1.遠い漣
よくない魔法って何だろう。
当たり前のようにわたしの中にある魔法(シズク談)らしい……とはいえ、当たり前になればなるほど定義はあいまいになる。ただ聞き慣れただけのことばを理解して使いこなせていると思い込むのと同じだ。「確信犯」の本当の意味を知っている? と聞かれて正しく答えられなかったことがあるように。そんなときは辞書を作るようにして、なるべく文章にして考えるのがいちばんわかりやすくなる。
“わたしの頭はどうやら連想が得意らしい。それこそ条件反射的に、目の前に散らばるひとつひとつ関係のないことがらをつなげて、全く新しいできごとを作り上げた挙げ句それが本当にあったことだと、はたまた今まさに起こっていることだと思い込んでしまう。それは思考からこぼれて視界にまで影響するから困りもの。今目の前にあるものは魔法なのかどうかいちいち確かめなくちゃいけないから”
「長い長い、抽象的、わかりづらい、不合格! うーん、何か例え話があれば」
この前の夕飯後に見つけた、捨てる前のにんじんの皮。どことなくぶ厚い。もしかしてなるべくにんじんを食べたくないだれかが可食部を巻き込もうと企んで躊躇った……? あ、意図して雑に皮むきしようとして良心の呵責に苦しむ背中がキッチンに見えてきた。いちばん最近のものはこんな具合。ちなみに本人に確認を取っていないから真相はわからない。言い当ててしまった場合の気まずさを思うと……。
「しっくりこないなぁ」
自分の持ちものすらまともに説明できないなんて。そんな調子でこの一大プロジェクトが達成できるはずもない。これをやり遂げるには忍耐と語学力と読解力が必要不可欠なんだから……そうやって、少し落ち込みながら机に広げた資料たちを眺めた。
毎日の仕事の合間、こっそり進めていた極秘計画がある。と言っても、半分は文字の練習だ。少し前にシズクにも知られている。
お手ごろな厚さの絵本を開いて、傍らに古い広報を裏返した捨て紙と鉛筆を用意。頭の中に新暦のあいうえお表を思い浮かべつつ、絵本の文章を訳していく。
初めて地下の書庫で絵本を見つけたときは飛び上がるほど嬉しかった。この世界の物語が読めるなんて! 長文は書き出せば何とか理解できるくらいの段階だから、一日何冊も読破とは行かなかったけど。
「……うーん……?」
そろそろ四冊目を終えようというころ、奇妙なことに気づいた。一冊目のころからのあの高揚はだんだんと冷静になりつつある。
どの絵本も、同じ物語のかたちをしていたからだ。
勇者がお姫さまといっしょに旅に出て、四つの祠を巡って悪い竜を倒す。どの絵本も、この道筋をたどっていた。勇者ひとりきりだったり、最後は国に留まらずに旅を続けたりといった類例はあっても、大元が同じなら受ける印象も似たものになる。
わたしの大好きな物語と。
「世界の大半は何かからの引用でできているものだ」
地下から戻った先のシズクはそう言いつつも「しかし考えたこともなかった」と不思議そう。
「物語とはそういうものだと思っていたんだ。きみから例の物語について聞いたときもとくに驚きはなかった」
「物語は世界中にたったひとつ?」
「あぁ、そうだとばかり。しかし、きみのところでは違うのか……」
少し呆然となって、地下への階段があるこの部屋をどことはなしに眺めた。この下にはあんなにもたくさんの本があるのに。辺りの燭台からひとつずつ火を消していくシズクの動きはゆっくりとして、何かを考え込んでいるみたい。
(シズクが好きだって言ってたのは、ひとつの物語の仲間たちなんだ)
今日の作業は一段落したのに、新しい問題を持ち込んでしまった。「それは違う」と言えないのは、現にわたしがそれを目にしたからだ。この国では創作があまり盛んじゃなかった、と考えるのは何だか乱暴な気がする。
地下からの冷気が、急につま先に滲むよう。暗くなったからだとこちらは乱暴に決めつけて、わたしも近くの蝋燭を吹き消した。少し休憩したら、消耗品の買い出しに行かないと。
***
空いた時間で、シズクはよく本を読んでいる。決まった場所はなくて、地下や自室、椅子があればどこでも。
眼鏡の奥の目が文字をたどって、ときどき伏せられるのがどこか優しげに感じた。頁に皺や折れを作らないようにそうっとめくる指も、たまに組み替えられる脚も。
一度だけ、何を読んでいるのか見せてもらったことがある。解読できたところでわたしには到底理解できないそれは「統計」の何とやらだという。少し難しいけれど、世間のいろいろなことが見えてくるから面白い……そう言っていたっけ。
わたしは周りと比べてたくさん本を読む方だった。でもよくよく思い出してみれば、それは全部小説や絵本。物語だ。シズクのものみたいな資料集やエッセイ、人生は何とかと解説するような啓発本は手に取りこそすれ一行だって目を通したことはない。いまいち興味が薄くて。
読書家とか本の虫とかいうのは、きっとシズクのことを言うんだ。視野が広いからいろんなことがよく見えて、知りたいことがたくさんあるからいろんなことに関心を寄せる。あんなにもの知りで冷静なのは、知識をたくさんしまっておけたり引っかけておけたりする心のかたちをしているからだと思う。
(理想の大人って、そんな感じだなぁ)
そんなひとのそばにいられるわたしは、もしかしなくても果報者だ。今は届かなくても、いつかはああなれるようによく見ておかなくちゃ。この買い出しだってそのひとつ。
今日はよく晴れて風の涼しい日。おやつの時間を過ぎた今、通りは子どもたちの遊び場になっている。がおーぼくたちは魔物だぞーと大いばりの男の子たちが、きゃあきゃあ笑う女の子たちを追い回している。すぐそばに置かれた木箱の陰では、勇者役らしく花冠を戴いた男の子が今か今かと出番を待っている。
可愛いなぁ、と、わたしも辺りの商店のひとたちも思わず笑顔になる。きっと、この小さなお芝居はお決まりの光景なんだ。ときどき役回りを交代して。丸めた模造紙を抱え直して次のお店に向かおうとしたとき、ふと小さい勇者がこちらを向いた。目が合ってすぐ、おいでおいでと手招きされ、よくわからないまま彼の方へ歩み寄った。
「なぁに?」
自然と膝をついて、小声になる。勇者もぽそぽそと、魔物たちに気づかれないように注意深い。
「お姉ちゃん、お姫さまになってよ」
「えっ、わたし?」
「だって今日のお姫さまは先に帰っちゃったんだもん」
不満げに膨らむ頬が柔らかそう。確かに、困った村人を魔物から助け出すのは勇者だけじゃない。それに、と、模造紙が指差された。
「杖持ってるでしょ」
「あはは……うん、そうだね」
あの物語では、お姫さまは杖を持っていた。魔法は使えないけど、いつもどんなときでも。
「ねー、いいでしょ?」
「うん、いいよ。どうしようか?」
「魔物があの子を食べようとするからそのとき出るんだよ……あっ」
きゃー、と甲高い悲鳴。座り込んだ女の子の前に、両手を広げて立ちはだかる魔物。これも、同じだった。村人に襲いかかる悪い竜の手下。そこに現れる救いの手。先陣を切るのはお姫さまの方だ。
「そっ……」
あんなに憧れて何度も読み返したのに、いざ自分がその役になると何だかどきどきする。そのうえ、子どもたちの「誰?」という戸惑いの目が痛い。お買いもの鞄を肩にかけて、紙製の杖を持ったお姫さまなんて、この子たちは知らない。
「そこまでよ、わっ、わたしたちが相手になるわ」
「その通り! 覚悟しろー!」
わたしのものよりずっと立派な、板の切れ端でできた剣を掲げて勇者も飛び出してくる。
「まずい、勇者たちだー!」
「ぼくたちじゃ勝てないぞー」
一転、追い回される側になった魔物たちは女の子たちの加勢もあり道半ばで倒された。みんな、なかなか真に迫った演技。
「お姉ちゃん、お姫さまだったんだ」
「どうだった?」
「うーん、弱そう!」
「うぅ……」
これは武器が悪いと内心言い訳しつつ、はしゃいで大きく手を振る勇者たちと別れた。ぺらぺらの装備じゃ悪者とはまともに戦えない。避けられない悲劇だったんだ。
(それにしても……)
雑貨屋さんへ足を向けた瞬間、脳裏では本の頁が勝手にめくられる。あの子たちが口にするセリフの数々は、ほとんどあの物語と一致していた。まるでそれ以外のものを知らないように。
本当に、この世界にはひとつの物語しかないんだ。
「あらあら、お姫さま。お買いもの? 何か買っていきませんこと?」
──今しがた通り過ぎたパン屋さんから聞こえたのは誰のセリフでもない。聞き慣れた、柔らかな音色。いつもなら喜んで振り返っていたところだけど、今日は事情が違う。確かあのお店はカーテンを開け放っていた……そうっと模造紙を背中側に隠す。
「レンさん! こ、こんにちは……」
「えぇ、えぇ。こんにちは」
「……見てたんですね……?」
「窓からよく見えたわ。素晴らしい戦いぶりでしたよ」
あぁだめだった! ちょっと恥ずかしい。視線を落とすと、扉を丁寧に閉じる動きで揺れるドレスの裾がある。石畳の灰色と、目に優しいえんじ色がはっきり別れるその足元から持ち上げられた薪の束は重い木の皮色。
「あ、そっち、その薪おうちまで持ちます。重いでしょ」
「ありがとう、助かるわ。どうしても必要なの」
「もうすぐ冬なんですねぇ」
金木犀はどうなったかな、と、あの丘を思い出す。そろそろつぼみのひとつくらいついていたっていいころだ。現に、通りにもちらほら落ち葉が目立ち始めている。この薪みたいに何もついていないまっさらな姿になる前に、もう一度見に行けるといいな。
「あの子たちだけれど」
並んで歩くレンは後ろを振り返ろうとして止める。先ほどの余韻を残した笑顔が目元のしわを深めた。子どもを見守るお母さんそのものの目をしている。
「いつも同じごっこ遊びをするのよ。それでも楽しそうだわ」
「……レンさん……」
わからなかった。
どうしても「ほかのお話はやりたがらない」という話にならない理由が。
「わたし、あれ以外の物語を知ってます」
「……」
わたしたちの足は止まらない。あの仕立て屋さんへ、レンの家へ、見知った場所へ向かって。
「これって、おかしなことですか?」
「いいえ、ちっとも。けれど」
少しだけ見開かれた目が伏せられたのは一瞬だった。すぐに首を横に振ると、寝耳に水とばかりに胸に手を当てる。
「あぁ、驚いたわ。そんな考えすら持っていなかったのだもの」
「あの、あの! シズクもそうだったんです! もしかして……」
「そうねぇ、その通りよ」
わたしの言いたいことを、レンはわかってくれた。
「この町の誰も……いいえ、いいえ」
「……」
「きっと王都でも同じです。もう名前もわからないほど薄まった物語ひとつを長いこと語り継いでいるわ」
とっさに、わたしはわたしの大好きな物語のタイトルを思い出していた。出かける前に、家の鍵を閉めたか急に気になって確かめるように。
(よかった)
ちゃんと覚えている。でも、その名前をこの世界に渡すのは違う気がした。ここで生まれた物語には、ここでもらった名前がふさわしい。
それぞれどんな名前をしているんだろう。きっと、誰も完璧に答えられない問題だ。わたしが眠り姫といばら姫の違いを答えられないのと同じ。
「ぜひあなたの知るお話を聞きたいわ。あぁ、けれど」
人さし指で何かを書く仕草をしながら、レンはいたずらっぽく笑った。
「せっかくですもの。ナツキさん、あなたが絵本を作ったらどうかしら」
「作る……? え? 絵本を? わたしが⁉」
「えぇ、えぇ。興味があるわ」
突拍子もない提案。だけど、レンはまるで前から考えていたかのようにすらすらと続ける。あんまり予想外の展開に思わず立ち止まったわたしは、薪をひっくり返さないように束ねた縄を握るしかない。
「興味?」
「あなたの愛するものをわたくしも知りたいのよ。できることなら手に取ってみたいわ……あなたと同じように、頁をめくって」
少し遅れて振り返る目は、確かに好奇心に満ちている。やっぱり師弟は似てくるものなんだ。
(シズクはどう思うかな)
文字の練習になる、この町に本(と呼んでいいかは怪しいけど)が増える。思いつく全ての理由で喜んでくれるような気がした。ふたりに、誰かに喜んでほしいと考えたら、多少迷いはあっても最後の答えは明白だった──本当は、褒めてほしいな、なんてちょっとした下心もあったりするけどそれは隠しておこう。
「うーん、うーん……あなたの頼みなら何とか。がんばります」
「あぁ、よかった。ありがとう」
この目には一生勝てないと思う。もしお願いを叶えたなら最大級の喜びをもらえると確信できる目。それは見る間に柔らかく細められ、「そうだわ」とふと伏せられる。
「あのお店の試作品なのだそうよ。よかったらひと口どうぞ」
「あ、はい! あーん」
布を被せられたバスケットから取り出されたまん丸のパンを食べさせてもらう(両手は塞がっていた)。香ばしい小麦の香りと、中のカスタードの甘みが絶妙に合っている。ふわふわの食感が気持ちいい。
「おいしい!」
この町では初めて食べる味だ。こんな経験はこれからもどんどん増えていく。物語だって、そうなれるはずだ。子どもたちのごっこ遊びも数え切れないほどに。
***
そうなれないかもしれない。
「うぐぐぐ……」
クリーム色の紙束。色鉛筆が七本。レンに分けてもらったそれを自室の机に広げて、かれこれ数十分は呻いている。
小さい子にもわかるような易しい物語は何個も思い浮かぶ。その中でもいちばん平和そうなもの(そういえば、童話は意外と衝撃的な描写が多い。狼に食べられる子やぎたちとか……)を絵本にしてみることにした。喋るうさぎを追いかけて深い穴に飛び込んだ女の子の物語。
ここまで決まっているのに、鉛筆が動かない。思い出す端から話を追っていったらきっと数百頁にもなってしまうだろうし、さっき試しに描いてみた女の子は腰みのを巻いた前方後円墳にしか見えない。この調子でうさぎを描いたらどうなるんだろう。体を生やしたピースサインになりそう。本のかたちをした地獄絵図になる未来がうっすら見える。
絵が描けない。物語を要約できない。絵本を、作品をかたちにするのはこんなに難しいことなんだ。
(世の中の作家さんたちはどんな修行をしたんだろう……!)
わたしの想像なんかよりも遥かに長くて厳しいものだ。その修行の集大成を分けてもらえることに心の底から感謝する。
とくに、雨宮広慈に。今のわたしの大部分を占める物語をくれたひと。もう直接感謝を伝えられないひと。わたしがここに来る前に想っていたひと。
(まるでわたしとこの世界の架け橋みたい……はし? あっ)
箸。そういえばそろそろ夕飯の準備をするころだと思い至った。シズクが料理をしている間、わたしは机を片づけて食器を並べる。そのシズクも、ずいぶん前に自分の作業を終えて地下から戻っているはずだ。
「大変!」
連想できてよかった。急いで降りようと部屋を出て、階段に踏み出しかけた足が……止まった。
「あれ?」
普段、どこかの部屋でひとつは灯されているはずの灯りがなかった。夕日が沈みかけた時間、館は同じように夜闇に沈んで暗くなる。木の壁は漆を滲ませたように黒い。
「シズクー?」
返事はない。
「いないのー?」
意味のない問いかけにも、答えはない。シズクは今まで、わたしにひとこともなしに出かけることはなかったのに。
(地下に行ったのかなぁ)
忘れものをしたとか。いやいや、実は作業が長引いているとか。それなら手伝いに行かないと。
これだけ暗くなっても、もう間取りを掴んだ今なら簡単に地下への部屋にたどり着ける。ぽっかり口を開けた階段を覗き込むと、白い光がこぼれていた。
「シズク!」
ほっとして、一気に駆け降りた。
ふと思い浮かんだ「蛍光灯みたいな光」だなんて想像を横に置いて。
「……」
いるのなら、当然向かって左の書庫だと思っていたのに。
灯りが差しているのは右の扉からだ。
「修理、終わったのかなぁ」
床が抜けそうと言っていたけど、わたしが出かけている間に直っていたのかも。半開きのそれをそうっと押し開けると、天井も壁も真っ白に塗られた部屋が現れた。
「……」
背後でひとりでに扉が閉じる。
シズクはいなかった。
机も棚もない。あるのはといえば、奥の壁に取りつけられたエレベーター一基だけ。
二つ揃いの蛍光灯は天井の真ん中で眩しいほど明るくて、ぴたりと閉じた扉を照らす。
「あ」
気の抜けた声。わたしのものだ。
「え?」
一歩ずつ歩み寄る。ここは書庫だったはずなのに、どうしてこんなものが? 表示灯も上下階へのボタンも備わった、よく見慣れた、でもここにあってはいけないもの。だっておかしい。この上はシズクの部屋、そのまた上は物置きになった空き部屋だからこんなものをつける理由がない。そもそもこの世界には電卓すらなかったのに。お祭りを思い出そう、そうそうあそこでは蝋燭が唯一の照明だった。豆電球を使えばひとまず火傷の危険は防げるのにわざわざ。あぁこれは夢なのかもしれない。もしかしたら心の底でほんの少しは家が恋しくなっているのかも。だからってエレベーターに乗れば帰れるなんてそんな無茶な。上がればいいの? それともここからさらに下へ? ううんどちらも正しくない。ここがわたしの場所なんだから帰るっていう考え方は間違っている。これは何? (何もないよ)今までだってありえないはずのものを見てきたんだから。寄生する偽ものの梔子とか、わたしごと瞬間移動するとか。だからこれは大丈夫、何の不思議も問題もない。どこにいるの? たとえば今から乗ってみたってどうということはないはず。喋るうさぎを追いかけて深い穴に飛び込むわけじゃないんだから。それよりよっぽど安全。けがもしないし怖くない。ほら今から確かめて
「だめだ」
──ほんの一瞬、首を締められでもするのかと錯覚した。音もなく、唐突に後ろから回された腕は、まだ進もうと……エレベーターに乗り込もうとするわたしをきつく抱きすくめている。
「……」
「……シズクなの……?」
たったひとこと、それなのにわかる抑揚のなさ。むしろそれから離れたくて、足を踏み出すのを止められない。
意味がわからなかった。あってはいけないものと、あってはいけないことが一気に入ってきた頭はくらくらして使いものにならない。唯一助けを求められる相手はといえば、わたしの真後ろにいる。
そちらを見なくてもわかった。わたしを制止するひと、その表情からは一切の感情が抜け落ちている。能面のようなそれをもし直視したならきっとこの危うい均衡が壊れる。
シズクはこれを見られたくなくて部屋に鍵をかけていた……とは思えない。そうならそうだと、あのとき言ってくれている。シズクはそういう先生だ。それなら、これは彼自身も詳しく──それとも全く知らない、想定外のこと?
わたしは何を見つけたんだろう。
どうしてあれに近づけさせたくないんだろう。
これは何だろう。
「何をしているんだ、危ないだろう」
少し慌てた声はシズクのものだ。
(え?)
ここは町の商店から館に帰る道だ。わたしは道中の短い橋から半分以上身を乗り出して、水底の小石を数えられるほど透明な川を覗き込んでいる。それもつま先立ちで。驚いてバランスを崩した体が前へ傾いた。
「え、あ、わぁ」
「きみに飛び込みの趣味があったなんて知らなかったなぁ。いて」
シズクといっしょにわたしを引きずり下ろしたトウカの片頬はうっすら赤い。やっぱりやり合ったんだ。今も小突かれながらいつもの笑みを崩さないところを見るとそこまで深手ではないみたいでよかった。
「何か浮いていたか?」
シズクが軽く視線を落とすのは、朝の光を返す輝くような水面。今度は欄干にしっかり掴まったままそれにならうと、それはいた。
白いお腹を上に向けた川魚だ。弱々しく尾びれを振る動きは次第に鈍くなり、流れに押されて橋の下へ行ってしまう。
まん丸の目がこちらを見ていた。
「あ……」
「もう死んでいたんだ」
振り返ると、曇天の墓地に佇むシズクの後ろ姿がある。落ちていた木の枝を組んだような簡素で質素な墓標の下は、わずかに土が盛られていた。それは握り拳ふたつ分ほどの大きさをした、本当にささやかなお墓。
「……何で……?」
おかしい。でも何が?
(このシズクは本当? ……本当って何?)
俯く表情は、髪に隠れてよく見えない。
「いのちが尽きたものは葬るのが道理ですよ」
黒いワンピース姿のレンが前を歩くのについていくと、よそ行きの黒手袋に包まれた華奢な手が墓標の根本に花を数輪重ねるのがわかった。小さな淡い橙。金木犀だ。
「……誰のお墓なの……」
わたしを遮るように、土の塊が内側から崩される。ぱたり、と、魚の尾びれが飛び出していた。力尽きたように、それきり動かない。
シズクはややぞんざいに、尾びれめがけて金木犀を一輪落とす。それをひと粒、降り始めた雨が叩いた。
「一体どうしたんだ」
戸惑ったのを隠すような、固い声。
「魚が……」
顔を上げると、明らかに困惑した様子のシズクがわたしを見つめている。彼が腰かける椅子は、わたしの部屋のものだ。それに、わたしが今まさに下りようとしているベッド、空色の天井、どれもこれも。
「……あれ……?」
「……きみはずっとここで眠っていたよ。いや」
緩く頭を振る。眼鏡を胸ポケットにしまい込んで、ことばを選ぶように視線が泳いだ。
「一度は眠った。けれどそれから何度も目を覚ましてしまうんだ」
「……」
「その度にきみは私を探して一階に降りてきた。それを覚えてはいないようだけれど……一体どんな夢を見たんだ」
変な夢だよ、ころころ場面が変わるの。そう笑い飛ばせる雰囲気では、当然ない。真摯な目は、カーテン越しの夜の気配のせいで暗く沈んで見えた。柔らかそうな黒い寝間着は身じろぎにも音ひとつ立てない。
その手は、わたしがベッドから出るのを阻止するように毛布の上へ置かれた。
「夢じゃないと思うの。わたし、シズクといっしょに魚を見たんだよ」
そう言いたいのも呑み込んだ。多分、それは間違っているから。
「あんまり本当のことに思える夢だったよ」
「……そうか……」
「だからどこまで本当なのかわからなくなっちゃった」
唇からことばが止まらない。ひと文字でも多く吐き出さないと、そうしないと胸にお腹に溜まった「意味不明」が苦しくて仕方ないとでも言うように。
「ね、わたしとあなたは魚のお墓参りをした?」
「……いいや。一回も」
「川で死にかけの魚を見た?」
「それも、ない……さぁ、今は真夜中だ。今度は私もここにいるから大丈夫」
毛布で隠すようにわたしを横たえるシズクは、何かよくないことを思い出そうとして──でも逆に、考えないようにと意識する険しい顔をしている。そんな風に感じるのは、いつもの眼鏡がないせいだと思いたい。明日はいつものシズクに会えるといいな、なんて考えるほどには怖い顔だから。
「じゃあ、やっぱり夢だったんだ」
「そうだ。全部、全部悪い夢だ」
「寝て起きたら、平気かな?」
「もちろん。明日になれば何でもなくなる」
「ここにいてね」
「あぁ」
「……絶対だよ」
「どこにも行かない」
「教えて、シズク」
寝不足の目は、意思に反して閉じていく。じいっと見つめる視線を、余計に肌で感じた。
その表情を見られないことに、何だか安心する。
「あの白い部屋は何?」
答えはない。




