2.灯火は消えない
約束のとおりに、シズクは一晩中わたしの部屋にいてくれた。
「ありがとうね、ごめんね」
机に伏して目を閉じているところにそうっと毛布をかける。
ここまで寝入っているのを見るのは初めてだ。微かに覗く目元はゆったりと閉じられて気持ちよさそう。どことなく幼い印象が意外で、思わず見入ってしまって……慌てて(静かに)部屋を出た。
身支度のために下へ降りながら、はっきり覚えているあの光景に考えをめぐらせる。近年稀に見る酷い夢だ。何よりシズクを困らせてしまった。後でちゃんと謝らないと。
「何かの予知夢とかだったらどうしよう」
弱った魚。埋葬された魚。悪いことしか連想できない。夢占いには詳しくないけど。
それと、白い部屋。エレベーター。
「……んー」
妙に現実味があるのはそれだけだ。絵本づくりが難航していたところからそこまでは地続きだったから。エレベーターに乗ろうとするのを止められて、そこから眠ったというのが本当のことだとしても全く記憶にない。どんな気持ちで二階に戻ったのか、シズクと何を話したのか。
「何回も起きちゃったのも……?」
欠片ほども思い出せない。
(そんなことあるかな?)
ぱしゃ、と、手櫛で適当に前髪を上げて顔に水をぶつけるようにした。ちょっと乱暴なのは、誰にも解決できないことをずうっと考えてしまいそうな頭をさっぱりさせたかったから。全部全部悪い夢。誰かがそう言ってくれた気がする。
「そうそう、今日もがんばろう! まずは机を……」
顔を洗い終わったとたん、気づいた。
机を片づけた覚えはない。
「あ」
あの、人間にも女の子にもなれなかった絵らしきものを見られたら! いやいや絶対見られている。あの惨状を広げっぱなしにしていたのは夢でも何でもない。かなり、とても、絶望的に恥ずかしい。「これは何を描いたんだ?」なんて聞かれて正直に答えるのは恐ろしいし、逆に触れられなくてもそれはそれで優しさが苦しい。
「だめ、待って、それは人間じゃ……いや人間だけどリハーサルで!」
それは手遅れと支離滅裂が過ぎる言い訳だったけど言い訳しないと気が済まない。シズクの睡眠時間を削った張本人が自分だということはすっかり忘れて騒がしく階段へ急行しようとすると、ちょうどぱたぱたとした足音が降りてくるところだった。あぁ間に合わなかった。
「猿?」
まだとろんとした眠たげな目を眼鏡の向こうに、シズクは肩に毛布を引っかけたまま首を傾げた。寝癖のついたふわふわの髪が軽やかに揺れるのが、笑顔をほのかに縁取る。
「あぁ、ナツキちゃん。おはよう」
「お、おはよう……」
「……あ、あの絵のことか」
「ひっ」
やっぱり見られていた。「あの前方後円墳はよく描けているね、とくにあの丸み」なんて言われた方がまだましだった。にこりと頷きながらシズクはゆっくりわたしの横をすり抜けていった。
「きれいな庭だ。続きができたらまた見せてほしい」
顔を洗いに奥へ引っ込んだシズクの背をぼんやり眺めて──何だか雲の上を歩くようなおぼつかない足取りで部屋へ戻った。シズクの感想はどう好意的な(あるいは極限までひねくれた)捉え方をしても、わたしの絵を見たものじゃなかった。
「……」
丁寧に机の隅へ寄せられたクリーム色の紙。そこにはわたしのできの悪い絵はなかった。鉛筆一本で緻密に描かれた芝生と花壇、そして一本の大きな木。それが画面いっぱいに、まるで何日もかけて写生したかのように鮮やかに広がっていた。
その庭には誰もいない。
***
「あーもうわかんない、おしまいおしまい! 今日はもう考えない!」
堂々と宣言したわたしを引っ張るように、今日の作業を早めに終えたシズクは夕の市に出かける。あの部屋の扉は今までどおり地下にあって、でもそれを開こうとする気にはなれなかった。もし少しでも開いてしまったら……中を覗き見るのすら躊躇われる。一連の混乱は間違いなく、あの部屋から始まったから。
「その調子だ、考えて苦しいものは急いで考える必要がない。というわけで」
「いうわけで?」
「気分転換だ。今日の市には王都から来るものがあると聞いたから」
「すごい! どんなお店なの?」
「硝子の工芸品、新しいお菓子、衣料品、あとは……」
「お菓子……!」
「はは、急がなくても全部見られる。大丈夫だ」
真っ先に興味を示したものが隠せなくてちょっと照れくさい。
シズクの言うとおり、王都からのお店は町のテントよりも大きくて、たくさんのお客さんを受け入れるのに苦はなさそうだった。後から訪ねたわたしたちもちゃんと新作を買えたくらい。
離れたところのベンチに並んで座る。さく、と、ふたり分の軽やかな生地の音がいっしょに響いた。
「さくさくだねー」
「あぁ。それに中はとろとろしている……確かに、食べたことがない」
シュークリームによく似たお菓子だ。それよりは歯ごたえのあるクッキーのような生地の中に、甘いカスタードがたっぷり。紅茶を合わせたら最高のおやつになるはず。
「あちらではあらゆる研究が積極的にされている。だから新しいものはだいたい王都からやってくるんだ」
お菓子もパンも、確かに種類が増えている。時間が止まったようになっているのは物語だけみたい。止まるどころか、あの庭の絵みたいに事実のはずのことがねじ曲がることだってある……もう何がなんだかわからない。
どこからどこまでが夢だったのか。
(あー、もう今日は忘れるんだから)
意識して思考停止するのも難しい。舌の上の「おいしい」は正真正銘本当だからそっちを楽しむべきだ。
「朝より元気になったようだ。よかった」
「うん。ありがとう!」
「きみは本当においしそうに食べる。あぁ、ここにクリームが」
「あ、ごめんね。あらら、シズクもこっちに」
お互いの頬についたカスタードを指で拭う。ふたりして夢中になっていたのが何だかおかしくて笑っていると、通りを挟んだ向こう側から歓声のようなざわめきが起こった。お菓子屋さんのよりさらに大きな、「だいはつめい」の旗を従えたテントからだ。
「大発明?」
「行ってみようか」
「うん!」
ぱらぱらとそちらに集まるひとたちに混じる。すでに結構な人数に囲まれていたのは、木箱の上に置いて一段高くなった机だった。そこにぽつんと据えられたレジスターのようなものを前に、店主らしきおじさんが熱弁を振るっている。勢いに乗った早口は雑踏の中では聞き取りづらくて、シズクに頼るしかない。
「あのひと、何を言ってるの?」
「うん……印刷がどうとか。今からその機械を使うらしい」
「印刷?」
ぱち、ぱち、と、そろばんを弾くような硬い、でもどこか軽快な音がして、机に向き直る。見れば、薄い紙を挟んだ機械の部品がピアノの鍵盤のように跳ねていた。店主が操作するのに合わせて、不規則に紙が送り出されてくる。
既視感はすぐに拭われた。教科書に載っていたのを眺めたことがある。
「あ……タイプライター⁉」
「あぁ、そうか。彼はそう言っていたのか。知っていたのか?」
「名前だけね。実物は初めて見るの……」
「あんなものができたなんて」
感心して、わたしたちは取り出された紙に見入る。ここからは遠くて読めないけど、確かに文字が刻まれていた。綺麗な等間隔に、整っている(見えないけど、きっとそう)文字に、何よりもこの機械自体に驚いて、集まったお客さんはため息に似た感嘆をこぼした。
「どうしたらあんなすごいものが作れるんだろう」
簡単に、たくさん書きたい。その一念だけでは足りない。わたしには設計図の一端すら思い浮かべられないほどだ。複雑な計算や部品を、どうやってあの大きさに収められたのか検討もつかない。
「あれを作った人はたくさん勉強したんだね」
「あぁ。途方もない時間をかけただろう」
「そこからワープロを作っちゃうひとも、すごいよ」
「そうだな……」
「うんうん」
──ふと、隣の長身を見上げた。
沈黙が降りる。軽く見開かれた目が瞬くのを見た。
「ナツキちゃん?」
「ん? あ、そうそう、硝子の。見に行こ」
「そうだった。あちらの広場だったはずだ」
「じゃあ出発!」
大きな手を引いて先を歩く。こんな、何でもない動作なんだから気づかれることはないはず。言い表しがたい大きな違和感が尾を引いていることは、絶対に。
──何だか、頭が痛くなってきた。
***
「な……?」
シズクの絶句は当然だった。硝子でできた、小さくて可愛い香水瓶の数々を思う存分見学した帰り道のことだから。「綺麗だね」と我ながら熱中しすぎるほどしていた直後のことだから。
あと数歩で館の玄関という中途半端な場所で立ち止まった足は、それきり動けなくなる。
わたしは何の理由もなく、前触れもなく、涙を流していた。
(何これ)
他人事同然に、訳のわからないままシズクを見上げるしかない。
「な……なぜ……ナツキちゃん……?」
「……わかんない……何ともないよ、平気」
「そんなはずないだろう」
「でも」
「いいんだ。ほら、少し上を向いてくれ」
心配そうにやんわりと目元を拭われるまま、夕日が刺さらないように視線をそらす。今の言い訳は間違っている。でも、それなら正しい理由はというと全く心当たりがない。
それとも、お決まりの枠に当てはめてみるなら。もしかしたらわたしはとても疲れているのかもしれない。季節の変わり目という悪条件もある。はしゃぎ疲れなんて、小さな子みたいな原因だったら嫌だな……。
「……?」
ふと、シズクが疑念に声を上げた。見ると、その手のひらがわたしの前髪をかき上げて額に触れるところ。
「すまない、少し」
「ん」
ぺたり、と、大きくて冷たいそれが貼りつくのが気持ちいい。瞼にかかる温度を心地よく受け取っていると「これは」とどこか切迫した呻きが落ちてきた。逆に、そのまま頬に首筋にぺたぺたと触られるわたしは何だかいい気分。
「シズク?」
わたしの体が浮いた。
「えっ」
文字通り運ばれているのだと、数拍遅れて認識する。
「えっ?」
抱えられたのをぽいと放り込まれる。ぽふりと柔らかくわたしを受け止めるのは真っ白いシーツ。ベッドの上だ。
「寝て!」
シズクはそれだけ叫ぶようにすると早足で去っていく。数秒の間に起きた一連の衝撃に、頭がまともに反応しない。
(何これ)
「……えぇ?」
シズクは額に触れていた。それを真似てみると、やけに自分の手が冷たい。頬に触れて、首筋に触れて……やっと異変に気づいた。
「熱い」
熱い。靴をそうっと床に落としてゆっくり横たわると、体温のないシーツが擦れるのすら心地よかった。
もう言い逃れできない。
「……ごめんなさい……」
昨日から迷惑をかけ通しだ。謝っても謝りきれないことばの影で、水の落ちるぱしゃぱしゃとした音が聞こえ始める。きっとシズクのものだ。
「……」
言いつけどおりに目を閉じると、ふらりと脳が揺れた。めまいに似たそれで芽生えそうになる吐き気を意識して抑え込む。
全く気づかなかったなんて。自分のことなのにこれっぽっちも。馬鹿は風邪を何とやらだ。自覚した発熱は途端に重くのしかかって、体中に回っていく錯覚がする。
「ごめんね」
暗い水面に浮かぶ気分だ。真夜中の、墨のように底知れない不気味な後悔の井戸の中で目を閉じるのは、それ以外にできることがないから。
***
夢。すぐにわかった。
わたしがベッドで寝ているのを真上から見ている。いつも横になる前に落としているはずの火が灯っている。などなど根拠はそろっている。
それにしても。
「むー」
(嫌だなぁ)
自分の寝顔はなかなか見たくないもの。口が少しだけ開いているようにも見える、だらしない。このまま恥ずかしい寝言でもつぶやいたなら顔から火が出るかもしれない。
「んー……」
(やめてー)
むにゃむにゃ何か言っている。お願いだから大人しくして。
「うーん」
ほら、誰か入ってきた──心当たりのない誰か。
(……え)
シズクはノックもなしに入ってくるひとじゃない。レンはそもそも町にいる。トウカだって、寝込みを覗くような悪趣味は持っていない。
(え、え、えー?)
枕元に立つ知らない誰かが、やけに細長い夕方の影法師みたいな体を差し金よろしく真っ二つに折り曲げてわたしの寝顔を覗き込んでいる。あと少しで額同士がくっつきそうなほど近くで。
(えー……)
その、塗りつぶしたように真っ黒な影がわたしの頬に伸びた。木の枝の端っこと見間違えそうなくらい弱々しい、今にも朽ちそうな指が本当に微かに、肌を撫でていく。綿あめに初めて触れる子どもみたいな、おそるおそる、そろそろとした緩慢な動き。何度も何度も、繰り返して。
その仕草がやけに愛おしげに感じて、見ていて落ち着かない。わたしは気づかすに寝入っている。
(そのまま眠ってて)
そう願わずにはいられない。きっと今まで、誰かにあんな風に触れられたことはないから。もう少しだけ、この光景を見ていたかった。
顔もわからない影が、そうやってわたしを慈しむようにするのを、その指が頬の輪郭をたどるように首筋へ降りていくのを、手のひらが首をくるむのを。
(……)
──ことばも出なかった。ぽきりと鳴らないのが不思議な十指。それが、わたしの首に添えられる。そのまま縋りつくように両手が握り込まれた。
(……嘘)
このわたしは首を横に振る。あのわたしはまだ眠っている。その間にも、ゆっくり、ゆっくりあの手に力が入るのがよくわかる。骨が軋んで擦れる音が聞こえそうなほど。
(嫌だよ……)
わたしは話せない。これは夢だから。未だに目を覚まさないわたしを叩き起こせないし、そんなわたしはあんなことを続ける影を止められない。
(嫌だ、やめてよ)
声がない。どんなに張り上げても、しんと冷えているはずの空気ひとつ震えない。
(やめて)
無駄とわかっていて、その背中に手を伸ばす。襟首を掴もうとした先で、ふっと、本当に静かに、前触れもなくわたしの目が開いた。
「……」
驚きも、苦しみもしなかった。ただ瞼を開いただけの目は、視線を宙に投げ出したまま抵抗もしない。
「……ぁ」
少しだけ開いた唇から、ほのかな声が零れる。ことばになる前に潰された、ことばのかけらが。
(だめだよ)
これは、まだ生きているわたし。
(助けて……)
そして、これから死んでいくわたしだ。
(シズク)
わたしが死んでいく光景。ただただ静かに、決められた結末だけ映し続ける幻灯機みたいな光景。そこに、わたしたち以外の誰も、割り込むことはあり得ない。
「……」
空ろになっていく目がほんの少し、かたちを捉える。あのわたしは、わたしを絞め続ける影の、きっとあるはずの表情を捉える。
わたしが、無表情を崩した。
(……どうして……)
泣いているように見えた。責めているようにも見えた。何より、本当に嬉しそうに笑っているようにも見えた。
***
「どうして……?」
目を覚ましたとき、そこには見慣れない天井がある。わたしはいつの間にか見たこともない水色の寝間着姿になっていて、ここは知らない誰かの部屋で、わたしは知らない大きなベッドの上にいて。
書きもの机とこのベッド以外はほとんど大きな本棚をぎゅうぎゅうに詰め込んだような、悪く言えば圧迫感のある部屋。いつもならこの狭さが嬉しいはずだけど、今は苦しいだけだ。
とても頭が痛い。鼓動と同じ間隔で鋭い熱が走る。
「どこ……?」
靴もスリッパも履くのを鬱陶しく思えて、裸足のまま部屋を出る。脚に力が入らずに、壁を伝う手を頼りに。やけにサイズの大きい寝間着は、裾が邪魔だ。でも、それを直す暇さえ惜しい。
また、そばにいてって頼んでおけばよかった。あんなに怖くて、悲しくて、意味のわからない夢に遭遇するのだとわかっていればそうしたのに。ちらと思い出すたびに息苦しくなって呼吸を深くすると、おかしな空気を受け入れる肺がぎしりと歪んだ。
「シズク」
今が何時ごろなのかわからない。館は墨の海に放り込まれたように黒い影に沈んでいる。そんな状況なのに、わたしの足は地下へ向かう。墨に夜を重ね塗りした濃い闇の中へ。
彼がここにいる確証はなかった。
でも、ここで正しかった。
「……」
また、あの人工めいた白い光。半開きの扉をくぐるのに迷いはなかった。その先にシズクがいるんだと、いつしか確信していたから。この部屋の鍵を持っているのは彼だけだ。
上と下、どちらにでも行けるエレベーター。考えなしに下へのボタンを押すと、低い稼働音とともに微かな巻き取りの音が伝ってきた。
(ここが井戸なら)
痛みで思考がばらばらになる。ここが井戸。どうして? 狭くて深いから。井戸だと、どうして下に行くの? ほしいものはそこにあるから。
(シズクは底にいるの?)
わからないまま開いた籠の中へ踏み出す。やがて密閉される小さな箱は普通のつくりをして、窓はない。機械の動く音ばかりが沈殿して、ほかはしんとも響かない。
全身が軋むのが聞こえそう。
(……痛い)
部屋から抜け出したこと、シズクは怒るかもしれない。あの悪夢の後も、言いつけどおりに眠っていたらどうなっていただろう。もし今、ここに来なかったら──。
きっと会えなかった。
「来たのか」
エレベーターが着いた先は、一瞬洞窟のように見えた。細い通路の向こう、壁を見つめていた姿勢から顔だけこちらを窺う人影。
「ちゃんと休んでいなければだめだ。体が辛いだろう」
ことばで呆れつつ、それでも声からは色がほとんど抜け落ちている。ただ文章を読み上げたも同然のそれは、わたしには響かない。
「綺麗だね」
答えになっていない答えに、シズクは「そうだな」とだけ返し、そちらに向き直る。通路を挟むのはあまり高さのない硝子の壁。その向こうに、細かな泡が浮いていくのを見た。下へ行くほど、深くなる青。
ここは何も住んでいない水槽だった。静かで暗い、ごく一般的な水族館。透明な海の向こうに岩肌があるのがわかった。ひとつ決定的に違うのは、生きものの気配が失われていること。
「あなたは誰なの」
視線を斜め、右上へ。硝子に写り込む白い顔を眺めた。その注意がわたしに向けられる。目が合ったような、合っていないような奇妙な数秒。
「……なぜ?」
「あなたはわたしの大事な先生と違う気がしたから」
これは遠慮したもの言いだ。本当は少し前から違和感を抱いているのに。さっきから感情の灯火ひとつ見せない表情に、あの温かな彼を見出だせずにいる。
「私はシズクだ。きみの先生で、家族で、友人の……けれど」
ゆるゆると首を横に振ると、藍色の髪が力なく揺れた。
「……あぁ、そうだ。だからこそ伝えなくては」
わたしの感覚全部が、鈍痛に掻き回される。
「きみの旅は終わってしまうんだ」
だからこれも、聞き間違いだと思いたい。
「四つの祠も、鐘の音も、竜も。あれら全ては勇者たちのものだ。何年も前に終わった話だ。なぞることはできても同じにはなれない」
「……」
「きみにできることはもうない。きみはもうここにはいられない」
「……やっぱり、シズクじゃないんだね」
「……」
すっと目が細められた。何を言いたいのか……聞きたいのかわかる。
「わたしが怖い思いをしてるときは助けたいって、ずうっとここにいてって、言ってくれたの」
「……」
「あなたじゃない」
でも、と、ことばを継いだのはまだわたしも掴みかねているから。このひとは誰なのか。青い、淡い光の中に立つこのひとは。
「わたしの願いごとを知ってるのはシズクの方だよ。あなたがそれを知ってるのはどうして……」
「……私は狂人だ」
どこかで聞いたことを繰り返す顔を直視できなくてうつむく。このシズクみたいなひとは一体どうしたんだろう。わたしと同じで、わからないものに振り回されて途方に暮れているように見える。そう、望んでこんなことになっているわけじゃないと。
こつりと、革靴のつま先がこちらを向いた。
「いや、しかし、私は……どうかしている、なぜここに来てしまったんだ」
うわごとに似た後悔は、誰にも向けられていない。それを運んでいくように、またひとつ泡が立ち上る。視線でたどっても、水面は見えない。
「ここには何もいない。私が一匹残らずだめにしてしまったんだ。だから」
平静そのもの、というより平坦そのもののと形容した方が正しい狂気(彼が言うには。あんまり信じていないけど)を無理やり押し殺したことば。振り向いた先の白い顔に眼鏡がないことを今さら、場違いに気づいた。
「……」
「きみには、きみにだけは知られたくなかった」
「……」
「許してくれ」
両手が伸びてくる。目の前の光景のせいで文字通り青いそれは、まるで何日も食べていなかったように酷く痩せていた。
「……」
何の感慨もない。ただ気づいただけだった。これはシズクのものじゃない。昨日、わたしに触れたあの手じゃない。
「どうして」
指先が届きかける。
「センセー」
──その手は、いきなり背後から伸びてきたもうひとつの手に掴まれた。乾いた音を立てて。身動きの取れなくなったそれは、いつもの色白で骨張った、大きな手。シズクのものだ。
「……」
それはあんまり唐突な、場違いな明るい声。そのままわたしの真横を足音ひとつ立てずに歩み出てきたトウカは、笑顔だけ浮かべてシズクから目をそらさない。
「何で……」
「先に上がっておいて」
「……」
「大丈夫だから」
返事もできずに、そのことばの意味も聞けずに、気づけば一歩後ずさっていた。これがどんな状況なのか問いただせないまま、シズクに視線ひとつ投げられないまま。
(……行かなくちゃ……)
どうしてトウカがここにいるのか。それはわたしのため。何のためにトウカは笑みを浮かべているのか。それはわたしのためだと、すぐにわかった。表情では、緊張で凍てついた声は隠せない。いっしょにここを出ていきたいのに、ふたりは多分それを許さない。それぞれ違う理由で。
エレベーターの方を難儀して振り返る。トウカが降りてきたままのそれは、ぽかりと明るい口を開けて待っていた。わたしの足音の裏で、背後からは話し声のひとつも生まれない。
心臓の辺りに突き刺さったまま抜けない棘が、痛みよりも恐怖を滲ませる。ここには、いられない。よりによってシズクの口から、シズクの声で聞かされてしまったひとことは、ずうっと前から決まっていた事実のような大きさと重みを持ってのしかかってくる。
「シズク……?」
胸の奥から湧き出してくる熱い悪寒が嫌で、自分で自分を抱き締めた。
あのときわたしに向かって伸びてきた手は、間違いなくわたしの頬を包もうとしていた。
(……体が、痛いよ……)
一歩ずつそちらへ近寄るわたしを、先客はじいっと見つめていた。蛍光灯に照らされた籠の床、その上にぽつりと横たわって。
「……」
白いお腹を晒した小さな魚だ。
「ナツキちゃん!」
鼓膜を突き破って頭に刺さりそうな、それが誰かの大声だと遅れて理解する。びっくりして目を開いて──今まで目を閉じていたんだとわかった。
「え……?」
「私がわかるか? 引き込まれるな!」
真上からわたしを覗き込むシズク。焦りに強張った表情は青ざめているみたい。そんな状態に反した声の鋭さは、聞いていて体が竦みそうなほど。
「シズク、シズク……えっとね、わたし……」
周りの状況を呑み込むにつれて、わたしにもだんだんと落ち着きを取り戻す。ここは知らないところなんかじゃなくてシズクの部屋で、この寝間着はシズクが着るにはちょうどいい大きさだ。冷静になれば大丈夫。全部説明がつく。不可解で、奇妙で、悲しくて、怖いのは全部全部……。
(違う)
深く息を吸い込んだ。放り投げそうになった大前提をお腹にしまい込む。
(夢だなんて言い訳しちゃだめ)
シズクは片膝をベッドに乗り上げて、わたしを覆い隠すようにしていた。その両手はわたしの両手を包んでいる。
「そう……そうだ。ゆっくりでいい、もう何も来ない。だから」
「来ない……?」
「きみは酷くうなされていたんだ。それに……いや」
一旦ことばを切ると、シズクは体を起こす。
「……?」
「先ほどまでは高熱で……そう、あれは眠りではなくて気絶だ」
「……」
「何度も気を失って、また目覚めて……お医者さんが来たことも覚えていないだろう」
「……うん」
「辛いだろうが聞いてくれ。この状態は明らかに、よくない。きみには確かめたいことがあるだろうけれど……それは今すぐでなくてもいい」
黙って頷くしかなかった。熱を出してはいたけれどちゃんと歩いて、話していたわたしはシズクの“本当”には映らなかったんだ。
どこからどこまでが、わたしなのか。わたしと“本当”の境目がカスタードみたいに溶け崩れてなくなっている。
確かめなくちゃ。あの静寂ばかり満ちた水族館が現実だったのかどうか。──それは、あの場所が何なのか、あそこにいたひとが誰なのかを突き止めること。そして、わたしがここにいられなくなるなんて悪夢を否定すること。
でも、それは今日じゃない。
「ね、シズク。来てくれてありがとう」
「……あぁ」
「痛くて、怖くて、悲しかったの。だからね……でも」
「ナツキちゃん……」
そう、今日じゃだめなんだ。痛みでぎゅうぎゅうのところに追い打ちとばかり詰め込まれたものの大きさに、頭は耐えられない。
結局何を言いたいのかわからないまま、動かない体は毛布に覆われる。
前にもこんなことがあったっけ。アルバムからぶちまけられた写真みたいに、いつのことだったか思い出せない。元に戻すには手がかりがいる。日にちだったり、写されたものの古さだったり。何より、写真何万枚分の時間を実際に歩き切ったわたしたちの記憶。
(こんなことって、何だっけ……?)
それは、答えを聞けないまま眠ることだ。
「あなたは誰なの」
髪を撫でる指先が一瞬止まって──微かに震えた気がした。




