4.どこからどこまでが、あなたなのか
「何、なに?」
辺りを見回しても、とくに騒ぎは見当たらない。花火の大音量と、それに負けず劣らずの観客の歓声があるだけだ。
「大丈夫かな?」
「変わったところはないようだが……」
「おーい!」
シズクといっしょに「問題なし」と結論づけようとしたとき……喧騒に混じる、明らかに重量感のある足音がひとつ。どたどた、を通り越してどしどしとした振動は──わたしたちに一直線に突っ込んできた。
「お前さんたちだお前さんたち!」
わたしたちの間に割って入ったのは橙色の衣装。目に刺さるような蛍光色のそれは、前隊長のものだった。ぜえぜえと荒い息を荒く整えた後、その目がわたしに向けられる。
「な」
「ひえっ」
シズクも、わたしもことばが出てこない。人間、あんまり想定外のことが起きると動けなくなるようにできている。機械といっしょだ。
「大変なんだ! 助けてくれ!」
「え、えっ?」
突然のことで反応できない。前隊長はパニック気味に早口でまくし立て、それを見るわたしにも動揺が移りそう。肩を掴まれそうになったところを、我に返ったシズクが彼を引き剥がすようにして助けてくれる。
「落ち着くんだ、何があった」
「お、おぉ」
恰幅のいい前隊長はシズクに意識をやると「すまなかったねお嬢さん」とようやく沈静化した。顎にくっつけた作りものかと思うくらい綺麗な巻き髭を撫でながら、四方へ視線を巡らせる。
「王都からのお客の子どもが迷子になったのだよ。まだ四つの男の子だそうだ」
「大変!」
「どんな見た目だった?」
「淡い金髪で、真っ白い服と羽根の仮装で……そうそう、聖歌隊のような格好らしい」
それだけ聞くとまるで美術館に飾られた天使の像みたい。でも、実のところそういう仮装をした子どもは大勢いる。今そこを横切っていったのも金髪の、白い天使の女の子だ。母親らしき女性と手をつないで歩いている。
大人たちが盛装するのとは違って、子どもたちは可愛く仮装しているのが圧倒的に多かった。天使がいれば海賊もいる。くまのぬいぐるみがそのまま動いているような着ぐるみちゃんも。
「王都の子? じゃあ、わたしたち会ったことないね……」
「警備の大多数は町の人間だ。その子の顔も知らん。捜索が難しくなると思うとワシは……うぅ」
「要はひとり歩きしている子どもが該当する可能性が高いということだ。心配ない」
シズクはさっと立ち上がると、「行こう」とわたしを促した。
「探しに行くんだよね?」
「あぁ。ナツキちゃんは先に楽隊の会場で」
「待たないよ。いっしょに行く!」
「あぁ、そう言うと思った。よし、私から離れないように」
「うん!」
「済まないな、頼んだぞ!」
仲間たちにも知らせてくるという前隊長は、今年の運営側らしい。さっきまで大慌てしていたのが嘘のように、近くの警備へ迷子さんの情報を伝えながら丘を駆け下りていく。
「私たちは反対側から下りていこう」
そう言うシズクの袖を摘むようにして、その視線が巡る真逆の方を探した。長身のシズクと、残念ながらそうではないわたしでは、ちょうど視認できる高さが被らない。人ごみの足元を探すのはわたしの方が楽だ。
でも歩きにくさはわたしの方が酷い。
「わ、わ、あー」
よそ見をするひとには、わたしは見えない。かき混ぜられるスープの具のように人波に揉まれるのを何とか避けながらシズクについて行った。人口密度と熱気のせいで呼吸がし辛い。何だか空気が薄いところにいる気分だ。
「そういえば、何でシズクに頼んだんだろ?」
「私は去年の運営をほんの少し手伝ったからな。非常時の対応を知っている者に頼むのが早い」
「そうだったんだ! あ、だからあの灯りのこともわかってたんだね」
「そういうことだ」
油断なく辺りを見回す動きは止まらない。わたしも、それらしい子を見つけられない。
「このなかでは大変だろう。辛かったらすぐに休むんだ」
「うん……ちょっとくらくらする。でもわたしも探す。迷子は不安で仕方ないから」
「……そうだな。わかった」
シズクはそちらを見つめたまま、袖にあったわたしの手をいったん離すとつなぎ直してくれる。
迷子はこのつながりを見失ってしまった子だ。こんな場所で、家族や友だちを見つけられる当てもないまま途方に暮れるしかなくて、心細くて、このままどうにかなってしまうかもと不安で不安でたまらなくなる。迷子経験から日が浅いわたしにはわかる。
「無理はしないでくれ」
「うん」
「よし」
頷いて、シズクは前を観察しながら微笑む。その間も、わたしたちの両側を天使が何人か走ったり飛び跳ねたりして通り過ぎていく。お兄ちゃんらしき男の子に肩車された子もいる。おもちゃのラッパを吹き鳴らしてどんどん丘を下りていく子も。
「ん?」
短い足で、ぴこぴことした可愛い行進をしているその子はたったひとりの楽隊のよう。くるくるした金髪、白い服と羽根の仮装に、黄色のラッパがよく似合う。
たったひとりの楽隊。
ひとり? 周りに、ついて来ている様子の大人も、そして当然のように子どももいない。
「あー!」
「見つかったか?」
「うん! ひとりだった!」
「どちらへ……おっ、と」
お互いぶつかられ続けながら、わたしが指差した方へ進む。辛うじて見える綺麗な巻き毛を見失わないように。
「あいたたた、あっち、あの看板の方!」
雑踏の向こう側に立つ背の高い看板を指し示す。天使の子はじいっと看板を見上げていたけど、すぐに人波に逆らって左へ歩いていってしまう。
「あーっ、待って!」
「わかった、あの子だな」
シズクはラッパちゃん(男の子か女の子かはまだわからない)を把握しながらも追いつけない。わたしはほとんどついていくのがやっとになりながら、ようやくその子が見上げていた看板にたどり着いた。
それは会場の案内板で、どちらに何があるかを表示するものだった。丘の頂上を中心に、王都側を赤、町側を青と区画が色分けされている。あの子が向かったのは、どちらでもない一際大きな黄色の方。
「か、いじょ……会場?」
「あぁ、そこで楽隊が演奏を披露するんだ」
少し焦ったように、シズクはそちらに向かって軽く背伸びする。
「確かもうすぐ開演だ。ますますひとが増える……」
「急がなきゃ」
ざわめく人混みの中でひとりぼっち。それは、誰もいないところでひとりでいるのと同じくらい怖いものだ。どちらにいても誰にも気づいてもらえないから。
ぷー、ぴー、と、調子の外れたラッパの音が微かに、気まぐれに聞こえる。それを手繰り寄せるようにして進んでいると、わっと一際ざわめきが大きくなる。花火が締めの大盤振る舞いとばかりにどんどん上ってきたんだ。
「わぁ……」
「……来年は、落ち着いて見られるといいな」
「うん。きっとできるよ!」
真昼のように眩しい空から、ほんの少し名残惜しく目を離す。それでも、最後の大輪の花はしっかりと焼きつけた。
満開の向日葵みたいにまん丸の、橙色に輝く花だった。その光を背に、早足に歩を進める。
もう、目の前は楽隊の会場だ。周りを囲んだ背の高い柱のほとんどは、大きな旗を頂点ではためかせる。そうではない柱は、大振りな燭台を括りつけた簡易的な街灯のよう。
光とともに熱が注ぐ客席は、想像していたよりも空席が目立った。と言っても、八割は埋まっているけど。みんなわくわくと、そわそわと楽隊の登場を待ちわびている。
「まだ空いてる!」
「助かった……よし、あの子は」
お客さんの大半はわたしたちのように花火に見とれて、まだ移動を始めていない。今のうちにと緩い斜面に据えられた客席の間を下りていく。
「ひとりの子ども、ひとりの天使……」
「ラッパちゃーん、どこー?」
ぴー、と、返事のような音が正面から飛んできた。シズクと目を合わせて、頷きあう。さっきから観客たちが舞台を眺め続けていた理由は、楽隊だけではなかった。
一際高く作られた舞台の真ん中に、小さな出演者が立っていた。もちろん楽隊の一員ではなくて、飛び入り参加気分の子どもだ。ぴょんぴょん飛び跳ねながら楽しげにラッパを吹き鳴らす、白い服の天使。
「あの子だな」
「よかったー!」
思わず駆け足でそばに行くと、気づいた天使は目を丸くして首を傾げる。案外平気そうな様子に全力で安心した。もし一転、悲しそうな顔を浮かべたならどう慰めようかと気が気じゃなかったから。
「ねぇきみ、王都から来た子かな? ひとりなの?」
「うぅん、パパとママがいっしょ。あれー?」
そこでようやく、天使は辺りを見回した。
「多分」
シズクが耳打ちする。
「一直線にここまで来てしまったようだな。両親を振り返らずに」
「いなーい」
「大丈夫。すぐに会えるよ」
「うん!」
にこりとして、天使はわたしたちのところへぴょんと飛び降りた。子どもには結構な高さがあるのに、すごい。
「怖くないの?」
「怖くないよ。ぼく、ひとりで文字が読めるもん。この前はお野菜を食べられたんだよ。すごいでしょ!」
「……うん、すごいよ。きみは強いね」
くるくるの金髪を撫でると、くすぐったそうに天使の子は笑った。
この子がこんなにも元気で、自信があるのは、きっとたくさんのことを褒めてもらって、認められているからだ。わたしがここで何の心配もなく立っていられるのもいろんなひとに支えられて、認められているからだと思う。
──それなら、この子と同じくらいの度胸を身に着けなくちゃとも思った。わたしは多分、ここでひとりきりになったら半泣きで迷子センターを探すだろうから。
(認められるって、どういうことだろう……?)
少し考えて、すぐ結論が出る。ここにいていいとわたしが、この子がはっきり言えるようになることだ。
「ねぇ、ひつじのおじちゃん」
不意に天使がシズクを見上げた。膝を着いて周りを見ていた彼の表情がぴしりと凍りつく。
「……」
頬から血の気が失せたように、元々白い方だった肌が青くなっていくようだ。
「ひ……ひつじの……?」
「ひ……っ」
無邪気に無慈悲に叩きつけられたそのひとことの凶悪さ、そして破壊力を想ってわたしは口元を手で覆った。シズクはもちろん、執事と羊の間違いに引っかかったわけじゃない。
「うん。おじちゃん、お嬢さまのお姉ちゃんのお友だちなの?」
「お……お嬢さま?」
たっぷり四回の深呼吸のあと、シズクに代わって疑問を拾う。お姉ちゃんがわたしだとして……大丈夫だよシズク、わたしからはどう見ても優しいお兄ちゃんだから。
「ぼくのお友だち、お姉ちゃんとそっくりな服を着てるんだよ。その子、みんなにお嬢さまって呼ばれてるの」
「……もしかしたら、この子は大地主や大商人の家の子かもしれないな」
胸を押さえて呆然としながらシズクが補足してくれる。ダメージが深刻そうだ。後で甘いものを探しに行かなくちゃ……それで回復するといいけど。
「うん。わたしたちお友だちなの。あれ? じゃあ、巻き髭さんにお話が行ってたのって」
運営の上の方にまで迷子さん情報が行き渡っていたのは、この子が相応の立場の家から来た子だからだと考えると納得できる。それなら、この子の家族もたくさんの人手を連れて探し回っているかもしれない。
「えっと、ラッパちゃん。わたしたち、今からいっしょにきみのパパとママのところに行きたいな。いいかな?」
きっと運営の本部で、この子の両親は待っているはずだ。でも天使は少し考えて、「やだ」と首を横に振る。
「もうすぐ太鼓さんが来るんだもん」
「太鼓さん?」
「あぁ」
気の抜けたような声に振り向くと、舞台に寄りかかるように座り込んだシズクが懐中時計を取り出している。傷は深い。何か、銃創のようなものすら見えてくる気がする。
「開演だ」
「えっ」
「わぁー!」
ラッパちゃんの華やいだ声、それに覆いかぶさるように響いたのはシンバルの二重奏。彼の視線を追うと、舞台の両脇から打楽器を先頭に楽隊が入場行進を始めているところだった。
ぴったり刻まれる小太鼓のリズムに合わせて、そろいの黒い革靴が踏み鳴らされる。高々と掲げられた篝火に照らされて、隊列の後ろにいた金管楽器が強くきらめいた。高らかなトランペットのファンファーレが夜空いっぱいに広がり、星を落としそうなほど伸びる。
「すごーい! かっこいー!」
「始まったー!」
天使の拍手に呼び寄せられるように、会場の周りにいたお客さんが一斉に席へ押し寄せる。シズクは立ち上がりざまに彼をひょいと抱き上げると、空いていた最前列の端に腰を下ろした。もう片方の手でわたしを隣に引き寄せてくれる。
「無事に見つかったわけだし、少しくらいはいいだろう」
「やったー!」
「やったぁ」
ラッパちゃんといっしょになって手拍子していると、メンバーに続いて指揮杖を掲げた隊長が堂々と袖から歩み出てくる。大きな拍手に迎えられて深々と一礼した彼女は、わたしたちに気づくと悪戯っぽく片目を閉じて合図してくれた。
「わぁー! こっち見てくれたよ!」
「ねー!」
みんなで小さく手を振って返すのを見届け、隊長はくるりと楽隊に向き直ると杖を構える。
始まったのは、入場曲よりもテンポの早い行進曲だった。据えられた椅子から代わる代わる、フルートやクラリネットたちが立ち上がって自分の見せ場を強調する。楽器を揺らし、爪先で床を叩いて手拍子を誘う様子を見ていると、とても楽しげに演奏している気持ちよさがこちらにまで伝わってくる気がした。
「ここに来られてよかった。ありがとう」
「あぁ。きみを連れて来てよかった」
こっそりと交わすことばに、天使は反応しない。見れば、今の今まで大騒ぎしていたのから一転、シズクの膝の上でうとうとと船を漕いでいる。一気にはしゃいで疲れてしまったのかも。
そちらを覗き込むふりをして、そうっとシズクを見上げてみると、片手で小さな体を支えながら演奏に聞き入っている。
もう片方は、わたしのことも探して、見つけて、導いてくれた手だ。きっとこれからも。
「シズク。あのね」
「うん?」
「連れて来てくれてありがとう。さっきのはね、あなたといっしょに来られてよかったってことなの」
音も前触れもなく振り向く深い色の目。独奏に入ったハープの音色は、その青に溶けるように柔らかい。
「私と?」
「うん」
姿勢を直して、今度はシズクを見つめた。少し目を丸くして、酷く驚いたみたい。薄く開かれた唇は音を生むことはなくて、まるで今は何も返事をしてはいけないとでも思っているように閉じられる。努めて、こころの内を隠そうとするように。
その様子は、両手を重ねてきつく口を塞ぐのを連想させた。連想は、またあの魔法を呼ぶ。
辺りは暗がりの一室に変わり果てていた。
(……どこ、ここ……?)
呼吸ごとことばを閉じ込めて、苦しげに両目を伏せる誰か。手の甲は冷たそうな紫色をして、酷く痩せていて。ここはもう楽隊が活躍する会場ではなく、独房を思わせる狭い小部屋の中だ。シズクに上書きされた誰かが、ベッドに座り込んで無理矢理心を飲み下すための。
(──大丈夫だよ)
それはわたしにもシズクにも向けた大丈夫。今なら、これがよくない魔法だということも、それから覚める方法もわかるから。
一度目を閉じて、開けば。目の前にいるのは困惑したままのシズクだけ。
どうしてそうしようとするのか、わからない。でも、その仕草がそのままシズクの答えのような気がした。何かをわたしに伝えようとしてくれて、できないままの。
「……私が、か?」
「そうだよ」
「なぜ私なんだ……?」
「シズクといっしょだと嬉しいんだもん」
正直に答えて──少し冷静になる。これはシズクの欲しい答えじゃないのかもしれない。というより答えになっていないのかも。でも、こうとしか言いようがなかった。
「……ナツキちゃん」
ほとんど演奏に紛れて、虫食いになったわたしの名前。自分の気持ちを掴みあぐねて戸惑うことばは、それ以上のかたちを失って消えてしまう。それでもシズクは、無言を選ばなかった。不意に相好を崩して。
「……ひつじのおじちゃんでも?」
──それを呑み込むのに数拍の間があった。
「……っ」
大きく笑い出すのを全身全霊でこらえて、隠しきれないそれを何とか隠したくてシズクの肩に額をぶつけてもたれかかった。よりによってそれなんて、まだ気にしてたなんて! 本人にしてみたら相当の深手だったみたい。わたしも、いつかおばちゃんって言われて大ショックを受ける日が来るのかも。
「そこまで笑うことないだろう」
「……まだおじちゃんには見えないよ、大丈夫……っふふ、あはは」
「本当か? きみのその反応だといまいち自信がないな……」
「ほんとだよ、ひつじのお兄ちゃん……ふふふふふ」
「お兄ちゃんか……まだそちらの方が、いやそれはそれで複雑だ……」
ほら落ち着いてと震える肩をぽんぽん叩かれる。完全に寝入ったラッパちゃんはわたしたちの騒ぎにも起き出さない。それじゃなくても楽隊の演奏はまだまだ盛り上がっている最中なのに。この子は将来とんでもない成長を見せるかもしれない。寝る子は育つから。
「あー、お腹痛い」
まさか冗談で返されるなんて思っていなかった。体を起こしながら呼吸を整えるのを、シズクは苦笑いしながら見ている。
「私は嬉しいんだ。それは本当だよ」
「うん、うん。わかってるよ」
「私もそうだ。きみが隣にいると」
ふつりとことばは途切れる。というより、舞台からの大きな呼びかけに遮られたんだ。
「さあさあここからは二十人からなる舞踏の達人たちも加わります! みなさんぜひともお近くへいらっしゃい! あぁ、急がずゆっくりと!」
隊長のよく通る声は、会場を素通りしようとしたお客さんにも完璧に届いた。花魁道中の歩みのようにゆったり、堂々と袖から出てくる豪奢な舞台衣装の男女の姿に、この場の空気が一気に熱を帯びた。ざわめきが一帯に詰め込まれ、ちょっとした声は例え隣同士でも聞こえなくなる。
──それでも、表情と目を見れば伝わった。シズクが何を伝えようとしたのか。
「ありがとう」
唇に手を添えて渡したことばは、ちゃんと届いたはずだ。その間も、客席の後ろからは勇む気持ちを含んだ足音が押し寄せてきている。
その波の中、流されるどころか我関せずとばかりに脇に避けるふたり組を見つけた。シズクの肩越しに、斜面の上の方で。
赤い腕章をした男のひとたちだ。ふたりで会場の縁をなぞるようにゆっくりと歩いている。その目は油断なく光り、まるで観客ひとりひとりの顔を見逃さないようにしているみたい。
「あれ……」
「町からの警備だ。前隊長から伝達はあっただろうか」
シズクも体を捻ってそちらを観察する。時折顔を寄せるようにして首を振り合う彼らの様子は、何だか「見つかった?」「見つからない」を言い合っているように感じた。
「ね、やっぱりこの子を探しに来たんだよ」
「そうだな。それなら、彼らにこの子を、うわ……っ?」
少しでも舞台に近づこうと、ひとの塊が押し寄せる。その圧力で、ずうっとつないでいた手が不意に解かれた。
「あっ」
ぷつんと糸が切れるような唐突さに、体が軽く傾ぐ。シズクはバランスを崩しながらも、ラッパちゃんを片腕で抱えて持ち直した。わたしは背中から感じる重みに驚いたまま身動きが取れない。
「ナツキちゃん!」
「大丈夫! そこにいるよー!」
慌てて振り向いたシズクに、大声で返事をして背後の柱を示した。たくさん立っている柱とはいえ、この会場の中の話だ。目印には十分のはず。
でも内心、ちっとも大丈夫じゃなかった。あんなに離れないようにしていたから、いざそうなると途端に不安になる。とはいえ、それとこれとを比べると優先するべきなのは当然ラッパちゃんの方だ。一刻も早く家族のところに帰ったほうが絶対にいい。
わかった、と苦い顔で頷いたシズクは、そのままふたりを追いかけていった。──遠ざかる背中を見つめながら、ひとの濁流の中から何とか柱の真下まで泳ぎ着く。
「……」
黙って、舞台の周りを手拍子や合唱でいっぱいにする観客を眺めた。まるでアイドルのコンサートみたい。丸一年楽しみに待っていた分、その喜びもひと塩といったところ。
わたしはといえば、シズクからお祭りのことを聞いたのはほんの少し前だ。むしろここに来てからそんなに日が経っていない。
──考えてみれば、ここで過ごしたのはほんの数週間だけだ。いろんなことがあり過ぎて意識していなかったけど。金木犀に願いごとをして、こんなに可愛いドレスを着せてもらって、可愛いって褒めてもらえて。
「えへへ」
途端に緩む頬を慌てて引き締める。思い出すだけでこんな風になるなんて。
(ほかのこと、ほかのことを考えなきゃ)
そこから遡ろう。地下の大仕事、谷で鍵を見つける前は悪い霧の悪戯、その前はレンに会って、トウカに会って……シズクに会った。
その前は、あの真夏の図書室だ。
「何でだろ」
視線が落ちた。あの日考えたことを、今さら思い直す。
──どうして、ここに来られたんだろう。
「こんばんは、マドモアゼル。ひとりなの?」
温かな日差しのような呼びかけが影とともに被さる。これで何度目だろう、驚きよりも知った顔に会える安心感の方が強い。
「……そうだよ。わたしひとりぼっちなの。一時的にね」
「それなら僕とお茶でも」
「行きませーん」
深みにはまりかけた思考を引きずり上げる、もう聞き慣れた声。反射的にお断りしたのを気にもとめず、足音もなく現れたトウカはにこにことわたしを見下ろしていた。柱との間にわたしを挟むように立って、ひとの流れから隠してくれている。
「ありがとう、ムッシュー」
「どうも。センセーとはぐれちゃったの?」
「うぅん、ここで待ち合わせ。ちょっとね」
「迷子さんの保護だろ?」
「なぁんだ、見てたの」
元精霊さんの神出鬼没ぶりは今に始まったことではない。それでも、一体どこから眺めていたのか本当に見当がつかなかった。
「見てたさ。きみがひとりきりでにっこり笑ってたのもね。おっと」
「そんなことまで見なくていいの!」
攻撃するつもりのない正拳突きを難なく片手で受けるトウカ。その拍子に、黒いハットを彩る緑のリボンがひらりと存在を主張した。そこだけ除けば、今日の彼はまるでお葬式にでも出るような飾り気のないスーツ姿だ。というより、喪服に近い。お祭りを楽しむひとたちに混じるととても浮いているけど、演奏に夢中な彼らは見向きもしない。
「はいおしまい。せっかくお人形さんみたいに可愛いんだからおしとやかにね」
「それは……ありがと」
はぐらかされた気がしないでもないけど、素直に受け取る。興味深そうにドレスのあちこちを眺める視線がくすぐったい。
(お互い感覚が似てるだなんて、本人たちどう思うんだろ)
ほとんど同じ褒めことばをくれたふたりには黙っておこう。
「想像よりずっとずっと可愛いよ。センセーのセンセーはきみのことよくわかってるなぁ」
そのままぶんぶんと上下に揺られて、何だか握手のようになった手は離れない。
「……」
ほんの少し、握り返す。
「……ね、トウカ?」
やけに嬉しそうな笑顔に聞いてみた。
体温のない氷の手とは真逆の、いつもの笑顔に。
「何か隠してるよね」
それはどうしても質問のかたちをした確認の響きになる。ぱたりと動きを止めた彼は、一瞬きょとんとしたと思いきや「そうだよ」と肩を落とす。
「……何でだろうなぁ、きみには見えちゃうんだよね」
「見えちゃうよ。大抵はね」
声色と目と仕草、時と場合があれば相手の本心を察するのに十分だ。いくら表情を作っても、とくに目からは相手の中身がよく見える気がする。
「まだ具合悪いでしょ。それも心配だけど、もっと別のこと」
「……あー、うん。わかった、わかりました。白状するよ、元々そのつもりで来たんだし」
降参とばかりに両手を上げてみせ(わたしのまで巻き込んで)、トウカは少しだけ屈んだ。わたしにだけ聞かせたいないしょ話をするように。
その表情は、今までの様子が幻か何かだったのかなと思わせるほど真剣そのものだ。まっすぐ見つめる緑の目。冷たい色をしているのは、周りの炎の光を返していないからだ。火の精霊さんは、今は自身の中に何の熱も持てないでいる。
「僕はきみにお願いをしに来たんだよ」
「……金木犀じゃなくて?」
「そう。あの木には叶えられない一生のお願い」
「……」
「きみじゃなきゃだめなんだ」
──柱に背を押しつけたのは、後ずさろうとしてできなかったから。大きな風船を押しつけられたような、トウカの願いはそれほどのかたちがあった。大きすぎて、わたしからは彼の表情を窺い知れなくなりそうなほど。それをどうして、金木犀の伝説を押しのけてわたしのところに持ってきてくれたんだろう。トウカの一生のお願いって、何だろう。
祈るような眼差しを向ける新緑の色。
答えは決まっていた。
「……何でもは、できないけど」
わたしに受け止めきれるかどうか。でもどうにかして応えたい、そんな気持ちは途切れ途切れにことばになる。がっかりさせたくなくてつい予防線を張りはしたものの、気持ちは変わらない。
「うん。いいよ」
「本当?」
「叶えたい。聞かせてよ」
「……ありがとう」
何年ぶりに安心したかというほど、トウカはほっとした笑みを返した。それじゃあ、と、十歩くらい向こうにある柱を示す指先は、暗がりの中とはいえやけに血色が悪く見える。
「あの火を見てて。ゆらゆらしてるだろ」
「うん……」
大振りな籠に、たくさんの枝(そうとしか見えない)をこれでもかと詰め込んだ燭台は相当な炎の塊を作っている。柱に燃え移らないか心配になるほど。
「……?」
暑い日の陽炎のように、周りの空気をちらちらと揺らすのをじいっと眺めた。だんだんその範囲が広がって、視界全体が熱を帯びてくるみたい。
わたしどころか会場全体を焼き尽くそうとするほど大きく。
「トウカ」
思わず振り返りそうになる。焦りはそのまま心音になって、胸が苦しくなってきた。浅くなる呼吸を何とか深くしようとした深呼吸は、また痛みを誘う。
何かがおかしい。
「こんなの、変だよ……」
「見ていて、ずっとだ」
「どうして……」
真下の地面さえもあいまいになって、立っていられない。傍らの柱を支えにやっと普通にしていられる。よくない魔法じゃない、とほとんど直感で考えたのは、これがトウカの手で引き起こされているものだと感じたから。
観客はこちらに気づかない。わたしたちを気に留めるひとは誰もいない。篝火は膨れ上がる勢いのまま今にも熱ごと弾け飛びそうなのに。
トウカがどんな顔でこれを見つめているのかわからない。どんな気持ちでこんなことをしているのかわからなかった。
「ねぇ、わたしたち呑み込まれちゃうよ……!」
「ナツキ」
炎に巻かれると本気で思い込んだわたしを唐突に包んだのは冬の冷気だった。肌に針を刺すような鋭さで、そのまま心臓のあたりを軋ませるそれは、トウカそのものだった。
「……」
後ろから緩くわたしを抱きしめる腕が、その中で何とか振り向いた先の喉元が、透けていた。曇ったガラスの向こう側を見るように、滲んだ景色。
「……え……?」
トウカの輪郭が頼りなげに溶ける。水彩画に一滴の水を落としたような、ほとんどの色を失った透明なひと形になっていく。浮かべているはずの表情すらあやふやに。
「お願いだ」
うなだれて、トウカの額がこつりとわたしの肩に乗る。微かな音は、ほかの誰かの足音にすら紛れてしまいそう。
(ねぇ、どうしよう)
わたしが指先で触れた途端に泡になって消え入りそうな存在に包まれながら、助けを求めて身じろいだ。
(どうしよう、トウカがいなくなっちゃうよ)
背中を抱き寄せられて狭まる視界のすみっこに、唐突に歩みを早める靴先を見つけた。こちらに向かっていつしか駆け出すのを、どうしてもまっすぐ見ることができない。
ナツキちゃん、そう叫ぶような声が遠い。
(わたしが……)
目の前が歪んで、淡い墨色に沈んで、幕を下ろすようにわたしをここから引き離そうとする。どこか穏やかな眠りに似た感覚。でも、それに身を任せたらだめだ。
だめなのに。
「……どうして……?」
気が、遠くなる。
きっと助けてくれる足音の主より早く、トウカが桜が散るのより儚い声で囁くのを聞いた。
「僕を看取ってよ」




