった。ヴィオティア地方の重装歩兵は精強なことで有名であったが、特に守勢にまわった際の粘りが強かった。傭兵による軍は少ない被害でも戦列を維持できなくなり崩壊することが多々あったが、市民兵にとって都市は自分の国家でありこれを守るために命を賭して戦う場面も多かった。重装歩兵は自分の前列の兵が倒れた際に、速やかに前列に移動することによって戦列を維持する。前列が倒れた際に命を惜しんで前進しなければ、その穴から戦列が崩壊し、一体となって戦っていた兵が分断され、軍は潰走することになる。

 騎兵は長剣と槍を装備していた。騎兵の装備は馬も含め自弁であり、裕福な市民のみが騎兵として参戦できた。ケミ銀鉱床出征軍12000人のうち騎兵は200人のみであった。また当時のヴィオティア地方には鐙がなかったので馬上で安定した態勢をとることが難しく、イオルコスの騎兵は騎射が出来なかった。このような理由から、イオルコスにとって騎兵は主戦力ではなく、偵察や追撃任務を担うものであった。

 補助兵は外国人からなる傭兵で、弓兵及び投石兵で構成されていた。このうち投石兵は投石紐で石を投げる兵種であり、熟練した者であれば拳大の石を最大300m飛ばすことができ、投石紐を振り回すという特性から密集体型をとることができず主戦力とはなりえなかったが、当時は強力な兵種であった。

 投石は比較的水平に近い軌道でしか石を打ち出すことが出来なかったので、前面に盾を構える重装歩兵の戦列を崩すため、弓なりに射出して上から矢を降らせることができる弓兵と混在して部隊が編成されていた。戦局が不利になると逃亡することが多いうえに、遠隔攻撃であるという特性のため死傷率が低いことから、都市を守る勇気こそが市民の重要な性質であると考えるヴィオティア地方では傭兵は軽蔑されていた。

 単独の人物への権力の集中を嫌う民主政国家らしく、イオルコスでは軍の最高責任者である総司令官を複数名選任することが慣習であった。権力を分散することは民主「主義」としては正しいことであったが、軍事上は指揮系統が一本化されていないということは時代を問わず大きな問題である。

 周辺地域選出であり決して福祉派という訳ではないデモステネスは、クレオンと特に親しかった訳ではなかったが、出兵が決議された後はデモステネス邸でたびたび会食をした。デモステネスはこの際に、表向きは2人の総司令官が存在するが実質は1人が采配をとることをクレオンに提案し、クレオンはこれを了承したと言われている。実際にクレオンの存命中の軍の意思決定はクレオンの一存で決定された。

 イオルコスはこのように軍の編成と指揮系統の一本化を完了し、予定通り完新世暦2304年4月に、国境からわずか10kmの地点にあるケミ銀鉱床に向けて軍を出発させた。カヤーニ領内は都市以外は無人で兵糧の現地調達が期待出来なかったため兵糧を積んだ多くの荷馬車を同行させたこと、アンデルスの習慣どおりカヤーニ領内は道が最低限しか整備されていなかったことから行軍速度は遅かったが、15日で目的地に到着した。

 イオルコス軍がケミ銀鉱床を囲む土塁を完成させた後、イオルコスとカヤーニが激突するケミの戦いが発生することになる。またケミの戦いはこれから続くカヤーニ戦役の最初の戦闘となる。


 アンデルスの都市国家であるカヤーニは、イオルコスの北に位置し、アンデルス居住地域の中で最南の都市である。また標高412mの都市カヤーニを中心とした半径約50kmをその領域とし、領域のほとんどは森林である。

 都市の建物のうち備蓄倉庫と図書館は延焼防止のため石とコンクリートで出来ていたが、それ以外の建物は木造であり、それらが収納されている都市の面積はわずか2平方km程であるが、その周囲は砲撃に耐えるように高さ5m、厚さ5mの低いが堅固なコンクリート製の城壁に囲まれていた。

 カヤーニ領内では石炭の中でも特に良質な無煙炭が地表に露出している箇所があり、そこから露天掘りで得られる石炭が、完新世暦2200年頃から生産現場で実用化された蒸気機関の熱源となった。また石炭はコークスに加工され高炉の燃料ともなった。完新世暦2292年には鉄スクラップから鋼鉄を生産する電気炉が完成し、鋼を大量に錬成することが可能になった。カヤーニ領内では鉄鉱石が産出されないため常に鉄不足の状態であったが、電気炉によりサピエンスから略奪した鉄スクラップを効率良く鋼鉄に精錬することが可能になった。

 カヤーニでは他のアンデルス諸都市と同様に政治を行う役職は存在せず、16歳以上の成人男女全員に参加権がある住民集会で、国家のあらゆる決定がされている。この無駄のないシンプルな政治体制は、人口が多いサピエンスではなし得ないアンデルスの利点である。

 カヤーニには政治家はいないが、分配官と呼ばれる定員2人の行政官がいた。カヤーニの住人は一般的に生涯同じ職業についたが分配官のみは任期が1年であり、軍人の中から抽選で選任され、任期満了後は再度軍人に復職した。分配官の職務は、その名の通り生産物と資源を分配することである。単純に消費物を分配するだけではなく、生産活動に要する資源分配、つまり投入する資源量に比例する生産量も決定することになる複雑な職務だったが、この重要な職務の担当者が抽選により選任され大過なく職務を遂行できたということは、カヤーニの教育水準と知性の高さの証左であろう。ちなみにカヤーニでは、完新世暦1552年時点の建国以来、常に成人の識字率は100%であった。

 カヤーニ戦役前の完新世暦2300年に分配官が作製した人口構成の記録が今日まで残っており、それによると全人口531人の職業別内訳は以下の通りであった。

・農耕従事者  49人

・狩猟採集従事者  6人

・牧畜従事者(牛及び羊) 15人

・牧畜従事者(馬)  4人

・医療従事者  20人

・司書  1人

・分配人  2人

・繊維工業従事者 10人

・皮革製品製造業従事者   5人

・食品工業従事者 2人

・精肉業従事者 2人

・製鉄、機械工業従事者 20人

・教員  5人

・製紙業従事者  2人

・数学者  2人

・理化学者  2人

・言語学者  2人

・記録人  2人

・硝石製造作業従事者  2人

・高齢による無業者 23人

・16歳未満の未就労者 48人

・軍関係者 336人

※軍の職務には装備品の開発生産、土木建築工事、鉱物資源の採掘を含む


 このように全人口の63%を軍関係者が占めているが、これはサピエンスの常識からは考えられない数値であり、仮にサピエンス国家が63%を軍関係者とすれば、その国家は即時に瓦解するであろう。サピエンスからすれば軍事に割いている人的物的資源を生産活動や芸術活動に当てればどんなに豊かな社会が実現するかと考えてしまうが、アンデルスはその認知能力の限界から、周辺諸国と同盟関係とまではいかなくとも信頼関係すら築くことが出来ないため常に軍事的緊張状態にあり、強力な軍事力が必要なのである。これは、個人としてはあらゆる面でサピエンスより優れているアンデルスという種の、唯一のまた最大の欠点である。ただしこれはサピエンスの一方的な見解であり、アンデルスは具体的には存在しない神々、法律、国家、通貨などをあたかも存在するかのように信じているサピエンスを軽蔑しているのである。

 この軍事偏重を支えていたのは驚異的な生産力であった。

 カヤーニは都市を中心とした半径50kmの範囲をわずか500人程度で使用ができた。土地は最も豊富な資源であり、一次産業の高い生産性は広大な土地によるものであった。

 サピエンス社会でたびたび見られる土地の細分化とは無縁であり、贅沢に休耕することにより常に充分な地力がある農地で畑作を行うことができたこと、骨粉と硫酸で製造する過リン酸石灰を肥料として使用していたこと、私有財産という考え方がないため集団で農作業を行うことから、農業の生産性は高かった。主要な作物は秋蒔きの小麦と春蒔きの大麦だったが、他にも豆類、テンサイ、野菜類等の多様な作物が生産されていた。

 狩猟採集によって生産される食料は、カロリーとしての貢献はわずかであったが、多様な栄養を提供することができた。また、サピエンスが効率が悪いと切り捨ててきた狩猟採集を、希少な人的資源を投入してまでアンデルスが営んでいる最大の理由は、食料調達方法を多様化することによって食の確保に関するリスクを減らすためである。農業生産、牧畜が不振の時には狩猟採集により得られる食料がアンデルスの生命をつなぐこともあるのである。

 カヤーニの一次産業で最も特筆すべきは、牛を中心とする牧畜である。牧畜の生産性の源泉も農業と同様に広大な土地であった。カヤーニでは広大な土地で周年放牧により牛が飼育されていた。周年放牧とは1年を通して放牧することを言い、カヤーニでは夜間であっても牛舎に収容せずに牛が飼育されていた。カヤーニの牛は氷点下まで冷え込む冬季の夜間であっても、牛同士が固まって過ごすことによって体温を維持することができた。この周年放牧により15人程度で600頭もの牛を飼育し、年間240頭の牛を分配人に納めていた。住民一人あたりの牛肉の消費量は年間約95kgに達し、牛肉はカヤーニの食の基本であった。

 また牛の皮革は靴や背嚢となり、家畜の骨は過リン酸石灰、糞便は硝石の材料となった。黒色火薬の主要な材料は硫黄、木炭及び硝石だが、カヤーニでは硫黄は豊富に産出され、木材も豊富な上に家畜由来の硝石生産も安定していたので、充分な量の火薬を生産することができた。

 カヤーニは緯度が高く綿花の栽培には不適であったし、ヴィオティア地方のサピエンス国家は綿花の存在すら知らなかったため、綿の衣服はなかった。麻は少量の栽培がされていたが、主な布地の原料は羊毛であった。布地については紡績工程及び織布工程が蒸気機関により自動化がされてからは需要を上回る量が生産されていたので、サピエンスと物々交換する際のカヤーニからの主な提供品となった。

 鉄鉱石を産出しないカヤーニでは鉄、特に鋼鉄の生産量の少なさが問題であった。

 サピエンスから略奪する鉄スクラップは、高炉では粗悪な鉄にしかならず、鋼鉄の原料は少量産出する砂鉄とごく稀に入手できる鉄鉱石に頼っていた。カヤーニではこれを国家としての最大の問題点と考え、鉄スクラップから鋼鉄を作る方法を長年研究してきた。100年近くに渡る研究の結果、アーク放電による高熱で鉄スクラップを溶かし、成分を調整して鋼鉄を作る電気炉製鋼法が開発され、完新世暦2292年にカヤーニ北東部のコリ山を流れるカラヨキ川に水力発電所と電気炉が建設されると、鋼鉄の量産が可能になった。なおコリ山の電気炉は世界初の産業用電気炉であり、当時の最先端技術であった。


 基本的にアンデルスは相手がアンデルスかサピエンスかを問わず、各都市間の交流は希薄である。物々交換に現れるサピエンスの商人でさえ、アンデルスの都市の城門をくぐった者はいなかった。またアンデルスは、軍事や技術に関する情報がサピエンスに伝達しないように細心の注意を払っていた。従って、イオルコスにはアンデルスの軍事力に関する情報は少なかった。


 イオルコスが軍事的にアンデルスと接触した経験は、カヤーニ戦役から300年以上前である完新世暦1942年のフリギヤ事件と、たびたび発生するアンデルスによる略奪のみであった。

 フリギヤ事件とは、人口調整のためカヤーニよりさらに北方にある都市国家ブレーキンゲを出発した探索者が、イオルコス領内に植民都市を建設しようとしてイオルコスと争った事件である。ブレーキンゲからイオルコスに至るためには、アンデルスの都市国家ヨーテポリとカヤーニの領域を通過しなければならないが、ブレーキンゲの一行はカヤーニ通過中にカヤーニ軍に捕捉され交戦した結果、移動速度の遅い野砲を遺棄してイオルコス領内に侵入した。ブレーキンゲの記録では、ブレーキンゲを出発した探索者は121人であり、カヤーニの記録ではカヤーニ領内での一行の戦死者は11人であったので、イオルコスまでたどり着いたのは110人程度であったと思われる。当時のイオルコスはまだ人口が少なく、ブレーキンゲの侵入に対し動員できた兵力は2500人であった。ブレーキンゲとイオルコスは都市イオルコスの東15kmの地点にあるフリギヤで正面から衝突したが、当時ブレーキンゲが用いていた先込め式、マッチロック式の銃は連発性に劣り、密集隊形で前進するイオルコス軍は多大な犠牲を出しながらもこれを撃破することに成功した。アンデルスにはサピエンスに降伏するという概念がないため、ブレーキンゲは最後の1人まで戦い全滅した。

 また、もう一つの接触例であるアンデルスによる略奪は主にカヤーニ軍によって行われた。略奪は女性からなる15騎程度の騎兵で行われるのが常であった。このためサピエンスの庶民の中にはアンデルスは女性のみの種だと思っている者も多かった。クレオンは多数の略奪現場を視察し、住民からカヤーニ軍の情報を聴取することによって、対カヤーニの戦術を考案したと言われている。


 カヤーニはケミ銀鉱床では露天掘りで地表近くの銀を採掘するのみで、本格的には開発していなかった。アンデルスにもサピエンスほどではないが、銀を装飾品の材料として尊重する習慣はあった。ただ、人的資源が限られるカヤーニには坑内堀りにより大量に採掘する余力はなかった。このためケミ銀鉱床の埋蔵量はほぼ手付かずのままであり、クレオンは、この銀を利用して銀貨を発行すればヴィオティア地方のみならず近隣地方の基軸通貨となり、イオルコスが経済的な覇権を手にすることができると訴えていた。

 クレオン率いるイオルコス軍がケミ銀鉱床に到着した後に最初に行ったのが土塁の造成であった。クレオンは、カヤーニの銃弾が重装歩兵の木製の盾や青銅製の兜は貫通するが、農地の境界を示す土塁を貫通できないことを知っていた。土塁の造成のような土木工事は奴隷の仕事と考え抵抗を示す者もあったが、クレオンはカヤーニ軍到来前に土塁を完成させることができるかどうかが勝敗を分けると強く訴え、工事は急ピッチで進み、わずか3日で高さ2.5mの土塁が完成した。ケミ銀鉱床到着から3日目にはカヤーニの偵察騎兵2騎が目撃されており、この時点でイオルコス軍の存在がカヤーニに知られたものと思われる。土塁完成の翌日には騎兵118騎が現れ、アンデルスとサピエンスの戦争の常のように、交渉も一切ないまま交戦状態に突入した。ちなみにアンデルスは体格が大きく、平均身長195cmに達する男性は騎乗に適していない。従って騎兵は専ら女性が務めており、この日の118騎も全騎が女性であった。

 騎兵隊長はカティという、当時32歳の女性であった。健康診断の記録によると身長は182cmであり、アンデルスの女性としても高身長であったといえる。カティはヴィオティア語が堪能ということもあって略奪行に毎回参加しており、カヤーニ軍で最も実戦経験豊富といえた。彼女はアルヒッパという名の牛のような顔つきの巨大な雄馬を愛馬としており大変目立つ存在であった。またアンデルスの女性には珍しく長髪であり、その金髪を1本に束ねてヘルメットの後ろから下げるスタイルも目立つため、イオルコス軍には彼女に見覚えがある者も多くいた。

 イオルコス軍が土塁の後ろに隠れ様子をうかがっていたところ、カティ率いるカヤーニ騎兵は土塁から500m離れて騎射を行った。騎兵銃は後装式の6連発銃であったが、土塁に阻まれて効果をあげることはできず、6発をうち尽くしたところで後退した。装弾後、今度は250mの地点から同様に騎射を行ったが効果は得られなかった。この間、イオルコス軍は一切反撃をしなかった。すると次は50mの位置まで近づき馬を止めて、土塁から僅かに出てカヤーニ騎兵を観察している敵兵の頭部を狙って射撃を開始した。騎兵銃はライフリングが施されており命中精度が高く、数人の頭部を吹き飛ばした。その時点でクレオンはようやく弓兵に土塁越しの射撃を命じた。騎兵銃は水平方向にしか弾丸を撃ち出せないが、弓兵は弓なりに射撃をすることができるので土塁を挟んだ一方的な攻撃となり、たちまち数騎に命中した。騎兵は慌てて弓の有効射程外に後退し、その後は夕刻までケミ銀鉱床周辺に留まったが、夜にはさらに後退しついには土塁から見えなくなった。

 数百年に渡りカヤーニ騎兵から一方的に略奪されていたイオルコス軍にとって、カヤーニ騎兵を撃退したということは快挙であり、士気は上がった。夜にカヤーニ騎兵の死体を回収したところ、全部で11体あった。誰が命じた訳でもないが、イオルコス軍は死体から装備と衣服をはがすと全裸の死体を板に打ちつけ、高く掲げた。イオルコス市民はサピエンス世界随一の文明人を自認しており、普段はこのような蛮行はしないが、余程の興奮状態にあったのであろう。

 その後クレオンは軍の敢闘を称え、ケミ銀鉱床をイオルコス市民のものとする決意をあらためて宣言したうえで、夜間は銃による狙撃が困難であることを理由に、3000人の重装歩兵を連れて夜襲をかけるべく土塁を出ていった。ただし、その晩はカヤーニ騎兵を発見することはできなかった。

 翌日以降もカヤーニ騎兵は毎日ケミ銀鉱床に現れたが、数は50騎程度であり弓射を警戒し土塁から500m圏内に入ることはなかった。

 

 ケミの戦いの際のカヤーニ軍の司令官はリクハルドという名前の男性であった。アンデルスの名前は個人名のみであり、家族名や氏族名は持たない。リクハルドはフルネームでも「リクハルド」である。

 アンデルスは身分という概念を持たない種である。司令官といえども身分としては一兵卒と何ら変わりなく、司令官の私生活についてサピエンスの王のように特別な記録がある訳ではない。ただし、アンデルスは何事も記録しなければ気が済まない種でもあり、記録文書は豊富に残っている。

 リクハルドの母親は騎兵であった。父親の名は不明である。アンデルスは婚姻制度を持たず性交渉の相手を制限する習慣がないので、父親が不明であるということは珍しいことではない。乳児期終了後は都市全体で子供の面倒をみるので、両親を婚姻契約で拘束して夫婦で子供を育てる必要がないのである。

 リクハルドは他の者と同様に16歳で教育課程を終了し、その後は軍に入隊し、歩兵、砲兵を経験した後に25歳で司令官補に就任した。カヤーニ軍では25歳までに歩兵及び砲兵(女性であれば砲兵の代わりに騎兵)を経験した後に適正を見て生涯の兵科が決定されたが、司令官に欠員が生じた際の後任となる司令官補となる者には、兵棋演習の成績以外にも決断力、問題解決能力、精神の安定性など様々な要素が優れていることが求められた。リクハルドは司令官補となる厳しい要件を満たした逸材であったと思われるが、本人は数学を好んでいたため弾道計算を行う砲兵が希望であり、司令官補となるのは不本意であったと言われている。リクハルドが司令官補となった2年後に当時の司令官が病気で歩兵に異動したため、リクハルドは27歳で司令官となった。その3年後にケミの戦いが勃発し、若干30歳で大きな実戦の指揮をとることになった。


 イオルコス軍がケミ銀鉱床に土塁を造成しているという報告を受けたリクハルドは、土塁造成を阻止するために即応可能な全騎兵にイオルコス軍襲撃を命じたが、既に記載したとおり土塁は完成しており、土塁造成を阻止するという目的は失敗に終わった。

 リクハルドは騎兵攻撃の失敗とイオルコス軍の戦術を確認した後に、歩兵及び砲兵、計218人に出撃準備を命じ、3日後に都市を出発した。ケミ銀鉱床は都市から直線距離で40km程の場所に位置していた。騎兵はこの距離を1日半で走破したが、11門の76mm口径砲と6門の機関銃を牽引した砲兵の進軍速度は遅く、ケミ銀鉱床にたどり着くまで18日を要した。


 イオルコス軍はリクハルド率いる本隊到着までの時間を、土塁を叩き固め強化する作業と土塁が破壊された時に補修するための土嚢作りに費やした。イオルコス軍は大砲と戦火を交わしたことはなかったが、知識としては大砲の存在を知っていた。過去数百年の間に、アンデルスの大砲によって城壁が破壊されサピエンスの都市が陥落した何件かの先例があったからである。クレオンは大砲について、1日に数発しか撃てないが、その数発で城壁を揺るがす強力な攻城兵器だと認識していた。従って、大砲による土塁の破断を最小限におさえることが重要と考え、兵卒にもそのように伝えていた。また、破断箇所が少なければ、そこから突入したカヤーニ軍を土塁の裏で待ち伏せることにより近接戦闘に持ち込み、これを撃破できると考えていた。


 イオルコス軍が造成した土塁は4km四方の正方形であったが、西と南には水深1.5mのヴァンター川が流れていたため、門は北と東に設けられていた。数の少ないカヤーニ軍は土塁全体を包囲することは出来ないので、歩兵及び砲兵は土塁の北方及び東方約700mの位置に柵を立て高さ12mの観測塔を4基建設して布陣し、南と西は騎兵が機動しながらイオルコス軍が土塁を越えて本隊の側面を攻撃することを警戒していた。イオルコス軍は布陣を阻止するべく騎兵を出撃させたが、歩兵の射撃に阻止され、カヤーニ軍に近づくことはできなかった。ちなみにカヤーニ軍では騎兵銃と異なり歩兵銃は単発式であった。騎兵銃の弾倉はチューブ式であったが、装弾したまま激しい取り扱いをすると暴発する危険があり、銃剣の装着が出来なかった。そのため歩兵銃は、暴発の危険性が少なく着剣可能な単発銃を採用していた。


 カヤーニ軍が布陣した翌朝、つまり完新世暦2304年4月28日午前8時30分にカヤーニ軍本隊の攻撃がはじまった。天気は晴れ、風は東方からの微風、8時30分時点の気温は摂氏11℃であった。

 カヤーニ軍の砲撃により、本隊の攻撃がはじまった。クレオンは、カヤーニ軍は砲撃により土塁を崩し、その地点から土塁内に突入してくると予想していたが、砲弾は曲射により土塁の内側に飛んできた。そしてイオルコス軍の上空で爆発し、鉛の散弾をまき散らした。榴散弾が使用されたのである。カヤーニ軍の榴散弾は敵の上空で炸裂し、55の散弾を前方に投射し、概ね10m四方の人や馬をなぎ倒すものであった。カヤーニ軍の11の砲門は観測塔と連携し、30秒に1発の頻度でこの榴散弾を射出した。

 イオルコス軍は大砲について、運動エネルギーで物体を破壊するもので日に数発しか撃てないものとしか認識していなかったためパニックに陥った。

 パニックに陥ったのはクレオンとて同様であったが、クレオンはその優れた理解力ですぐに立ち直り、榴散弾による攻撃を理解するには至らなかったが、動かないでいれば一方的に被害が拡大するだけであることは理解した。

 そこでクレオンは自らの選挙区で編成した第3軍の重装歩兵1600人を連れて北門から出撃し、東門からは第1軍の重装歩兵1600人を出撃させた。門を出たら一目算に敵陣に走り近接戦闘に持ち込むように指示をしていた。敵が待ち構える門から出撃した場合は当然に待ち伏せされるが、土塁内に留まるよりは勝算があると判断したのであろう。パニックに陥っていた兵も、具体的な任務を与えられると少し落ち着きを取り戻した。

 ところが榴散弾が降り注ぐ中、門を出たイオルコス軍を襲ったのは各門に対し2門ずつ配置されたガトリング砲であった。カヤーニ軍の手回し式のガトリング砲は、毎分200発の銃弾を発射することができた。狭い門を出たイオルコス軍は、門を出た地点でガトリング砲によりほとんどが死傷した。ガトリング砲の射線を突破したものも歩兵の射撃で倒れ、カヤーニ軍を槍で捉えるまで肉薄できた者は一人もいなかった。

 ところが土塁の外での惨劇は中からは見えないので、イオルコス兵は当初の命令どおり次々と門から外に出てきた。一方、外に出て惨状に気付いた者は中に戻ろうとした。これにより門付近で両者の流れがぶつかり、倒れて圧死する者が多発する混乱状態が生じた。

 この混乱状態が収まって、出撃部隊が土塁内に帰還するまでに3200人の半数が死亡したと言われている。

 またこの際にクレオンも死亡した。クレオンは出撃部隊の中央あたりにいたが、門を出る際の混乱で落馬し、押し寄せる重装歩兵に踏まれて圧死した。

 門の外で惨劇が繰り広げられている間も砲撃は続いていた。カヤーニ軍の野砲の射程距離は4kmであり北と東から砲撃を行ったが、土塁は南北4kmの正方形であったため、南西の狭い一角は野砲の射程外であった。土塁内の兵は本能的に榴散弾の発射地点から遠ざかろうと南西の一角に殺到した。この狭い地点には残存兵力の全てが入ることはできなかったので、後から来た者は先に入った者を押し退けて或いは転んだ友軍を踏みつけて進み、多数が圧死した。


 小麦の無料配布という大衆迎合的な政策と、ケミ銀鉱床占領という成功確率の不明の冒険を訴えたクレオンは、扇動者と言われ決して良い評価はされていない。ただしクレオンは扇動するだけではなく、政策立案、軍の編成、ケミ銀鉱床への軍の統率という全て過程で主導的な役割を果たし、国家の全力を尽くした出兵を実現させた。人間としてのクレオンに迫るのであれば、優れた実務家という面も見落とすことは出来ない。


 クレオンの死亡後に名実ともに唯一の司令官となったのはデモステネスであった。榴散弾が炸裂するたびに少なくとも十数人が死傷するという状況の中、クレオン死亡の報告を受けたデモステネスは即時に撤退を決定した。

 デモステネスは都市で編成された第2軍団と周辺地域で編成された第5軍団の重装歩兵に対し、門を出てカヤーニ軍に突撃することにより、撤退の時間を稼ぐように命じた。第2軍団と第5軍団の軍団長は、まだ生きたい者は本隊と共に撤退して良いと声をかけたが、離脱する者は一人としていなかったと言われている。

 第2軍団と第5軍団が突撃する一方、デモステネスは残りの兵に対し、南側の土塁を破壊し脱出口を設けるように命じた。カヤーニ軍の観測塔からは土塁内全体が見渡せたので、イオルコス軍が南側からの撤退を試みていることをリクハルドは把握していたが、第2軍団と第5軍団の激烈な突撃を前に、野砲の照準を両軍団に向けざるを得ず、南側からの撤退を榴散弾で阻止することはできなかった。土塁の一部が破壊され全軍が通過するのに充分な脱出口が開いた後、デモステネスは残存の兵に撤退を命じたが、重装歩兵に対しては盾、槍及び兜を捨てるように指示をした。南側からイオルコスに撤退するためには、土塁から800mの場所を流れるヴァンター川を渡らなければならないためである。

 ヴァンター川の水深は1.5m、川幅は狭い部分で15mであった。デモステネスは川幅が狭い2箇所を渡河地点と定めた。また、渡河地点の上流の流れの中に体格の良い兵を肩を組んで立たせて、渡河地点の流れを緩和した。こうして重装歩兵を渡河させると同時に弓兵と投石兵には、渡河を妨害するカヤーニ騎兵を攻撃させた。

 投石は数騎のカヤーニ騎兵に命中し負傷させたが、100騎を越える騎兵からの射撃を受けて100人程度が死傷した時点で弓兵と投石兵は戦闘を放棄し逃走を始めた。カヤーニ騎兵の銃は6連発だが、6発を撃ち終わった時点で、弓兵と投石兵は逃走し始めていたと言われている。そうだとすれば弓兵と投石兵が稼いだ時間はわずか数分であったと思われる。この時の彼我の距離は明確ではないが、カヤーニ騎兵は弓兵と投石兵の有効射程距離内に入ることを警戒するので200mは離れていたはずである。この時のカヤーニ騎兵は200m離れた位置からの、しかも馬上からの射撃で少なくとも6発の内1発は命中させたことになる。カヤーニ騎兵の射撃技術は驚異的であったと言える。

 その後のカヤーニ騎兵の攻撃目標は、渡河中の重装歩兵に移った。カヤーニ騎兵はイオルコス軍から200mの距離で下馬し、片膝を地面に着き安定的な姿勢での射撃、つまり膝射を始めた。膝射でも200m離れた動く目標に的中させることは難しいが、カヤーニ騎兵は確実に重装歩兵を撃ち抜いていった。

 デモステネスは反撃をせず渡河に専念するよう命令していたし、槍を捨ててきているので重装歩兵は物理的にも攻撃できなかった。渡河の順番を待つ間、重装歩兵は友軍の死体を背負って銃弾を防ぎ、じっと渡河の順番を待った。これは戦闘とは言えない、虐殺であった。

 デモステネスは渡河後は整列せずに、10人1組でそれぞれの判断でイオルコス領を目指すように指示していたので、イオルコス軍は渡河後に分散し、消滅した。カヤーニ騎兵はこれに対し追撃を行ったが、数で劣るカヤーニ騎兵は多数の小集団を効率的に捉えることは出来なかった。

 カヤーニの歩兵及び砲兵に突撃した第2、第5軍団は、戦闘中にガトリング砲が過熱のため使用不能となったため、計500人程度が戦場を離脱することに成功した。


 午前8時30分に始まったケミの戦いは午後4時30分に終結した。

 領内に帰還したイオルコス軍のうち、重症者は療養のため各選挙区に送られ、戦闘が可能な者は、予想されるカヤーニ軍の反撃に対応するための軍を再編成するため、都市に向かった。

 都市にたどり着いた者は12000人の内わずか2500人であった。家族や友人の消息を尋ねる市民に囲まれながらの帰還であったと言われている。

 一方、カヤーニ軍の死亡者は前哨戦の弓射で倒れた11人のみであった。

 イオルコス軍は戦略目標を達成できなかった上に軍は壊滅し、カヤーニ軍の被害は軽微であった。ケミの戦いはカヤーニ軍の完勝で終わった。


 ケミの戦いの後、カヤーニではただちに住民集会が開かれ、イオルコスを攻略し植民都市とする方針が決定された。

 議事録ではこの方針決定の理由について、500人を越える人口の受け入れ先を探す必要があること、11人が殺害され磔にされた報復をする必要があること、イオルコス軍はケミの戦いで主力の重装歩兵の多くを失って弱体化していること、イオルコス軍がケミ銀鉱床に放棄していった鉄スクラップが豊富にあり兵器の量産に必要な資材が充分にあることを挙げている。また、出兵の時期についてはイオルコス軍が回復する前が良いということで秋に決まった。


 カヤーニ軍はケミ銀鉱床付近の残存イオルコス軍を掃討すると同時に、イオルコス軍が遺棄した物資のうち、槍の穂先、剣、鏃等の鉄製品を収集しコリ山の電気炉に送った。そしてそれらの鉄スクラップは電気炉で溶かされ、炭素などの不純物が取り除かれ鋼鉄が作られた。

 歩兵銃の更新は騎兵銃より遅れていたが、この時の鋼鉄により、鋳鋼製の旧型が、より強靭な圧延炭素鋼製の新型にかわることになった。

 ビスケット、瓶詰、ビーフジャーキー等の糧食の製造も急ピッチで進んだ。

 ちなみにカヤーニには200人分のスープやシチューを製造できる鍋とコンロを備えた、2頭の馬で牽引する炊事車があった。鍋とコンロは上から吊され、炊事車が多少傾いても水平を保つ仕組みになっており、行軍中でも煮炊きができた。これによりカヤーニ軍は温かい食事をとることができ、当時のヴィオティア地方の諸都市国家では忌避される秋から冬にかけての行軍が可能となっていた。炊事車は2人で運用されたが、いち早く宿営地や休憩地に入り食事を提供しなければならない都合で前衛に配置されることが多く、死傷率が高かった。従って炊事車には調理だけではなく戦闘についても長けた兵が配属された。

 さて、今回は都市の総力を尽くした遠征となるため、軍関係者以外も軍事的貢献が求められた。

 カヤーニでは16歳までの教育課程で軍事教練があり、全員が歩兵としての訓練を受け、それに加え男性は砲兵、女性は騎兵としての訓練を受ける。また成人後も定期的に軍事教練を行うが、今回は非軍人も動員され遠征か都市防衛の任につくので、再教育が行われた。カヤーニでは1年間生産活動がストップしても生活が破綻しないように常に食料資材が備蓄されていたので、遠征準備は軍需物資生産を除く全ての生産活動をストップして行われた。


 都市防衛に138人を残し、370人のカヤーニ軍は完新世暦2304年9月2日にイオルコスに向けて出発した。騎兵132騎、野砲10門、攻城砲1門、機関砲6門の陣容で、率いるのはリクハルドであった。


 ケミの戦いの後のイオルコスでは、帰還したデモステネスが病気療養という名目で統治官会議を欠席するようになっていた。敗戦の責任の大きな部分がクレオンにあることを世論も理解していたが、それでも誰かが責任をとらなければいけないのがサピエンス社会である。統治官には在任中の身体不可侵権があったので、デモステネスは統治権限を実質的に放棄することによってとりあえずの責任をとった。

 ケミの戦いの間に留守役の統治官が1人病死していた。クレオンが死に、デモステネスが欠席し、1人が病死し、定員7人の統治官会議のメンバーは4人となっていた。


 歴史上、サピエンスの軍隊がアンデルス領への侵攻に失敗し、アンデルス側に余力がある場合、アンデルスは必ず報復攻撃をしていた。従って、イオルコスは報復攻撃に対しどのように対処するか決める必要があった。

 4人になった統治官会議は、敗戦後すぐに、軍の再編成と神聖海上同盟軍結成の提案を行うことを決定した。

 25の都市国家が加入する神聖海上同盟とは、イオルコスが10年戦争を勝ち抜いた結果生まれた同盟である。10年戦争時にイオルコスが攻略又は懐柔したのは海上貿易の要所が多く、これらの都市が主体となって結成されたため、「海上」同盟と言われている。ちなみに「神聖」の方は、同盟結成文書の調印がフリギアの10柱神殿で行われたことに由来する。この同盟の加入都市は、他の加入都市が攻撃を受けた場合には救援し、軍事行動の費用となる同盟拠出金を毎年支払う義務があった。盟約の文章上は各都市は平等であったが、拠出金はイオルコスに保管され、イオルコスの判断で支出されたことから、事実上はイオルコス主導による同盟であったといえる。

 統治官の一人であるタレス=パパンドレウは同盟諸都市を訪問し、出兵させる兵力について交渉を行った。同盟規約では、同盟都市の領土が侵略された、または侵略されるおそれがある場合は救援することが義務付けられていたが、兵を何人出すかまでは決められていなかった。それでも従前はイオルコスに圧倒的な発言力があったので、イオルコスが決めた兵力の割り振りに異議を申し立てる都市はいなかった。ただしケミの敗戦で1万人近い兵を失ったことを知った諸都市は、イオルコスの軍事力低下を感じとり、簡単にはイオルコスの要請する兵力を出さなかった。タレスは言うことを聞かなくなった都市を相手に、拠出金から支払われる費用負担の額をだしに一兵でも多く出させるべく交渉を行った。その結果、同盟都市から5500人を集めることに成功した。

 当事者であるイオルコスは4500人を徴兵したので、同盟軍は10000人となった。ケミの戦いの際、銃声に慣れていなかった馬が暴れて、騎兵が戦力にならなかった経験から、今回は富裕層も重装歩兵として参戦した。また同盟都市からの兵力のうち2000人は盾を持たない軽装歩兵だった。裕福なイオルコスでは装備品は官給だったが、一般的に当時のヴィオティア地方では、装備は自弁であり、盾、兜、胴を合わせると庶民の年収の半分程度の費用がかかるため、市民兵に軽装歩兵が多くなるのは一般的なことであった。

 タレスは引き続き各都市を巡って支援を求める一方、残り3人の統治官は軍を率いることになった。

 重装歩兵を中央、右翼、左翼に3分しそれぞれを統治官が率いると共に、軽装歩兵も3分して重装歩兵の前に配置した。この陣形で司令官の命令が素早く伝達されるように繰り返し訓練が行われた。


 完新世暦2304年9月2日に出発したカヤーニ軍の行軍は悪天候により難航し、イオルコス領に入ったのは9月21日であった。しかも砲については降雨による道路事情の悪化により更に遅れていた。砲は砲車に乗せて、1門あたり3頭から5頭の馬で牽引されていたが、路面がぬかるむと車輪の動きが悪くなり、行軍速度が低下した。


 リクハルドは、遠征中の母都市の防衛の手薄さを考えると、出来るだけ早く遠征の目標を達成し軍を戻したいと考えていた。アンデルスの都市はどこでも余剰人口の受け入れ先に他都市の攻略を狙っているためである。

 リクハルドは同盟軍が集結し野戦の準備をしていることを把握していた。リクハルドは早期終戦を望むリクハルドは、ケミの戦いで威力を発揮した砲を欠く不利を覚悟の上で、砲を後方に置いたまま会戦に臨む決断をした。

 同盟側でも砲の到着が遅れていることは把握しており、会戦を行う好機だと認識していた。

 こうして両者の思惑が合致した結果、9月27日に都市イオルコスの北方25kmにあるフロリナ平原で会戦が行われた。いわゆるフロリナ会戦である。


 先にフロリナに到着していたのはカヤーニ軍だった。そういった意味では、カヤーニ側が戦場を選択したと言える。高低差がない平原は銃の射線をさえぎらないため、有利だと考えたのであろう。

 370人のカヤーニ軍のうち砲の牽引と弾薬の輸送に必要最小限の35人は参加できなかったため、実際に会戦に参加したのは335人であった。

 リクハルドは全軍を騎兵81人、職業軍人の歩兵のみで構成される精鋭の中央100人、左翼と右翼に各77人の4部隊に分けた。前記の81人以外の騎兵51人は下馬し、歩兵として左翼と右翼に配置された。

 左翼と右翼は翼の外側が相手に向かう形に斜めなるように配置し、それぞれを囲むように有刺鉄線の鉄条網を巡らせた。

 中央部隊の前方にも有刺鉄線の柵を設けたが、これは前進の際に容易に撤去できる簡易な物であった。

 人数の少ないカヤーニ軍には縦深性を持てるはずもなく、中央、左翼、右翼ともに一線になるように配置された。

 騎兵は左翼の後方に配置された。

 

 後から戦場に到着した同盟軍もカヤーニ軍と対峙するように中央、左翼、右翼に分かれ、訓練どおり前列に軽装歩兵を配して布陣した。ただし布陣したのは銃の有効射程外の、約1km離れた位置だった。


 にらみ合いの状況を最初に崩したのはカヤーニ軍であった。午前11時35分にカヤーニ軍の中央が有刺鉄線の柵を撤去し、前進したのである。そして彼我の距離が500mの位置の柵を作り始めた。なおこの際に鉄条網内の左翼と右翼は動かなかった。

 同盟軍は敵が500m地点に柵を作り始めたのを見て、全軍で進軍を開始した。柵ができる前に接近戦に持ち込みたいという意図であった。これに対し、カヤーニ軍中央は柵の設置を中断し、同盟軍へ発砲を始めた。

 今回の会戦にあたり、同盟軍は銃弾対策として厚さ2mmの鉄板でできた盾を軽装歩兵に運ばせていた。同盟軍は前列の軽装歩兵にその鉄板を持たせて前進した。敵に対し斜めになるように持った鉄板は、敵と距離があるうちは銃弾をはじいて貫通させなかった。

 彼我の距離が300mまで近づくと銃弾が鉄板を貫通するようになった。その時点で軽装歩兵は鉄板を捨て、全軍で敵に向かって走りだした。

 カヤーニ軍の装弾の間に接近し近接戦闘に持ち込む意図だが、これはフリギア事件の際に成功した戦術であった。300mまでほとんど無傷で接近できた点ではフリギア事件より有利に戦況が推移していたと言える。

 鉄板を捨てて突撃してくる同盟軍を見て、鉄条網で防護されたカヤーニ軍の左翼と右翼はその場を死守したが、中央は近接戦闘に持ち込まれることを恐れて、敵に背を向けて後退した。同盟軍の中央は後退するカヤーニ軍中央を捉えようと戦列を崩してでも全力で前進した。最終的にカヤーニ軍中央は1000m程後退した。

 同盟軍中央は全力で前進したため、カヤーニ軍左翼より前方に進軍し、同盟軍中央とカヤーニ軍左翼との間にわずかな隙間が生じた。

 左翼の後方に待機していたカヤーニ騎兵は、騎兵隊長のカティを先頭に疾走してこのわずかな隙間を通過し、同盟軍中央の背後に回り込むことに成功した。

 そして中央後方にいた統治官を狙って、30mの至近距離で馬上から集中的に射撃を行った。統治官は騎乗していたため狙い易く、瞬く間に数発の銃弾を受けて死亡した。

 同盟軍の中央は戦列を崩して全力で前進していたため、前線と統治官の距離が離れていた。そのため統治官の死亡がすぐには前線に伝わらず、前進を続けた。

 騎兵が背後に回り込んだことを確認したリクハルドは、カヤーニ軍中央に対し、反転して攻撃するように命じた。同盟軍中央は槍が届くぎりぎりの距離に迫っていたが、これに対しカヤーニ軍中央は散弾を発射し、1発で数人の同盟軍をなぎ倒した。歩兵銃は近接戦闘用の散弾を発射できたが、散弾の存在を知らなかった同盟軍中央はこれに動揺し、最前線の軽装歩兵は逃走した。そのうちに統治官死亡の報が前線にも届き、同盟軍中央は各中隊長の判断により戦場を離脱し始めた。

 カヤーニ軍中央は崩壊した同盟軍中央を追わずに、同盟軍左翼への攻撃を開始した。また騎兵も同盟軍左翼を背後から攻撃していた。

 同盟軍左翼は三方を囲まれたが、これを率いる統治官は重装歩兵の盾で周りを囲む密集防御体型をとった。この密集防御体型は、サピエンス同士の戦闘で援軍を待つ際には有効な戦術だったが、アンデルス相手には最悪の選択であった。カヤーニ軍の銃弾は同盟軍の木製の盾を容易に貫通したため、無防備な状態で機動しないことは的になることを意味していた。こうして同盟軍左翼は一切の反撃ができないまま壊滅した。

 カヤーニ軍中央と同盟軍左翼の交戦は概ね1時間で終了した。同盟軍左翼には何らの戦果もなかったが、同盟軍右翼が撤退する時間は稼いだ。

 同盟軍右翼を率いていたのはトライアノスという壮年の統治官であった。トライアノスは、同盟軍中央潰走後のカヤーニ軍中央が同盟軍左翼に向かうのを見て、麾下の兵に撤退を命じた。対峙していたカヤーニ軍左翼は鉄条網で囲まれていたこともあり、速やかに撤退を妨害することができなかった。整然と戦場から離脱した同盟軍右翼は、エグナティア街道を南下し、都市イオルコスに向かった。

 そしてトライアノス自身は、フロリナ平原の南方約2kmの地点に、イオルコスの重装歩兵100人と留まった。この地点にはエグナティア街道の切り通しがあり、街道が谷底を通るような形になっている。トライアノスはこの隘路に鉄板を重ねて配置し即席のバリケードを設け、殿軍を務めた。

 フロリナ平原での戦闘終了後、カヤーニ軍歩兵は残兵の掃討をしていたため、騎兵がトライアノス率いる同盟軍右翼を追撃した。騎兵はバリケードに籠もる殿軍に対し射撃を行ったが、40mまで近づいても重なった鉄板を打ち抜くことは出来なかった。また殿軍の投石により、それ以上近づくことは出来なかったため、カティは騎兵によるバリケード突破を諦め、歩兵に援軍を求めた。バリケードは高さ1.5m程であり、強行して接近すれば騎乗のまま飛び越えることも可能であったが、人数の少ないカヤーニ軍にとっては少数の犠牲も出したくないという判断だったのであろう。

 3時間後にリクハルドが率いる20人の歩兵が到着した。全員が同盟軍の重装歩兵が戦場に残した木製の盾を持っていた。

 歩兵はリクハルドを先頭に、盾で投石から身を守りながらバリケードに接近した。そしてバリケードの向こう側に擲弾を投げ込んだ。

 カヤーニ軍の歩兵が装備していた擲弾は、投擲式の爆弾であり、着弾の衝撃で起爆するものであった。導火線に着火する必要がなく、片手で扱えるというメリットがあったが、不発弾が多く、威力が限定的というデメリットもあった。

 威力が限定的とは言え、狭い場所に投げ込まれた20発近い擲弾は、大きな爆発を起こした。

 現場は谷底で常に強い風が吹いており、直ちに爆煙を吹き散らした。

 すると爆発がバリケードを破壊し、周囲のイオルコス兵をなぎ倒した様子が明らかになった。

 これを確認した歩兵は、銃に着剣しバリケードの残骸を乗り越え、呆然とするイオルコス兵に突撃を開始した。

 その間に騎兵はバリケードの残骸を退かして、騎兵の進入路を確保し、歩兵に続いた。

 イオルコス兵は最後の一兵まで抵抗したが、100人全員が戦死した。またバリケードのすぐ後ろで指揮をとっていたトライアノスは、擲弾による爆発で死亡していた。

 殿軍との戦闘が終了したのは17時頃であった。当日の日没予測時刻は19時頃であり、カティは友軍との合流に必要な時間を考慮し、追撃を中止した。

 こうして、完新世暦2304年9月27日の戦闘は終了した。

 カヤーニ軍の死傷者は22人であった。また同盟軍の死傷者数については、ケミの戦いの際と異なりカヤーニ軍が集計しなかったので不明だか、都市イオルコスにたどり着き再度兵役につくことができたのは3000人程度であり、7000人程度の兵を失ったことになる。また軍を率いていた統治官3人全員が死亡した。フロリナ会戦はカヤーニ軍の完勝であった。


 フロリナ会戦後のカヤーニ軍は、都市イオルコスの高さ10mの城壁を破るために不可欠な砲の到着を待つため、フロリナ平原に12日間滞在した。その後、エグナティア街道を南進し、都市イオルコスに向かった。


 フロリナ会戦後のイオルコス側は混乱状態に陥っていた。

 フロリナ会戦に参加した同盟都市の兵が各々の方法で帰国を試みていたが、多くの者は道中で略奪を行っていた。また、アンデルスが都市の半径50km以内に人類の居住を容認しないこともよく知られていたので、既に家族や奴隷を連れて海外への移住に旅立ったイオルコス市民もいた。

 都市イオルコスでも、残兵が帰還するにつれてフロリナ会戦の惨状が明らかになり、絶望的な空気が広がった。ケミの戦いで威力を発揮した野砲が無いカヤーニ軍にも惨敗したということは、イオルコス市民に対し、いかなる方法であってもカヤーニ軍には勝てないという印象を与えた。また、参戦した統治官が3人とも戦死した影響も大きかった。

 我々サピエンスは、殿軍となって全滅することを確信しながらも撤退の時間を稼いだトライアノスを英雄だと考えているし、その悲劇と献身的な行為はたびたび創作物の題材となり、多くの人の胸をうった。ただし、イオルコスが指導者を立て続けに失い、国家運営に支障をきたしたことを考えると、自らが生還して立て直しの指揮を執るべきであった。トライアノスは英雄ではあったが冷厳な政治家ではなかったのだろう。


 フロリナ平原を出発したカヤーニ軍は野砲を牽引しながら、4日かけて都市イオルコスの城壁を臨む位置まで到着した。フロリナ会戦の残兵はエグナティア街道の途中の橋を破壊してカヤーニ軍の進軍を妨害することすらせずに都市イオルコスまで逃げ帰ったため、カヤーニ軍は快適に進軍することができた。


 都市イオルコスを見たリクハルドは驚いた。城門は閉じられていたが、城壁上にはイオルコス兵の姿がなかったためである。リクハルドは兵を見晴らしのよい北東の門の近辺に配置した後に城門の攻撃を命じた。苦労して運搬してきな口径95mmの攻城砲は、その大口径と重量相応の効果を発揮し、わずか2発で城門を破壊した。そして待ち伏せを警戒しながら歩兵が城内に進入したが、イオルコス兵の姿どころか市民の姿すら見えなかった。

 偵察部隊からの報告により、港から人と荷物を満載した船が続々と出航しているという情報は入っていたが、まさか奴隷や在留外国人を合わせて8万人はいたと思われる都市住民が丸ごといなくなるとは考えていなかった。

 その後、都市中央部の神殿に100人程の成人男性が立て籠もって抵抗の意思を示していることが判明したが、カヤーニ軍が野砲を運んできて神殿を砲撃したため、早々に神殿を出て捕虜になった数人を残し、全員が崩壊した神殿の下敷きになり死亡した。

 捕虜から聴取した結果、全住民が都市イオルコスの沖合い10kmの場所にあるキトノス島に避難したこと、都市を無抵抗で明け渡すことに反対した少数の者が神殿に残ったことが分かった。

 城内に進入した日は神殿の破壊と路地の探索で終了したが、カヤーニ軍は警戒のため全軍が城外で夜営した。

 翌日、カヤーニ軍は再度都市内に入ったが、全長15kmの城壁で囲まれた都市イオルコスは、カヤーニ軍には広すぎた。全ての建物を調査し敵兵が潜んでいないかを確認することはとても出来なかったので、カヤーニ軍は後日カヤーニ人の住居とすべき少数の建物を除いた都市全体に火をかけ焼き払った。

 4日間続いた炎は、イオルコスの住民が避難しているキトノス島からも良く見えた。都市国家にとって都市は単なる首都ではなく、国家そのものである。それを焼き尽くす炎を見て落涙しなかった市民は一人もいなかったと言われている。特にイオルコスは民主制を採用しており、主権者は市民である。この炎を目撃したある劇作家は、自らが主権者である都市の崩壊は、自分の身体が欠損したようなものだと記録している。

 イオルコスは、文化的にもヴィオティア地方の中心地であり、特にイオルコスで生産された彫刻作品や絵付けされた壺などは当時の人類社会最高の芸術作品であった。都市イオルコスに多量にあったと思われるこれらの芸術作品を失ったことは、人類全体の損失である。


 アンデルスにも芸術を解する心理がない訳ではないが、現実の利益と芸術性が相反した場合に、現実の利益を優先することに躊躇しない点は、当時から変わることはない。


 少し時間をさかのぼるが、フロリナ会戦終了時には統治官タレスは海外で外交交渉中であり、3人の統治官はフロリナ会戦で戦死したため、都市イオルコスには統治官がいなかった。都市に統治官不在では、国家としての方針が決定できない。この混乱状態を収めたのは、郊外の自邸に蟄居していたデモステネスであった。デモステネスはケミの戦いの責任をとり統治官としての権限の行使を自粛していたが、法令上は次の選挙までは統治官のままであった。

 デモステネスは本国にいる唯一の統治官となったが、これは統治官会議を経ずに重要事項を決定できるということであった。

 都市イオルコスに帰還したデモステネスは、直ちにカヤーニへの抵抗の継続と全住民のキトノス島への避難命令を発布した。カヤーニ軍が近づいている中、この意思決定のスピードは重要であった。

 当時、戦闘は陸上で行い船は兵や糧秣を輸送するものと考えられており、海上で戦争の帰結が決すると考えていた国家はほとんどなかった。その中で海上交易で繁栄したイオルコスは、戦争の帰結は海上でこそ決すると考えていた稀有な国家であった。また事実として、港を有する都市イオルコスは、サピエンスの軍隊に陸上から包囲されても海上からの補給が続く限りは抵抗できた。

 このイオルコスが保有する戦闘用の三段櫂船は100隻に及んだ。イオルコスはヴィオティア地方内陸国からの木材の輸出港で、造船に必要な木材の取得が容易であったことが、海軍の整備を可能にしていた。三段櫂船は三段の櫂を動力とし、櫂のこぎ手と戦闘要員を合わせて300人が乗船する船である。他国では奴隷をこぎ手とすることも多かったが、イオルコスではこぎ手も自由市民が務めた。そのため海上で敵船に接近した後は、こぎ手も武器を持ち戦闘に参加した。100隻の三段櫂船は3万人の自由市民を乗せることができ、これは徴兵可能な兵の全員を海上に出せるということであり、当時世界最大の海軍であった。またイオルコスの成人男性は必ず操船訓練を受けており、質の面でもサピエンス世界最高といえた。

 フロリナ会戦後の時点で多くの市民を失っており、全ての三段櫂船を動かすことは出来なかったが、それでも都市イオルコスの全住民をキトノス島に避難させるには充分であった。また、人員の輸送が終わった後もピストン輸送により、カヤーニ軍到着の寸前まで物資を運び出していた。

 単純に積載量を考えれば櫂船より帆船が優れていたが、風待ちをする余裕が無かったため、櫂船で人と物資を輸送したものと思われる。また軍船である櫂船を、できるだけキトノス島に移動させたいという意図もあった。


 都市イオルコスを占拠したカヤーニ軍がまず行ったのが、12あった城門を1つを除いて塞ぐことであった。12の門を守備するにはカヤーニ軍は少なすぎたのである。閉塞工事は、門に型枠を設置しコンクリートを流し込むことによって行われ、速やかに完了した。

 その後は、兵の多くをカヤーニ本国に戻し、本国の補給を受けながら、本国の守備に無理がない兵力で徐々にイオルコスの植民地化を進める計画だったが、そうはいかなかった。

 イオルコス側がキトノス島からたびたび兵を出し、常に都市イオルコスの城壁を越える機会をうかがっていたためである。カヤーニ軍は全長15kmの城壁上を騎乗で移動しながら警備していたが、15kmを完璧に見張ることは出来ず、たびたび城壁にとりつかれた。その都度、軍が急行して撃退していたが、兵を本国に戻せる状況ではなかった。またイオルコスは、本国との補給部隊も狙ったため、こちらの警護にも兵が必要であった。


 イオルコスの単独の指導者となったデモステネスは、二度の敗戦でカヤーニ軍の強さを痛感していたので、正面から対決せずに、持久戦をしながら都市イオルコスの奪還を狙う作戦をとった。カヤーニ軍は海軍を持ち合わせていなかったので、キトノス島に侵攻してくる可能性は少なかったし、もともと小麦の生産量が少ないイオルコスでは小麦供給を海外からの輸入に頼っていたので、自領からの収穫物がなくても直ちに飢えることはなかった。

 この持久戦略を可能にしたのは、海外でのタレスの活躍であった。タレスはフロリナ会戦後も、海外でイオルコスへの支援を要請しており、特に小麦の輸出元を訪問し、小麦輸出の継続及び対価の支払い期日の延長を要請していた。また海外在住の有力なイオルコス人を訪問し、物的金銭的援助も要請していた。これにより都市が占領されても継戦が可能になったのである。

 これはカヤーニにとって誤算だった。住民集会で議決された計画では、都市を占領した時点で組織的な抵抗は終結するものと考えられていた。

 リクハルドはこの状態を打破すべく、海上での戦闘やキトノス島への上陸について、研究と実験を行っていた。カヤーニ軍の人数では櫂船を動かすことは不可能だったので、港に残されていた船を利用し、少数で動かせる帆船の操船や船上での砲撃について訓練していた。しかし帆船の操船はそう簡単に習得できるものではなかった。

 イオルコス軍の襲撃で大きな被害が発生することはなかったが、事態を打開する方法もないまま、約3か月が経過した。


 年が変わって完新世暦2305年1月18日、リクハルドの元にカヤーニ本国から報告が届いた。カヤーニの北隣の都市国家ヨーテポリの軍がカヤーニ領に侵入したというものであった。ヨーテポリはカヤーニと同じアンデルスの都市国家である。

 今までも少数の兵で互いの領土を侵犯することはあったが、カヤーニが手薄になったタイミングであれば、都市攻略を狙った大規模な軍事行動の可能性があるとリクハルドは考えた。そのため、ただちに騎兵110騎を本国の救援に向かわせた。

 カヤーニの騎兵は1日に60kmを行軍することができる。行軍に不適な冬であることを勘案しても3日で都市カヤーニに到着する速度である。


 カヤーニに侵入したヨーテポリ軍は326人で、偵察、連絡要員以外は全員歩兵又は砲兵であり、騎兵はいなかった。ヨーテポリではカヤーニと比べて軍馬の改良が遅れており、完全武装したアンデルスを乗せて行軍できる体格の馬が少なかったためである。

 一方、鉄鉱石と石炭を産出し鉄資源が豊富なヨーテポリでは、歩兵にも歩兵砲と呼ばれる砲が配備されていた。37mmの小口径の砲であり、1門につき2頭の馬が配備され、1頭が挽馬となり、もう1頭が砲弾を乗せて歩いた。小口径とはいえ、170kgの歩兵砲の牽引は馬にとって負担なので、交代で牽引させた。カヤーニに侵入したヨーテポリ軍はこの歩兵砲を21門擁していた。

 完新世暦2304年末時点でのヨーテポリの人口は418人であった。そのうち326人を動員するということは、国家の総力を尽くすということであり、小競り合いで終わらせる規模ではなかった。

 カヤーニ領に入ったヨーテポリ軍は、都市カヤーニの北東25kmの地点で大規模な土木工事をはじめた。これは野戦築城の規模を越えており、その地に要塞を設けヨーテポリ領を拡大する試みだった。


 カヤーニ軍の救援部隊を率いるのはカティであった。カティはカヤーニ在留部隊と合流せずに、ヨーテポリ軍に直行し、在留部隊と連携して挟撃することとした。幸いヨーテポリ軍は工事を行っている地点に留まり移動していなかったので、カティはその位置を把握していた。また、カティ率いる救援部隊は高速移動していたのでヨーテポリ軍は救援部隊の位置を把握していないと思われた。

 カヤーニ軍の在留者は138人であった。幼い子供以外は、16歳未満の未成年であっても、老人であっても非常時には銃を手にするのがアンデルスである。138人のうち112人は戦闘が可能であった。

 ヨーテポリ軍挟撃のため、112人中の95人が出撃した。騎兵はいなかったが、機関砲を5門牽引しての出撃であった。ヨーテポリ軍が土木工事をしているあたりで、在留部隊は西から、救援部隊は東から挟撃する計画であった。

 ヨーテポリ軍は救援部隊の動きは把握していなかったが、都市カヤーニの動きは常に監視していたため、在留部隊の出撃をすぐに把握した。

 ヨーテポリ軍の作戦は、カヤーニ軍の妨害がなければそのまま要塞を完成させ、カヤーニ軍が都市を出てくれば人数差を活かしてこれを積極的に攻撃するというものであった。そしてカヤーニの残留部隊は都市を出てきた。ヨーテポリ軍は当初の作戦どおり工事現場を捨ておいて、全軍で残留部隊攻撃に向かった。

 この両者は中間点にあるピエリネン湖の湖畔の森林地帯で遭遇し、そのまま戦闘状態に突入した。ピエリネン湖の戦いである。

 先に敵を発見したのはカヤーニ軍であった。カヤーニ軍はヨーテポリ軍前衛に射撃し、数人を戦闘不能にした。ヨーテポリ軍は直ちに反撃を開始したが、隊列が長く伸びており、当初は人数差を活かした反撃ができなかった。ただし、時間が経過すると後続が到着し、徐々に組織的な攻撃を行うにようになり、ヨーテポリ軍が優勢になった。

 そのような戦況の中、カヤーニ軍の5門の機関砲が戦場に到着し稼動を開始した。すると、徐々に劣勢になっていたカヤーニ軍は、機関砲の射線の後ろに入ろうと本能的に機関砲の付近に集まった。

 密集した敵は砲の格好の的である。ヨーテポリ軍は機関砲付近に歩兵砲を集中的に打ち込み、榴散弾はカヤーニ軍の上空で炸裂し、密集したカヤーニ軍を効率的に薙ぎ倒した。カヤーニ軍残留部隊は大きな被害を出し壊滅した。4時間の攻防であった。

 練度の高い者はイオルコス遠征軍に参加していたため、残留部隊の練度は低かった。機関砲や榴散弾を用いる戦闘では、目標を絞らせないために散開することが基本であるが、練度の低い残留部隊は少数で戦線を維持する不安に打ち勝つことが出来ず、本能的に密集してしまったのであろう。

 一方、カティが率いる救援部隊はヨーテポリ軍の後衛を奇襲していた。ヨーテポリ軍の後続は、降雪のため本体から大幅に遅れていた砲兵52人であった。不意を突かれた砲兵は、最初に3分の1の兵を失いながらも、素早く機動する騎兵に対し銃で反撃した。その後砲兵達は火砲を捨て、騎兵の機動力を発揮できない森に入って応戦した。カヤーニ軍はこれに対し1時間程度交戦し一定の戦果を挙げたが、砲兵を殲滅させるには更に時間が必要に思えた。カティはここでこれ以上時間をかけると、当初の目的である挟撃の機を失うと判断し、砲兵への攻撃を中断してヨーテポリ軍歩兵を追った。この時点で既に残留部隊は壊滅していたが、カティはまだその事実を知らなかった。


 ヨーテポリ軍は砲兵からの報告により、後方からの敵騎兵の攻撃を知っていた。知っていながら砲兵への救援部隊を出さなかった。急行して砲兵を救援するより万全の体制でカヤーニ騎兵を迎え打つことを優先したからである。カヤーニ騎兵はヨーテポリ軍歩兵の足跡を辿って進行すると予測し、進路上で待ち構えると共に、左右の森に軍を潜伏させた。カティは挟撃実現を焦るあまり、周囲の警戒よりスピードを優先したのかもしれない。ヨーテポリ軍がコの字状に布陣する真ん中に飛び込んでしまった。カヤーニ騎兵は三方から射撃されたちまち被害を出した。ヨーテポリ軍は馬を狙ったため、この時点で乗馬を失った者も多かった。カティは状況を理解し、馬首を返して半包囲状態を脱するように指示した。そこに放置していったヨーテポリ軍砲兵が立ち塞がった。この火砲を一時的に放棄した「元」砲兵は20人程度の少人数だったが、背後に迫っている敵を考えると、じっくり交戦している暇はなかった。カヤーニ騎兵はカティを先頭に騎射しながら元砲兵に突撃し、これを突破した。ただし、乗馬を失って徒歩となっていた者は騎兵の突破行に続くことができず、前方の砲兵と交戦する間にヨーテポリ軍本隊に追いつかれ、全員戦死した。こうしてカティが包囲を脱した時には、救援部隊は22人を数えるのみとなっていた。

 その後カヤーニ騎兵はヨーテポリ軍を迂回して、残留部隊と合流しようと機動するが、カティはその際に残留部隊の壊滅を知った。

 残りの兵力では無事に都市カヤーニに入ることができても、城壁を守りきることは困難に思われた。カティは都市カヤーニの救援を諦め、残り兵を率いてイオルコスに向かった。

 

 ヨーテポリ軍は都市カヤーニの城壁前に現れ、砲撃を加えた。カヤーニ側には積極的に反撃できる人数はいなかったので、騎乗できる者は都市を捨て在イオルコスのカヤーニ軍との合流を試みた。都市カヤーニの城門は1門のみである。ヨーテポリ軍は城門前に終結しており、脱出を図った者は全員射殺された。

 残りの者は交戦不能であったので、城門を破る必要もなかった。城壁をよじ登り、内側から城門を開けて突入し、残っていた子供や老人を全員殺害した。

 完新世暦1552年に、東方の都市ユフヴィから500kmを旅してきた46人の若者によって建国されたカヤーニは、建国から753年を経て初めてその主を変えることになった。


 リクハルドは戻ってきたカティらの報告によって都市カヤーニが陥落したことを知った。

 アンデルスはあまり感情に関する記録を残さない種であったが、この時ばかりは母都市や家族を失った悲しみを伝える日記が多く残っている。

 しかし、母都市からの補給が無くてはイオルコスとの継戦は不可能であり、感傷に浸っている暇はなかった。

 完新世暦2304年5月の住民集会で決定されたのはイオルコスの攻略であり、リクハルドにはこれを逸脱した軍事行動を行う権限はなかった。従って残り211人になってしまった全住民により、今後の方針を決定する住民集会が開かれた。住民集会冒頭で、リクハルドがイオルコスとの継戦が不可能である旨を宣言した。その後、方針を提案したのは言語学者のライノという女性であった。

 人口が少ないアンデルスの世界では、学者といえども実務的に社会に貢献することが求められる。ライノはそのヴィオティア語能力を活かして、ヴィオティア地方の国際情勢に関する情報を収集していた。

 そのライノが提案したのは、イオルコスから約150km南に浮かぶボズジャ島の攻略であった。ライノはボズジャ島を居住地とすべき理由について以下を挙げた。

・400平方km程の面積があるにも関わらず、ほぼ全域が山地で人口は2500人程度であり、攻略が容易であること

・島の中央部は1500m級の山地で河川に高低差があり、発電及び電気炉の設置に最適であること

・神聖海上同盟には加入しておらず、イオルコスとの戦闘を終了させられること

・イオルコスのライバルである都市国家ピリッポイ主導の半島同盟に加入していたが、ピリッポイはクレオンが糸をひいた奴隷反乱の鎮圧中であり、兵を出せないこと

・船は火砲の運搬に適しており、ヴィオティア海全域の沿岸部を略奪することにより必要な物資を得られること


 カヤーニ人のほとんどはイオルコスに来るまで海を見たことがなく、島を本拠とすることに抵抗があった。またカヤーニでの生産活動は広大な土地に立脚していたので耕地や牧草地を確保できないことも不安であった。

 ただ、ライノの提案を上回る条件の選択肢はなく、標的をボズジャ島とする旨が決定された。またその軍事行動の指揮は引き続きリクハルドが行う旨も決定された。

 

 イオルコスは都市を去る際に、軍船である三段櫂船は焼却していったが、商船である帆船は残していった。カヤーニ軍は帆船の操船訓練を行っていたところ、理解が早く体格に恵まれていることもあり、この時期にはなんとか動かすことができるようになっていた。

 補給が期待できない状況では、あらゆる物を持って行くしかない。この事情もあり、積載量120t級の当時としては中型の帆船3隻でボズジャ島に向かうことになった。

 出発は約2か月後の4月1日と決まった。出来るだけ早く現状を打破したいという考えと、3月までは海が荒れて航海に向かないという事情を考慮したぎりぎりの日程であった。

 だが、その時間で操船、揺れる船上での火器の運用、上陸に関する訓練を行うことができた。また、騎兵は毎日周辺地域に略奪に出て食料を持ち帰り、それを乾燥、燻煙、塩漬けなどの方法によって加工したり瓶詰めにして保存食を製造した。ちなみにカヤーニは内陸国で岩塩の産出も少なく塩分が貴重だったので、イオルコスに来て食べられるようになった牛肉の塩漬コーンドビーフは最高のご馳走であり、人気があった。出航準備の間にもイオルコス軍との小規模な戦闘は続いていた。

 こうしてあらゆる物資を積み込んで、予定どおり4月1日にイオルコス港を出航した。

 ヴィオティア海の海図や航路図についてはカヤーニを出た当初から保有しており、その航路図どおりに進めば3日でボズジャ島に到着する予定であったが、実際にはそうはいかなかった。

 まず、想定する速度が出なかった。操船訓練をしたと言っても、イオルコス海軍の襲撃を警戒し、港に配備された野砲の射程距離である4km圏内から大きくはずれないように訓練しただけであった。これでは頻繁に向きが変わるヴィオティア海の風をよんで帆を最適に調整するという技能は身につかなかったのであろう。後年の研究ではこの時の平均速度は2ノット程度だったとされている。これは同時代の同型帆船の半分以下の速度である。

 また海図上の暗礁を大きく迂回したことも、時間がかかった理由であった。実際には通ったことがない航路なので、慎重に進路を選んだのであろう。

 最大の事件は2日目の夜に起こった。当時の帆船は日中だけ航海し夜間は停泊していたが、夜の間に流されて、1隻がはぐれてしまったのだ。そしてその1隻はそのまま行方不明となりついに合流することは出来なかった。この期間は晴天に恵まれていたので、嵐により沈没したということはないであろう。火薬の爆発事故で沈没した、暗礁に乗り上げた、はぐれたところを海賊に襲われた等の様々な説があるが、この時の1隻は現在にいたるまで発見されておらず、事実はいまだ謎である。

 リクハルドははぐれた1隻の捜索に1日を費やしたが、発見を諦めて、ボズジャ島に向けて進路をとった。

 その後は進路途中の島に1回上陸して水を補給し、ボズジャ島に到着したのは4月7日の早朝だった。


 ボズジャ島の唯一の都市は島名と同じでボズジャといった。港を持つ海港都市であったが、イオルコスから比べればはるかに小さい都市だった。

 リクハルドは都市の近くの浜に上陸し、野砲を陸揚げした。上陸について何の妨害もなく完了することができた。当時は軍船は櫂船であることが常識であり、カヤーニの2隻は商船だと思われたのであろう。

 リクハルドは悠々と隊列を整え、城壁前まで進軍した。この時点ではボズジャ側もさすがに侵攻軍に気付いており、城門を閉じて抵抗の意思を示した。

 カヤーニの攻城砲は行方不明の1隻と共に失われていた。従って城門を攻撃したのは威力において劣る野砲であったが、貧弱なボズジャの城門を破るには充分であった。

 カヤーニ軍は、城壁上のボズジャの防衛隊を榴散弾により排除した後、城壁前で1日を過ごしてから入城した。弾薬の消費を避けるため、ボズジャの住民に逃亡の時間を与えたのであった。イオルコスが出した大きな被害についてはボズジャにも伝わっており、抵抗を試みる者はいなかった。リクハルドは全住民が船で逃亡した後のボズジャに悠々と入城した。


 一般的にはケミの戦いから、カヤーニ軍のボズジャ入城までの一連の戦闘をカヤーニ戦役という。


 カヤーニ戦役の結果、カヤーニは都市カヤーニを失い、ヨーテポリがそれを得た。ヨーテポリ系住民が住むこととなったカヤーニとヨーテポリは、約30年間は連携を維持し、周囲のアンデルス国家を脅かし続けた。

 イオルコスは人口を大きく毀損したが、激闘の末にアンデルスを撃退したという名声はサピエンス世界に轟き、引き続き神聖海上同盟の盟主として君臨した。そして歴史上タンデム体制と呼ばれるデモステネスとタレスの指導のもと、自由貿易とそれを保護する強力な海軍、自由貿易の恩恵を分かち合う同盟都市の増加により全盛期を迎えることになる。


 ボズジャに移住したカヤーニの元住民は、スクリュー推進の蒸気船と無煙火薬により、ヴィオティア海で最も強力な海軍を持つことになる国家を成立させる。

 ボズジャ攻略後の完新生暦2305年4月28日、住民集会により新たな国家の成立が宣言された。国家の名称はウーシ・カヤーニ(アンデルスの共通語で「新しいカヤーニ」の意)とされ、同時に都市ボズジャとボズジャ島もウーシ・カヤーニと改名された。


【第1章 完】

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