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カドラプル  作者: アトリエめぇた
2.梔子の谷
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3.あなただけの地獄


「これは何ですか……じゃなかった、これは何?」

「きっと冷える。必要だ」


 梔子の谷へ向かう前夜、シズクが手渡してくれたのは少し重たい外套だった。ローブの上に羽織ると、確かに温かい。裾を持って広げると、まるでムササビみたいになるほどたっぷりしている。


「行って帰るだけで一日もかからない。それほど近いところだけれど、用心に越したことはないだろう」

「シズクは行ったことあるの?」

「……ない。私には鍵を見つけてやろうなんて野心はなかったから」

「わたし、見てみたいなぁ。持って帰らなくていいから」

「あぁ、せっかく行くのなら。けれど深追いだけは止めよう」

「うん」


 ──一瞬、返答に間があったのは、記憶をたどろうとして止めたからだと思う。


(昔のシズクは、どうだったのかな)


 実は世界中を旅していたのかもしれない。それとも、ひとつの町に留まって今みたいに本を相手にして暮らしていたのかもしれない。シズクの素性は、この町でのわたしと同じくらい曖昧だ。そして、それを受け入れてくれる誰かがいるのも同じ。


 シズクは知らないままだ。わたしがこんな大きなことを知っていること。何だか、ずるい気がした。いつか話してくれるつもりだったかもしれない。それとも、ずうっと話すつもりがなかったり、そもそも特別に打ち明けるような話じゃないと思っているのかも。


 時間がたつにつれて黒く残る痣のように、だんだん気がかりになってくる。シズクの持ちものを盗み見たんだ、なんて率直に言えない。そして、それならどうやってこのわだかまりを解消できる? なんてことも考えつかなかった。


「谷かぁ、霧かぁ、一角獣かぁ」


 それをごまかすように、少し大きくひとりごと。今は谷に集中するべきだ。せっかくシズクとお出かけできるんだから。


 谷は写真でしか見たことがないし、霧の中に飛び込んだこともない。一角獣は──言うまでもなく。知らないことは怖いけど、好奇心はそれを遥かに上回っている。勇者たちが踏み入るはずだった場所に、わたしたちが行くなんて。どんな冒険になるんだろう。


「遠足の前みたい。全然眠たくならないよ」

「けれど、眠らないと明日が辛くなる。さあ」


 シズクが居間の灯りをひとつ吹き消す。それを合図に、わたしも二階のあの部屋に戻ろうと席を立った。レンが寝起きしていたお人形の家みたいに可愛い部屋は、今はわたしが借りている。


「目を閉じているだけでも十分休息になるはずだ。まずは横になって」

「はぁい。おやすみなさい、シズク」

「あぁ、おやすみ」


 階段を上がる自分の足音より、鼓動の方が早い。今からこんなことになっていたら、明日はもっと大変だ。


「どうかふたりとも無事にたどり着けますように……あ、帰りもだった。えぇと、往復で無事でいられますように」


 相手も方角もなく祈りながら、部屋の扉を押し開けた。


***


「わぁ……」


 草原を見たことはあっても、歩いたことはない。獣道すらない、脛の辺りまで伸び放題の青々とした雑草が一面に広がっている。少し町から離れたら、こんな風になっているんだ。


 微かな風に揺られて、さらさらと涼しげな音を立てるたびに緑色が輝いて見えた。これが真昼の太陽の下なら、きっとそのまぶしさは比にならない。一歩進むたびに、さくさく小気味いい葉擦れが生まれる。


「きみの表情を見ていると楽しいな」


 ほんの少し前を歩くシズクが、振り返りながらくすくす笑う。


「どんな風に?」

「きみがわくわくしているのが伝わるんだ」

「そういうシズクこそ」

「そうだな。私も心が躍っている気がする」


 シズクは緩く目を閉じて、心地よさそうに深呼吸。透明な空気は湧き水みたいに微かな甘さがある。わたしがついさっき知ったことだ。今は朝だから、なおさら。


「わたしのいたところは、土地の中に町をぎゅうぎゅう詰めにしたような場所だったの。だから、こんな風に草原を歩いたことなかったよ」

「町が敷き詰められているのか?」


 体ごと向き直るシズクは驚いて「川は? 山はないのか?」と目を瞬かせる。そのまま後ろ向きに歩くんだから器用だ。もし転びそうになったら引っ張らなきゃ。


「川は建物の間を流れてて」


 それも、柵や堤防で治水されたもの。


「山はあるけど、たまに崩されたりするの。えぇと……開発? のためだって」

「ずいぶん人口が多いようだね」


 感心したように頷く表情は好奇心でいっぱい。


「どうしてわかるの?」

「そんな労力を使ってまで人間の場所を確保しなければいけないのかと思ったんだ」

「そっかあ」

「この一帯には町と王都だけだ。それで十分、人間は収容できる」


 ほとんど緑色だったあの地図を思い出す。歩いても歩いても何もない──訳じゃなく、ただただ誰の手も加えられていない風景が広がるところ。わたしの元いたところでも、人里を離れようとすれば見つかるんだろう。空を電線が横切ることはなく、休むための家屋が建つことはない自然が。それがとても少ないだけで。


「わ」


 短いけど鋭い突風に煽られて、髪がかき乱される。ふたりして手櫛で整えていると、シズク越しに見える山から微かな鳥の鳴き声が聞こえた。遠く、長く響いて最後は溶けるようになくなる。


「もうすぐだ」


 振り返るシズクの襟足がくしゃくしゃだったから、背伸びして指先でこっそり直しておく。見た目通り柔らかい髪で触っていて気持ちよかったけど、「くすぐったい」と忍び笑いされて止めざるを得なかった。残念。


「あー、こほん。ナツキちゃん、あれが梔子の谷の入口だ。紅葉のせいで紛れてしまっているけれど」


 一歩脇へ引いたシズクの向こう側に、なぜか麓へ近づくほど多くなる紅葉の一群が現れた。朱色と、ほんの少しの黄色が鮮やかさを競って塗り重ねたようにぶ厚い。生い茂る葉に隠された山道は、じいっと目を凝らしてようやく判別できた。


「綺麗」

「いい季節だ。景色を楽しみながら探索できる」

「欠けたり萎びたりしてない落ち葉、拾って歩こう」

「部屋に飾るのか?」

「うん。わたしと、シズクの分ね」

「風情があるな。帰り道にぜひ集めよう」


 山道の入口を目の前にして、小休憩をとる。わたしはお弁当を、シズクは山歩き用の道具をそれぞれ降ろして緑色の下草に姿勢を崩して座った。用意していた水を飲みながら、改めて空を仰ぐようにする。緩やかな斜面に立つ木はどれもどっしりと太くて、点々と残る切り株をほとんど隠してしまう。


「定期的に間伐をしているんだ。だからここの木はいつも元気だよ」

「かんばつ?」

「間引きだな。木を切っておいて、適切な密度を保つことで木がより育つ」

「へぇ」


 完全に人の手が入らないのもよくないことなんだ。


「住民の手に負えないところは野放しだけれど。頂上に近づくにつれ木が密集しているはずだ」

「寒いし、空気も薄そうだもんね」

「それと獣だ。食料がない谷には降りない。だから山に留まる。人間からしたら、頂上を目指している間に襲われる可能性が高くなる」

「じゃあ、ちょっと歩いたらすぐに谷に降りなくちゃ!」

「そうだ。違和感や危険を感じたら私に知らせること」

「はぁい」


 シズクは笑って「よろしい」と頷く。まるで先生だ。その動きで、腰の装備の一部が揺れて、かろん、と涼しげに鳴る。確か鈴を入れていたんだ。獣よけだったり、わたしたちがもしはぐれても、声以外でお互いの所在を伝えられるように。わたしのはローブのポケットに入っている。


「あ、そうだせんせ……じゃなくてシズク。その、書いてある文字なんだけどね」

「これか?」


 シズクは腰に提げた革袋を示す。小さく刻んであるのは例の、わたしが読めない方の文字だ。これと、わたしたちの鈴。刻まれた文字列の末尾には同じ記号(やっぱり象形文字に近い)がくっつけられていることに気づいた。


「工房の名前だな。王都は職人が多いから、自分たちを買い手に売り込む必要があるんだ」

「んー……じゃあ、この最後の記号は“生まれ”って意味なの?」

「あぁ、そうだ」


 シズクの声が弾む。ふたりで革袋を覗き込んだせいで、“生まれ”は陰になった。〇〇製、メイドイン〇〇なんかと同じ意味の。


「よく気づいたな」

「これと鈴、おんなじ記号がついてたから」

「そうか、偉いぞ」


 くしゅくしゅと頭を撫でられて、また髪がかき混ぜられた。優しい手だから気持ちよくて、また褒められたいな、なんて思う。


「もうそろそろ、きみに教えることを増やしても大丈夫そうだ。まずは読み書きから」


 細められた、穏やかな眼差し。わたしが何かをできるようになったことを、手放しに喜んでくれる。それがこんなに照れくさくって、誇らしくって、嬉しいなんて今まで知らなかった。


「はぁい、先生」


 そう考えると、何だか髪を直すのがもったいない気がした。この瞬間にあったものをなるべく残しておきたくて。


 そんな感傷は再びの突風にぶち壊されたけど。


「うー……」

「お互いぐしゃぐしゃだな」


 この調子だと、谷はもっと酷いかもしれない。ビル風みたいなのが吹き荒れていたら歩きづらそう。向かい風でも追い風でも悲惨なことになる気がする。


「きみが飛んでいかないか心配だ。あ、もう平気かな」

「うん」

「よし」


 シズクが立ち上がるのに従って、自分のポニーテールを一旦解いてひとつの三つ編みに大ざっぱに結い直した。ケープの内側にしまっておけば邪魔にはならないはず。


「器用だね」

「練習したから、軽い軽い……編むだけなら」


 シズクの不思議そうな視線が編み目に降りるのが少し恥ずかしい。鏡も櫛もないからあちこちほつれている。もう手触りでわかった。さっさとケープに隠して、駆け足で先を行く。


「さ、行こ行こ! あともうちょっと!」

「了解、隊長」


 シズクのおどけた口調を背に、山道に踏み入る。すでに落ちてしまった紅葉がさくさくと小気味いい音を返してくる。道、とは言うものの、背の高い草や太さがまちまちの木の幹のせいで隠れたり遠近感が掴みにくかったりする。


「あ、そこを左」

「ほんとだ、道だ」

「待った待った、斜面だ」

「わ、危ない……あ、シズク頭っ」


 シズクの案内がなければ滑って転んでの大惨事だったに違いない。その彼は時々木の枝に頭をぶつけてる。これがもし夜中だったら──なんて、想像するだけで寒気がする。見上げる青空は、広がる紅葉に遮られて点々と覗くだけ。カンバツがされていなかったら、その隙間もなく赤黃橙の斑に覆われていたはず。


「この辺りだ。ナツキちゃん、降りよう」

「はぁい。よいしょ」


 比較的なだらかな斜面を、傍らに生える蔦や飛び出した根に掴まりながらゆっくり下る。手元を横切る黒い塊に驚いて、それが小さな蟻で少し安心した。ここに来るまで大きな虫には出くわしていない。冬じゃないから、なんて心配していたけど。


「おいで」


 わたしを追い越して先に飛び降りたシズクが手を差し伸べてくれる。少し無理矢理体を伸ばして、その手を取った。


「えい」

「お疲れさま」


 少しだけ肩で息をするシズク。反対に、わたしはといえばいつの間にか体力を大きく浪費していた。額にうっすら汗をかいていたし、何より心臓の音が速い。


「あれ……?」

「登り坂ばかりだからな。仕方ない」


 それでも、暑さは感じない。冷えた空気が辺りに充満していた。体の熱がすっと引いていくのに合わせて、太陽が翳った。顔を上げると、ようやくここがどんなところなのか把握できる。


「あ……」

「たどり着けたみたいだな。ここが梔子の谷だ」

「……」


 音であふれていた数分前とは打って変わって、耳鳴りがしそうなほどの静けさが凍りついたように横たわっている。山と山の間、斜面と斜面の隙間のように頼りなげな細道が、表層の石畳を晒していた。ほとんど灰色のそこからは、申し訳程度に雑草が顔を出している。曲がりくねったその先はちょっとした下り坂になっていて、その両脇にはまるで壁のように反り立った崖が今にものしかかって来そうに首を垂らしていた。


 そして、そこに這うようにして散らばる白い点描。気づけば、それはわたしたちのすぐそばにも群生している。


「あ、シズク、これ!」

「あぁ。梔子だ」


 わたしが指差す先を確かめて、シズクは頷く。


 白い花びらが外側に向かって広がっている。個体によっては大きな白薔薇に見えなくもなかった。満開の花びらは大ぶりで、硬い葉を覆い隠しそうなほど。けぶるような淡い香りを微かに感じて──首を傾げる。


「どこかで……?」


 思い出した。練り香水の香りだ。家に置いてある、桜の香りのお気に入り。でも、梔子と全く同じだなんて、ありえるの? 桜の、しかも作りものと同じだなんて。「これは梔子じゃない」と判断したほうがまだ納得できる。


「それに触らないで」


 いつの間にか傍らにいたシズクが、ふとわたしの肩に手を置いた。「下がって」というように、軽く引かれる。


「え……」

「何か変だ」


 硬い声は、わたしだけではなく梔子の方にも向けられていた。眼鏡を外したり戻したり、目の前の光景が信じられないような言動。


「やっぱり……」


 違う花だよね。そう言おうとしたのは間違いだった。


 よくよく確かめれば、梔子(今はそういうことにしておく)の根は斜面の下から盛り上がっている木の根から生えていた。何だか寄生しているみたい。あの花にそんな特徴はなかったはずなのに。


「……」


 がっしりと太い木の根を内側から引き裂いて割り開いて、こんな風に咲いて当然という顔をした花が、ここだけではなく、あちらこちらに。崖に沿っているのも多分こんな風なんだろう。まるで、この谷の名前に合わせて無理矢理住み着こうとしたように。


 ほとんど岩肌に近いここでは、自然のままでは芽吹くこともできなかったはず。


 歪な生まれ方をした梔子が、わたしを大きな一つ目でじいっと見つめているように感じた。


「……」


 そろり、と、背中を冷たいものが触れていく。突然変異だとか、こういう進化をしたとか、説明なんていくらでもできたはずなのに、気持ちに反して思考は冷静に「梔子」だと結論づける。だってここは梔子の谷だ。


「これは……」


 そんなことばとともに、シズクの手のひらがぱたりとわたしの肩から滑り落ちていった。突然力が抜けたような動きに少しびっくりして──でも、見上げた先の表情は穏やかだ。


「一度戻ろう」


 微笑で告げられて、そしてその背後の様子を見て、やっとそのことばの意味がわかる。


「わぁ……」


 視界が白く霞んでいた。地面も岩肌も、上から薄幕を覆い被せたように例外なく元の色を失っている。


 これが、レンの言っていた霧だ。


「さあ」

「うん……わかった」


 霧って、こんなに急に、しかも濃く出てくるものなんだ。さっきまでは遠い遠いところまで見通せていたのに。気のせいかどうか、ひんやりとしたものを感じて慌ててケープの前をしっかり閉じる。


 その様子を、シズクは微笑んだまま見守っている。


「……」


 ずれてる。


 ふと、そう思った。促されたとおり一歩後ろに引く足が、ケープのボタンを留め直す指が、どこか観察めいた事務的な視線に晒されている。それは、今この状況にそぐわない種類のものだ。ついでに、その笑顔にもそぐわない。何より、シズクがそんな目をするのを見たことがない。


「シズク」


 何? と言うように僅かに首を傾げる動きのせいで、眼鏡が弱々しい太陽の光を返す。ずいぶん霧が深くなり、晴れていた空は分厚い雲に覆われ始めていた。


 目の表情が読み取れなくなっただけで、心臓の辺りがざわつくような嫌な感じがする。


「……」


 静かに、シズクはわたしを待つ。沈黙がこれ以上硬質化する前に、帰り道を眺めるふりをして目をそらした。あと一秒と耐えられなかったから。


 何かが違う。これは、いけないことだ。ごまかさないと、紛らわさないと。何も気取られないように。何も気づかないように。


「危ないもんね。残念だけど進めないね」

「ナツキちゃん」


 その声は頭のてっぺんから、すとんとおなかに落ちてきた。真後ろに、シズクが立っている。その細面をかくんと下向けて、わたしを見下ろしているのがわかった。


「ナツキちゃん」

「……!」


 熱のない声。体温のない声。


 何が起きているの?


 シズクに何が?


「ナツキちゃん」


 一歩ずつ、シズクが正面に回り込んでくる。振り向くことも、返事もできない。ここ一帯もろとも氷漬けにされたようだ。冷えた空気は喉に流れ込むことなく、舌の上で塊のまま滞る。


 これは、シズクを相手にした感情じゃない。


「ナツキちゃん」


 音の飛んだCDみたいに、均一な抑揚が繰り返される。わたしの目の前で膝をついたシズクは、優しい笑顔のまま平坦な声色で続けた。


「何を見た?」


 緩く手を取られる。


 欠片の体温も感じなかった。


「……!」


 知られている。このシズクはわたしの隠しごとを、後ろめたさを知っている。


 それならこれは、目の前にいるこれはシズクじゃない。


「やめて……!」


 つい罪悪感を抱くほどに、思いっきりその手を振り払った。


 わたしはこれの正体を知っている。気づいてしまえば納得がいく。でもいつから? いつからシズクのかたちでここにいた?


 これは霧の幕に映った幻だ。


 そして、わたしの「心の闇」。


 ことばにすると安っぽくて、使い古された印象は拭えない。その分、それが何なのかとても簡単に想像がついた。ついてしまった。


「──」


 それは、少しだけ驚いたように目を見開いた。人間じみた反応は、でもすぐに溶けていく。


「え……?」


 リボンを解くように、ひとのかたちをした輪郭がするりと緩む。後ろに傾いでいく体を脱ぎ捨てて、中身がだけが残った。伸べられた指先は、痙攣しながら伸び縮みを止めない。


「……」


 黒々とした目。吸血鬼の牙みたいに尖った顎。針金を思わせる、鈍い光沢を放つ節足。


 今の今までわたしの手を掴まえていたのは何匹も何匹も集まって大きな怪物になった蜂だった。


「ぶぶ」


 そして、思い出したかのように始まる羽音。


「ぶぶ」

「ぶぶ」


 硬い翅が、脚が擦れる硬い音。それ自体が羽虫のようにわたしを取り囲んで、体中を這い回る錯覚がした。


「いや……」


 後ずさる脚がもつれて、その場に尻もちをつく。すぐそばの、少し急な斜面を手探りで伝っても、竦みきった両脚じゃ立ち上がれない。


(逃げなくちゃ、離れなくちゃ、シズクを探して……)


 そんな、単純なことさえぐちゃぐちゃに散逸する。砂嵐そのものの勢いで、あの恐ろしい音はわたしの聴覚から頭の中をかき混ぜ始めた。


「やだ、嘘……」


 両手で耳を塞いでも、羽音は指の隙間からまるで水みたいに入り込んでくる。それに、酷く震えた手では完全じゃない。


「ぶぶ」


 何とかひとの手を象ろうとして、蜂の群れがざわざわと揺らめく。奇妙な誕生をもう見ていたくなくて、縮こまるようにしてきつく目を閉じた。


 このまま全身を刺されて、痛いまま死んじゃうんだ。わたしがわがままを言ったせいで、シズクも巻き込んで。


 こんなことなら、あの話をレンに聞いたあの日にシズクに謝っておくんだった。「あなたの過去を勝手に覗き見てしまいました」。これだけのことなのに。


(でも)


 でもそれは同時に、彼を悲しませることになったかもしれない。だったら、これは必要なこと? そんなはずない。こんな怖いことを、わたしが体験しなきゃいけないなんて。でも、シズクの悲しそうな顔は見たくないな。


「……」


 シズクは無事かな。


「……!」


 もうわからない。


 羽音が耳元まで迫る。それが歪んで、たわんで、ひとの声の真似ごとをした。ごろごろと異物感のある、しわがれた音。


「何を見た?」


 雷鳴混じりのそれは、確かにそう言った。



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