4.慣れた目で見ていて
「え、え、何で……⁉」
比喩でもなんでもなく、何も見えない。目隠しでもしているかのように視界が黒一色だ。目を開けているのに。
理解が追いつかない。廊下のはともかく、提燈にはまだ十分蝋燭が残っていた。
「嘘……あっ、つ」
慌てて、熱くなった硝子に直後触ってしまう。持ち手を取り落としそうになったのを何とか持ちこたえて、半開きのままにした扉を振り返った。
──黒い壁にしか見えないのは、目が慣れていないからだと思いたい。もし慣れたとしても、光源のひとかけらも見つからないここでは意味がないかもしれないけど。
「どうしよう、どうしよう」
あちこち見回しているうちに、方向感覚が狂ってきた気がする。片手を前に伸べて入口を探しても、近かったはずのそれがなかなか見つからない。
やっぱり祟りだ。ただの子どもが入ってきたから超常現象の方々が怒っているに違いない。次は何が起きるんだろう。床が抜ける? 天井が落ちる? なるべく痛くないといいな……。
「わ」
こわごわと彷徨っていた爪先が石畳に引っかかって、思いっきりつんのめる。その場に勢いよく膝をついて(痛い)、座り込んで……立てなくなった。
(暗いだけ、ちょっとつまづいただけ、階段まで戻れたら大丈夫)
何とか自分に言い聞かせるけど、どうしても脚に力が入らない。動揺が気力を奪っていくから。
「シズクさん、ごめんなさい……」
まさか自宅兼職場の地下で遭難者が出るなんて夢にも思わないだろう。せっかく探検を許してくれたのに。度胸があるって認めてもらえたのに。
情けなくって、何だか悲しくなってきた。
「ごめんなさいごめんなさい、とくに用事もなくふらふら上がりこんでごめんなさい、ちゃんと掃除して帰りますからお願いだから殺さないでえぇ」
悲しみのあまり、いるかもしれない誰かに向かっていのち乞いしてしまう。
もう気持ちはどん底だった。きっとシズクは心配して、もしかして呆れながら探しに来てくれるとわかっていても。いや、わかっているからこそ、どんな顔でお礼を言えばいいかわからない。
多分「そんなに落ち込まないで」って励ましてくれる……と思いたい。あの笑顔で、
「泣かないで」
って。まだ泣いていないけど。
──ん?
ぽそぽそと、内緒話をするような微かなことば。わたしの左から。誰もいないはずの。
「……きゃあああぁ」
耳元で聞こえた。絶対耳元で聞こえた! 思わず絶叫して目をきつく閉じる。どうかひと思いに終わらせてください、ううんやっぱり許してほしい。
「物騒な子だよなあ。僕のこと怨霊と勘違いしてるだろ?」
ため息混じりのことばは、わたしの真正面から聞こえる。離れてくれたんだ、よかった。
もちろん、シズクじゃない。今の声は男のひとの低い……でも軽やかで、とろりと甘い響き。おそるおそる開いた目を凝らしても、やっぱり輪郭すらわからないけど。
「ごめんね。そんなに怖がるとは思わなかったよ」
「どこ?」
「ここ。きみの目の前にいるよ」
とりあえず、相手には敵意も殺意もないみたい。ひとりぼっち状態から脱却してひと安心していると、ふっと、周りの空気が動いた。確かに、質量のある何かがそこにいる。
「僕が悪戯したんだよ。いきなり真っ暗になったら驚くだろうなって」
聞き捨てならないことを言い捨てて、彼(多分)はくすくす笑う。
「酷い」
「あはは、ごめんってば。すぐつけてあげる」
笑い声に混じって、ぱちんと弾ける何かの音がする。指を鳴らしたのかな?
その途端、いつの間にか傍らに放り出していた提燈から眩しい光が生まれた。確かに消えていたはずの火が、蝋燭に灯っている。
「え……⁉」
いきなり明るくなって、ゆらゆら揺れる灯りが目に痛い。片手で目蓋を覆いながら、横倒しになっていたそれを持ち直した。右側からは、廊下の灯りが控えめに差してきている。
「ね、もう怖くないだろ」
「うん、ありがとう! あなたは……」
そこから視線を上げて、ようやく彼を直視した。いなかったはずの、もうひとり。
「僕?」
短い髪は朝の日差しのようにきらきらした金色で、色白な肌によく映えた。まるで神父さんみたいな真っ黒い上下の服が、シズクと同じくらいの長身を包んでいる。眠るように目を閉じたまま、彼は唇を綻ばせて笑った。長いまつ毛の影が震える。
「僕は精霊さんだ。ここで召喚された最後の精霊さんだよ」
「精霊……?」
「さっき火をつけただろ? 僕の力だ」
つまりは人間じゃない。断言されても、そこまで驚けなかった。というより、実感がわかない。この精霊さんは、どう見ても人間だから。魔法陣の真ん中にすっと立つ姿は姿勢がよくて、凛としてはいるけど。
「僕のこと、気味悪がらないの?」
「うん。あなたは綺麗だよ」
「そうかなぁ」
「そうだよ」
“精霊”ってことばの先入観とは真逆に、何だか友好的。怨霊じゃなくて本当によかった。まじまじと観察してしまうけど、瞑目したままの彼にはわからないはず。
(シズクさん、何とか無傷で帰れそうです)
「あんまり不安そうだったから泣いてるかと思ったよ。見た目より頑丈なんだね」
「そうかなぁ」
「そうだよ」
少し、ほんの少しは涙腺が緩くなっていたのは内緒。
「ねぇ、僕と友だちになってよ」
閉じた目はそのままに、手のひらが差し出される。ようやく動いた両脚で立ち上がって、その手を緩く握ってみた。陽だまりを思わせる、ほのかな体温が伝う。
「僕はトウカ。ここの主人とは知り合いなんだよ」
「シズクさんと?」
「そ。あいつは酷い奴でね」
ころころ笑いながら天井を仰ぐ動きで、金髪がさらりと流れる。ことばと表情がちぐはぐだ。
「僕たちは相手の名前を知ることでそいつの心を握れるんだ。あいつはそれを知ってて、最初に適当な名を寄越したのさ」
「握る、って?」
「んー、意識とか自由意思とか生殺与奪。僕の思い通りってこと」
「へぇ」
「……」
「へー……」
「……」
「……もしかしてね、冗談だったりするのかな」
「どうかなぁ」
前言撤回。
今語られたのは“精霊”というより“悪魔”めいた特性なんじゃないかな。これは『友好的』という餌で釣った魚を食べる技だ。「今日の夕飯はあじの開きなんだー」と同じ口調でとんでもないことを言う。うっかり聞き流すところだった。
こてん、と、どこか可愛らしくトウカは首を傾げる。目が開いていたなら、ちょうどわたしを覗き込むように。これは『可愛らしい』という餌で釣った魚を食べる技だ。
「きみの名前は何ていうの?」
釣られるわけにはいかない……!
「ないです」
「えー、意地悪言うなよ」
「嫌です、だめです、遠慮しますお断りします拒否します……!」
「教えてくれてもいいだろ、ね」
「だって、だってあんな話聞かされたら!」
思いつく限りやんわりと拒絶しながら手を解いて後退る。すぐに右肩が勢いよく壁にぶつかって(痛い)、それ以上離れられなくなる。
でも、にこにこしたままのトウカは、そこから一歩も追ってこない。もしかして魔法陣から出られないのかも。それなら今すぐにでもここを出ないと。
「さ、さよなら」
「どうしてもだめかなあ」
「だめったらだめっ、それじゃ」
「網にかかったお魚を逃がすなんてできないだろ?」
やっぱり怨霊(みたいなもの)だった……!
「あわわわわわ」
ほとんど蟹歩きになりながら、震える脚でざりざりと入口の灯りに向かう。顔が強張っているのが自分でもわかった。暗闇より虫より、話が通じる相手が怖いなんて。
「怖いんだ?」
「それはもう」
「そっか」
トウカはひとつ頷くと、次の瞬間にはわたしの制服の胸ポケットに手を伸ばしていた。
「見つけた」
かつん、
遅れて革靴の踵が鳴る。
「……ぇ」
何も、見えなかった。確かに距離を取ったはずの彼が、目の前に立ちはだかっている。黒い壁同然の圧迫感で、身動きがとれない。わずかに動く視線は、かろうじて見える衣服の縫い目を追うばかり。
いつの間に? どうやって? 何で? 見上げるのも忘れてそう考えても多分、答えは出てこない。それはトウカが人間のかたちをした、人間ではない精霊だからかもしれない。
「んー、これだと思うんだけど」
入り込んだ指先がくるりとポケットを探って、中のものをつまみ上げる。硬いものが抜き取られる感覚が伝ってきた……ちょっと待ってほしい。それはもしかしなくても生徒手帳で、それの表紙にはわたしの。
「名前、が……」
ようやく顔を上向かせられる。そのとき、トウカの唇が音もなく動いて文字を縁取るのを確かに見た。
ま し ろ な つ き
たどたどしい無音は、異国のことばを読み上げるみたい。閉じた目蓋の向こうで、視線でたどっていくのがよくわかる。
「……」
ゆったりと開かれた目が、こちらを見据えた。新緑が透き通るような、気を抜いた途端魅入られそうな宝石の瞳。先ほどのシズクとは対極にある、冴えたような冷たいような、氷の瞳。
「きみは、ナツキ」
「ひ」
強い。
「ひと違いですー!」
転がるように走り出していた。そうしよう、逃げよう、なんて考えるより先に、体が動いている。
「あーその言い訳は苦しい……」
がっかりした声と、視線が背中に追いすがる。振り向けない(もちろん怖いから)けど、そんな確信があった。トウカはあの緑色の瞳で見ている。もし今後ろを向いて、それがまた目と鼻の先にあったら──今度は絶対に腰が抜ける。
「シズクさーん!」
そうなったらおしまいだ。自宅兼職場の地下で死体が出るなんて、シズクをそんなことにはさせたくない。ここ数ヶ月でいちばんの大声で呼びかけると、耳に刺さるほど地下じゅうで響いた。
「……ちゃん?」
やっとの思いで階段までたどり着くと、がたがたと何かを引きずる音がした。見上げた先で椅子の脚らしきものが滑っていき、代わりに目を丸くしたシズクが覗き込むのが見える。
今度は安堵で叫びそうになった。もう戻れる!
「どうした⁉」
「なか、中っ、部屋に!」
ここを上るのは、助走があった分降りるより楽な気がした。最後はほとんど這うようにしてやっと地上に出ると、シズクが手を引っ張り上げてくれた。燭台の灯りが部屋を照らして、ぞんざいに退けられた椅子の上には分厚い本が置いてある。もしかして、この場で待っていてくれたのかも。
「ナツキちゃん、ナツキちゃん落ち着いて。もう大丈夫だから」
シズクは座り込んだまま肩で息をしているところを助け起こしてくれる。階下とわたしを交互に見やりながら、「何があった?」と聞く声は硬い。
「ひと、いや、金髪で、綺麗で……」
とっさにあの外見を伝えようとして考え直す。彼の言ったことが本当なら、ひとことで伝わるはずだ。
「トウカがっ」
「何だって……?」
呼吸が苦しいのは、あんなに短い距離を走ったからじゃない。続けようとしたことばは、軽く咳き込んだせいで散り散りになった。
「あいつに会ったのか」
強張った表情をしたシズクは四方の燭台を順に仰ぎ見る。両肩を掴まえて支えてくれる手は、やっぱり少し冷たい。でもそれが緊張し通しだった体に何だか心地よかった。
これでもう大丈夫。一度そう思うと、一気に脱力した。目を閉じて深呼吸を四回。
初めての冒険は予想のつかないことばかり、最後は味わう間もなく文字通り駆け抜けてしまったけれど。
これが、わたしが憧れ続けて、夢に見続けた場所なんだ……きっと。予想よりずっと騒がしくて、どきどきして、いい香りがして、優しいところ。
そして、ここは安心できる。シズクがいてくれるここなら。
「ありがとう、シズクさん」
目を開く。見上げた先、こっちを見て何かを言いかけたシズクの肩越しに、にこにこと手を振る彼の姿があったとしても、もう怖くない。
「ナツキちゃん⁉」
驚く声が、遠い。
(あれ……?)
急に、視界が歪んだ。
***
「ぶん殴られそうになったよ。あいつって凶暴だよなぁ」
乾いた土にぺたりと座り込んで、トウカはからからと笑った。細かな砂に汚れるのも構わないみたい。
「ナツキちゃん、気をつけたほうがいいよ。あのセンセーはそういう奴だからさ」
「あのね」
身を乗り出してくるトウカから少し遠ざかろうとするけど、体が動かない。というより、体の感覚がない。この風景はよくできた映像で、わたしはどこか別のところにいるように。
「きみが悪いと思うの」
「えー」
「だって、シズクさんの名前を取ろうとしたんでしょ?」
因縁の相手にわざわざちょっかいをかけに行って怒らせるなんて、小学生みたい。見た目だけ大人で、もしかしてわたしより年下かもしれない。
「ひと聞き悪いなぁ。取るんじゃなくて聞こうとしただけだよ」
でもね、と続けるトウカは、またあの仕草で空を見上げる。それに倣うと、やっぱり視界だけが上を向いた。首を上向けた気がしない。
満天の星空だった。ビーズを散らしたように微かな輝きが降ってくる。こんなに綺麗な空は知らない。そして、ここがどこかもわからなかった。見回しても、空の黒が滲んだような夜の色に覆われて、家はおろか木の一本も見当たらない。
「そうじゃなくて、きみのこと。僕がきみに意地悪したからだよ、あいつが怒ったのは」
そう言われてもいまいちピンとこない。わたしの知る限り彼は物腰が柔らかい。怒るとか、ましてやぶん殴るとか、そういう図が思い浮かばなかった……初対面のときはともかく。
「きみのことが大切なんだろ」
「どうして?」
だから反射的に、そう返している。きょとんと目を瞬かせるトウカが何だか新鮮。さっきまで振り回されっぱなしだったから。
「え」
「だって、わたしは……」
家族ではないし、友だち……というには日が浅い気がする。まだ一日もたっていない。迷子になったところを保護された体だろう。少なくともシズクにとっては。
あんまり子どもみたいな境遇を口にするのが恥ずかしくて口ごもると、トウカはわかってないなぁ、とわざとらしく肩をすくめる。
「あいつがきみを見る目、どんなだったかわからなかった?」
「普通……じゃ、なかったの?」
「教えてほしいなら早く地下に行きなよ。掃除してくれるんだろ」
あぁ、そうだった。ついでに手帳も返してもらわなくちゃ。手遅れかもしれないけど。
「掃除?」
怪訝そうなシズクの声が傍らで問う。そうだよシズクさん、祟りを回避するのとトウカのなぞなぞの答えを聞くために。
「ほうき……」
「目が覚めたな」
──一気に意識が浮かび上がる。プールの底から水面に急いで泳ぎ着くみたい。ほんの少し弾んだ呼吸を整える胸まで、ふかふかの毛布がかけられていて温かい。
いろんな感覚が元通りになっている。夢との境目があいまいだ。さっきまでトウカと話していたのが夢で、こうしてベッドに横たわっているのが現実。ここは、最初にわたしが目を覚ました部屋だ。
シズクはといえば、ベッドのすぐ近くに椅子を据えて、眉を下げてわたしを心配そうに覗き込んでいる。その後ろの窓からは、白い光が帯になって注いでいた。
「……あれ……?」
「きみがいきなり眠り込んだのが昨夜。今は今朝。少し早めの就寝だったというだけだよ」
ゆっくり、という言いつけを守って起き上がると、ポニーテールにしていたはずの髪が解けて肩に流れてくる。白いリボンがついたお気に入りの髪留めは、四葉のクローバーのヘアピンといっしょにセーラーブラウスの胸ポケットに入っていた。
ここに突っ込んでいたはずのもうひとつは、トウカに取られたままだ。
「膝はどうだろう? もう平気かな」
「膝?」
よくわからなくて、毛布を引っ剥がす(スカートがめくれそうになってぎりぎりで押さえた。危ない危ない)。スカートの裾から、何かで引っ掻いたような両膝が覗いたのを見て、その事実を飲み込んで──遅れてちくりと指すような痛みがやってきた。赤い痕が沈んで固まって、出血していたみたい。
「軽くだけれど、擦りむいていた。あいつに?」
「違います、わたしが転んで……」
「そうか……痛みは?」
「ちょっとだけ」
シズクは悲しげに頷き、「手当ては済んだから、治るまで我慢できるかな」と大きな手で頭を撫でてくれた。あからさまな子ども扱いが複雑で──でも何だか嬉しい。優しくて、気持ちいい手だからかも。
「あのひと……ひと? シズクさんの知り合いだって言ってました」
「そうだ。悲しいことに」
「え、と……僕は精霊さんだ、って言ってました」
「そうだ。腹立たしいことに」
眉を寄せて、シズクは遠い目をする。よほど腹に据えかねる何かがあったらしい。それに、ちっとも驚いたような様子を見せないところからすると、“精霊”は周知の存在みたい。
「完全に油断していた。本当にごめん。怖かっただろう」
向き直って、シズクは頭を垂れた。「あなたは何も悪くないです」と大慌てで顔を上げてもらうけど、その表情は曇ったまま。
「ナツキちゃん、残念だけれどあの手合いはどこからでも現れる。あいつの場合は、火種以上があればこと足りるんだ」
「だから地下にいたんですね」
いた、というよりは、やって来たという方が正しいかもしれない。
「でも、悪い精霊さんじゃないと思いました」
「……何故?」
「こう、わたしをからかってただけというか、遊んでたみたいで」
とはいえ、あの夢を見なければそんなことは思わなかったはず。それに、全力で逃げようとしてたときは気づかなかったけど「取り憑いてやる」とか「祟ってやる」とか決定的なことは言われなかったし。わざわざ口にしなかっただけ……なんてことは考えないようにする。
「あれを私たちのもの差しで見てはいけないんだ」
緩く首を横に振って、シズクは立ち上がるとカーテンを片方だけ閉じた。まだ長めの影が、わたしの傍らに伸びる。
「精霊は人間ではない。考え方が根本的に違う……彼らの遊びが私たちの死に繋がることだってあるんだよ」
けれど、とひと呼吸置いて、シズクは苦く笑った。
「あいつが名前を渡したということは、きみは気に入られてしまったということかもしれない」
「名前……あ、わたしトウカに名前を知られちゃいました! こう、操られたりとか、えっと、操られたりとかしたら……」
「その逆もある。精霊を調伏するためには、まずその名前を握るんだよ」
「それじゃあ、トウカは自分から弱みを見せたことに?」
「そう」
噛んで含めるような口調は、まるで学校の先生みたい。そんなシズクの指が、今は何も入っていない提燈を示した。机の隅で、朝日を透かした薄い影を作っている。
「敵意を向ける相手にそんなことはしない。現にあいつは、あの後すぐに消えたんだ」
「……」
「厄介ではあるけれど、私が警戒していれば問題はないだろう。厄介ではあるけれど」
二回言った。普段そんなに迷惑をかけているのかな。それは思わず殴りたくなっても仕方ないかもしれない。
「それでも、身の危険を感じたらすぐに私のところに来るんだよ」
ありがとう、と言いかけて止める。それはつまり、これからもシズクのお世話になるということで、そしてそれは、わたしがシズクの迷惑になるということだ。今の今まで手を煩わせておいて、それ以上この優しいひとに何を求められるんだろう。
それは、だめだと思った。でも……。
「あ、あのっ」
「うん?」
「わたし、ずっとここにはいられないと思うんです」
「……」
少し首を傾げて、シズクは静かに先を促してくれる。
「ここは……知ってるけど知らないところで、シズクさんにはたくさん助けてもらって……。でも、長居をして困らせたりするの、嫌なんです。もちろん、まだたくさん行きたいところはあって、探したいものもあるんです。それには……」
「私を巻き込めない?」
ことばが途切れたところを、シズクに補われる。
「はい」
「……きみは本当にいい子だね。でも、子どもなのに気を遣いすぎている。大人は子どもを守るものだよ」
再び椅子に戻ってきたシズクは、その藍色の瞳でじいっとわたしを見つめる。朝のまぶしさと対照的な、夜空のみたいに深い色。答えを聞き出すでもなく、ただ静かに、わたしのことばを待つように……それか、探るように。
「……」
目がそらせない。そんなことをされたら、気づいてしまう。わかっちゃう。わたし自身が途方に暮れ始めていたこと。ここを出て、次にどこへいって何をすればどうなるか思いつかないこと。
「多分だけれど、きみは理由のない、もしくはわからない好意を受け取ることに抵抗があるんだろう。遠慮や、警戒のせいで」
「……」
「あぁ……すまない。いきなり心理分析をされて良い気分ではなかったな」
「そんなんじゃ、ないです。むしろ、あんまり綺麗に言い当てられてびっくりして」
ことば通りだ。その指先で正確にみぞおちをつつかれたように、本当に息が止まったんだから。
「そうか……それなら、私が理由を渡そう。きみが納得するためではなくて、私がきみを助けたい理由を」
柔和な笑みを浮かべて、シズクはゆっくり瞬きする。
「昨日言った私の鬱屈というのはね、ひとりではどうしても癒せない渇きとか、退屈とか、そんなものなんだ。私の仕事は天職だと思ってはいるけれど、単調な作業はだんだん毒になるものだよ」
「それは、ええと……利害の一致?」
「そう、難しいことばを知っているね。そんなところだ。きみは旅がしたい、私は毎日の繰り返しから抜け出したい」
何となく、既視感。わたしがお昼の授業中に「ここを抜け出して映画でも見に行きたいな」なんて思うのといっしょなのかも。わたしは、やらなくちゃいけないことと、やりたいことが違っていた。シズクは、ふたつがぴったり同じ──それでも、度が過ぎればそれがずれることだってあるのかもしれない。
(例えば、本が嫌いになったわたし)
ちょっと想像がつかないけど。
「何より、ひとりぼっちの子を放っておけないだろう? だからここにいていい、居候になっていいんだ……と単に言ってもきっときみは呑み込めない」
だから、と、シズクは隠していた宝ものをそうっと見せるような密やかさで続ける。
「交換条件はどうだろう。きみに、私の助手を務めてほしいんだ」
「……え?」
「その対価として、きみはここに留まる。なかなかいい考えだと思うけれど」
悪戯っぽく、シズクは笑った。
「まずはいっしょに、地下の掃除かな。トウカと約束してしまったんだろう?」




