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カドラプル  作者: アトリエめぇた
2.梔子の谷
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2.墨の海を泳ぐ


「ナツキちゃん?」


 窓の向こうから、シズクの訝しげな呼びかけが聞こえる。それもそのはず、つい先ほどわたしが絶叫したからだ。シズクからは、カーテンに遮られて室内は見えない。


「な、何でもないでーす」


 こちらも大声で返事をして……恐る恐る、目の前に膝をつくレンを見下ろした。


「もういいですか?」

「まだよ、もう少しお待ちなさいな」

「はぁい……」


 脱いでくださいな。あのことばに嘘も他意もない。その真意はこの通り「あなたの採寸をしたいのよ」、これだけだった。どうしても、とお願いされたら、断ることはどうしてもできなかった。だって、あんなにもきらきらした目で見つめられたら。本当にお裁縫が好きなんだ。


「ちょうど、あなたのような歳の頃の女の子を探していたのよ。たまには、可愛らしいドレスを作ってみたいと思って」

「ふ、普段はどんな服を……?」

「妙齢のお嬢さん方の……そうねぇ、最近はお祭り用に華やかなものの注文が多かったわ。背中が大きく開いているだとか、花の刺繍をあちこちに散りばめるだとか」

「そう、ふふ、そうなんですね」


 レンの指先が脇腹やら背中をかすめる度に、くすぐったい笑いがこぼれる。今のわたしと言えば、制服の下に着ていたキャミソールとスパッツだけの何とも頼りない格好。これ以上は見逃してください勘弁してください、と叫んだおかげでこんなことになっていた。


「食事のお話ばかりだったでしょう?」


 背中側に回って肩の辺りに取りかかりながら、レンはおかしそうに笑う。


「あの子と出会ったばかりのころはね、それはそれは酷いものでしたよ。それを思うと心配でねぇ」

「シズクさんが? 酷い?」

「えぇ、えぇ。あの子もあなたと同じ“隣人”さん……いいえ、それに輪をかけて、よくない状態だったわ」


 腕をたどっていく作業がぴたりと止まり、また動き出す。てきぱきとした先ほどまでの動きとは打って変わって、のろのろと。


「ある日ふらりと現れたのよ、金木犀の丘にね。散った花の上に倒れていたわ。あんまり動かないものだからね、いのちの尽きた遺体に見えたものよ」

「シズクさんは、どこから……?」

「わからない、と。あの子は何も持っていなかったわ。自分の名前も、経歴も」

「……え……?」


 目に浮かぶようだ。くすんだ橙色の絨毯の上に横たわって、ぐったりと目を閉じて白い顔をした、まるで自分もいのちを散らした花の一部かのような彼の姿。きっと今よりも痩せていたんだろう。花の季節を過ぎた丘は、きっと寒かっただろう。その光景を見たのがわたしだったら立ち竦んで、多分少し泣いて、そしてやっと「助けなくちゃ」と動き出せるだろう。


「何もわからない、覚えていなかったの。けれど、話すことと、古い文字を読み書きするくらいはできたかしら」

「どうして、そこにいたんでしょうか……」

「そうね……何もわからないままだけれど、自分はここにいてはいけないと、そればかり言っていたわ」


 きり、と、巻き尺が鳴る。なぜだか、シズクのあの骨張った指が軋むのを連想した。闇の中を手探りして、どうしようもなく前に伸べる手の。


「気づいたらお城の見えるところにいて、どうしても離れなくてはと考えて、木のほかには何もない丘を目指したのだそうよ。そんなことをしてもここからは出られないのに」

「……」

「無謀だわ。それでいて錯乱している。当時のわたくしにはそう思えたの。だから、あの子を引き受けたのよ」

「放っておけなかったんですね」

「えぇ、えぇ。何しろ第一発見者はわたくしですもの」


 悪戯っぽく笑って、レンは巻き尺をポケットに戻した。傍らの机に置いた紙片に何やら書きつける背中を見ながら、あの日丘にいたのがこのひとでよかったと心の底からほっとした。こんなに温かいひとといっしょだったから、今のシズクも温かいんだ。


 ようやくお許しをもらえて、制服を着直す。珍しいかたちねぇ、と少し高いところから降ってくる視線が華やいでいる。


「シズクさん、料理がとっても上手なんです。あ、あと計算がものすごく早いんですよ。何かの……伝票? みたいなものをすらすら暗算して。それもレンさん直伝なんですね」

「あらあら、そういえばそんなことも教えたかしらね。けれどわたくしは簡単なことだけを伝えたつもりよ。今のシズクは、ひとりでやっていくのに必要なことをほとんど自分で身につけたのよ」

「……」

「しばらくして管理人としての手助けまで買って出てくれるようになったわ」


 それを聞いて、わたしとの差に気づかされて半ば呆然とする。生きていくための新しいことばを覚えて、お仕事を覚えて。それが、一度空っぽになってしまった人間にできるものなのか。ここがどこかも、自分が誰なのかもわからないのに。これがわたしならどうするだろう? きっと、何もできない。途方に暮れるか、パニックになってまともに生きて行かれないと思う。何も持っていない手は不安で震えて、新しく何かを持つことはできない。


(不安)


 今のわたしにはそれがなかった。それは、ここが多少なりとも知っているところで、何よりシズクに助けられたからだ。赤の他人のわたしを導いてくれた頼もしいあの手に、そんな経験が乗っていたなんて思っても見なかった。


「自分も大変なのに、あのひとはわたしを拾ってくれたんですね」


 しんみりと心の中でシズクに改めて感謝していると、紙片をやっぱりポケットにしまい込んだレンは首を横に振る。


「まあまあ、拾うだなんて。あの子にしてみればあなたは渡りに船、本当に、特別に必要な子ですよ」

「え? 船? そんな大げさですよ」

「大げさなものですか」


 にっこりと、それでいてきっぱりとレンは否定する。外から「そっち持ってくれー」と、配達のひとらしき聞きなじみのない太い声が微かに届く。


「……シズクさんは、自分の退屈……だっけ? えっと、それを紛らわせる出来事を欲しがってました。それがわたしを助けてくれる理由だって」

「あの子がそんなことをねぇ。間違いではないけれど本質ではないはずよ」


 レンはスカートの裾を整えてくれた手を、そのまま頬に当てる。


「あの子はずうっと、自分が存在していい理由を欲しがっているの。わたくしやあなたを十分以上に気遣って、支えてくれるのはね、その許しを得られると考えているからよ」


 自分はここにいてはいけない。いつかのシズクのことば。


「わたくしの知る限りあの子は、自分が助けられたことはあっても助けたことはないと思っているのよ。あの日から今までずうっとね」

「そんな……」

「そんなことはない、でしょう? でも、あの子にはそれがわからないのよ」


 レンはゆっくり、目を伏せる。ことばは角砂糖のようにゆっくり水面へ沈み、最後は波紋を広げて底へ降りていく。


「だから、管理人の役を譲ったのよ。そしてわたくしは町へ移った。それで満たされることはないとわかっていたけれど、少しでも慰みになればと。任されたことならば気が紛れるものよ、大抵は」

「……やっぱりシズクさんは満たされなかった?」

「そうね。あなたが来るまでは」

「わたし……」

「あなたはとても困っている。かつての自分とよく似ている。ここがどこだかわかっていたのが唯一の救いね」

「……はい。だから、心細くはないんです。そんなには」

「そんなあなたを守ることで、自分はやっとここにいられる、息をすることを許される。本気よ」

「……」

「あの子は自分本位なの。だから、あなたは利用される代わりにとことん甘えなさい。頼りなさい。彼は絶対に受け入れるわ」


 そのとき、「うわー」と何とも間延びした叫びとともに、どさどさばさばさと騒がしい──何かが落ちる鈍い音が飛んできた。はっと顔を上げたレンは、まるでいきなり眠りから覚めたような表情をしている。それがなせだか、ただ外の異変に驚いただけにはどうしても思えなかった。


「あ……あらあら、大丈夫かしら」

「わたし見てきます」

「助かるわ。お願いね」

「はーい」


 シズクを追うかたちで、玄関へ向かう。背中に、レンの視線は感じなかった。多分、しょんぼりと床に落としているんだろう。


(わたし、聞きすぎたのかもしれないなあ)


 本人がいないところで、そのひとの深くて複雑な事情を他人に話す後ろめたさはとてもよくわかる。レンの様子を見るに、多分気づいたら口をついていたんだろう。今のことは当分シズクには黙っていようと考えながら家の裏に回ろうとする足は、止めざるを得なかった。


「うわー」


 思わずげっそりとした声がこぼれた。庭先に、満開のパンジーを収めた鉢植えばかり詰め込んだ手押し車が停まっている。ざっと見ただけでも数十個は下らない。それだけなら単純に「綺麗だな」と思えたのに。問題は、それに集まってきている数匹の虫だった。蝶ならまだ大丈夫、でもあの、黒々とした蜂は……。


「あ、あー……」


 無理、だめ、近づけない。誰だろう、行商の途中で売りものを放っておいたのは。よりによってここに!


 ぶぶ、と、硬い羽根が擦れるひび割れた羽音が鼓膜を侵食する。


「……っ」


 虫が怖い。毒や針を持っているかもしれない、というのはもちろんのこと、わたしがどうしても耐えられないのは蠢く節足でも毒々しい色でもなく、その羽音だった。聞くだけで脚が竦む。心の奥の方が木っ端微塵に砕かれるような錯覚がする。もし目の前に飛んできたならめちゃくちゃな悲鳴を上げてうずくまってしまう。勝てる気がしない。このことをクラスの子にからかわれたことだってあるのに。


 シズクはきっと、荷物にかかりきりだ。こんなことでレンを引っ張ってくるわけにもいかない。わたしが一瞬我慢すればいいだけなのに、「もし運悪くこの虫が襲ってきたら?」なんて考えると……。


「よいしょ」

「ぎゃーっ」


 がこん、と、止め具を外された車輪が唐突に動き始める。蜂の飛行が乱れたのを見て(やっぱり)叫んでしまうけど、手押し車がからからと退かされていくのを見ているとだんだん落ち着けた。通りの向こうから歩み寄ってきた誰かが蜂たちを花ごと遠ざけてくれたんだ。


「迷惑だよなぁ、違法駐車。あれ? きみ出かけるんじゃないの?」

「あわわわわ」


 手押し車から戻ってきたのは、灰色のつなぎを着た男のひと。ぼやきながら頭に巻いた手ぬぐいを直している。上げられた前髪の下の額は、汗ひとつかいていない。力持ちだ。


「聞こえてる? もしもーし」

「あ、あのわたし、虫が苦手で……ありがとうございました」

「ふぅん、そうなの。どうりでね」

「え」

「顔が強張ってるなーって」


 ほんわかした口調を聞いていると、傾きかけた太陽の光の下で、手ぬぐいから覗く彼の襟足の金髪が綺麗にきらめく。長身が心持ち前屈みなのは、多分わたしとなるべく目線を合わせてくれているから。


「じゃあ僕は大きなひと助けをしたんだね」

「ほんとーにほんとーに助かりました!」


 感謝してもし足りない。ばくばく鳴っていた心臓の音がわからなくなるころ、「どういたしまして」と目の前の笑顔が深まった。


「ところで、今日は半分以上終わってしまったけど、いい天気だよねマドモアゼル。いっしょにお茶でもいかが?」

「……」


 ──すごい。伊達男のお手本みたい。あんまり型にはまり過ぎて、そしてこのひと好きのする微笑みにとてもよく似合っていて絶句してしまう。えーと、こういうときは殿方じゃなくてセニョールでもなくて……。


「ごめんなさいねムッシュー、ひとを待ってるので遠慮しますわ」


 よし、これこれ。酷すぎる片言だけど仕方ない。正確にはわたしがシズクに合流しに行くところだけど。


「そう言わずに、数分でも構わないから」


 お礼をする側の立場で言えば、お断りし辛いだけに胸が痛む。でも、困っているかもしれない先生(わたしからシズクさんを見たらそうなるのかな?)を放っていくなんて人情的に許されないと思う。


「えぇと……ごめんなさいおつき合いできませんっ」

「ひとりぼっちで可哀相な僕のためにつき合ってくれマドモアゼル!」


 肩に大きい手が乗せられる。これはお誘いというより何かしらの決意を感じる。真剣な眼差しに折れてしまいそうになるけど……。


「シズクさ……、えっと、先生と約束があるのでっ」

「どうしても、どーしてもきみに」

「シズクさーん! 助けてください、助けてー! こいつムッシューじゃなーい!」

「こ、こいつ⁉」


 もう強硬手段しかない。マドモアゼルに相応しくない表現がついつい飛び出した気がするけどしょうがない。裏に逃げ込もうと体ごと振り返ろうとすると、視界の上の方を円柱型の糸巻きが綺麗に放物線を描いてわたしの頭上を通り越していくのを見た。やけに高度の低いそれは、


「あいた」


 つなぎの元ムッシューの額にこつんとぶつかった。その隙に慌てて彼から距離を取る。後ずさりするわたしの背後から、最近聞き慣れた声が鋭さを帯びて飛んでくる。


「何をしているんだ」


 糸巻きを投擲したのは、片腕に色褪せた糸巻き玉を何個も抱えたシズクだった。日に灼けた繊維独特の、埃に似た匂いが微かに届く。眉を寄せて、あからさまに「不機嫌です迷惑です」と顔に書いている。


「彼女に何の用だ?」


 硬い声で問いながら、わたしを見る目は心配そう。「ノープロブレムです」の意を込めて頷くと、幾分安心したように返してくれる。


「あいさつに来たんだよ。ほらこの通り、ちゃんと人間の体だろ?」

「人間……?」


 ぱちりと片目を閉じて、どこか可愛らしい笑顔で彼は両腕を広げてみせる。でも、その表現は違和感しかない。


 人間はそんなことを言わないから。


 違和感は既視感になった。


「あ゛──⁉」


 大声で驚いたのは彼のせいだ。午後の光の中で見るその目は、開いたばかりの双葉のように柔らかい緑色だったから全然気づかなかった。


「トウカ⁉」

「うん。何日ぶり、ナツキちゃん」

「でも、でも何でっ」


 じりじりとシズク(あ、追撃用のもうひとつを構えてる)の後ろに回りながら、きょろきょろ辺りを見回してしまう。焚き火も篝火もない。トウカがここに現れる要素がどこにもないはずなのに。


「そうそう、僕は少し前に精霊さんから人間カッコ仮に生まれ変わったんだよ。だからどこにでも行けるんだ。手間だけどね」


 そんなことを言われても、服以外の変化が何もわからない。


「シズクさん、何が何だか」

「精霊には本来、心しかないんだ」


 わたしをトウカから隠すように半歩踏み出したから、シズクの表情がわからなくなる。


「姿形を作れはしても体は持っていない。けれどこいつは、人間と同じような肉体を作ってそれを被った」

「そうそう。今はこれを握ってるのも平気だよ」


 あの日は無茶したんだよ、と、ころころ笑いながらトウカはつなぎのポケットから手のひらサイズの塊を取り出した。小さな冊子。柔いカバーは少し汚れている。


「あ、わたしの!」

「これが……」


 差し出すトウカを全身で警戒しながら、シズクが受け取る。やっぱり、あの日強奪された生徒手帳だ。


「うん。借りっぱなしだったからね」

「貸してない……」

「で、こっちが本題なんだけど」


 ひょいとシズク越しにわたしを覗き込むトウカ。笑顔の余韻を感じさせない真摯な目がそこにはあった。


 真っ直ぐな視線。一度引きつけられたら離れない磁石みたいに、目が離せない。


「センセーに言われて気づいたよ。きみ、あの日ケガをしてたんだね」

「あ……」

「ごめん。悪ふざけが過ぎたよ」


 シズクが何か言おうとして黙り込むのがわかった。わたしだって、てっきり軽口の続きがあるんだと思っていたから。


「許してくれる?」

「……もうしないなら」

「うん。約束する」


 眉を下げた表情を見ていると、両膝の擦り傷はトウカにとって想定外のことだったんだと納得がいく。首を縦に振ったのは、トウカが正直に話してくれているんだと思ったから。


「本当? よかった」


 ぱっと顔を輝かせて、安心したようににっこりとするのはきっと本心からだ。仲直りできてよかった。「友だちになってよ」のことばをトウカが覚えているなら、本心だったならなおのこと。


「嫌われたらどうしようって思ってたんだよ」

「いたずらっ子さん、これで懲りたようね」


 わたしたちの横あいにある窓がからからと開き、隙間からレンの声が差し込まれる。すっかり元の調子を取り戻した様子で、「シズク、何かありましたか」と尋ねるのに何の変わりもない。身を乗り出した表情も、日差しを避けて手のひらをかざす仕草も。


「荷車が傾きすぎただけですよ。積荷も私たちも無事です」

「よかったわ。ナツキさん、彼とはもういいの?」

「はい、今友だちになったんです!」

「え」


 短い、ことばにもならないそれはシズクのものか、それともトウカなのかわからなかった。


 シズクを振り返る。「本気?」と言いたげに訴えかけてくる視線は揺らぎがちだ。


 トウカを見てみる。「本気?」と言いたげに唇を開いたり閉じたりぱくぱくしている。


 ますますわからない。聞き返し損ねていると、レンはどこか余裕を見せる笑みをトウカに向けた。


「あなたは歳ばかり重ねてその分の学習ができていないわ。今いくつなの」

「そんなの数えてないよ。貴女よりは歳上かなあ」

「娘時代のわたくしより手がかかること」


 トウカとレンも顔見知り程度にはなっているみたい。シズクとは──ものを投げたり投げられたりする程度の仲なのかな。何をどうしたらそんなにこじれるのやら。


「さて僕たちは本人公認の友だち同士になったことだし」

「待て、私はまだお前に話が……何だその手は」

「ねえねえナツキちゃん、ちょっといいかな」


 シズクの追及をひらひらかわすトウカ。のれんに腕押しの具体例みたい。くいくいと袖を引かれるままに耳を寄せると、ぽそぽそとトウカの潜められた声が辛うじてわかる。


「きみはセンセーとは友だちになる気はないの?」


 一瞬、意味を掴みあぐねた。考えてもみなかったことだ。シズクは感謝するべきひとで、わたしのできないことを軽々やってのけるすごいひとで、わたしが精一杯手伝おうと決めたひと。その位置づけに名前はなかったけど、友だちとは呼べないと思う。シズクは敬う立場のひとだ。


 軽々しくなってはいけない……なんて無理矢理結論づけようとしたところに、レンもわたしを挟んだ反対側からひそひそ話の姿勢をとる。


「あの子、ずうっと助手がほしいなんて言っていたけれど、本当は友だちがほしいのよ」


 でもね、とレンはため息。


「自分から誰かに歩み寄ろうなんて考えは今まで持っていなかった。誰かと深く関わろうなんてことも」

「気が合うね、センセーのセンセー」

「今回ばかりはねぇ」

「それでね、こそこそ、ごにょごにょ、かくかくしかじか」

「ふむふむ、えぇ、そんなこと?」

「名案ではないかしら」


 やり場のない手を宙に伸べたまま、シズクはおろおろとするばかり。いきなり自分が蚊帳の外に放られた挙げ句に内緒話を始められたらわたしだってそうなる。


 そして、その内容。


「だめだよ……」


 その提案は到底聞き入れられるものではなかった。


「シズクさんが怒っちゃう」

「ふたりしてどんな入れ知恵を」


 シズクの疑心暗鬼な表情がいよいよ深まる。


「いくらセンセーでもちゃぶ台ひっくり返すようなことにはならないよ」

「えぇ、えぇ。大丈夫よ」

「さあナツキちゃん当たって砕けろ」

「ものは試し、善は急げよ」


 謎の結束力の前に屈しそうになる。さっきまでやり合っていたくせに。


 シズクの友だちになる。願ってもないことだ。けど、こういうことは目上のひとから提案するものなんじゃないか。わたしからなんて、図々しいというか、失礼というか。


「ナツキちゃん……」

「あ、あの」


 トウカがわたしの後ろに隠れる。あんまりだ。焚きつけるだけ焚きつけておいて。


「えっと、シズクさん……」


 ええい、為せば成る。


「シズクっ」

「……」


 ぱち、と、眼鏡の向こうで瞬きをひとつ。シズクはその間黙っていた。


「わ、わたしと、友だちに」

「……」

「なり……ませんか」

「……」


 わたしの視線がひとりでに地面へ落ちる。あぁ、下草がまばらに生えている。


 トウカのばか。レンさんまで味方につけて! やっぱり怒らせた。助手のくせに生意気だと思われたら立ち直れない。


 まさか「まずはその、いかにも助手ですって姿勢を変えてみるんだよ。名前なんて呼び捨て呼び捨て」なんて。今まで通りでよかったんだ。だって助手なんだから。


「あの……」

「……」


 とにかく、ことばはともかく過ちは取り消せない。全力で撤回しようと全力で謝罪の文例を脳内から引っ張り出していると、シズクがおもむろに右手を上げた。握り拳を作ろうとしていたらどうしよう。普段穏やかなひとがグーパンを振るうだなんて、精神的ダメージの方が大きい。見たくないし殴られたくない。


「そう縮こまらなくても。とても嬉しい」


 痛い沈黙を破ったのは、今までにないくらいに軽やかで、弾んで、ことば通りに嬉しそうな声。思わず顔を上げると、初めて会ったあのときと同じように手を差し伸べるシズクと目が合った。瞳がきらきらしているように見える。


「何となく私から言い出せなかったんだ。あれ以上困らせたらいけないと思って」

「え、え? それじゃあ」

「もちろんだ。きみは被保護者兼助手、そして出会ったころから私の友人だ。ナツキちゃん」


 目を細めて、どこかはにかんだように笑うシズク。つぼみが綻ぶように和やかなそれを驚きながら凝視していると、しびれを切らしたように宙ぶらりんの右手を握られる。


「あぁ、よかった。強制じみたらどうしようかと悩んでいたんだ」

「勇気出してよかったね、ナツキちゃん」

「そーだね」


 わたしからしてみれば、雨降って地固まるに近い。言い出しっぺを不服の目で軽くにらみながら、今朝の様子が変だったのはこういうことだったんだと腑に落ちた。仕事でもない雑談にも、わたしが気を遣いながら話しているように感じたのかもしれない。


「もう一度、私を呼んでみてくれ」

「し……シズク」

「あらあら、大はしゃぎではないかしら」

「大はしゃぎだねー」


 くすくすと笑うトウカとレン。そのことばはからかいの色を含みつつ、本心はきちんと伝わる。


 レンの告白が忘れられない。たとえ見当違いの方向からでも、シズクの苦しさを和らげられたらいい。


 けど、今回のことはわたしがそうしたいから決めたこと。シズクが望んだから、シズクの友だちになろうとしたわけじゃない。わたしがシズクを好きだからだ。


***


「約束するわ、次に会うまでには世界でいちばんあなたに似合うものを仕立てますとも」


 あの採寸にはやっぱり意図があったことを、別れ際に知らされた。辞退しようとすると「シズクを頼むわね、ということよ」と交換条件を提示され、それならぜひ、とお願いしたのが数十分前。師弟で考え方は似るものなのかもしれない。ウィンウィンに持っていくことで、相手の気が引けるのを防ぐところ。多分、レンの言う「趣味と実益を兼ねる」は本当のことだ。


「あそこまで楽しそうな先生は珍しい」


 シズクが評するのを聞きながら、賑わい始めた夕の市をあちこち案内してもらった。トウカはというと、ついてこようとしたのをシズクに追い払われてしまった。これから、町からいちばん近い森にある仮住まいに帰るらしい。


「心配しなくてもあんたの娘には手出ししないのに」


 なんて捨て台詞を残して。シズクも友だちだったりお父さんだったり忙しい。そんなシズクは、今や屋台で見つけた丸カステラ(ここではそう呼ぶみたい。ベビーとか鈴じゃないんだ)のおかげでにこにこしている。わたしは、その隣で売られていたプレッツェルをプレゼントしてもらった。おいしい。


「丘のお祭りはこの数倍賑やかだ」


 それまでに満開になるといいな、と思う。でも目下のところ、わたしが次に見るのはきっと梔子の方だ。


「天気のいい明後日、谷に行こう」


 決行の日が先ほど明らかにされたからだ。わたしは、雲の様子や気温から天気を予報できない。もう少しだけでも理科を頑張っておくべきだったかも。「慣れ親しんだ地理も関係するから無理することはない」ってシズクは励ましてくれるけど、やっぱり教わりたいと思う。


「私はきみの冒険を見守るのが楽しみなんだ」


 帰り道、すっかり日が落ち星が現れ始めた空を見上げながらシズクはゆっくり歩く。それについて行きながら、わたしの視線は星空ではなくシズクの後ろ頭をじいっと見つめていた。


 友だち。今になって、何だか気恥ずかしくなる。友だちって何だろう? 深く考える気力は今日のところないけど、片方が助けられてばかりの関係は間違いだと思う。


 わたしも、シズクの力になるんだ。


「ありがとう」


 ──わたしひとりで完結してしまった決心は、意思表示するにはどうにも冗長で。そんなことばが口をついたのは、結局のところ全てシズクへの感謝に落ち着くからだと思う。


 藍色の瞳が不思議そうに振り返り──温かく笑った。

 

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