第五話 落涙
残酷描写アリ。いつもより話が長いです。
「……ん」
目を覚ますと体のあちこちが痛んだ。
部屋中真っ暗で、窓から外の光は入ってこない。
暗闇に目が慣れてから時計に見ると九時を回ったところだった。
そうすると僕は丸一日寝ていたことになる。
いくつか傷はあるものの、体は綺麗にされていた。
相変わらず手首は手錠で拘束されたまま、鎖でベッドに繋がれていた。
昨日は一段と酷かった。
寛人が家に訪ねて来たらしく、父さんは大声で怒鳴っていた。
寛人に会いたかったが、鎖で繋がれた僕はどうすることもできない。
例え繋がれていなかったとしても寛人と二度と会わない約束になっている。
寛人を見逃してもらうかわりに、父さんの言うことを何でもきく事と二度と会わない事を条件に許してもらった。
許してもらう?
どうして?
だっておかしいじゃないか。
僕は何も悪いことなんてしてないのに。
寛人と一緒にいたいだけなのに。
父さんは狂っている。
僕を所有物にしたがっている。
自分の思い通りになるように力で捩じ伏せ、服従させて『ご主人様』にでもなったつもりでいる。
あんな奴、父さんじゃない。
優しかった父さんはどこかへ行ってしまった。
もう返ってこないんだ。
僕は一生あの男の言いなりなんだ。
好きな人の傍にいることも許されず、死ぬまでずっとあの男の物であり続けるんだ。
そんなの、嫌だ。
あの男さえいなければ僕らは幸せになれたのに。
ずっと一緒にいられたはずなのに。
あいつさえいなければ。
あの男が悪いんだ。
あんな奴、いなくなっちゃえばいいのに。
死ねばいいのに。
死。
なら、どうすればいい?
どうすればあいつはいなくなる?
なんだ、簡単じゃないか。
そんなの、
階段を上る足音がする。
その足音は真っ直ぐ僕の部屋に近付いてくる。
次いでドアが開き、部屋の電気が点けられる。
「優杞、いい子にしてたか?」
背中を向けた僕に話しかける。
僕は後ろを振り返り、少し恥じらうようにうつ向き、しばらく間を空けてから真っ直ぐ男の目を見つめた。
「……ねぇ、パパ」
男の求める僕を演じる。
「早くパパが欲しいの。これ外して……だめ?」
手錠をはめられた手を差し出し、小首をかしげる。
「優杞……!やっとわかってくれたんだな!解った、外してやる。パパが可愛がってやるからな」
「ありがとう、パパ!大好きっ」
これで暴力は奮わないだろう。
僕の言ったことをちゃんと信じているみたいだから隙だらけだ。
男は手錠を外すとすぐに僕に乗しかかってきた。
男の舌が僕の体を舐め回す。
ナメクジが這っているようで気持ち悪い。
その感覚に吐き気を覚えながら、まるで感じているかのように喘ぐ。
男の求める『パパが大好きな従順で淫乱な僕』が喘ぐ。
僕は男の期待した通りの反応をし声を上げて、仕草や表情を演じ続けた。
すっかり僕が自分の物になったと安心したのか、男は事が終わると僕の隣で眠り始めた。
そっとベッドから抜け出し傍に散らかっていた制服を掴み、真っ先に風呂場に行ってシャワーを浴びた。
男の体液で汚れた体を一刻も早く洗いたかった。
念入りに体を洗い後処理をすませ、風呂場を出た。
服に着替えたあとで僕はキッチンに向かった。
出来るのか?
本当に出来るのだろうか。
しばらく迷ったが、意を決して包丁を掴み、あの男がいる寝室を目指した。
ドアを薄く開き中を見ると案の定、男はぐっすり寝入っていた。
そっとドアを閉め、足音をたてないように近付く。
布団を除けても起きる気配はない。
包丁を握る手は汗ばみ、全身から汗が噴きだした。
動悸が激しくなり、呼吸が乱れる。
やるんだ。
僕なら出来る。
いっそう力を込めて包丁を握り直した、その時。
男は僅かに身じろいだかと思うと、目を覚ました。
僕は慌てて包丁をベッドの下に隠した。
「どうした優杞……目が覚めたのか」
「あ…うん、汗かいちゃったから寝苦しくて…」
慌てて言い訳をしたが、どうやら気づかれてはいないようだ。
「よし、ならパパと風呂に入ろう。なぁ?」
下心に満ち満ちた気味の悪い笑顔を向ける男。
下手に機嫌を損ねる訳にはいかない。
「うん」
今は機会を窺おう。
男の寝室から出て風呂場に向かう。
風呂場に着いたら、またあのおぞましい行為をさせられるのだろう。
そう考えた途端、吐き気が込み上げてきた。
そして間が悪いことに男の手が僕の肩に、触れた。
瞬間、僕は反射的に男を突き飛ばした。
すぐそこは、階段。
一瞬の出来事だった。
突き飛ばされた男が後ろに倒れる。
よくテレビなんかで交通事故にあった人が事故の瞬間がスローモーションに見える、なんて話がある。
勿論、事故になんてあったことないから本当にそうなのかわからない。
けど、つい手が滑ってコップを割った時。地面に落ちて割れるまでの一連の動きの間はいやにゆっくり時間が流れる。
きっとあれと同じことなんだろう。
つまり、そんな感じで、
「うわああああ!!」
絶叫。
男の体はゆっくりと。ゆっくりと後ろに倒れる。
コップを割った時もそうだったように、僕は父さんの一連の動きをただ見ていることしか出来なかった。
男が階段にぶつかり、ごつごつと凄まじい音をたてながら転がり落ちる。
ゴッ…!
一番下の段まで落ちた男は最後に一際鈍い音をたてると、やっと動きを止めた。
僕は金縛りにあったようにその場から動けずにいた。
目の前の光景が信じられない。
まさか……死んだ?
ここからじゃよくわからない。もっと近付かないと……。
僕は何とかして足を動かした。
階段を一段一段降りて行く。
全身から嫌な汗が吹き出し、足ががくがくと震える。呼吸が乱れてまともに息ができない。
意を決して男の横を通り過ぎて正面に立つ。
手足があらぬ方向に折れ曲がっている、なんてことをにはなっていないが頭から血が出ている。
血の海が出来るほどの出血を想像していたが、そこまで血は出ていなかった。
おそるおそる屈み込んで様子を伺うが、やっぱり動かない。
死んでる……!
全身から血の気が引く。
なのに僕はどこかほっとしていた。
そうだ、これは僕の望んだ事じゃないか。
僕は、自由になれる。
「ううっ……」
男がうめき声を上げる。
僕に再び凍りつくような恐怖が蘇った。
恐らく気を失っていたのであろう男が僕の姿を目で捉える。
「あぁ優杞!た、頼む、助けてくれ……。痛い、痛いんだよ…うぐぅ……!」
男が苦痛に顔を歪めながら必死で懇願する。
痛い、だって?
『やだ、やめて……、痛い、痛いよ……!』
「なあ頼むよ、助けてくれ!ほら、優杞!」
助けてなんかくれなかったじゃないか。
『やだやだっ、助けて!』
「すまなかった、俺が悪かったからっ、だから許してくれ!」
『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ許してください………!』
どんなに謝っても許してくれなかったくせに。
僕が、何をしたっていうんだ。
「……救急車、呼んでくるね」
ふらりとその場から離れ、リビングに向かう。
「あぁ優杞、いい子だ。さすが俺の可愛い息子だ!」
うるさい黙れ、黙れ黙れ黙れ。
部屋に入った僕は電話を素通りしてキッチンに向かった。
部屋の外では男がしつこくわめいている。
ああ……苛々する。煩い煩いうるさい。
僕は目的の物を取り出すとさっさと部屋を出た。
その頃になると男は喋るのも難しいのか、時々痛いと言う以外はほとんど意味のないうめき声を上げるだけになった。
僕は後ろ手に包丁を握りしめてゆっくり男に近づいた。
痛みに蹲っている男は僕が隠し持った包丁にまったく気付いていない様子だった。
男が再び僕にすがりつくような目を向けた。
「よくやったぞ優杞!いや、本当にすまない。パパが悪かった。怒ってるんだろ?今までの事を。許してくれ、この通りだ!」
うるさい。
「でもこれは優杞のためなんだ。わかってくれるよな?」
黙れ。
「そうだ、お前を本当に愛しているのは俺なんだ。お前だってそうだろう?」
やめろ。
「パパの事好きだろう?さっきは恥ずかしがってただなんだよな。
あぁ……なんて可愛いんだ、優杞。一生俺のモノだ!
……あーくそ、痛い。優杞、救急車はまだなのか……」
違う。
僕はお前のモノなんかじゃない。
頭がズキズキと痛む。
震える手で包丁を握りしめる力がこもる。
男が喋るたびにひどく苛々する。頭の中がぐちゃぐちゃになっておかしくなりそうになる。
痛い痛いと言いながらも喋り続けるこの男に、もはや憎悪以外なにも感じられない。
あぁもう、煩いうるさいうるさい黙れ!
―――――ドスッ
僕は、男の腹に目がけて一気に包丁を降り下ろし、突き立てた。
男が自分の腹に刺さった包丁を見て目を見開いた。
「ひいぃっ!」
すぐに包丁を引き抜き、さらに突き立てた。
続け様に何度も刺し続ける。何度も何度も。
「ぐああぁああああ!」
グサッ、グサッ、グサッ
「うぐぅっ、ぐあっ、ぐぎゃああああ!」
どんなに叫ぼうが苦しもうが関係ない。
ただひたすら目の前の男を刺し続ける。
「やめろっやめてくれえええ!
痛いいたいぃいいぃぎぁあああ!」
男が必死の形相で叫ぶ。
男の言葉は僕の怒りをさらに煽る。
「うるさいうるさい黙れ!
痛いだって?僕がどんなに痛いって言ってもやめてくれなかったくせに!」
グシャッ、ぐしゃあッ!
「つらかった、怖かった、苦しかった!なのに絶対に許してくれない!
どうして僕があんなことされなきゃいけなかったんだよ!」
「ぐぎゃあ!ぎエぇ…あがああァっ」
グチャッ、グじゅッ
「全部お前が悪いんだ!
お前さえいなければ僕は寛人とずっと一緒にいられたのにっ!」
そうだ。全てこの男のせいだ。
僕らの幸せはこの男のせいで壊されたんだ。
この男が全てを狂わせた。
こんな奴いなくなればいい。この世に存在してはいけない。
幸せを奪われた僕には、この男を罰する権利がある。
この男を殺さなければならない。
殺せ、殺すんだ。
殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ!
僕は、
僕らは、幸せになるんだ。
ずっと一緒だって誓ったんだ。
だから……!
「殺してやるっ!」
ザシュッ、グジュッ!
「ぐぅおぉぉっ、
げあああぁぁあっっ!」
消えろ消えろ消えろ!
「絶対に許さないっ。
僕らの邪魔はさせない!
お前さえいなければ幸せになれるんだ。
寛人とずっと一緒にいられるんだ!」
グチャッ
グジュッジュグッ
「がっ……ぐうぅ…ぁあ……」
「死ね死ね死ねっ!
死んじゃえええぇぇー―――!!
あははははははぁ!」
狂ったように笑いながら包丁を突き立てる。
包丁を男の体に刺すたびに僕は幸せに近付いているような気がした。
それが嬉しくて嬉しくて、僕は何度も包丁で刺した。
いつの間にか男の体はぴくりとも動かなくなっていた。
死んだ?
でも僕はそんなのお構い無しに刺し続けた。
失敗は許されない。
確実に殺さないと。殺さないといけない。
本当に死んだのか?
もしかしたら、死んだふりをしてこの場をやり過ごそうとしているかもしれないじゃないか。
僕が油断した隙をついて襲いかかってくるつもりなんだ。
そうに違いない。絶対そうだ。
僕はさらに包丁を握る手に力を込めた。僕を力でねじ伏せて、無抵抗になったところで犯すんだ。
何度も、何度も。
男はにやにやと嫌らしい笑みを浮かべながら、僕をいたぶる。
僕はひたすら謝りながら泣き叫ぶことしかできない。
『痛いいたいよ!やだやだぁ助けて!もう許してっ……いやだぁーーー!』
「うあああああああっ!」
ぐジュうッ…!
「騙されるもんかっ!僕はお前の所有物なんかじゃない!
この程度ですむと思うなっ、何とか言えよ!」
男は何も言わない。
それがさらに僕を苛立たせた。
「…なんで、何も言わないんだよ!なんで……」
涙が出る。
ぐちゃぐちゃになった感情が一気に押し寄せてくる。
この涙が何なのか、わからない。
「どうして、何も言ってくれないの……?」
ああもう、何も見えないよ。
わからないよ。
「ねぇ、父さん。
……どこに行っちゃったの?」
――――カタンッ…
包丁が手から滑り落ちた。
「あ…」
その瞬間、目に飛び込んできた、
―――――――赤。
を、見た。
「あ…あぁ……」
なに、これ。
「あ、う、うそ……」
知らない、こんなの。
「ひっ…あ……」
赤、赤、赤。
赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤……
こんな真っ赤にしたのは、
誰?
「僕、が」
殺した。
「――――うわあああぁぁああああああぁぁぁ!!」
僕が、
僕が、殺した。
無茶苦茶に刺して刺して刺して。ぐちゃぐちゃにして。
何度も何度も。
ああどうしよう!どうしてこんなことに。
「あうぅ……父さん」
散らばった肉片を掻き集め、原型すらとどめていない腹部に無理矢理詰め込んだ。
ぬちゃっ、
じゅぐ……ずちゃ、
グじゅうっ………
「……いやだ、いやだ……ああぁ……戻さなきゃ……戻さなきゃ………」
どうしよう、どうすればいいの?
血が、こんなに沢山出て……!
中身も、ぐちゃぐちゃで、戻らないよ。
こんなことをしても手遅れだってわかるはずなのに、混乱して正常な判断能力を失った僕は泣きながら血肉を父さんの体に戻し続けた。
手にべったりと肉が纏わりついてきて気持ち悪い。
「戻らない、戻らない、戻らないよ……、
戻らない戻らない、戻らない戻らないもどらない戻らない戻らない戻らない………」
呪文のように繰り返しながら、ずっとそうしていた。
「だめ……戻らないよ。どうして、どうしてこんなことに……あぁ僕のせいだ……僕が殺しちゃったから……あんなに優しくて、大好きな父さんなのに……!全部僕が悪いんだ、全部……父さんごめんなさい、僕が…うぅ………」
もう、訳がわからない。
恐怖と罪悪感、困惑、絶望。
いろいろなものが一気に押し寄せてきて、本当におかしくなりそうだ。
頭がズキズキと痛んで、ひどく吐き気が込み上げてきた。
「うぐぅ……ッ!!」
堪え切れずにその場で嘔吐した。
「げほっ………はーっ、はあ……」
涙と吐瀉物でぐちゃぐちゃになったまま、父さんの胸に顔を埋めて泣いた。
まだ温かい鮮血がに付着する。
制服のシャツもすでに返り血が染み付いていたから、今更血が付くことなんて気にならなかったし、今はそんなことどうでもよかった。
「ごめんなさい、父さん。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
ごめんなさい、
ごめんなさい――――
どのくらいの間そうしていただろう。
僕は部屋の隅で膝を抱えて蹲っていた。
混乱した頭で考えるがどうすればいいのかわからない。
本当に殺してしまった…。
最悪だ。
もう駄目だ。
終わりにしよう、全部。
それでも、最期の瞬間は
「寛人……」
傍に、いたい。
遅くなってすみませんでした。




