2.此方と彼方が出会う
「……?」
停電? 先生が戻ってきた? 図書室を閉めるなら先に起こしてくれればいいのに。寝てはいないけど。
仕方なく体を起こすと、すぐ目の前には壁がせり立っていた。
「……」
カスタードみたいな、柔らかい色。見慣れた、くすんだ灰の色みたいなそれとは全く違う。それより問題は、ここには壁に面した席は置かれていないはず……ということ。本棚がぎゅうぎゅう詰めになっていたはずなのに。
「えっ……」
唇から、反射的に声がこぼれた。それまで半ば飛びかけていた意識が急速に戻ってくる。
真っ先に感じたのは、この部屋に満ちた空気の異様さだった。定期的に風を通してはいるけど何となく埃っぽい、学校の体育倉庫みたい。それに混じって甘い、知らない香りが微かについてくる。
決して、元いた図書室ではない。
心臓が痛いほど、鳴っている。呼吸が浅くなる。指先から熱が引いたみたいに、冷たくなっていく。
「……どこ、ここ……?」
椅子から立ち上がる。踏み出した先で、
きぃ、
と床が軋んだ。悲鳴を上げかけたのを何とか飲み込む。
「……」
呆然と、その場で一回転するようにして周囲を見回す。一人部屋としては普通の広さ。淡い空色で塗られた天井に照明はない。中身がまばらな本棚ふたつ、箪笥……にしてはやけに大きいものひとつ。花柄のカーテンの向こうからは橙の日差しが透けて見える。寝具の乗っていないベッドと、後はわたしが占領していた机。白い木でできている。
もうすぐ夕方の色に沈む、暗い部屋。
でも全体的に、可愛い。アンティック趣味の女の子の部屋みたい。とても好きな内装だ。この異常事態でなければ、あれこれ覗いていたかも。
「……」
──落ち着いて、落ち着いて。大丈夫。
大きく深呼吸を四回。じいっと窓の方だけを見つめて。それで、混乱しかけた気持ちはいくらかましになった。
危険なところじゃない。怖いところじゃない。それがわかっただけでもずいぶん違う。
きっと。と、状況を整理するというよりは自分を納得させるために、無理矢理あらすじを考えた。
きっと、わたしはあの一瞬で本当に寝入ったんだ。その間に、何だか、誘拐犯みたいなのがやってきて……。
「だめ、だめ」
発想が物騒かつあやふやになる。でも、そうでもしないと説明がつかない。それか、これは夢だとか。あんなことを大真面目に考えながら眠ったから、死後の世界の夢を見ているとか。静かで暗くて、いかにもそれっぽい……。
「……」
ありえない。これは本当のこと。
とにかく、ここは知らない部屋。なら、外はどうだろう? 見覚えのある景色があったなら、思考はいくらかまともになるかもしれない。次の行動だって、きっといい案が出てくる。どうか出てきますように。
「せめて県内……国内でもいい……」
都合よく神さまに祈りながら、カーテンに歩み寄る。窓の向こうに、もし縁もゆかりもない場所が現れたら……という悲しい未来はなるべく考えないようにする。頭の隅に追いやって、できれば出ていって。
よし、平気。わたしはすぐにここから出て、帰れる。大丈夫。
「大丈夫か⁉」
──わたしの声じゃない。不安から出たひとりごとじゃない。
「……!」
やっと事態を把握する。今のは部屋の外から聞こえた! 足音ひとつ立てなかった(聞こえなかっただけかな?)、誰かの声。
「あ、あの」
呼びかけるより前に、少し乱暴にそれは開かれた。がり、と蝶番がきつく擦れた後、足早に入ってきたのは、ひとりの男のひと。たたらを踏むようにして急停止、一瞬さ迷った視線はすぐにわたしのそれとかち合った。
「……きみは……どうして」
焦ったような色は次第に消え、彼の表情には困惑だけが残る。
すらりとした、背の高いひとだった。あまり整えられていないふわふわの猫っ毛は、黒と見間違えそうなほど深い青色をして、あちこち跳ねている。男のひとにしては華奢で、どことなく書生のお兄さんを思わせた。
飾り気のないシャツとスラックス、あとベスト。歳の要素が含まれない服装のせいで、大学生にも、それよりもっと大人にも見える。
骨張った大きな手で細い黒縁の眼鏡を直しながら、すぐに平静を取り戻したらしい。彼は、肩の力を抜くと数歩だけ歩み寄り、
「驚かせて、すまない」
とだけ口にした。低い、穏やかな声。柔和な眼差しが、無言でわたしの返事を促す。
「あ……いえ、その」
そこで気づいた。このひとにとって、わたしは何だろう。
紛うことなき不法侵入者だ。
「ご」
「うん?」
「ごめんなさいっ!」
意図せず飛び出したのはひっくり返った大声。目を丸くする彼から一歩後ずさると、すぐ窓枠にぶち当たる。控えめな金属音がさらに動揺を加速させた。
いつもこうだ。予想外のことが起きればすぐ崩れる。慌てて、こんがらがって、上手くことばが組み立てられなくなる。上手く息ができない。
警察を呼ばれて当然だし、その前に殴られたっておかしくない。さっき持ち直したわたしが嘘みたいに、脚が震える。
「か、勝手に入ってごめんなさい! その、えっと、わたし」
「あ、ちょっと……」
「泥棒とかじゃないんです、わたし、気づいたらここにっ」
「落ち着いて」
──決して張り上げたわけではないひとことが、なぜか染み渡るように心を伝ってきた。錯乱めいた衝動は、いつの間にか収まっている。
「ね」
目を細めて、どこか眩しそうに、彼は微笑んだ。
「……」
見る者を、もちろんわたしも、ほっとさせる笑顔。
かと思うと、おもむろに片膝をついて屈む。展開が飲み込めずに黙っていると、照れくさそうに指先で頬をなぞり始めた。
「私は、こんなだろ? あんまり見下ろすと相手は威圧されるらしい」
「え……」
「とくに、きみみたいな子どもには怖がられてしまうんだ」
すまないね、と、困ったように見上げられる。
あ、このひとは。
ほとんど直感で確信した。このひとはとても、心根の優しいひとだ。
「……怖く、ないです」
「そうかな」
「はい」
よかった、と、またあの笑顔を浮かべた。
「安心してくれ、きみを咎めるつもりはないよ……そうだな」
彼は、一瞬視線を外す。
「私はシズク。この館の管理人兼、住人だ。たったひとりの」
手を差し出されて──わたしが、胸の前できつく両手を握りあわせていたことを気づかされる。指先が白くなるくらいに、うっかり折れそうなくらいに。
「ナツキ、です」
難儀して右手を引き剥がし、シズクのそれを握った。少し冷たい、長い指がわたしの手の甲に回ってひんやりする。
「そう畏まることはないよ、きみは今、私の客人になったんだから」
「客人?」
「そう。だからおもてなしを受けなくてはいけないし、ごゆっくりしなくてはいけないし、あとは……」
それはむしろ畏まらなくちゃいけないのでは。
くす、と、思わず笑みがこぼれた。
「わかってくれたかな」
「はい」
くすぐったい笑いを収めようとしながら、ようやく頷けた。シズクも、にっこり頷く。
***
部屋を出て、客間に案内してもらった。
「ここはどんなところなんですか?」
「沈丁花の館といってね」
椅子から転げ落ちるかと思った。
「今なんて⁉」
思わず浮かせかけた腰を落ち着けて、でも動揺は収まらないままにシズクに続きを求めた。彼は彼で、ぽかんとした顔で、お茶を淹れる手を止めたまま続ける。
「沈丁花の館……といって、町から依頼を受けて文献類を保管する施設だよ。元々は、精霊、妖精……とにかく、そういうあちらの住人を呼び出す研究をしていたのだけれど」
すんなりと決定打を放ちながらふたり分の紅茶を用意すると、シズクはわたしの正面につく。
「どうぞ」
「いただきます……」
「……知らない場所、というわけではない?」
こくこくと首を縦に振る。むしろ、数年前から知っている名前です。とてもよく。描写は伝聞のみで、外観も何もなかったはずの場所。
問題は、それがわたしと地続きではないこと。
ふむ、と、シズクは数拍考える。
「ええと……ナツキちゃん」
少し改まって、シズクはわたしをまっすぐ見つめた。何となく、察しはついている。彼が何を言いたいか。
「できる範囲でいい、話してくれないか」
「……」
うつむいて、綺麗な水面を眺めるようにする。苦みのあるいい香りの湯気が目をほんのり温めた。
信じてもらえるかは、わからない。どちらかというと、信じてもらえない方が自然。そもそも、わたしの思い込みかもしれない。でもそれが、いちばんわたしが納得できる筋書きで、理由だった。
「わたしは……」
顔を上げる。今だけは、目をそらしてはいけない。それをひたすら念じながら。
***
わたしは、学校の図書室で居眠りしていて、気づいたらあの部屋にいました。沈丁花の館のことを知っていたのは、わたしの大好きな小説に出てくる場所だったからです。わたしは眠る直前、その小説の作者のことを考えていました。だから、
「わたしは小説の世界にやってきて、しまったんだ、と……」
「……」
「思います……」
おなかと頭が痛くなる。
我ながら、支離滅裂なことを言った。とくに、作者のことを考えながら寝たから作品の世界に来てしまった、のところなんて、繫がらなさすぎて最高におかしい。
その通りおかしな子だと思われたら、それを面と向かって言われたら立ち直れないかも。
「……」
シズクは、静かな表情でわたしをじいっと見つめる。わたしは、その視線を受け止める。気づけば、両手は膝の上できつく握られていた。爪を立てて、ちょっと痛い。
「わかった」
シズクはそれだけ言うと、紅茶を一口。
「うん、おいしい。まだ温かいから飲むといい」
「あっ、はい」
勧められるままわたしも一口。
「おいしい」
「少しはちみつを入れたんだよ。なかなかいいね」
それ自体が円い温もりのような笑顔で、シズクは得意げ。その指が匙で角砂糖をひとつ、紅茶へ落とすのをぼんやりと眺めた。
「えっ」
眺めている場合じゃない。
「それだけですかっ?」
「それだけ?」
「もっとこう、信じられないとか、ありえないとか」
「そんなことは思わなかったよ」
「で、でも信じてもらえる理由がない……」
「いいや。きみを疑う理由がない」
きっぱりとシズクは首を横に振る。
「この館には……きみが言うところの『ありえない』研究の歴史がある。こちらの住人ではない“隣人”が来ることは、珍しくはあっても不思議ではないんだよ」
「……じゃあ、研究は成功してたんですね」
「うん。だから、断言できるんだ」
ふたつめを放り込み、シズクは匙をソーサーに置く。かちり、と硬質な音の後に、角砂糖は沈んでいく。
「きみの知る物語……については、ひとまず置いておこう。ひとりの空想が、世界や宇宙のどこかで本当に存在する可能性はゼロではない。そうだね」
ちょっと難しいけど、何となくわかる。わたしの常識と、わたし以外の常識は違うってことだ。多分。
「はい」
結局みっつめよっつめを投入して、「何より」とシズクは続ける。
「きみはその『信じてもらえないかも』を正直に話してくれた」
「……」
「ごまかしではないんだろう?」
返事ができなくて、黙って肯定する。あんまりほっとして、泣きそうだったから。
夕方の橙色が、次第に深い藍色に移り変わろうとする。
「それじゃあ、次はその物語のことを聞きたいな」
少し強引に気分を上げるように、シズクは身を乗り出す。それとなく、深い藍色の瞳が輝いているように見えた。
「きみの好きなお話なんだろう? 詳しく知りたい」
「小説、好きなんですか?」
「もちろん、愛しているよ。本の中でもとくにね。こんな仕事をしているくらいだから」
興味津々、わくわく、わたしと同じくらいの歳の男の子みたいな反応。先ほどまで感じていた、大人のひとの立ち居振る舞いとは打って変わった様子はどこへやら。
何はともあれ、わたしの好きなものに好意を示してもらえるのはとっても嬉しい。
「ぜひ!」
気合いを入れて話しちゃおう。この機会にファンが増えたらいいな。「ここが“カドラプル”なんじゃ?」という仮説をすっかり忘れて楽観的になりながら、勇者の冒険を話し始めた。