3.水面から落ちていく
「それは気になる」
冷めかけた紅茶を一気に飲み干して、シズクは神妙な顔つきで顎に指をかける。
「でしょう? どんなところなのか知りたいでしょう?」
「あぁいや、私が言ったのはきみのことだよ。きみはぜひともその場所……三ヶ所だった? そこを見てみたいだろうということだ。いまはもういない勇者の代わりに」
「……」
「そしてそのひとつは、今まさにきみがお茶を飲んでいるところ。見過ごせないだろう? こんな千載一遇の好機は」
唐突な提示。わたしはただ、あったはずの、永遠に失われたはずの物語を読みたいと思っていた。でも、今はそれ以上のことができるのだと、シズクは言っていた。
「梔子の谷も、金木犀の丘も」
自分の足でたどり着いて、目で眺めて、手で触れて、胸いっぱいに空気を感じられるのだと。それは勇者のものじゃない。わたしの冒険としか形容できない。
鼓動が速くなる気がした。息が詰まるような感覚のせいでしばらく返事ができない。強くもない心臓は、ありえないことを現実だと、さっき無理に噛み砕いて飲み込んだばかり。続く“ありえない”の前にはあんまりにも無力だった。
「……してみたいだろう?」
それは、質問というよりは確認だった。
見透かしているのを隠すように……それでもただ微笑むようにシズクの目が細められる。口元は微妙に隠れて窺い知れない。何だか、いけないことに誘われている気分になってくる。
──でも、今のわたしはそのいけないことに乗ることしか考えられない。
「してみたいです!」
そのことばは、ほとんど衝動で口をついたせいで大声になる。姿勢を正したシズクは、どこか安心したように唇を綻ばせた。
「きみは度胸がある。大丈夫そうだ」
「そうですか?」
「迷子の女の子とは思えないくらい堂々とし始めた。これなら未知の場所に放り込んでも大丈夫だろう」
ゆっくりと席を立ち、シズクは机のすぐそばにある棚から硝子の箱……じゃなくて提燈のようなものを取り出すと手早く火を入れる。手招きされるままついていくと、玄関に通される。木のいい香りがする、大きな扉の外へ。
「私のことを言うと」
それを押し開きながら振り返るシズク。聞いていてほっとする穏やかな声は嬉しそうに弾んで、わたしの耳をくすぐった。
「これは打算で、独りよがりなことだ。きみの好奇心を満たす手助けをしたいのも本心だけれど、何より私のため……私の鬱屈を振り払いたい一心の、悪あがきみたいなものなんだ」
だから、と。シズクは口調とは裏腹の表情で……どこか懇願めいた真剣さで続ける。寒色の瞳は熱っぽくって、蝋燭の炎が揺れるのを連想させた。
「私のためにも、これから遠慮なんてしないでくれ。ここを、この国をきみのための遊び場だと思ってくれていい。……その第一歩として、きみにはこの館を自由に探検してほしいんだ」
「あなたは」
あなたの鬱屈って何だろう? 聞き返そうとしても、シズクは軽い足取りで先に行ってしまう。少し硬い草を踏む、ふたり分のさくさくした足音は、わたしの一瞬の疑問を齧り取っていった。
「少し下がってごらん」
提燈を下げたシズクから離れて、後ずさるように館の全容を確かめる。
眺めるだけでは足りない。ずうっと憧れ続けた場所。想像するばかりだった場所が、文章ではなくかたちを持って目の前に現れているのだから。
「……」
深く、夜の香りがする冷えた空気を吸い込んだ。こんなことで、痛いほど鳴る胸は収まることはなかったけれど。
映画に出てくるような、真っ白な壁をして整えられた庭園を抱えた、横に長いお屋敷──を想像していた。それはほとんど当たり。年月のせいで鈍くくすんだ白い土壁と、それを縁取る漆色の梁や柱。ほのかに甘い薄幕を張るような、香りに埋もれそうな沈丁花の一群。紅色が絵筆で点々と乗せられたように散らばっている。ぐるりと館を囲んでいて、部屋の中まで香るわけがわかった。
思い描いた風景と違うのは、ここが別段大きな建物ではなく控えめな容姿をしていたこと。少し大きめの一戸建てと言われても信じちゃう。
(いい香り)
沈丁花を間近に見たことは今までない。近所にも植物園にもなかったから。
「……」
何のことばも出なかった。ただ目に、脳裏に焼きつけるように、じいっと見上げるだけで。
心臓の辺りがちくりと針で刺したように痛んで、それを紛らわそうと、意識して深い呼吸をするばかり。
シズクは音のない笑みを浮かべた。
「……豪華ではないし、広くないだろう? ここの主な機能は地下にある」
空いた手で地面を指差すシズクは、わたしに提燈を手渡す。そのまま屋内に戻ると物置のような(でも何も置かれていない)ただの空間にぽっかりと空いた穴だけ持った部屋へ連れてきてくれた。
ほんのりとした火の灯りが、木の壁を照らす。その光の中、ほんの少し、穴から地下への階段が覗いているのがわかった。
「きみが直接見てくるべきだ。私は待っている」
「いいんですか?」
「見られて困るものも、いのちに関わるような劇薬も置いていない。唯一危険なところは施錠してある……床の補修が済んでいないだけだよ」
あからさまに不安そうな顔になったのを気づかれたみたい。その苦笑いを見ると、本当に平気そう。
「戻ってきたら教えてくれ。きみの感想をたくさん」
シズクは立ち止まる。ひらひらと振られる手に同じようにして応えた。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
さて、何を見つけてくる? シズクのその表情からはそんなことばが聞こえそう。多分、わたしも同じ顔をしている。
振り返ると、階下はまるで丁寧に塗りつぶしたような闇色が詰まっていた。この提燈がなかったらきっと何も見えない。
「……」
静かに息をついて、一歩、踏み出した。段差がやけに高くて、わたしの脚だとちょっと降りづらい。シズクみたいに背が高ければきっと楽なんだろう。
きし、
と、階段が軋むひび割れた音がする。
自分が地下の黒色へ沈んでいくような気分。同時に、あんまり嬉しくてふわふわ浮ついた心が冷静になっていくみたい。お祭りからの帰り道のように、だんだんと平静になる。
「ひとまず置いておこう」と、シズクは言ってくれた。きっとあれは、わたしの頭がパンクするのを避けてくれたんだと思う。でも、いつかははっきりさせなくちゃ。ここが本当はどこなのか。
ぎし、
今度は少し重い音。
シズクの目的は何だろう? 見ず知らずの子どもを信じてくれて、とても嬉しい。でも、こんなことまで許してくれるものなのか。わたしの冒険がシズクの鬱屈だっけ、それをどうにかできる……ちょっと結びつかない。後で聞けたらいいな。
きぃ、
甲高い、細い悲鳴みたいな音。
わたしはどこにいるんだろう。もちろんわたしは、この館の地下への階段にいる。決して、図書室で居眠りの最中なんかじゃない。これは、ちゃんとわかっておかないとだめだと思った。現実的じゃないことの真ん中にいるも同然だけど、これは現実。本当のこと。これから起こることから、「これは夢だから」とは逃げられない。
こつん、
と、石畳の上を歩いたような硬質な音。
心の、奥の方が冷えていく気がした。たった数歩だけ地上から離れただけなのに、異界にでも入り込んだような違和感。ここには、助けてくれるひとは誰もいない。シズクは遥か遠く、地上にいる。竦みそうな両脚は、小さな炎に照らされてようやく存在を確かめられる。シズクが安全を約束してくれたし、怖くなんてなかったはずなのに。
ざり、
薄く積もった砂を踏みつける音。
「あ」
そろそろとつま先を前へずらすけど、段差はない。階段はこれで終わり。
「……」
怖いものは何もない。
繰り返しそう念じて、でもいきなり目の前を直視するには少し勇気が足りなくて。伏目がちになりながら提燈を掲げて辺りを照らすと、大きな四角に切り取られたような短い廊下が現れた。
いつの間にか止めていた呼吸が、その瞬間に溶ける。
「……よかった……」
誰もいない。何も置かれていない。ついでに、密かに心配していた害虫の類も。こういう暗がりには虫が住んでいて、虫は明るいものに群がる性質があって……という余計な知識が憎い。
気を取り直して、光が届く範囲を確認する。シズクくらいの体格のひとがぎりぎりすれ違えるくらいの、狭い廊下だった。突き当たりと、左右の壁に白く塗装された扉がひとつずつ。石造りの地下にあるのは、今のところこれだけだ。
「じゃあ……こっち」
耳鳴りがするほどの無音をひとりごとでごまかして(けっこう反響する)、まずは右の扉に手をかけた。ドアノブを回して……。
「あれ?」
回らない。念のために押したり引いたりするけど扉は開かない。ここが多分、シズクが言っていた場所だ。万が一にも床が抜けないように、摺り足気味に後ずさる。
そういえば、こういうところには燭台があるものなんじゃないか、と不意に思いついた。ずうっと灯りを持ったままでは作業に不便だし、きっとシズクもそうしているはず。貼られたのか積まれたのか……とにかく、照らした石壁に目を凝らすと、それぞれの扉の両脇に目当てのものがはめ込まれていた。ずいぶん短くなった蝋燭もそのままになっている。
「やった……!」
これで、不安の大部分は取り除けたも同然だった。床に置いた提燈からゆっくり火を外して、とりあえず突き当たりと左の扉、それぞれの右側に灯りを移す。背伸びすればなんとか届く高さで本当によかった。
明るさは心もとないけど、これなら一気に蝋燭を消費しなくてもよくなる。なかなかいい考えなんじゃないかと内心鼻高々になりながら、次は左の扉に取りかかる。ほんの少しでも辺りが明るいと、心持ちまで変わるみたい。
今度は、すんなりと開いた。直後に流れ出てきたのは、微かな埃と、古い紙の香り。
「わあ……」
提燈に照らされたのは、ひとりがようやく歩けそうな隙間を残した書庫だった。書棚すべてにぎっしりと詰め込まれた背表紙は、厚かったり薄かったり様々。棚は、高くはない天井いっぱいの背丈をしていて、上段へ寄るためのはしごが部屋のあちこちに立てかけてあった。
入口近くに置かれた小さな机に灯りを置いて、目についた一冊を取り出す。ぱらぱらめくってみるけど、わたしにはわからないことばの羅列ばかりが続く。アルファベットですらない、綺麗な記号のような文字。理解できないことばは、文章ではなくなる。背景のように意識から選り分けられて消えていく。
「やっぱりだめかなあ」
物語のなかの物語。何だかマトリョーシカみたい。読めたらよかったのにと悲しくなりながら本を閉じようとすると、見覚えのある文字が視線を掠めた気がした。
ひらがな、カタカナ、はっきり思い出せないけど。もう一度、今度は一頁ずつめくっていくと、後ろの方にそれはあった。
頁の上部、表題らしいそれは『……作り方』とだけ書いてあった。
ところどころ水を垂らしたように、文字が滲んでいる。頭で無理矢理繋げて、声に出してどうにか解読してみた。
「根菜を……て、ひと煮立ち、葉物……、香辛料……匙」
お腹が空いてきた。
「野菜スープ?」
どう考えてもレシピだ。前半の頁を訳したのがこの一帯らしい。もしかしたらこれが、預かって保管している文献なのかも。あの滲みは、実際に鍋の近くに置いていたせいでできてしまった──と推測すると、一般家庭の所有物だったりして。
「もっとこう、魔法の呪文とか……魔法陣とか、ないかなあ……」
神秘的なもので溢れているものとばかり思っていたから、ちょっと拍子抜け。館の前身が前身だから探せば見つかるかもしれないけど、この広さと数を片っぱしから当たるのは到底むりだ。
一方的な期待が裏切られただけなんだから、そう残念に思うものじゃない。
(そう、追々シズクさんに聞いてみよう)
ひとまずこの部屋の探索は切り上げて、廊下に戻ることにした。持ち上げようとした提燈をふと凝視する。
──探索だなんて。
「冒険っぽい」
思わず笑顔がこぼれる。さっきから緊張したり楽しんだり、気分の乱高下が言い逃れできないほど酷い気がする。疲れてるのかな……。
額に手のひらを当てながら(熱くも冷たくもなかった)、後回しにしていた最後の扉と対峙する。みっつあるうちの真ん中、というだけで、何だか強そうだったり一筋縄ではいかないと思うのはどうしてなんだろう。
「もう、何もいないったら」
大切なのはその勢いだ。
「えいっ」
早足で近寄って、一気に押し開ける。ぎぎ、と、鉄同士が擦れる耳障りな音が、息を呑むわたしの声と重なる。
「……」
──あった。魔法の呪文とか魔法陣とか。
教室と同じくらいの広さをした部屋だった。丸のかたちをした灯りに収まる程度の赤色の円が、中央に鎮座している。その内側に、六芒星にしか見えない図系が収まっていた。星の頂点に、あの読めない文字がびっしり書き込まれて、まるで図柄の一部みたい。
それ以外、何もない。壁の燭台も、机も、本も。これのために作られた部屋──というより、部屋自体がこれをしまっておくための箱のように見える。
「……」
あったらいいなと思いつつ、こう直接的なものが出てくると足踏みしてしまう。きっとここで召喚を試し続けてきたんだ。不用意に触ったら何かが起きるかもしれない。祟りとか。赤線に触れないように、爪先立ちになって近づいてみた。
ふっと、火が揺らぐ。
「え」
硝子の箱へ視線を落とすのと同時に、手の中、そして背後の廊下、
「……!」
全ての光が掻き消えた。