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カドラプル  作者: アトリエめぇた
2.梔子の谷
6/23

1.実りに埋もれて冬を待つ日


 何の夢も見ない眠りだった。


「刺さる……」


 起き抜けはそのひとことで始まった。少し隙間ができてしまっていたカーテンのせいで、朝日が目に痛い。今夜はちゃんと確かめておかないと。


「さて、と」


 少し、いやかなり適当に洗ったセーラーブラウスとスカートに着替える。吊るしていたけど、やっぱりプリーツがくしゃくしゃだ。手洗いって難しい。寝押しして元通りになるかどうか。


 代わりの服はというと、この部屋の箪笥にしまってあったものを借りている。先代の管理人が置いていったものらしい。「時々手入れするように言いつけられているんだ」とシズクが苦い顔をした理由は、その数にある。どれもこれも、袖も丈も長いワンピースばかり(シズクはローブって呼んでいた)が十着以上。かさ張って重くて大変だったに違いない。


「もしかして、管理人さんは女の子だったのかなぁ」


 ほとんど着る機会がないはずの服のお手入れに気を遣う上に、この可愛い部屋。あり得る。三十代後半の、仕事熱心なやり手の女性社長が思い浮かんだ。趣味が可愛いもの集め、という落差が魅力的。


(シズクさんは、そのひとから管理人の仕事を引き継いだんだ)


 あの提案を二つ返事で飲んだのが四日前のこと。わたしは本当に、シズクの助手としてここに置いてもらえることになった。


 シズクからのお願いは、掃除と洗濯。料理は──「火の精霊対策」と銘打たれてシズクがそのまま担当することになっている。


「完璧だ。声ひとつ聞こえなかった」


 と、シズクは得意そうだった。根深い仲違いだ。ふたりで地下に降りたときも、何も起こらなかったし。


 そのシズクは、町から運び込まれてきた本の管理を主な仕事にしている。一般家庭では片づけきれない帳簿や、図書館の蔵書の仮保管(一定期間誰からも貸し出しの依頼が来なければ廃棄処分。ちょっと寂しい)などなど。いちばんのお客さんは学校で、子どもたちの教材をまとめて受けつけるからものすごい数になる。


 閑散期は、王都からのお役人が持ち込む統計のお手伝いもするらしい。農地の面積、お店の数や業種、学校の運営実績……難しい単語が並ぶ。それが、王都への届け出と一致しているかの確認に必要だとか。


「やることが多岐だ。目が回りそうだよ」


 シズクはそう言って笑うけど、聞いているだけのわたしも目が回りそう。なぜなら数字が苦手だから。それをこなしているシズクはすごい。


***


「前の管理人に会いに行こう」


 シズクが言い出したのは、朝食を食べ始めてしばらくたったときだった。さらに言えば「もっと食べないと成長期なんだから」「にんじん食べないんですか?」なんて応酬をお互い何とか回避した直後のこと。


「お昼から時間が取れたんだ。どうかな」

「はい、行きましょう!」


 館は、この小さな町の外れにある。住宅街から農作地を挟んですぐのところだ。昨日は夕方に大浴場に寄っただけで(お風呂がある家はごくごく少数だとシズクが教えてくれた)、まだ町を満足に歩いたことはなかった。


「きみを先代に紹介したい。ついでに買い出しも」

「楽しみです……!」

「いろいろ回ろうか。きみも気に入ると思う」


 今日は夕の市場が大きい、なんて聞いたものだから待ち遠しいったらない。どんなものが並ぶんだろう。半額セール? きゅうりのつかみ取り?


「あとはおやつの屋台とか……あ」


 思わず口にした妄想を、シズクはくすくす笑いながら肯定してくれた。


「あぁ、きっとある。そうと決まればぜひとも探そう」

「いいんですかっ?」

「私も甘味は好きだからね。何より、頑張ってくれる助手にはご褒美があるのが常識だよ」

「ありがとうございます……照れちゃいますね」


 助手兼居候として当然のお仕事だけど、何だかくすぐったい。でも、なぜかだんだんシズクの方の元気がなくなっていく。伏せられた目の色がわからない。


「?」

「えぇと、ナツキちゃん。その」


 いやに歯切れが悪い。言いづらそうだったり、照れくさそうだったり──とにかく話の切り出し方がわからないような。いつも明朗な口調の彼らしからぬ様子が心配になって、ついつい先回りしてみる。


「……大丈夫ですよ、お菓子の好き嫌いに歳なんて関係ないです」

「……そうか」

「もちろん!」


 ありがとう、とシズクはふんわり微笑んで返してくれる。でも何となく、先回りは失敗したのかな、という気がした。シズクが言いたかったのはそういうことじゃないみたい。


(いつか聞けるかな)


 本当はすぐにでも知りたいけど。困ったことや、わたしに至らないところがあるなら一大事だから……。


「あっ」

「ナツキちゃん?」

「にんじんの好き嫌いのことですか?」

「……善処するから今日は勘弁してほしい」


 ずい、とコップを器代わりにしたそれを差し出される。結局、シズクの分からより分けられていたにんじんスティックをもらうことになった。自分が苦手なのにわたしのために作ってくれていたんだ。


「おいしい?」


 細めのそれを咀嚼しながら頷く。ぱりぱり気持ちいい食感と、ほんのりした甘みの外で、シズクは「よかった。私も頑張ろう……」と半ば虚ろな表情で明後日の方向を向いた。無理して克服することないのに。そう言っても、きっと「大人は子どものお手本にならなければね」と返ってくる。わたしが知る中で、いちばん真面目なひと。


***


 お昼の、暑くも涼しくもないぼんやりとした天気の下。今日は荷物の受け入れ予定はない。運び出しは夕方だから、少しは冷えるかもしれない。


 畑道をシズクといっしょに歩いていると、しゃくしゃくぷちぷちと農作物を刈り取ったり摘み取ったりする小気味いい音が風に乗って流れてくる。稲や麦、りんごに枝豆にサトウキビ……?


「今は何月でしたっけ」

「九月。ちょうど真ん中だね。そろそろ金木犀が咲いていていいはずだけれど」


 それを聞いて、ここは少なくとも日本じゃないんだな、と、この空気みたいにぼんやり考えた。沈丁花と金木犀は同じ時期に咲かない。まさか地球上じゃない……なんてことはない、はず。そう思いたい。


「もうすぐ金木犀の丘でお祭りがあるんだ。そこで料理を振る舞うために市場が盛況になるんだよ」

「えっ」

「えっ?」


 胸が高鳴った気がした。また、よく知ったことば! シズクもすぐに気づいたようで、目をぱっと輝かせる。


「あぁ……そうだったね。ぜひともきみを連れて行かないと」

「それじゃあ……」

「もちろんだ。いっしょに行こう」

「はいっ」


 願いごとが叶う場所。憧れたところ。シズクが言うには、この町と王都のちょうど真ん中辺りにあるらしい。


 そういえば、この一帯の地図を見せてもらったことがある。はじめ、手渡されたそれがただの緑色の紙に見えたのは記憶に新しい。


「……?」

「これは地図なんだ。気持ちはわかるけれど」


 よく見れば、中央に若干淡い緑の三角模様が描かれ、それぞれの頂点に何やら書き込みがされていた。


「この少し明るくなっている部分が平地。周りは山だ」

「山?」

「全て山岳地帯。ひとが住んでいるという話は聞かないな」


 それから、三角の北が王都、南東がこの町、残りが梔子の谷。そして、王都と町の間に金木犀の丘。骨張った指先でたどるのを視線でなぞる。


「こんなに近くに……」


 なくなった物語たちが、ほとんどひとつに収まっていたなんて。本当はすぐに飛んでいきたい。でも、きっとうまく行かない。ここはよく知っているところだけど、のこのこひとり歩きできるとは限らない。この前そんなことが起きたばかり。


「……あれ? 海は?」

「あぁ……ここは内陸部だからこの地図には載っていない。いちばん近いのはここかな」


 シズクは三角の底辺、そのさらに下を示す。指先はかなりはみ出して机に触れていた。


「だから、交易の品はほとんど魚になる。わかるかな」


 何だか圧倒されて、ただただ頷いた。気軽に行ける範囲がとても狭い。まるで山に閉じ込められているみたい。反り立つ壁の目の前に立ち尽くして、途方に暮れる自分を想像すると息が詰まるようだ。


 義務でもなければ、超える気も失せるほどの分厚い障害。大半のひとたちは、きっと強い強い憧れを持たない限りここから出られないんだ。


 かつん、


 と、靴が石畳を鳴らす音で我に返った。農作地と住宅街の境目ははっきりしている。こつこつと控えめなノックみたいな靴音があちこちで生まれる。


「ここからは、農作物を売りに出す。花の季節は大忙しだよ」

「花を買いに来るんですか?」

「そう。ここ以外は花の栽培は盛んではないから」

「へぇ……」


 そんな話の後だから、なおさら丘に行けるのが嬉しい。まだ花に親しみのない商人も訪れるはずだ。あんなに小さくて、可愛くて、鮮やかで、いい香りの花だからきっと好きになってくれる……それまでに咲いていればいいけど。


 辺りを見回すと、レンガや木で出来た家が連なり、それぞれ一戸ごと窓辺や塀に沿うようにして小さな花が飾られている。本来なら茶系の色ばかりになりがちな町並みに、赤や黄、白……夜空に星明りがあふれるような彩りを添えていた。朝の明るい空の下なら、もっと輝いて見えるのかも。


 だけど通りを歩くひとたちは、そんなことは意に介さず早足で行き来していた。当たり前すぎる華やかさは、逆に気づきにくいのかもしれない。


「着いたよ。ここが先代の家だ」


 シズクに呼びかけられて、うっかり見とれていた意識を引き戻された。慌ててそちらを向くと、レンガ造りの小さな家が大通りに面して建っている。入口の横には、木の板をそのまま使った看板が立てかけられていた。


「……んー……」


 また、あの読めない文字だ。困り果ててシズクを見上げると、にっこり「仕立て屋さん」と教えてくれた。


「私に管理人の役を譲ってからは、ここで衣服を作ったり修復したりして暮らしている。もともと針仕事が好きだったからね」

「やっぱり女社長」

「社長?」

「あっ何でもないです」


 危ない危ない。勝手極まりない先入観は失礼だ。


「そう? じゃあ」


 不思議そうにしながら追及を止めてくれるシズクは、かたことと硬い木のドアノッカーを鳴らすと「シズクです、先生」と大きく呼びかけそのまま中に入ってしまった。 


「え、待ってくださーいっ」


 てっきり中の先代が現れるものだと思って油断していた。そういえばシズクは返事を待たなかった。勝手知ったる仲なのか、それともそういう暗黙の了解があるのか。


「あらあら」


 扉を押し開けて待っていてくれるシズクに促されていると、奥から柔らかな葉擦れの音色のような声が流れてきた。板張りの床を、スリッパが擦る音がさりさりと跳ねてくる。窓からこぼれる外の明るさが、その場を温かく照らしている。


「ようこそ、ふたりとも。こちらへいらっしゃいな」


 そう言いながら現れたのは、女社長では当然なかった。


「はじめまして、ナツキさん。わたくしはレンと申します。お話は聞いていますよ」

「はじめまして……」


 ぽうっと、見つめてしまう。


 六十代半ばに見える、小柄な女性だった(わたしより少し高いくらい)。艷やかな銀色の髪を、後ろで繊細なシニヨンにまとめている。えんじ色のエプロンドレスの裾は長くて、もこもこして温かそうなスリッパがかろうじて覗いていた。


 両手を前で重ねて、おっとりと微笑む佇まいは、高貴さすら感じさせる。まるで絵本に出てくる王妃さまとか、古典美術に描かれたお姫さまみたい。


(綺麗)


「お茶の準備ができているわ。さあさあ」

「ナツキちゃん、行こう。入ります」

「あっ、はい! おじゃまします……」


 シズクとレンに先導される。「可愛らしい子」「とてもいい子ですよ」なんて聞こえて、少しくすぐったい。


「それにしても、驚いたわ」


 いっしょに席についたレンが言うのは、わたしがシズクの助手を拝命したときのこと。


「この子が助手をもらったと聞いて。調子はどうかしら」

「何とか慣れてきた……と思います」

「よかったわ。あぁ、意地悪なお仕事ばかり回されていないかしら? 重い図鑑を何冊も運ぶだとか」

「先生、私はそんな人間じゃありませんよ」


 冗談混じりのやりとりは、ふたりの仲をそれとなく察せる。くすくす笑ってしまいながら、「今日のは自信作なのよ」と振る舞われたクッキーをひと口。少し酸味のある甘さが、お茶によく合った。


「はちみつのクッキーよ」

「あのはちみつか。紅茶に入れてみましたよ。ナツキちゃんにも大好評で、ね」

「はい! このクッキーもさくさくで、甘くっておいしいです」

「まあまあ、あなたはとても幸せそうに食べるのね」


 あんまり嬉しそうにレンが笑うものだから、「そんなにも?」と視線で隣のシズクに問いかけてみる。「うん、そんなにも」と頷かれて、「そんなにも……」と自覚するしかない。


「おいしいと言えばね、シズク」


 レンはカップを置くとひと息つく。午後のどこか停滞しがちな空気が紅茶の湯気とわたしたちのことばでかき混ぜられる中、それだけの仕草が絵画のように静かで優雅だった。目元の皺が柔和に深くなる。


「あなた、最近はちゃんと食べているのね?」

「え?」

「あぁ、ナツキさん。この子は食が細いったらなかったのよ。放っておくと一日中牛乳とサラダだけで過ごして」


 それを聞いて一瞬だけ「まさか」と思った自分の感覚は正しいはず。シズクが作るごはんはどれもおいしかった。てっきり、それは毎日料理を欠かさなかったからだと思っていたのに。それだけの腕があればご飯が毎回楽しみだろうな、なんて、ちょっと羨ましく思ったのに。


「あれだけ厳しく言われたんですから、もちろんです」


 どれだけ厳しく言われたのか……シズクはどこか苦虫を噛み潰したような顔で断言した。この「物腰が柔らかい」がそのままひとのかたちになったかのような女性が、一体どんな口調で、どんな表情で? 想像がつかないし、想像を控えた方がいいかもしれないとも思う。


(やり手の女社長、ちょっと当たってたのかも)


「それなら安心ね。では、久々に生活ぶりを聞きましょうか」


 レンは目を細めて笑った。


「今日の朝食はきちんと食べたかしら?」

「えぇ、ナツキちゃんといっしょに。まずパンを焼いたものと」

(トースト)

「魚に小麦粉をまぶして焼いたもの」

(ムニエル)

「後はにんじんを細く切ったものです」

(にんじんスティック。あとサラダと、シズクさん印の紅茶)


 シズクの回答に、喉の奥で注釈を加える。もしかして、あのおいしい料理はほとんど我流なのかもしれない。「あれを作ろう、こんな感じの作り方だったはず」と、大体正解の調理をするタイプ。どんな名前の料理だったか、正確な手順ごと覚えていないまま。


 レンがため息をついたのは、それを聞いて感心したとか、呆れたとかではないみたい。


「いろいろ足りていないわ。修行ではないのだから……ところでナツキさん」

「はい?」

「にんじんはどうだったかしら? わたくしの知人の畑で採れたのよ」

「とってもおいしいです! ぱりぱりして、瑞々しくって」

「それはよかったわ。たくさん食べられたのね」

「はい、たくさん! シズクさんの分ももらっちゃいました」

「……」


 シズクがそうっと、レンから目をそらすのがわかる。もうほとんど確信して、少し身を乗り出して向かいのレンに耳打ちしてみた。


「あのあの、シズクさんってもしかして」

「えぇ、えぇ。これ以外にも好き嫌いが多くて困ったものよ」

「先生、聞こえています」


 じっとり湿った、弱りきったシズクに制されて「はいはい」と笑うレンはしてやったり、の悪戯っぽい表情。なんて可愛らしいひとなんだろう。ひとのよさが滲む笑顔と、それを彩るお茶目さ。本当に素敵な先生だったんだ。


「ナツキさんにはこの子の監視を任せなくてはいけないかしら。またいつか倒れてしまうのではと心配よ」

「え、じゃあ……前に倒れちゃったんですか⁉」

「ナツキちゃん、経験者は一度で学ぶものだ。次はないとも」

「鯖を読むものじゃありません。二度です」


 シズクは「そうだったか」というようにぽかんとする。本当に覚えていないなら深刻だ。それほど酷い状態だったのなら。


「このザマです。わかってもらえたかしら、ナツキさん」

「えぇ……」

「反論できない……」


 温かな声で手厳しい指摘。これは本気でわたしがしっかりしないといけないかもしれない。その内「この作業が終わったら食べるよ」なんて言って、自分の食事をないがしろにしかねない。


「それでは谷なんてまともに歩けやしませんよ」

「もうあんな失敗はしません。私はナツキちゃんの案内役ですから」


 師弟(らしい)応酬をはらはらと聞いていると、気になることばがこぼれてきた。


「レンさん、谷って」

「えぇ、えぇ。梔子の谷。あなたはそこに行きたいのでしょう?」


 こくこく頷く。いつの間に伝わっていたんだろう。それより、気になるのは詳しい情報だ。


「そんなに過酷なところなんでしょうか……?」

「激しい起伏も陥没もない、猛獣の類もいないと聞いているわ。けれどねぇ、それが数十年も前の話というのが不安ね」


 頬に手のひらを当てて、レンは悲しげに眉を寄せる。


「最近、誰かがあそこに行ったという話は何も聞かないわ」

「採掘も採集も行われないんだ。何より霧が深くて視界が悪い」


 シズクが小さくつけ足してくれる。つまり、梔子の谷にわざわざ向かう理由がないんだ。


「もしかしたら、伝承が原因なのかもしれないわね」

「伝承って、賢者の?」

「よく知っているわね。そのとおりよ」


 感心したようにレンは微笑むと、わたしたちの前のカップにお茶を淹れ直してくれる。まだ温かい湯気が、レンとの間に淡い壁を作って消えた。


「谷に立ち入った者は、悪しき霧が映す自身の心の闇を見せつけられて心を病んでしまうのだそうよ」

「病む……」

「具体的には伝わっていないわね」

「そして、それは谷の奥にある秘宝を手に入れることで霧とともに晴れる。続きはこうだったはずだ」

「鍵、ですね」

「そう。誰がそれを最初に見つけたのか、どんなかたちなのか、なぜそんな力を持っているのか……わからないことだらけだけれど」


 ひとつ摘んだ角砂糖を眺めながら、「心の闇」が何なのかを考えてみる。闇は暗かったり、黒かったりする。ひょっとしたら、それは谷に踏み入ったひとの後ろめたい気持ちに反応するのかもしれない。過去の負い目、引け目みたいなものを、幻灯機のようにして霧の幕に映す。大抵のひとは、自分の悪いところなんて知りたくないし見たくない。


「うーん……」


 ぽとり、と、角砂糖を紅茶に落とす。傾いて、角を残してどんどん沈んでいくのをじいっと眺めながら思った。


(わたしの後ろめたいことって何だろう)


 意地悪を言ってきたクラスの男子に国語辞典を投げつけたこと? それなら、霧にはその子が映るのかもしれない。痛かったぞ、と言いたげな目で睨まれたら、確かに心にダメージは……ううん、来ない。あいつが悪いもん。


 黒野先生にわがままを言ったこと? わたしのためにあちこちにかけ合ってくれた。でも、あのことがなければきっとわたしはここにいられなかった。もし先生がいつもの仏頂面で谷に現れても「ありがとう」としか思わない。


 いくら考えても、答えは出なかった。ことばだけ聞くと怖いけど、今のままじゃ警戒したくてもできない。伝承は伝承の域を出ないから。


「そうそう、霧に紛れて現れる一角獣のことは知っているかしら」


 レンの問いかけで、また深く沈んでいきそうになっていた思考を引き上げられた。一角獣、と聞いて、大体の想像だけはできた。真っ白な髭のセイウチとかトドみたいなので、額に大きな角がついていて……翼を持っているのは違う生きものだっけ。


「よくわからないです……谷に住んでるんですか?」


 文章の上でなら何でも知っている気になっていた。それが覆されて、思わず目が丸くなるのが自分でもわかった。やっぱり文字をたどるだけじゃ、あの世界(今はこの世界)のこと全ては見通せない。


「そうみたいね。滅多にひと前に姿を見せないけれど、鍵を持つ者を帰り道に導くと言われているわ」

「そして鍵を持たない者が迷い込むと、帰還は絶望的だとも……。ナツキちゃん、私たちはそこまで深く入り込まないようにしなければね」

「はぁい」

「一角獣は清らかな乙女にだけ懐くそうよ。情報が少ないのもそのせいかもしれないわ」

「へー」


 相槌を打つのと、あのかたことと鳴るドアノッカーが来客を告げるのは同時だった。後れ毛を揺らしてレンが振り返る。


「あらあら」

「私が行きましょうか」

「いいえ、ここにいなさいな。頼んでおいたものが届いたのかもしれないわ」


 ゆったりと立ち上がると、レンはあのさりさりと軽い足音で玄関へ歩いていく。それを見送りながら、シズクがまたしても角砂糖を何個も投入する微かな水音を楽しんだ。


 それから、少しだけ客間の内装を眺めてみる。かちこち小気味のいい音を立てる壁掛け時計の真下には、空っぽの暖炉。その間の壁に差し込まれた板には、ちょっとしたものなら置けるようになっていた(冬には外すのかもしれない)。今は羊の編みぐるみと、立てかけられた手鏡が並んでいる。


 そういえば。ちょうど鏡に映り込んだ自分と数拍見つめ合って思い出す。あのお話の中で、わからないことばがひとつあったこと。


「あのあの、シズクさん」

「うん?」

「清らかな乙女ってどんなひとなんですか?」


 だから隣を見上げて、ほんの軽い気持ちで問いかけた。


 なのに。


 無言で、シズクはこちらを見下ろした。目が瞬きを忘れたようになって、薄く開かれた唇は何の音もなく閉じる。


「……えっと……?」


 一気に気まずくなって、わたしもことばが出てこなくなる。その反応はどんな反応なんだろう。聞いちゃいけないことに踏み込んでしまったのかも。だってシズクが口元を覆った手のひらの向こうから「子どもにどう説明すればいいんだなんてことを言い残すんだ先生私はどうすれば」なんて小声が聞こえてきたら。それを、見つめ合ったまま聞かされていたら。


「あー……ナツキちゃんその」


 ようやくシズクが返事をしてくれたのは、彼の視線が思いっきりそらされたときだった。


「ナツキちゃんみたいに、よくお手伝いをしてくれて好き嫌いせずよく食べるいい子のことだ」


 多分、とつけ加えられる。これはいくらわたしでもわかった。とんでもないはぐらかし方をされている。多分。


「ほんと?」


 と追及するのは簡単だ。でも心なしか顔が青くなったシズクには追撃になってしまうかもしれない。まさか、この街の禁忌的な話だったりして。


「シズク、シズク」


 ことばを見つけあぐねていると、レンのどこか弾んだ声色が玄関から飛んできた。ここに届くように大きめの音量は、わたしたちを我に返らせるにはうってつけだった。


「裏の倉庫まで生地を運んでちょうだいな。今回は少し荷が重いわ」

「はい、行きます」


 それを待っていたかのようにシズクが立ち上がる。緊急事態からの生還者のように救われた表情で。


「あらあら、顔色がよくないわ」

「動けば楽になります。ナツキちゃんはここで待っていてくれ」

「いやにやる気ねえ」

「力仕事ですから。私の出番でしょう」


 そそくさと出ていくシズクと入れ代わりに戻ってきたレンは、先ほどに輪をかけてにこやかだ。「いいものを見せてもらいましたよ」とお礼を言われるけど、わたしこそ惨事を招く前に引き止めてくれたお礼を言わなくちゃ。


「融通の聞かない子だこと」

「? 何の話ですか?」

「いいえ、いいえ。ナツキさん、あの子はあなたに正しく教えられるか自信がなかっただけなのよ」

「あ、聞こえてたんですね……?」


(まさか……)


 いいもの、っていうのはシズクが絶句する様子のことだったりするのかもしれない。いやいや、そんなことをこの淑女が楽しむはずない。……きっと。


「……さて、あなたの先生は外したことですし」


 ぐるぐると考えるわたしの傍らに戻りながら、レンはエプロンのポケットを探る。


「ナツキさん、手を貸してもらえるかしら?」

「お手伝いですか? はい、もちろん!」


 勢い込んで立ち上がったときには、レンの手には巻き尺が握られていた。ポケットに入っていたみたい。


「お仕事ですね」

「いいえ、これからのことは全て趣味と実益を兼ねてのことです」


 微笑んで細められていた目が、少しだけ見開かれた。


(あれ……?)


 何だろう、この緊張感。今までは露ほども存在しなかった圧を感じる。和やかな温度に、冷水を差し込んでいくみたいな、冴えた集中をレンは持っている。


「おこがましいのだけれど、どうしてもお願いしたいのよ」

「レンさん? レンさん?」


 きりきりきりきり、レンの手で巻き尺が引き出される。それが合図だったかのように、レンはその満開の桜のように素敵な笑顔を最大級に輝かせた。


「さあ、脱いでくださいな」



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