1.真夏から切り取られる
雨宮広慈。そのとき、確かまだ二十代だった男性作家。
本屋さんの片隅に、彼の作品がひとつだけぽつんと収められていた。友だちが漫画を探している間、ふらふらと本棚の間を縫うように歩いていたときのことだ。
当時小学六年生だったわたしの視界に、ちょうど入ってくる高さのコーナーに、それはいた。周りの小説(ドラマ化とかいう帯がついてた気がする)と比べて、少し薄い。手にとって表紙を見てみると、綺麗な花のイラストが淡く、小さな長方形を彩っていた。
当時、わたしのなかで本といえば漫画か、教科書かだった。新聞は四コマ漫画しか読まない。だから、ぱらぱらめくった中身がひたすら文字、文字、文字というのはむしろ新鮮だった。
まだ小さかったころは、たくさん絵本を読んだし、読んでもらっていた。むしろそのころに触れた物語がいちばん記憶に深く刻まれている。何年も何年も眠り続けるお姫さま、毒リンゴを食べてしまうお姫さま、悪い魔女に声を奪われるお姫さま──どれも、あらすじを諳んじられるくらい鮮明に覚えている。それは誰かの膝の上で、枕元で語られたお話だからかもしれない。優しい声が紡いでくれる景色は、きっと忘れられない。
それなのに、物語と疎遠になったのはいつからだろう。
(読んでみようかな)
今思えば、そんな気まぐれを起こした自分を思いっきり抱きしめて褒めてあげたい。
***
そこから、のめり込むように読書に没頭した。家族も友だちも「なっちゃんが小説読んでる」なんて失敬な驚き方をしたっけ。
不思議だった。
文字が並んでいるだけで、それを読み進めているだけ。なのに、頭の中に見たことのない景色が作り出される。主人公以下、登場人物の気持ちが流れ込んでくる。平凡な子どものはずのわたしは、本を開けば海底にも宇宙にも行けた。刀や銃で悪者と戦えた。失恋もしたし(好きなひとなんてできたこともないのに)、仲間の仇を憎むことだってできた。
次第に、その感覚に夢中になっていく。もう止まらなかった。わたしにとって読書は、知識よりも非日常を得るための最上の娯楽になっていった。
中学に上がってからは、図書室に入り浸るようになった。SF、ミステリー、恋愛、色んな物語を知った。
それでも、あの日に読んだ物語を超える感動には、未だに出会えない。
「カドラプル」。それが、雨宮広慈唯一の作品で、わたしの全てだ。
***
お話の大体の流れはこう。
悪い竜が王国を破壊しようとしていて、それを止めるために勇者とお姫さまが旅立つ。
国中に散らばる四つの祠に封印された、聖なる鐘の音を解放する。それが、竜を倒す切り札。
最終的に勇者と竜が戦って、勇者が勝つ。王国に平和が戻る。勇者はお姫さまと結婚して次の王さまになって、天寿を全うしました。めでたしめでたし。
これだけなら、王道の冒険もの。綺麗にまとまっている。けれど、勇者は本当はもっと色んなところを冒険していたはずなのだ。だって、旅立つ勇者に助言を授けた賢者はこう言っている。
梔子の谷には、侵入者の心を蝕む悪しき霧が立ち込めている。その奥には迷い子を導く鍵が隠されている。
沈丁花の館では、王国の危機を救うべく精霊や妖精の召喚を試みている。勇者の助けになるはずだ。
金木犀の丘。ここには一本の木が生えている以外は何もない。その木の下での祈りは、花が散るころに叶うという。
これはもう、勇者がたどるべき道にしか見えなかった。谷は怖そうだし、館ではどんな仲間が登場するのかわくわくした。丘なんて、どんなにいい香りがするか……じゃなくて、勇者やお姫さまは何を祈るんだろう、と。
けれど実際は、勇者はこの三つのどれも素通りした。勇者はずっとお姫さまとふたりで旅を続けたし、竜との対決までに訪れたのは四つの祠だけ。
王国の一大事だから、寄り道はできない? それはわかるけど。でも、「ある」って知らされているわたしは気になる。気になって仕方がない。もし勇者たちがそこに足を踏み入れたら、何が起こっていたのか。
初めて、物語の作者、というひとのことを考えたのはこのときだった。物語は誰かが作ったもの、という見方をするのは。
どうして、このひとは勇者の冒険を狭めてしまったのか。
そう考えたのはつい最近。
その答えがわかったのは、つい一昨日のこと。
***
「亡くなったんだと」
黒野先生が図書室のカウンターで端的に言ったことが、すんなりと頭に入って……来るわけがない。
真夏の真昼に嬉しいクーラーは、わたしたちしかいないここでやけにうるさく稼働音を響かせる。蝉の声がかき消されるくらい。
「え……え? 先生、亡くなったって」
「ことば通りだろう」
小さくため息をついて、先生はパイプ椅子に深く座り直した。黒野先生、下の名前はよく覚えていない。そんな程度の距離感だけれど、ほとんど毎日顔を合わせている。
白い髪を短く刈って、同じく白い髭を綺麗に整えている。背が高い上に、六十代とは思えないほどがっしりした体格。司書役よりも柔道部の顧問の方がよっぽど似合う。竹刀とかを構えて、しかめっ面をして部員を見守るような。でもこの夏休みの間、開放した図書室の責任者になっているらしい。
ネクタイの結び目をいじりながら、先生はカウンターの隅に置かれた封筒を指し示す。ペーパーナイフで几帳面に開かれた口から、折り畳まれた紙が覗いている。
「真白、お前が雨宮広慈の本しか読みたくないと駄々をこねるからな」
「こねてない……」
いや、そう言えば。“カドラプル”ばかり読んでいるわたしに「ほかの本も読め」と先生が注文をつけたのだ。それで、じゃあ雨宮広慈の新刊ください、とダメ元でお願いしたんだった。
自分でも本屋さんや図書館に行くたびに、本棚や新刊案内を探していたけど、空振りばかり。インターネット? なんて、お店とか職員室にしか置いていないから、それ以上はどうしようもなくて。
「センターに問い合わせた」
「え」
これは、先生が本当に本を探してくれたことへの驚き。横目に睨まれた気がして、慌てて続きを促す。
「……まあいい。結果、雨宮広慈の作品はお前が読んでいた一冊しか登録されていなかった」
「そうなんだ……」
「気になって出版元にも確認した。そうしたら、雨宮広慈は一作目の発売日から少し後に病死した、と」
掠れた声で終えると、正面で突っ立っているわたしを見据える。
「そういうことだ」
「……はい」
「……残念だったな」
幾分穏やかに言われて、のろのろと頷く。
胸が、痛い。
***
ファンレター、というものを書いたのは人生で一度きり。もちろん雨宮広慈あて。
長々とした感想文を送りつけるのは嫌だし、かと言って「面白かったです!」だけというのもどうかと思う。
比喩ではなく丸一日悩んで、結局は数行の文章に落ち着いた。
「勇者やお姫さまといっしょに、たくさん旅ができました。楽しい冒険に連れて行ってくれて、ありがとうございました。とても面白かったです。大好きです」
──これが届く前に、亡くなったのかもしれない。
「……うーん……」
一昨日から、雨宮広慈のことばかり考えている。“カドラプル”ではなく。
黒野先生が外して、相変わらず生徒が来ない図書室にはわたしだけがいる。
夏休みが終わるまであと四日。宿題をやっつけて、進路指導も終えた今、とても清々しい四日間を過ごすはずだったのに、いつも以上に心が空想に引き寄せられる。どちらかというと、楽しくはない方の。
あの話の後なら、納得がいく。
大人には締切がある。わたしたちだって、今年の夏休みは八月三十一日までと決まっている。きっと雨宮広慈は、間に合わせるために勇者の旅を縮めなければいけなかった。締切、それか、自分の限界に。
「……」
死。
どんな気持ちなんだろう。自分の心も体も、何もかもなくなる旅にでるのは。読む気が失せた動物図鑑を端に寄せて、机に突っ伏した。目を細めて、傾いた視界のまま考える。
眠ることは死に似ている、それは何かの小説に書いてあったことだ。自分の意識が薄まって、すとんと落ちる。現実から自分がいなくなるから、と。
「……」
そうっと、目を閉じた。このまま静かにしていれば、いつもなら想像の世界に行ける。わたしは勇者の後ろやお姫さまの真横で、一冊分の冒険を眺めたり、よそ見をして描写にない景色を幻視できた。
でも、今は。経験したことのない死ばかり想う今は、違う気がした。
先生から伝えられた事実を聞いて、わたしは何を思ったのか──。
ふっ、
と、瞼の向こうが唐突に暗くなる。