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カドラプル  作者: アトリエめぇた
5.エピローグ
23/23

不肖の弟子の告白


「きみの仕業か」


 軽いため息。


「物語の中に物語は生まれない。それは死者が作った世界だからだ。だからここは停滞したまま続いていくはずだった。それなのに」


 ずうっと欲しかった声を聞いていると、うっかり眠り込んでしまいそう。心に溶けていくような淡い、でも低い音色はあの日と何も変わらない。


「けれどきみはその枠組みに抜け穴を見つけた。町を見ただろう、おかげで大騒ぎだ」

「見たよ。通りで絵本を売ってたね……白鳥にお洋服を縫ってあげる話。今まではなかったはずなのに」


 ことばとは裏腹の、凪いだ空の色をした瞳。こうしてその視線を受け止めるのは三年ぶりくらい。そう思うだけで胸の奥がちくりと刺すように痛んで、心地いい。


 沈みかけた太陽は濃い夕焼けを窓から投げ込む。わたしの影はあの日よりもずうっと長く伸びた。


「それにしても……本当に大きくなったね。今はいくつになるのだったかな」

「17。もうすぐ大学生だよ」


 あれから10センチも背が伸びた。何となく続けていたロングヘアはこの前肩口で切り揃えて、すっかり短い。このセーラーブレザーともあと二ヶ月でお別れだ。自分では実感がなくても、何年も離れていたひとたちから見たらとても大きな変化なのかもしれない。


「では、私が誰かわかるだろうか」

「シズクでしょ。すぐわかったよ先生、何にも変わらないんだもん」

「……きみはよくできる生徒だ。終わった物語をまた始めたのか」

「そう。これでね」


 胸ポケットから“鍵”を取り出して、引き寄せたシズクの手のひらに乗せる。ころりと丸い、梔子の花びらを閉じ込めた琥珀。


 シズクの言う“物語”は、わたしたちがいっしょにいられた時間のことだ。


「……これは持っていけないはずだ」

「うん。でもね、あっちで確かめてみたら、これはペンになってた」

「……」

「元々ポケットに入っててもおかしくないものだけど。でも偶然じゃないと思うの」


 霧を晴らしてわたしたちの道を開いてくれた梔子の鍵。物語を紡ぐためのペン。それが別ものだとはどうしても思えなかった。


「あの日からすぐに書き始めたよ。わたしがどうやってここに来たのか、あなたがどんなに優しいひとか、レンさんも、トウカのこともいっぱい」


 地球が滅びる予言だとかミレニアムだとか、そんなことは耳から耳へ通り過ぎた。目の前に確かにある世界のことは誰かに任せておけばいい。一度出て行ったわたしがまたここに帰ってくるためには、どんな姿でもいいからかたちをあげなくちゃいけなかった。


 シズクのおかげで生き返ったわたしが、少しだけ死ぬなんてことはもう心情的にできない。もうひとつ方法があるとすれば、深い深いところにある入り口を確実に見つけ出してたどり着くこと。


 かたちがあれば、どれだけ時間がかかっても絶対に見つけられる。そんな確信があった。


「そこに書き加えたの。この物語はわたしもいっしょに続けること、わたしが帰ってくること」

「それが、この世界が動き出した理由か……」

「そう。誰のお許しももらってない、わたししか知らない続き」

「……いいや、許すに決まっている。私も、彼も」


 シズクと、多分雨宮広慈はいっしょに微笑んだ。それだけで胸の奥が熱くなる。今までことばを編み続けていたのはこの笑顔が見たかったから。そしてみんなに会いたかったからだ。


「どんなわたしになっても、わたしとこの場所はつながってる。そうでしょ」

「……あぁ。けれど、きみがここに戻ってこられた理由がまだ残っている気がしてならない」

「どうして?」

「私たちは、広い世界を見てほしくてきみを帰した。視野を自分で狭めるのはよくないと……きみはそれをしっかりわかってくれていたはずだ」


 言外に「わかっているのにどうして帰って来たんだ、帰って来られたんだ」と含ませているのはよく伝わった。先生としてはここで咎めるのが正しいんだから、そう言ってくれてもいいのに。わたしに対しては相変わらず大らか……そう大喜びしたくなるのを咳払いでごまかした。


「わたし浮気はしないから」

「浮気……?」

「あなたが言ったんだよ。わたしは恋をしてる」

「……」

「大好きな相手のこと、どうして手放さないといけないの」


 目を瞠って、シズクは返答を見つけあぐねたよう。わたしはといえば、何だか愛の告白でもしているみたいな面映さのせいでことばを見失いそうになる。緊張で舌が回らなくなるのを、大げさなほどゆっくり話すことでどうにか落ち着かせながら。


「この先誰に会っても、どんな物語に出かけても、わたしはここがいちばんなの。あなたたちは、そういう決めつけがよくないものだと思ってるみたいだけど」

「ナツキちゃん」

「離さないよ、シズク。あなたも、この世界も。だからここに来たの」


 それに、と、続けようとしたのは下からのぱたぱたとした足音に遮られた。ここはあの日のわたしの部屋だ。空色に塗られた天井に、ふたつの音が響く。


「ほら早く、レン! あの子が帰ってきた!」

「あらあら、わたくしにもわかりますよ。けれど貴方、あまり騒がしくすると管理人さんが怒るわ」

「それはそれ、これはこれだよ! ナツキちゃんは約束、やっぱり覚えててくれたんだ!」


 会いたかったひとたちの声がする。落ち着いた、はしゃいだ、暖かな。思わず心が揺れるのを今は隠す必要はなかった。首を傾げるようにしてわたしを覗き込むシズクは、意外そうに目を瞬かせる。


「なぁに?」

「こう言ってはなんだけど、きみは泣いてしまうかと。今もあのときも」

「……わたしも思った。でも吹っ飛んじゃったよ、また会えるってわかったんだもん」

「……そうか」


 ほっと息をついて安堵した表情は「待ってくれ」とすぐ疑念に隠れてしまう。 


「約束? 彼と? どんな?」

「えーっと、人質を介した取引を少々」


 わたしがトウカに渡した約束は、裏を返せばトウカからわたしへのものになる。クローバーがここに留まっていられたのは、トウカの媒介がなくなってしまえば彼を取り巻く物語が破綻するからだ。あの病室で目を覚ましたとき、ヘアピンはどこにも見当たらなかったんだからきっとそう。


 嬉しくて思わず頬が緩むわたしとは対照的に、シズクは考え込んでしまう。


「……あの髪留めか」

「シズク?」


 今にも頬を膨らませそうな、不満げな、とどのつまり拗ねたようなシズク。閉じた扉を眺める視線に険がある、気がする。


「私以外にも、きみとのつながりがあることを今思い知った。物理的な意味でだ」

「……」


 お互い、思ったことを声には出さない。出さないけど、もしかしてシズクは焼きもち焼きなのかもしれない。今までのことを薄目で見渡せば思い当たる節がなくもない。雨宮広慈はどうだろう。……もっと深刻な状態にいることを感じさせる発言の数々は思い出さないようにした。冷静、理知的なふたりのイメージが木っ端微塵になりそうで。


「きみと、ここのつながりにはそれも含まれるのか」

「あはは……あと、あの絵本。ちゃんと最後まで作ってあげなくちゃね」

「先生……」


 がっくりとうなだれるところに重ねると、レンとの約束だって大事なつながりだ。まだ一割も完成していない物語を放り出しておくなんてどうしてもできない。みんなに読んでほしいし、できたらシズクの私室の本棚に並べてほしい。隅っこの方でいいから。


「目に見えるものばかりじゃないよ」

「もちろんだ。けれどそれとこれとは話が別だ……だから」


 気を取り直したように顔を上げたシズクは、あの大きな手をわたしに差し伸べた。


「シズク?」

「返事ができていなかった。私からも」

「あ」

「……これは私ときみだけのものだから」


 心臓が大きく跳ねた。眼鏡越しのまっすぐな視線に、真摯な声色に。


「きみが大切だ、ナツキちゃん。もう手を離したりしない」

「シズク……」

「きみはこれからも私の助手で、家族で、友人で……そして」

「ナツキちゃーん!」

「……」


 大きい足音が軽快に近づいて、扉を開け放つ──ところを、シズクは大股で歩み寄ると背中で押し留めた。対応が素早い。


「あれー? 立てつけ悪いー?」


 がちゃがちゃ騒がしいそれを難なく防ぎながら「下で待っていろ!」と半ばやけ気味に叫ぶ様子が何だか楽しそうで、わたしもだんだん楽しくなって、嬉しくなって……気づけばその長身に抱きついていた。勢いをつけて思いっきり。


 シズクの言いたかったことが、よくわかったから。


「わたしも大好きだよ、シズク!」


***


 海に行こうか、そんな提案に驚いた。ここでは名前だけのものだったから。


 行きたい、もちろんそう答える。この世界はあのまま問題なく続いていくはずだった。そこにわたしが手を加えてしまった結果を見たくて。またいっしょに出かけられるのが嬉しくて。


 何よりも、大好きな場所で大好きなひとたちと並んで歩いていたくて。


「私と旅をしようか」


 どこにも記されていない旅を。


 とぷん、と、どこかで水の音がする。それは、少しだけ大きくなった魚が元気に飛び跳ねる音だ。


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