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カドラプル  作者: アトリエめぇた
4.カドラプル
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3.慈しみの雨の下


 わたしを見るなりシズクは悲しげに口にした。自分の首の辺りを指差すのにも若干の躊躇いが見える。


「それはあまり気にしないように。きっと綺麗に治る」

「え……?」

「もっと早く気づけたら……すまなかった」


 何のこと? よくわからないまま顔を洗いに行くと、窓から射す朝の光でそれははっきりと見えた。鏡の向こうのわたしが妙な諦め顔をする。


「……」


 首に残る、指のかたちに赤く沈んだ痕。すぐに合点がいった。あのときシズクが何を言い淀んだのか、どうしてわたしの両手を押さえていたのか。


 わたしは夢の中にいる間、自分の首を掴んでいたんだ。


(絞めたなんて言い方は嫌、怖すぎる……)


 どうしてそうなったのかは納得がいく。同じ結果だとしても、わたしが誰かに殺されてしまうよりは、わたしがわたしを殺してしまう方がまだ受け入れられるからだ。当然、助けに来てくれたシズクはそんなことを知るはずもない。


 ──こんな気づき方は嫌だったけど、朝一番にここまでこじつけを並べられたなら決定的だった。


 よくない魔法って何?


 それは脊髄反射的に始まる、現実にとても近くなる連想のことだ。


 歯車が異物を噛んで軋む嫌な音を立てて、体が痛む。


***


「いつもの買い出しだよ」


 これは事実だ。


「行かせるはずがないだろう」


 これも道理で。


 出かけようとしたわたしを引き留めてシズクは言い募る。心の底から心配してくれて……わたしの本当の目的は別にあるということも見抜いている目で。


「よく考えるんだ、きみは本調子ではない。無茶をしないでくれ」

「……」

「きみに何かあったら……」


 痛みをこらえるような表情。そんな顔をさせていることが苦しい。それでも行かなくちゃいけないのは、残された時間は少ないんだとわかるから。


 本当は「いつもの」の部分は嘘だ。あの熱や痛みは慣れることもなく全身に回って濃くなっていく。こうして立っているのはともかく、ひとつ歩くごとに赤い衝撃が滲む。いつもはこんなもの連れ回したりしない。


 今度こそ動けなくなる前にどうしても結論を出したかった。何が起きているのか。ここが何なのか。あのひとは誰なのか。


 わたしがここにいるために。


「お願い」

「ナツキちゃん」

「どうしても今じゃなくちゃだめなの」


 扉の前に立ちはだかっていた長身が膝をつく。深い色の瞳がずうっと近くなって、見下ろしているだけで呼吸が楽になるように気持ちが落ち着いた。


 こんなにわがままを通そうとする助手を、この先生は怒ることもなくあくまで諭そうとする。そんな柔らかさが心地よくて、わたしもそうなりたいと思って、でもそれは今のままじゃ到底叶わない願いごとだ。


「わたしには……知らないこともできないことも多すぎる。あなたが読んでる本の半分もわからない。今も本棚の一番上には手が届かない」

「……」

「だからね、わたしには考えることしかないの。でも、それにはいろんなことが足りない」


 考えるには材料が必要だ。それは自分の経験や知識だったり、誰かの証言だったりする。何の気なしに通りがかった先で突然手がかりを見つけることもある。


 これは賭けだった。まともな思考が痛みに寸断されるまでにどれだけ正解に近づけるか。そのためなら多少の無茶をしたって構わない。倒れるのも、これ以上痛いのも怖いけど仕方ない。差し出すものがなければ何も手に入らないのが賭けだから。


 やっと見つけた場所から離れるだなんて、わたしが許したくない。


「……きみは……いや、私は」


 シズクはどこかたどたどしく言いかけて、止めた。静かな視線は凪いだ水面に似ている。晴れた日の午後、ずうっと見ていたくなる景色に。


 ──とぷん、と。満ちた水が空気を含んで揺れる空耳がした。


「私はきみを守りたい。けれど……何かを見つけるのを見守りもしたい」

「……」

「……本当なら窓や扉を打ちつけてでも止めていた」


 冗談でも何でもない、シズクの目はそう言っていた。肩に置かれる手は力強くて、内の葛藤が伝ってくるみたい。


「覚えておいてくれ、きみはそれほどの状態なんだと」

「うん」

「……私はいつだってきみが大切だと」

「……うん」


 シズクはわたしが悪化することを懸念しているだけじゃない。何かを探し当てようとしていると気づいている。そうとわかっても、このことばは心からのものだということに変わりはない。


「……夕飯までには帰っておいで」


 ふっと、シズクが唇を綻ばせた。それはおいしいお茶をいっしょに飲んでいるときと同じ顔。そういえば、初めてごちそうしてくれた紅茶にははちみつが入っていた。温かな湯気に混じる苦くて甘い香りが漂った気がして──頑なさで肩に力が入っていたのがゆっくりと解けた。


「はい、先生」

「無理をしないで、だめだと思ったらすぐ戻るんだ」

「……ありがとう」

「約束だ」

「うん。約束」


 小指を差し出すと、シズクは気づいて小指を絡めてくれる。


 ほんのり温かい手。


***


「よくセンセーが許したね?」


 わたしを見るなりトウカはぎょっとして手にしていたはたきを取り落とした。何のことかは、鏡を見ればよくわかる話で。


 金木犀の丘からは遠くても、沈丁花の館からはすぐ森にたどり着ける。お昼でも薄暗く感じるほど深く生い茂っているのに安心できるのは、トウカがいるからだ。


「僕はこわーい精霊さんだぞー」

「怖くないもん。シズクだってわかってくれたよ」

「それじゃなくても王都の病院に放り込むべきじゃないかなぁ」

「それはだめなの、どうしても……」

「うん、うん。わかってるさ」


 勧められるまま木箱の椅子につくと、両脚が少し楽になった。普段通りに歩くのがこんなに苦痛だったことはない。中身が疲れじゃないもので塗り潰されているみたい。


 大きなマットを敷いた上に座り込んで、トウカは体ごと首を傾げる。


「うーん、僕としてはすぐにでも寝かしつけたいけど」

「やだ」

「だよねぇ。それで、何を聞きに来たの? イデアとアイデアのこと?」

「何で知ってるの?」


 くすくす笑う声が響いて、軽やかに消えていく。今日は空色の可愛いエプロン姿のトウカがそうしていると、幼稚園の先生みたいだ。ゆったりと脚を伸ばして、目の前の児童生徒たちの話を笑顔で聞いてくれている。


「やっぱり覚えててくれたね。それは何となくさ。きみがそうまでして僕のところに来る理由は何かなぁって思ったら、ね」

「教えてくれる?」

「うん。きみのためなら何だって」

「ありがと……。えっとね、トウカは精霊さんだよね。今はひとの体を持ってる」

「うん」


 ぐちゃぐちゃの頭の中を、話しながら片づけていく。散らばったことばを片っぱしから拾い上げて、いい順番になるように外へ放り投げていく感覚だ。前はできっこなかったはずのことが今はかたちになっている。その理由はわからないけど。


「それと、イデアとアイデア? は関係あるの?」

「どうしてそう思ったの?」

「トウカはずうっとアイデアのままで、イデアになれないって言ってたでしょ? それって、精霊さんが人間のかたちを持っても人間になれないことと似てる気がしたの。それで、えぇっと……」

「大丈夫、伝わってるよ。きみのことばは綺麗だね。朝に降ってくる雨粒みたいだ」


 取っかかりが見つからないときは、なるべくたくさんの“わからない”を“わかる”にしていかないといけない。周りにあるもののかたちや色を確かめて歩くのと同じだ。トウカのことばはわたしにかたちをくれる。


「わたし、この世界は物語なんじゃないかって思ってた」

「……」

「トウカはイデアになれない。イデアって何?」

「ここにいることを許されて、かたちを与えられたひとや、もののことだよ」


 トウカの笑みは変わらない。それなのに周りの空気が変わった気がした。しんと静まり返って、外で囀る鳥の声すら遠慮して控えめになっているようで。


(……誰に?)


 いるひと、いないひと。それを許して分ける誰かが、何かがある。


「あとはそこから地続きのもの。町や王都、そこの住人、勇者とお姫さまのこどもたち……もちろん、センセーのセンセーも」


 ふっとそらされる視線の先は、何もない。


「僕たちはアイデアだ。だから本当はきみには会えないはずだったんだよ」


 アイデア。イデアの何十倍も想像しやすいことばだ。世界を作るときに必要なもので、全てが世界のもとになれるわけじゃないもの。


 あの物語は精霊さんをどうしていた? 目の前にいないものにかたちを渡して、いるものにする手段だけがあった。それは捨てるのを嫌う優しいひとにしか思いつかないことだ。たとえ文章の、文字のどこにも見当たらないとしても、存在を確信できる方法だから。


「……違うよ、いないわけじゃない。きみたちがいなかったらこの世界は生まれてないんだもん」

「そうかなぁ」

「そうだよ。見えるか見えないか、それだけ。わたしは、トウカがいなくちゃ嫌、あ」

「おっと」


 身を乗り出そうとしてよろけるのを支えて元に戻してくれる、その手は昨日見たときと何ら変わらない。


「ありがと……あはは、まだ熱があるの」

「見ればわかるよ。無理するなよ……でも、きみはほかにも探しものがあるんだろ」

「……館の地下の、下のこと」


 ふっと、指が頬を掠める。トウカはひざ立ちになってわたしを覗き込んだ。ほんの少し呆然として、目を瞠って。それを見ると、今のは涙を拭う動きだと気づく。


「泣いてないよ」

「泣いてるように見えたんだよ」


 半分当たっていた。きっともうすぐそうなっていたから。青い思い出に挫かれそうになるのをどうにか呑み込んで、なるべく落ち着いて話さなくちゃいけない。声が途切れないように。


「あれは夢じゃないよね」

「うん。僕もきみも、彼も」

「……どうして、来てくれたの?」

「偶然なんだ、残念だけど。遊びに行ったら誰もいなくて、地下から変な明かりが出てた」

「……」

「水から上がった後みたいに寒かったよ。とても嫌な気分になって……」


 釣られた魚は息ができない。


(ううん。よくない魔法は、今は止めなくちゃ)


「もしきみがいたら連れ出さなくちゃって、それで追いかけたんだよ。あそこは何だろう……いや」

「……?」

「彼は何だろう」

「……シズクみたい。でも違う気がする」

「彼がきみを追うんじゃないかって焦ったよ。そんなことはなかったけど」

「何か話したの……」


 ふらふらだったわたしと違って、トウカは鮮明に覚えている。確かな記憶は大樹のようにしっかり根づいた安心感があった。


「彼はきみを引き留めたかったんだって。もうすぐきみが行っちゃうから」

「……わたし、もうここにはいられないって言われてたの。わたしの旅はもう……」


 声に出すのも悲しくなって黙る。


(もう続けられない。旅に終わりがあるって考えてるひとのことばだ)


 ──シズクは違う。そんなことは言ったりしない。


「僕はきみがいないと寂しいよ。ナツキちゃん、きみは僕の大切なんだ」


 トウカはそのまま腕を回して、緩くわたしを包む。突然のことに驚いて、でも何も言えなかった。


 今この支えを失ったらわたしは落ちる。それがわかったから。床が抜けたら最後、深い穴の中あるいは深い水の底に落ちて戻れなくなるような暗い予感が爪先から染み込んで登ってくる。


「……あんなの嘘だよ、信じたくないよ。わたし、ここからいなくなりたくないもん」

「僕だってそうさ。そうだよ……でも、おかしいんだ」


 薔薇の棘が深々と埋め込まれたような胸の痛みに、思わず肩が跳ねた。目をきつく閉じてやり過ごすのがやっとだ。それを察したように、結い上げた髪の先を指先が撫でていく。


「事実だって、避けられないんだって、そう思えて仕方ないんだ……あいつの出任せかもしれないのに」

「……痛いよ……」

「僕はきみにこんなことを強いてたんだね。今ならわかる……」


 暗い。見たくない。でもその中に道を見つけられないと、そのとき本当にわたしは諦めてしまう。周りを見回せるくらいの体力は残っているはずだ。どうせじっとしていても苦しいんだから、それくらいは。


「……そうだよ、嘘に決まってる。すぐ証明するんだから……」

「……そうやって可能性を拾い続けると、もしかしたらわかっちゃうかもしれない」


 トウカは抑揚のない問いを投げる。


「きみが正しいのとあいつが正しいの、結局はふたつにひとつだろ。あいまいなままでいることもできるよ」

「……それはだめだよ……」

「答えが見つかったときのことが怖い。きみが傷つくのが怖いんだ」

「でも、わたしにはこれしかないの。何もわからないまま過ごしたらきっと後悔すると思う」

「後悔……?」

「あのときこうしてたらよかったのに、打つ手があったかもしれないのにって……」


 それは、彼の言うことが正しいのを前提にした後悔だ。考えが悪い方へ、悪い方へと押し流されているのをここで自覚して何とか覆そうとすると、どうしても止めるわけにはいかなかった。


「……後悔は苦しい?」

「苦しいよ。ずうっとなくならないから……」

「どっちを選んでもそうなるなら、か」


 しばらく、トウカは考え込んだ。わたしは頭の片隅で、熱が引いていきますようにと祈りながら続きを待った。呼吸を浅くしたら痛くないかな、猫背になったら楽かな……。


「……うん」


 ほとんどひとり言めいた、空気と同じ色の声がした。


「わかった。大丈夫だよ。どんな結果になっても僕はきみの味方だから」

「……ありがとう……」

「ゆっくり、ゆっくり息をして。もう心配ないんだよ。すぐ、怖くなくなるからね……」


 頭を撫でていく手はトウカのもの。


 そのはずだった。


 短絡的な例えをするなら“魔法みたいな”手。触れられたところが漂白でもされているのか、すうっと重荷を外されたようにまっさらになっていく。


「……え……」


 全身に回る毒みたいな熱が、ゆっくりと和らいでいく。透明で綺麗な水を差したように痛みが少し薄れた。


「きみが辛いのに辛いのを上乗せしてるなんて見てられないよ」

「ま、待って……」

「もっと効き目があるといいのに」

「ま」

「ちょっとお行儀悪いけどごめんね、もう少しだけこのまま……」

「待ってってば……これ、どうして?」

「何? あ、これ」


 悪戯っぽい笑みが耳元をくすぐっていく。軽やかなそれとは反比例して、腕の力はほんの少しきつくなる。


「僕は火の精霊さんだよ。痛みを焼き払うくらいお安い御用さ」

「そうなの?」

「ごめんね、適当言った」

「もう」

「火を移すのと同じだよ。誰かの持ちものを少しだけ引き受けられるんだ」

「それって、きみは苦しくない?」

「うーん……正直言うとね、ちょっとしんどいな」


 じゃあ離れないと、とは言えなかった。その腕は解かれない。


「早く言ってくれよ。こんなに酷いのを持ってたなんて」

「きみに渡すつもりはなかったの。ごめんね……」

「今度は頼むよ。背負った荷物って軽めに感じるものだからね」


 いやに家庭的な例え話を最後に、トウカは名残惜しげに離れていく。その指先はほとんど無意識だとわかるほど自然に、エプロンの胸元へ向かっていた。ポケットの縁で作りもののクローバーが輝くのをそうっとなぞる。


「今、きみは僕を許してくれた。僕にできるお返しなんてこれくらいしかないんだよ」

「……ほんとは、わたしじゃない方がよかったのかも」

「どういうこと?」

「きみがこの世界にいるって思えるきっかけのこと。でもいつかシズクやレンさんたちの名前、呼べるようになるよ」


 呆気にとられた目は見開いて、そうして「そうだといいね」と、優しく微笑んだ。頬は内心が表れたのかうっすらと朱が差す。


 いつもの綺麗な笑顔だ。それでも念のために確認しておきたくなる。


「トウカ。あっち向いて?」

「んー?」


 ひょいと左を向いたその頬は綺麗な肌をしていて、何の傷もなかった。あの橋の上で見たときには確か、こっ酷く叩かれて少したった後のような赤みがあったけど。


「よかった、治ったんだね」

「おかげさまで……あぁ、もう驚かないよ」


 トウカがふわりと笑むのを、ほっと息をついて見る。過程はともかく、ふたりが少しだけでも仲直りできたみたいで。


「あの日、外へ連れて行かれた後に宣言されたんだ。まだきみには話してなかったよね」

「うん。どんな話してたの?」

「お前を殴るのは次に会ったときだって」

「……」

「あ、今のは僕にもわかった。そうする必要があったんだよ。だから僕からそうされに行った。あー痛かった」

「わかんないよ」

「いいんだよ」


 わからなくて。そう続けて、トウカはにっこり笑った。


「わからないのは悪いことばかりじゃないだろ? 今回のことで言えば、僕たちはその方がいいと思ったんだ」


***


「あらあら、なぜお出かけしているの」


 わたしを見るなりレンは驚いて椅子から立ち上がった。開きっぱなしだったお店の扉から覗いたその表情は、みるみる不安げに曇ってしまう。


「こちらへいらっしゃいな。今お茶を淹れます」


 お構いなく、と言う間もなくレンは引っ込んでいく。来客用のスリッパに履き替えるのは想像より遥かに楽だった。トウカが無茶をして持っていってくれた分、わたしもいちいち怯んではいられない。


 戻ってきたレンの手は、ふたつの紅茶を机に置くと暖炉の上に立てられていた鏡をそうっと伏せた。もうずいぶん慣れた、ヘアピンで前髪をまとめていない自分の顔が隠れる。


「顔色が悪いわ。昨日よりはだいぶよくなっているけれど」

「シズクとトウカが助けてくれたんです。お医者さんも来てくれて……」


 その恩人の顔も声も思い出せないけど。そんな罰当たりなことばは舌の上で留める。罰当たりだからじゃなくて、違和感があったからだ。レンと最後に会ったのは少なくとも昨日ではない。わたしが眠っている間に訪ねてきてくれたのなら辻褄が合うけど、それならシズクからひとことくらい聞けているはず。


 昨日、具合の悪いわたしを見たひと。シズクとお医者さん。


「……お医者さん?」


 これはひとり言じゃない。目の前の席についたレンに対するものだった。ほんの少ししんとした藤色の目は、声もないまますぐに首肯する。


「そうだったんだ……」

「あの子には伏せておくように言ったのよ。貴女の中でわたくしは仕立て屋さんで、館の元管理人ですから」

「それ以外の呼び名はいらないんですか?」

「……そうですね」


 ゆったりとレンは首を横に振る。その声は硬くて、まるで何年も隠していたものを勇気を持って表に出そうとする前の決意めいたものを感じた。それでも表情は穏やかで、わたしに微笑みかけてくれるのはいつものレンだ。


「簡単に言うのなら……わたくしはたくさんのことができます。医学も、お裁縫もその内のひとつ。けれどねナツキさん」


 角砂糖は今日のレンには用意されていない。その手がスプーンをくるくると操っているのは手慰みだ。ちゃぷんと小さい水音が耳に心地よく残る。


「それはわたくしが薄まるということなのよ。わたくしを定義することば……呼び名が増えるほど希釈されていくわ」

「……」

「それがとても歯がゆい。わたくしはひとよりもよく知っていて、器用だそうだけれど……」

「あなたを印象づけるものがたくさんあると、逆に印象に埋もれちゃう……?」

「えぇ、えぇ。わたくしは元々王都で暮らしていたけれど、誰もわたくしのことを覚えてはいないわ」


 わたしの中の“シズクの先生”、“仕立て屋さん”。これ以上のレンが増えるのが嫌だったんだ。


「……いいえ、いいえ。はっきり言いましょう」


 紅茶の温かな苦味といっしょに、レンの静かな決定が流れ込んでくる。紅茶よりも苦い、でも柔らかく喉に降りてくる音。


「梔子の谷、沈丁花の館、梔子の谷。貴女が求めて、勇者が通り過ぎた場所はこの三つでしたね」

「はい。旅に出る勇者に賢者が教えてくれたんです」

「お伝えしたのはわたくしです」


 ──さらさらとした雑音は、いつの間にか降り始めていた雨のものだった。窓越しのか細いそれを横目にして、レンへ戻すのに数秒かかる。その間、わたしたちの中にはひとつのことばも交わされなかった。


 裾の長いローブを着て、飾りの大きな杖や分厚い本を持って、王さまの隣で控えている白髪白ひげのおじいさん。わたしの中の賢者はそんなひとだ。でもそれは想像の上の話で、そんなことは誰にも聞いていないしどこにも書かれていない。物語にはただ“賢者”とだけ紹介された、勇者を導く存在。


「……あのときただの娘だったわたくしのことを、勇者さまは信じてくださいました」


 窓越しの雨音に掻き消されるかと思うほど、微かな告白。それは密やかで、本当はわたしには触れられないはずの宝ものだ。


「それはわたくしに与えられた役割のため。わたくしは導く力を授かっていたのよ」


(……誰に?)


「導く……それは勇者だけじゃなくて、国のひとたちを?」

「えぇ、えぇ。国政のほとんどはわたくしの占いで方針を決めていたわ。わたくしは城の、国の機能だった」

「……そんなの、嫌です」


 まだわからないことのほうが多い年のころの女の子。レンの言い方は、そんな子がお城の中で求められるままにしか過ごせないがんじがらめの日々を思わせた。息苦しくて逃げ出したくなる。何十秒も水の中で息を止めているみたい。


「わたくしは生まれついてそうだったから、貴女のようには思えなかった。けれどね、勇者さまがわたくしを自由にしてくださったのよ」

「そのころ王さまになったんですね。それで王都を出たんですか?」

「えぇ、えぇ。わたくしが出ていくころには国の誰も、城の誰もわたくしのことを忘れていたから気楽なものでしたよ」


 誰もが、レンを“賢者”としてしか見ることができなかった。正しさの光ばかり見て、その足下にぽつんと立っている誰かがいることに気づかなかった。ただひとり、王さまだけが光を放つ呼び名に隠された女の子を見つけてくれたんだ。


 そうして、その子はわたしの目の前にいる。わたしたちの優しい先生として。


「わたくしには何でもできた。お医者さまに学べば医術を、お針子さんに学べばお裁縫を。すぐに、完璧に」

「……でも、それはあなたにはいらないものなんですね」

「不自由と無関心の象徴でしたもの。けれどいいこともあったわ」

「シズクの先生になれたこと?」

「あらあら、やっぱりわかってくれたわね。それと貴女たちに会えたことよ。どこか近くて遠いところから来てくれた可愛い生徒たち」


 両手が差し伸べられて、カップの熱を移して温かい指先がわたしの両頬に触れる。そろりとなぞるような動きがくすぐったくて、でも何だか愛おしげな……いつか見たことのある切ないそれは夏の日の夕暮れに似ていた。真昼の余韻を明日に押し流すような、涼しくて柔らかい風がひとつ吹き抜ける日。


「貴女たち三人の先生になれたこと、それだけでいいの。正しく教えてあげられることは少ないけれど……」

「そんなことないです。あなたはいつでも……」


 この世界の地を上手く踏めずにふわふわしていたわたしをつないでくれた。それはレンの表情を見ていると言えなくなる。ほんの少し苦い、笑顔。


「貴女はわたくしたちとはどうしても違うのね。ときどき体をなくすことがあるでしょう」

「……」


 見に覚えがあることだ。感覚のない夢、わたしを遠くから眺める夢。


「それは精霊さんたちと同じ状態なのよ。心だけ。好意も悪意もなく、ただ見聞きするばかりで干渉ひとつできないわ」

「……わたしは、精霊さんなの……?」

「……本当に、不思議。あなたはその気になれば世界のどこへでも行けるのに、自分から体を持っている」

「……人間?」

「あるいはそのどちらでもないのかしら。わたくしにも定義できない唯一の存在」


 不可解そのものを目の前にして、でもレンが見せたのはとても嬉しそうな表情だった。


「貴女はわたくしに“不可能”をくれたのですよ。貴女にはわたくしの必然が通用しないことがあるわ」

「あなたの必然なら、わたしはここにいられましたか?」

「……そうね、あなたはそれを確かめに来たのでしたね」


 指を離し、もともと綺麗な姿勢をさらに正してレンは待つ。言いあぐねてはいられなかった。紅茶をひと口、それで心を固める。


 ──痛みのかたちをした重みが薄れた気がした。


「ここは何ですか」

「閉じられた世界」


 らしくもない端的なもの言いがすとんとお腹に落ちてくる。変わらず聞き続けられるのは相手がレンだからだ。そのひとことはどうしても好意的に受け取れないから。


「シズクは貴女に地図を見せたそうですね。あの、緑ばかりの紙です」

「はい。でも、閉じられたってどういうことですか? 描かれてないところには海があるって……」

「そう、確かに漁村はあります。行商人も来てくれるわね。けれど、誰もその村を訪れたことがないわ」

「……それじゃあ、花を出荷してるのは……?」

「外から買いつけに来るのよ。ここ一帯から仲買人のひとりも出ていくことはないわ」

「……ここ以外にあるはずの場所が、あいまいになってる」


 レンが頷くのを、どこか現実感を見い出せないまま眺める。あると聞かされて、でも誰も実物を見たことがない。海辺から町まで、魚の通り道はそれぞれ思い描くままで実体がない。まるで肉づけすらされていないアイデアみたい。


 それでも、起こっていること自体はわたしがよくやっていることだ。文字や声……ことばだけで目の前に想像したことを現実と入れ替えて、それが現実だと錯覚してしまう。


 それは、いつも頁をめくる音といっしょにいた。


「誰にも読み取れない空白があるわ。この世界にも、絵本の中にも」

「……絵本、勧めてくれたのはレンさんでしたね」

「えぇ、えぇ。閉じて滞った流れを変えるのは貴女にしかできないことでしたから」

「本棚のすみっこしか埋められないのに?」


 いつの間にかなかったことになっていた絵を想う。閉じたところに入り込もうとして弾き出されたのは、どうしてだろう。あれはまだ絵本になる前の、わたしが借りてきた物語だ。ここのものじゃない。


「この世界はその簡単なことすらできなかったわ」


 席を立つレンを、今度はしっかりと見据えた。彼女が唐突にそうするときは絶対に何かが起こるから。


 レンは伏せた鏡の隣に置いてあるインク壷を手に取った。それを花瓶代わりに生けられているのは沈丁花だ。深い青色が残る硝子の奥で、青い水が揺れる。


「綺麗」

「ありがとう。少し前にあの子に分けてもらったのよ」

「それはシズクでしたか」

「そうね。その日は」


 机の真ん中に置かれた沈丁花の香りは淡くて、今にも消えてしまいそう。それはシズクに……というより、シズクの陰にいるものによく似ていた。


(陰)


 狭い口に数輪だけ収まる花。もう一輪欲張って入れようとしたらぎゅうぎゅう詰めになってしまう。少し花びらが歪んで、頭が押し合いっこになって。


(──あ)


「……レンさん、わたし、わたし戻ります」


 口をついて転がり出ることばを確かめる間もなく、わたしは椅子の脚に引っかかりながら立ち上がっていた。座り直そうとしたレンはとくに驚くこともなくにこりと頷く。


「あらあら、もういいの?」

「お茶、ごちそうさまでした!」

「またいつでもいらっしゃいな」


 よくない魔法が止まらない。ようやくしっぽを掴んだひらめきが霧散する前に早く行かなくちゃいけない。館へ、シズクのところへ。


「ナツキさん」


 レンはほんの少しも、驚くことはない。彼女が大切そうに沈丁花の花瓶を包むのを見た。あの中ならきっと壊れたりしない、そう確信できる柔らかさで。


「気をつけて」

「……ありがとう! 行ってきます!」


 自然に浮かんだのは笑顔だった。振り返って小雨の続く外へ向かいながら、「あなたは知っていたの?」なんて質問を諦める。その答えがどちらでも、きっと結果は同じだから。


***


 とても体が軽い。もちろんそれは気のせいだ。今も体は過ぎた熱でとろとろと溶けそうなのに、こんなにも簡単に走れる。よくないことだとわかっていても足は止まらなかった。


 トウカと、そしてレンも、わたしの痛みを引き受けてくれた。その恩返しをするなら早いほうがいい。


 この一連の異変はどこからきたのか。絵本を作ろうとしたそのときから始まっていた。それから起こったこと、ふたりがくれた欠片、そしてシズク。それをつなげて、ときどきは強引にねじ込んで、よくない魔法は広がっていく。


 どうしてレンが賢者だったのか。それはその必要があったからだ。どうしてトウカはイデアになれないのか。それは実現できるひとがいなくなったからだ。


「──ナツキちゃん?」


 ようやく館が見え始めるころ、入口にシズクが立っているのが見えた。わたしを探しているようにきょろきょろしていた視線が定まる。


「ただいま!」

「おかえり。いや、違うだろう」

「買ってきたよ、はい白墨。青インクが入るのは来週になるんだって」

「お疲れさま。いや、違うだろう」


 急いで急いでと館に押し込まれて、次にはタオルがふわりと頭に降ってくる。


「なぜなんだ、なぜ雨の中を戻って来たんだ」

「だって早くシズクに話したかったんだもん」

「そうだとしても自分を大切にしなさい」


 ぱたぱたと髪を拭われる間、お互いの顔は見えない。それでも館の中が暗くて、灯りのひとつもないのはわかった。それがそのままシズクの心のように思えて、逸る気持ちがようやく平静を取り戻す。


「ごめんなさい」

「わかってくれたならいいんだ。それで、どんな話を?」

「シズクに教えるよ。いろんなこと、なるべく綺麗に伝えるから」


 見えなくても、戸惑っているのがよくわかる。


「……ナツキちゃん……」


 何が起きているのか。ここが何なのか。あのひとは誰なのか。全部全部、わたしは説明できる。


 そして、それは声に出すのも悲しくなる結論をどうしても連れてくること。


「明日はきっと晴れるから、朝ごはんの後に時間をちょうだい。外でお話しよ」

「それは構わないが……」

「長ーいお話になると思うの。聞いてくれる?」

「あぁ。聞かせてくれ」

「ありがとう、シズク」


 わたしの旅は終わってしまう。


「じゃあ約束ね。雨宮広慈さん」


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