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言葉足らず

作者: うえの彩月

 物干し場に顔をだした河路かわじは、すこし視線を周囲にめぐらせてから、

「いい天気だね」

 と、そこにいた年嵩の女中に声をかけた。

「あらまあ、河路さん」

 女中はにっこりとし、

「今日は衣縒いよりさんはお休みですよ」


「なんの話です」

 すっとぼける河路にもだまされない。

「門下のかたがたは誤魔化せてもね、女の目は誤魔化せません。わたしら女中仲間のうちじゃあ、もっぱらの噂ですよ」

「それは困る」

 河路はすなおな表情を浮かべ、

「どんな噂ですか」

「いえね、つまり、門下一のお腕と評判の河路さんにも、年相応なところがあってお可愛らしいということ」

「心外だな」


「でも、ねえ、河路さん。あんまり衣縒さんに意地悪をしたらいけませんよ」

 洗濯ものを干す手を止め、年配の女中は河路を振りかえった。

「意地悪なんか」

「さて、さて。ほんとかしら」

 河路がこの道場の門下生となるまえから、先輩一同、世話になっている女中である。自然、ほかの者より態度も気安い。

「衣縒さんも、年ごろの娘さんなんですから。げんに今日だって、ねえ」

「今日?」

 含みのある言いかたに、河路は顔をあげた。

「どういうことですか」


「ええ、ですから」

 女中はにこにこ笑っている。

「お見合いで知り合った好いかたと、たがいの家族の顔合わせがあるそうで」


 河路は、しばらくなにも言わなかった。

 顔色も変えない。

 ただ食い入るように女中を見つめ、ようやく一つまばたきをすると、

「そりゃめでたいな」

 とだけ、つぶやいた。



 軽やかな足取りの衣縒いよりが道場にもどったのは、もう夕暮れどきであった。

 化粧をきちんとととのえ、きゃらきゃらした簪をさし、手の込んだ刺繍がほどこされた着物に身をつつんだその姿は、あきらかに晴れの場のための一張羅である。


「馬子にも衣装か」

 ふいに背後から投げられた声におどろき、そちらを見ると、河路かわじが飄々とした態度でそこに立っていた。

 が、どこかいつもと雰囲気がちがう。

 沈みかけの夕陽が河路の半顔を照らしあげ、そのせいで表情をうまく読みとることができない。


「河路さん?」

 河路が一歩距離をつめたのにたじろぎ、衣縒も一歩後ずさった。

 上機嫌にゆるんでいた頬がこわばる。

(こわい)

 怯える衣縒を、河路は無感動に見つめている。


 やがて、

「おめでとうございます」

「えっ?」

「見合い」

「あっ、あ、ありがとうございます。知ってらしたんですか?」

「今日ね」

 みずくさいな、とつづける河路はもはや普段通りの調子である。


 そのことに衣縒はわれながらおどろくほど安心した。

 つい笑みがこぼれる。話題が話題だけに、なおさらであろう。

「私事ですし、それにまだみなさんにお伝えするような段階でもなかったので。――でも、あとで師匠せんせいと女中頭のところへ行って、話だけでも先にしてこようとおもいます」


「どんな相手」

 ぽつりと、河路がいった。


「優しいかたでしたよ」

 ますます笑みをふかめ、

「年上で包容力もありますし、穏やかで、でもすこし照れ屋なんですって」

 そういって、はにかんだ。


(くそ。可愛いな)

 河路の胸中は、おもしろくない。

(奪ってやりたい。――ばかだな、おれも)


 会釈して去ってゆく衣縒の背をぼんやり見送りながら、自分がこぶしを握りしめていたことに今さら気がついた。

 痛みなど感じていなかったが、開いた手のひらを見ると、爪の食い込んだあとに血が滲んでいた。



 衣縒いよりの話は、道場内に一気にひろまったようであった。

 みな表情をあかるくして彼女に話しかけている。


 その様子を遠目にみながら、河路かわじは不自然なほど輪に入るのを避けていた。

 どころか、以前のように衣縒にちょっかいをかける姿もめっきりみられなくなり、ときおり物言いたげな目線をよこす年嵩の女中を黙殺しては、ひとり道場で汗を流す。

 それが幾日かつづいた。


 それ以上はつづかなかった。


「河路さん」

 ふりむくと、衣縒が困ったふうにわらっている。

「わたし、なにかしたでしょうか」


「なにか、とは」

 わかりきったことを、わざととぼけた。


 座敷の奥では宴会がおこなわれている。

 師匠の遠縁の息子がこのたび近所に医者として開業するのだと挨拶にきたのをきっかけに、ひさしぶりの面会に酒が入り、やがて住み込みの門下の者もみな呼ばれたのだ。


 河路も誘われてしばらくは座していたが、このところ気分がふさいでいたせいか、いやに酒がまわったために庭におりたのである。

 

 そこを、呼び止められた。


「ですから、……」

 衣縒が不服そうに口ごもる。

 まったく表情を隠せないのは、はじめて会った三年前から変わらない。


 河路が十六で道場の門をたたいたとき、ふたつ年少の衣縒はすでに母の縁者をたよって女中見習いとして働いていた。


 当時、武術指南役として長らく城につとめた師匠が引退後に城下でひらいた道場は瞬く間に評判となり、志願者が多かったために入門試験が設けられるようになっていた。

 はじめのころは師匠自らが相手をし、ほどなく古株の弟子にその任が渡ったが、要するにある程度の腕を証明しなければ門をくぐることはできない。


 最年少で入門を認められた河路と、年配の姉さんたちに囲まれて過ごしていた衣縒とは、唯一のおなじ年ごろの話し相手でもあった。


 河路の態度を意地悪と称したのは年嵩の女中だったが、あながち外れてはいまい。

 河路はどうも可愛がりかたに容赦のない性質らしく、よく衣縒をからかってはむくれさせていた。


 そういうことが、

(もうできないのだな)

 とおもうと、腹立たしい。

 ――ほんとうは腹立たしいのではないのだが、河路にはそのあたりの機微がわからない。


「おれと話していていいのか。誤解されるだろう」

 自然、声は不機嫌になる。

「だいたい、はしたないよ。相手のいる身で。もっともその相手もどこのだれだか知らないが、こんな、まるで子どものような女がいいなんてとんだ物好きだ」

 男たるものべらべらと口数多く喋るものではない、とおもうのだが、制御がきかない。


 嫉妬であった。表情といい、言いかたといい、まぎれもない。

 それが聞いているほうにはじつによく伝わる。

 が、当の本人にだけ自覚がない。


「なにか、と言ったが、心当たりがあるのか。おれになにかしたのか。――そういう、おれが悪者のような顔をされると腹が立つよ。おれにも思うところはたくさんある。仮にも相手のいるおまえと、いつまでも今までのようにいるわけにはいかないじゃないか」


「あの、……」

 河路の呼吸の合間を縫い、衣縒がほそい声を出した。

 耳まで真っ赤にそめ、

「お見合いというのは、姉の話です」


「――」

 河路は絶句した。

 年嵩の女中が目蓋の裏で意味ありげにわらう。


 いえ、ねえ、嘘は言ってませんもの。


「――なるほど」

 やっとのことでそれだけ言うと、あとはもう、やけくそになって彼女を抱きしめた。

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