3.橙のリボンで結ぶのは
日が傾いて、建物の灯りが目立ち始めたころ、ふたりでレンの家に向かう。丘を目指す女の子たちは笑い合いながら小走りして、ピンクやオレンジのドレスの裾を翻らせた。
「みんな可愛いね」
老若男女、教科書に載っているような夜会服を思わせるきらびやかな盛装をしていた。飲み物屋さんの前にいる小さい男の子は、光沢のある加工紙で作った王冠を被せてもらって大喜び。そのそばにいる若い夫婦は、お互いのスカーフを整え合いっこ。みんながみんな、思い思いに着飾ってお祭り前の時間を楽しんでいる。
中でも賑わいが一際目立つのが、お風呂屋や靴屋が並ぶ通りだった。正確にはその中のひとつ。たくさんのひと、とくに女性客がショーウィンドウに集まったり列で順番待ちをしたり。
「かしい、しょ、う」
「正解。貸衣装屋。昨日言っていたところだ」
看板を読み上げてみる。がたがたのイントネーションを、シズクは丁寧に掬い上げてくれた。
「予約はしないのかな?」
「あるにはあるけれど、当日に訪ねて当日に衣装を選ぶのが流行りだそうだ」
「その日の気分で考えたいひともいるもんね」
「そうだな。そんなひとたちのために、出張所も開かれているはず……あぁ、あれだ」
お風呂屋の立て看板の隣に、もうひとつ新しいものが立てられていた。更衣室がたっぷり使えるから臨時にうってつけ。
「先生はどんな手を隠しているんだろう」
「きっと、ものすごいのだよ」
「そうか……ものすごい……?」
「うん」
わたしは声が弾むのを隠せずに、せめてと口元を手で覆う。どんな顔で驚くんだろう、はじめのひとことはどんなものだろう……考えるだけで唇が綻ぶのを止められない。
***
「可愛い」
ぽつりと、まるでうっかり落としたような。
そんなことばで、後ろのレンを振り返った。満面の笑みで頷き返してくれる彼女は、ところどころ小さな花の刺繍を散りばめたドレスを着ている。緩い三つ編みにした髪には、いくつか花飾りを挿していてとても華やかだ。まるで花の妖精のよう。
向き直ると、目を丸くして驚いていたシズクがわたしをどこか眩しいものを見るように眺めている。
椅子から腰を浮かしたところに畳みかけた。エプロンドレスの裾を摘んで恥ずかしさをごまかしながら。
どうしても、もう一回言ってほしくて。
「ほんと?」
「本当。お人形さんみたいだ。とても可愛いよ」
「ありがとう……!」
「よかったわ」
「レンさん! レンさん!」
最高の笑顔で、最高の褒めことばをもらった! 思わずレンに抱きつくのを、優しい腕が受け止めてくれる。
「えぇ、えぇ。だから言ったでしょう? 世界で一番貴女に似合うわ。可愛いくて、素敵よ」
「うん! 本当にありがとう!」
「作り手冥利に尽きるわ」
撫でられる髪は、ドレスに合わせてハーフアップにしている。エプロンのフリルも、スカートのドレープもちゃんと整えて、襟元と背中のリボンは大きめに見えるように折り目を広げて。
「えへへ……」
頬が緩んで仕方ない。こんなに褒めてくれるなんて! 昨日念入りに髪を梳かしておいてよかった。早寝早起きもしたし。その中のどれが役に立ったのか、はたまた全然関係ないのかはこの際考えないでおく。とにかく嬉しかった。面と向かって「可愛い」って、大好きな人たちに言ってもらえて。
そのひとりのシズクは、黒のタキシードとベストを合わせた落ち着いた装いをした。ループタイの緑色がワンポイント。「今年は譲らないぞ」と誓ったらしい眼鏡はそのままに、いつもふわりと額にかかっている前髪を後ろへ流している。
改めて眺めると……とてもかっこいいと思う。スラックスのポケットから覗く懐中時計の鎖の銀色も相まって、どこかのお屋敷にいる執事さんみたい。革靴のつま先がこちらを向いて、中身は全くいつも通りのシズクが小さく首を傾げた。白い手袋に包まれた指先が落ち着かない。
「ナツキちゃん? どうした……やっぱり変だろうか」
「そんなことない! かっこいいよ、シズク」
「あ……ありがとう。やはり照れるな……」
「ねぇレンさん?」
「えぇ、えぇ。でもそれはそのままでいいのかしら? また隊長さんにどやされるわ」
「いいんです。前隊長のことばをいちいち受け取ってはいけないと学んだので」
「隊長さんの、前の隊長さん?」
どこか憤慨したような口調を気にしつつ、華やかな彼女のことを思い出す。あのひとにも、シズクと同じように先代がいるんだ。きっとそうやってずっと前から楽隊は、お祭りは続いている。
「どんなひとなの?」
「腕は確か。おおらかではきはきした、さっぱりとした男だ。けれど酒が入ると酷い。とても酷い」
「酷い?」
「去年私の眼鏡は彼のせいで全壊したんだ」
「そんなもの取ってしまえ優男、って持っていかれたのよ」
「わぁ酷い」
「私のどこが優男だというんだ。そうだろうナツキちゃん」
損壊事件のことが霞むくらい心外だったみたいだけど、そこは諸手を上げて同調できない。ひいき目に見ても優男側だと思う。
「そうだよね、シズクは強いもん」
主に肩が。
「そう、その通りだ」
「そうねぇ」
レンの声が震えている。その調子で笑い出すのを堪えられるように全力で応援したい。
***
主人公がいなくなって、物語はおしまい。それは観客が去った舞台というより、見物人がいなくなった金木犀の木に近い。見ている人がいなくても花は枯れるし、また咲く。ずうっと、きっと気の遠くなるくらい続いていく。
気の遠いといえば、今目の前にずらりと並んでいる灯りもそう。蝋燭の上に薄い蓋を被せた簡単な灯籠が、この町から城下町までの街道を縁取って何個も置かれている。夕日が沈みかけるころ、草原を淡い夜色が覆い始めるこの時間に、それは蛍のように柔らかい光で道を照らしていた。
走り抜ける子どもたちが引っかけないかはらはらしていると、案の定男の子の靴のつま先が角を掠めていった。
「わ……」
「大丈夫だ。ちゃんと留めてある」
思わずびっくりするけど、蝋燭の土台は石を重ねたもので固定されていた。
「丈夫だね」
「町の職人たちが手がけたから、安全性は確かだ」
「このお祭りは町のみんなで作るんだね」
「あぁ。そして私たちは」
シズクは両手に提げた紙袋を掲げた。わたしの両腕にも、同じ大きさのものがひとつ抱えられている。
「先生の出店を手伝う。これもある意味運営だろう」
「うん! どんな風になってるかなぁ」
丘に近づくごとに、出店が増えていく。ほとんど縁日の屋台だ。木を括った骨組みに布を張って、机を下に据えたら完成。すでに営業を始めたお店からは玉カステラやパンの甘い、香ばしい香りがする。
それは、この雑然とした人混みを縫うようにして流れてくる。広い会場を塗りつぶすようなひと、ひと、ひとの山。こうしてシズクにくっつくようにしていないとすぐに押し流されそうだ。町だけじゃなく、王都の住人もいるからその数は想像もできない。
誰もが笑顔で……向こうでりんご飴を取り合う男の子たちはともかく、概ね笑顔で出店や踊りを楽しんでいる。本当に、この土地に住むひとたちは一年楽しみにしているんだ。
いっしょに回りたかったのだけれど、とレンは言った。友人たちといっしょに初の出店に挑戦するという。それぞれが作った手芸品を扱うお店だと教えてもらって、それからずうっと気になって仕方なかった。先に出かけていったレンからはそれ以上聞いていない。
「手編みの手袋とか」
「ふわふわの帽子もあったりして」
「去年流行った膝かけもあるだろう」
「それなら、ぬいぐるみも! きっと定番だよ」
シズクといっしょに予想を並べながら、登り坂の中腹にあるそのお店を目指す。街道を外れる道が数本、丘の頂上で一本だけ立っている金木犀に向かって作られていた。
当日になっても、ひとつも咲いていない。でも、それをいつまでも残念がってはいられなかった。丘のふもとには金木犀に負けないくらい綺麗な橙色がたくさん灯っている。それはここに集まったひとたちの笑顔のようなものだから。
「これからもっと騒がしくなる」
目を細めて楽しそうなシズクを見上げていると、その様子を前にも見たことあるんだな、と思う。楽隊のみんなにも会ったことがあるし、灯籠の置き方だって知っていた。
「シズクは、いつからお祭りに行ってるの?」
「うん? いつから、か」
考え込んで、とりあえず向かう方を見る目。灯りが映り込んで、夜の藍色をしたシズクの瞳に火を灯した。
「私がこの町に来たのはちょうどこのくらいの季節だった。その年からずっと参加している」
「どれくらい前なんだっけ」
「あぁ……それは、実を言うとわからないんだ」
顎に指をやって、シズクは中空を見つめる。何かを見ているわけじゃなくて、たまたまそこに視線が当たっただけで。どこかを見はるかすようなそれをたどると、屋根が破れかけて大騒ぎする出店のひとが周りに助けを求めている。
「数えていない。私も先生も。多分町の誰もが」
「そうなんだ」
「大切なことのはずなのに、おかしな話だけれど」
「きっと、それだけシズクを自然に迎えてくれたからだよ。もともと町に住んでたみたいに」
灯りがこちらを向く。
「私はちゃんと、ここの住人だろうか」
「うん。だってわたしを迎えてくれたもん。そうでしょ先生」
「……そうだな。助手として、何より家族として」
細められた目が、ふっと正面に向き直った。気づけば、わたしたちの行く手に若い男性三人が集まってわいわいとおしゃべりしている。その視線はこちらを……というよりわたしを目がけて飛んできている気がする。
「管理人サーン、その子が例の助手サン?」
「ちっちゃいなぁ、今いくつ?」
「あわわわわ」
みんなして片手に酒瓶を携えていかにもご機嫌な様子。ふらふらと寄ってくるのを棒立ちになって見ているしかないわたしとは対照的に、シズクは仕方ない、と言わんばかりにため息をついた。
「例の、とは何だ?」
「親方がしゃべってたんですよ、沈丁花の館に可愛い新人がいるって! なー」
「なー」
「おー」
「完全にできあがっているな」
シズクは「これが悪酔いしたやんちゃ坊主だ」と目だけで示してくる。隊長も言っていたっけ。実害はなくても扱いに困るタイプの問題児だ。親方……というと、あの配達のおじさんたちの弟子なのかも。人なつっこい笑顔(このひとたちのはやたらと赤い)と厳つい体格がよく似ている。
「これからどうするの? デートでしょ?」
「うそ、管理人サンときみが? それほんとか⁉」
「あぁ、そうだ」
彼らがさらに歩み寄るより先に、シズクは緩くわたしの手を取っていた。いきなりのできごとふたつに、わたしはとっさに反応できない。
「え」
そうだ、って? シズクは何を言ってるの?
「私はこれから彼女と、ふたりきりで、丘を上るんだ。悪いが先を急がせてもらう」
噛んで含めるようなもの言いにむしろ喜んで、悪酔い三人組は「うーす!」「行ってらっしゃーい」「ひゅー!」と飛び跳ねながら道を開けてくれた。行こう、なんて手を引かれてもはい、としか返事ができない。
「あー、その。すまない。勝手なことを」
「う、うぅん。嫌なんかじゃないよ」
「そうか……?」
「もちろん……?」
何だかお互いぎこちない、顔も見られない。多分シズクはわたしが、恋人扱いされるのを嫌がっているんだと考えている。それはもちろん間違いで、でもどうして間違いなのかわたしには説明できなかった。トウカにからかわれて言い返せなかったときと同じだ。
……くすぐられたかのように、落ち着かない。
「さぁ、行こうか」
その場の空気を入れ替えるように、シズクは明るく微笑むと手を引いてくれる。
「私から離れてはいけない。あれもこれも酔っ払いだから」
「あ、ありがとう……?」
周りの人混みにはひとこと触れもせず、シズクはわたしを後ろに隠すようにしながらゆっくり歩みを進めた。
「あそこで踊っているのがいるだろう」
「う、うん」
「あれは酒が入っている」
「へぇ……?」
「そこの屋台で腕相撲をしているのがわかるか?」
「う、うん」
「あれも酒だ」
「えぇ……?」
「あの旗の根本で寝ているのは……」
「酔っ払い?」
「あれは四日間徹夜した酒場の主人だ」
「お疲れ様でーす」
そういえば、わたしは人生で一度も徹夜したことがない。数えていいのなら、どうしても眠れなくてただベッドでごろごろした日。それもたった一日だ。
大人は眠ることも後回しにしなくちゃいけないときがあるみたい。シズクもたまに、本当にたまに寝坊をするけど、それは明け方まで作業をしているからだ。半分わたしに回してもいいのに「子どもは寝るのも仕事だ」なんて言って譲ってもらえない。それが通用するのは赤ちゃんまでだと思う。
「そういえばシズクはお酒飲まないよね。苦手なの?」
「あぁ。少し飲んだだけで眠気が来る」
「まだ軽症だね」
「あぁ。酷いとあのようになるし、最悪気を失う者もいるからな。これを言い訳に酒席を断れるのもいい」
「わたし、お酒飲めるかなぁ」
ビールの泡すら口にしたことがないから、どんな味か想像がつかない。シズクのようになるべく遠ざけたいひとがいれば、先ほどの三人組のように陽気に飲めるひともいる。
「酒は二十歳からだ。まだだめだよ」
「はぁい。まだまだ長いね」
「きみの歳のころから言うと果実の……あ」
シズクが不意に足を止める。そのすぐ先には大きく手を振るレンと、仲間らしいお年寄りの男女がたくさんの荷物を広げて待っていた。
「おやおや、デートかい」
開口一番、おじいさんの好奇心たっぷりの質問が飛んできた。
***
誰も彼も、あんなことを言う理由。あんなに「館の管理人さんのお嬢さん」呼ばわりされていたわたしに。
それはこの丘にあった。
「さぁさぁ、筆記具はこちらの机から。ほらおちびさん、きみも! こらそこの酔っ払い! 紙吹雪にするな!」
音頭をとるのは蛍光色かと思うくらい鮮やかな橙色のタキシードを着た恰幅のいいおじさんだ。「あれが前の隊長だ」と耳打ちされてからそれとなく警戒していたけど、酔っているようには見えない。
「正気だな。まだ」
「平気そうだね。まだ」
手芸品を並べ終えてレンたちのお店からいったん離れたあとも、丘の金木犀の周りにはたくさんの人だかりが残っていた。ひとに流されそうになるのをなんとか切り抜けて、前隊長から受け取ったのは細長い紙片だった。七夕の短冊とほとんど同じで、上端の穴にたこ糸の輪が通されている。
「これに願いごとを書いて、木に吊るすんだ。花が咲くころに願いが叶うという……まぁ、まじないといったところか」
「わたしたち、それで間違われたんだ?」
「そうだな」
トウカも隊長も、この光景のことは当然知っていたはずだ。
周りには手をつないだり、抱きしめ合っているひとたちが何組もいる。前隊長も、目ざとくシズクに気づくと「おぉきみも恋人を連れてきたのかずっと待っとったがようやくかあと眼鏡を外せと去年も言ったろう」なんて濁流か何かのように興味津々に疑問をぶつける(シズクに連れられてさっさと退散した)。そうじゃなくても、真剣な面持ちで短冊に向かう男の子、女の子がたくさんいる。
金木犀の丘では願いが叶う。とくに、好きなひとと結ばれますように、という恋愛成就の一面も期待されているみたい。
「あぁ、そこの机で書こうか。吊るす瞬間まで願いごとは誰にも教えないように」
「うん! どんなこと書こっかなぁ」
丘の伝説は知っていたけど、いざその瞬間になると何だかどきどきする。あれこれ書きすぎたらご利益がなくなりそう。どれかひとつにしようとしてもなかなか難しい。
ここのことばを完璧に覚えられますように。もっと背が伸びますように。勉強がよく身につきますように。……シズクのために。
何だか、今まで通り続けていれば普通に叶えられそうだ(身長は成長期に祈るしかないけど)。もっとこう、神さまにお願いするしかない壮大なお願いを書きたい。
隣からはもう、かたかたとシズクが鉛筆を走らせる音がする。そっちを見ないようにして、ふと正面を見上げた。
夜空に届きそうなほど大きな木。これは金木犀だ、と教えてもらわなければわかりっこなかった。それか、谷の梔子のようにここ特有の生態をしているのかも。どちらにしろ判断がつかないのは、見たことがある金木犀はどれも生垣のような背の低いものばかりだったから。花が咲いていたら、きっとここは甘い香りで飽和していたはず。
たどり着いていたはずの勇者とお姫さまは、どんなことを願ったんだろう。世界のために戦ったふたりだから、「無事に戦いを終えられますように」「平和が戻りますように」って素敵な願いごとをしたんだろう。
でもお互いにはないしょで、「おいしいご飯をたくさん食べたい」とか「一度くらいは帰りたい」とか、ちょっと弱気になっていたかもしれない。わたしにはとてもできそうもない長い旅の途中だから。
長い旅。わたしも同じようなものだ。いろんなひとのおかげで、わたしはあの旅路の裏側をたどっている。裏側がなくなれば表側をたどれる。でもそれは、いつか終わってしまう。旅が終わったら、どうなるんだろう。
わたしは、どうすればいいんだろう。──どうしたいんだろう。
「あ」
一番星のようにひらめいたそれを、まだ新鮮なうちにと書き込んだ。叶えるための道が見つからない、きっとそれが神さまや金木犀にかけるのに向いている願いだ。
まだ書くには難しい新暦文字をゆっくり丁寧にと念じる隣に、シズクの気配を感じる。よかった、人波に流されていない。
「急がなくても大丈夫だ」
明後日を向いた声が何とか届く。
「ありがとう。もう書けたの?」
「あぁ。後は吊るすだけだ」
「わたしも、もうすぐ……うん、できた!」
淡い水色の短冊に、がたついた文字がふらふらと並ぶ。ひと文字もかけなかったころと比べたら格段に進歩したわけだから及第点にしよう。うんうん、よく書けました。
「ここの輪を、枝や木の皮に引っかけるんだ」
「えっと……」
木の幹に近づいても、手が届きそうなところは見当たらない。というより、周りのひとたちが軒並み背が高い(わたしから見たら)から、ほとんど視界がふさがっている。それでもここはいちばんひとがまばらな区画だ。王都側はもっとごちゃごちゃしていたから、それを思うとまだマシな方。
「ナツキちゃん、こっちだ」
目の前に伸びてきた大きな手を握り返すのもひと苦労。白い手袋越しに、少し冷たい温度が伝う。いつものシズクの手だ。
「なかなか見つからないな」
「わたしじゃ見えなかったよ。シズク、もっと高いところは空いてる?」
「そうだな……」
真上の空を枝越しに仰ぐようにしてしばらく、シズクは「あぁ」と声を上げた。
「少し上だ。あれならかけられる」
「よかった」
シズクに引っかけてもらおう。そんなふうにお願いしようとしたわたしの足は次の瞬間地面から離れていた。
「ひえっ」
視界が、まるで踏み台でも使ったかのように上がる。「パパぼくもあれやってー」なんていう子どもの声が遠い。あれって何だろう。多分わたしのこと。
「すまない。掴まっていてくれ」
「えぇ?」
ひっくり返った返事しか出てこない。自分の短冊をあっさり吊るし終えたシズクが少し屈んでわたしの背と膝裏を支えて持ち上げて……いやいや、抱き上げて、いた。
いつの間に? それはもう瞬く間に。
「……ぇぇぇえ……っ?」
大声で驚くのを呑み込めたこと、誰か褒めてほしい。かちかちに凍りついた体は、かろうじてシズクの肩にしがみついたところで反応を止めた。人混みの頭が一段低い。何人かの視線はわたしに向けられている。
もこもこするフリルやドレープ越しにシズクの腕を感じる。危なげなく支えてくれるのはとても安心感があるけど、それとこれとは話が別。身長がまだ足りなかったらどうしよう。重いとか言われたら立ち直れない。
こんなにも気が動転する理由はただひとつ。恥ずかしい!
「い、い、いきなり」
蚊の鳴くような声で抗議したものの、じゃあ前もって説明があったらよかったのかというとそうでもない。自分がものすごく遠慮してここから脱出するところまでは簡単に想像がついた。
「突然で悪かった。けれどこれだけはきみの手でやってほしい」
──見上げるシズクの視線と視線がかち合う。
「ずっと焦がれてきたはずだ。そうだろう」
眩しいものを見るような目。初めて会ったとき、笑顔を向けてくれた目だ。あのとき、どれだけ安心できたかわからない。あの場所から、あんなにも憧れたこの世界を歩き始めたんだった。
「うん……!」
わたしの旅の始まりを思って、幹に向き直る。ずっと行きたかったところ。勇者たちがたどり着くのを見届けたかったところ。そこに、今はわたしたちがいる。叶うはずのない願いが目の前にあること、その奇妙さとそれ以上の高揚で胸が痛んだ。
「何だか緊張しちゃう」
「不安定か? それならもっと……」
「あっ、あっ、大丈夫! 抜群の安定感! さすがシズクかっこいい!」
「そ、そうか」
それならもっと、の先を聞くのがいたたまれなくて全力で阻止した。もっと……何だろう。それを何となくわかってしまう自分が別の意味で恥ずかしい。
「平常心平常心平常心……」
「まじないというより呪いのようだ……」
ぶつぶつと小声で唱えるさまを見たらシズクじゃなくてもそう思うだろう。いろんな緊張で震えるのをごまかした指先は、ようやく手ごろな枝に届いて──憧れに触れた気がした。
「できたー!」
「よし、じゃあじっとしていてくれ……」
ゆっくりと降ろしてくれるシズクは、まるでもう願いが叶ったかのように嬉しそう。にこにこのそれを見ると、ふっと気になった。
「ね、何て書いたの?」
「そうだな……」
微笑みとともに答えを置いて、シズクはわたしの手を引いて金木犀から離れる。遠ざかるそれを一度振り返ってみたけど、花びらひとつ見当たらない。
「どうかな、交換条件。お互いに教え合うんだ」
「うん、そうしよう! じゃあわたしからね」
丘の頂上には、短冊の交換所を取り囲むように木で作ったベンチがいくつも置いてある。そのひとつに腰かけると、ちょうどよく少し冷たい風が吹いた。お祭りの熱気のただ中にいた体に気持ちいい。
「よーし、それでは発表しましょう」
「はは、謹んで聞きましょう」
笑い声が、周囲の喧騒に紛れかける。食べもの、願いごと、歌や踊り……みんながみんな何かに夢中になっている中心にいるような錯覚がする。その中心のステージで、とっておきの秘密を打ち明けるように、ゆっくり堂々と伝えた。わたしの願いごとで、どうやって叶えたらいいかわからないくらい大きなこと。
「わたしのはね、ここにずうっといられますようにって。そうやって書いたの」
──シズクは何も言わない。
得心したように深く、何度も頷く。それには数拍の間があった。そのとき、一瞬だけ驚いたように開かれた唇に気づいた。次の瞬間にはいつもの柔らかい笑顔になっていたけど。
「……もっとみんなといっしょにいたいとか、ずうっと冒険してたいとか。それをまとめようとしたらこうなったの」
「……嬉しいよ。きみがそう思ってくれたことが、とても」
見上げる先で、ふっと細められる目。泣き出しそう、そんなふうに見えたのは、シズクの声が微かに震えていたから。
「え……」
あんまりびっくりして、何か悲しくなるようなことを口走ってしまったのかと心配になって……ただただ戸惑うしかなかった。
「どうしたの?」
「いいや。感極まったんだ」
「……どうして?」
「きみが、ここにいたいと言ってくれたことだ。初対面のころを思い出すと、少し」
束の間ことばを切ったシズクは、もう元通りのシズクだった。ほのかな灯火のような笑みで唇をほころばせて。
「きみはどこか違うところから来てくれた。それをあんなにも意識していたきみが、そう思ってくれるようになって嬉しいんだ」
「あ……そういえば。うん、そうだね」
ここがわたしの場所。
そう認識することに何の違和感もない。
「わたしはみんなの、シズクのそばがいい。いいでしょ?」
「もちろんだ。ここがきみのいるべきところだよ、ナツキちゃん。ずっとここにいてほしい」
断言してもらえることがとても誇らしかった。そして少し面映ゆかったりして、ごまかしたくて「次シズクの番ね」と急かす。
わかったと答えるその目は金木犀を囲む人垣のさらに向こう側、地上の明るさで白みかけた星空に向けられる。
「私は、きみのことを書いた。ナツキちゃんがこれからもずっと冒険を続けられるようにと」
「……」
「私もいっしょに」
シズクの願いは、わたしにかけられていた。自分のための祈りをわたしの行く手に届けてくれることの意味をゆっくり飲み干して、今度はわたしが涙ぐむ番だった。
「ナツキちゃんっ? どうした……?」
「だって、シズクもそう思ってくれたの」
「そうだ。きみにずっとここで、私たちと生きていてほしい。きみの願いは私の願いだ……今年については」
「今年?」
「来年も再来年もその先も、きみとここに来る。その数だけ金木犀に願う機会はある」
それは、小指で結ぶには足りない約束だった。
何度も頷く間、涙を隠そうとして喉に変な力が入る。隣に置かれたシズクの手を取ると、いつもより温かかった。握り返してくれるそれは大きくて、手袋越しでもほっそりしているのがわかった。
「……ん、うん。また来ようね、何回でも」
「泣かないでくれ」
「シズクこそ」
「私は平気だ」
「わたしも平気だもん」
お互いそっぽを向くように真逆に顔をそらしたのは、こっそり目元を拭うため。わたしがそのつもりならきっとシズクだってそうだ。助手が先生に似るのは本当かもしれない。
「お祭りはすごいね、嬉しいことがいっぱい」
「あぁ。このまま終わってほしくないほどだ」
「うん……」
目の前の列がみるみるうちに短くなるのを流し見る。みんな、願いをかけたあとは会場を見て回るんだろう。
すっかり忘れていたけど、始まったものは終わらないといけない。そう決まっている。わたしの冒険だって、ずっと勇者たちの後を追ってはいられない。必ず、考えるときが来る。次はどこに行けばいいのか。
でも、きっと大丈夫だと思えた。シズクもレンも、トウカもいてくれるから。町だってまだ全部回りきれていない。遥かに後のことは、もう少し後に心配するべきだ。今はいっぱいいっぱいになるくらいお祭りを楽しんだほうが絶対にいい。それに、今日のわたしは可愛いって褒めてもらえたわたしだから。
「ね、次はどこにいく?」
「いや、ここにいよう」
立ち上がろうとしたわたしの手を握ったまま、シズクはやんわりと首を振る。
「もうすぐだ。ここならよく見える」
「見える? 何か来るの……あ」
聞き返しながら、気づいた。お祭り、お店、夜。そう連想をつなげていくと、どうしてもたどり着くもの。
そのとき、背後で大きな光が弾けた。
「わ……!」
続けてやって来た破裂音に(わかっていても)驚きながら、急いで振り返る。
王都の方角、その星空に大輪の花が咲いていた。まぶしすぎて白く見える橙色の花火は、すでに花弁をのびのびと広げて端を垂らしている。その軌跡はきらきらとした光の粒になって真下に注いだ。
「シズク!」
「あぁ、これを待っていたんだ」
花火は上がり続ける。わっと上がった歓声は平原全体を包むようだ。きっとレンたちも、もしかしたらすでに到着しているかもしれないトウカも、目を輝かせながら見入っている。
(こんな、楽しくて嬉しいことを、ずうっとなんて)
欲張りだと、神さまに、金木犀に呆れられてもおかしくない。でも、文字通り夢みたいなところ、ここにずうっといられたら……。
そんなあいまいな考えは、突如響き渡った悲鳴のような絶叫に吹き飛ばされた。
「大変だー!」




