扉をあけて
「忘れ物、ないわね」
お母さんの声に頷く。お母さんは何か言いたげにあたしを見つめて、でも何も言わずに黙って荷物を持った。二人で無言でナースステーションまで歩いた。消毒の匂い。点滴を引きながら歩くおばあさん。忙しなく行きかう看護師さんたち。
日が経つにつれて、異世界があって、王子様がいて、三四郎と話した事が本当だとは思い込めなくなっていく。
「お世話になりました」
あたしは笑顔で頭を下げる。
「退院おめでとうございます」
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございました」
婦長さんの手を握ってお礼を言うお母さんは涙ぐんでいた。
エレベーターを下りて精算を済ませ、タクシーに乗って家に帰った。途中、あたしと三四郎が轢かれた交差点に大きな血の跡があって、お母さんは、慌てた様子でぎゅっとあたしの手を握った。その手は熱いくらい温かい。
三四郎の犬小屋。赤い屋根に、三四郎と書かれた表札。三四郎の匂い。
「片付けようかとも思ったんだけど、夕ちゃん嫌かなって」
「……うん。このままにしておきたい」
お母さんは頷いて頭を撫でて、鍵を開けてあたしを招く。
「ただいま。三四郎」
あたしは小さな声で呟いて、玄関に入る。なんだかすごく久しぶりな気がする。夢の中での数日分が長く感じるのかもしれない。
「おかえり」
「ただいま」
微笑むお母さんに、笑顔を返す。上手く笑えているかどうかわからない。
「お母さん、お線香あげたい」
お母さんの肩がピクリと揺れた。そうね、とお線香とマッチを持って来て、吐き出し窓を開けた。サンダルを履いて出ていくお母さんのあとに続いて、庭にこんもりとした盛り上がりを見つける。
「三四郎、ごめんね」
お線香に火を付けて、祈る。言葉は見つからないから、ただ黙って目を閉じた。もう涙は流れない。
ごめん、ちょっと休むね、とお母さんに言って、あたしはまっすぐ二階の自分の部屋に向かった。ふう、とため息をついてベッドにごろりと横になる。
あたしの頭の中に居た賑やかなイロイロは一体どこに行ったんだろう。
ブブ、とリュックの中から携帯が着信を告げた。泣いちゃだめだ。お母さんが心配する。あたしはもそもそと携帯を引っぱりだす。
「退院おめでとう! グループ、作ったよ」
お見舞いに来てくれた、友達からだった。「仲良し」というグループに招待されている。
「お見舞いに来てくれてありがとう、退院しました」
と打ち込む。
「わあ、夕ちゃん、退院おめでとー」
「おめでとーん」
次々にメッセージが書き込まれる。
「ねえ、来週、皆で映画見に行かない?」
「いくいくー」
話はどんどん進んでいく。夕ちゃんは? 無理にとは言わないけど、一緒に行こうよ。と言われて、行く、と返事をした。大好きなアニメ映画。行きたくないけど、行かなくちゃ。
この痛みを抱えたままで、痛みが風化するのを恐れながら、それでも、三四郎がくれた命を、あたしは生きなくてはならない。生きなくては、ならない……。
会話も終わり、ため息をついて、再びベッドにごろりと横になり、何気なく携帯をいじりだす。
……あ!
……そうだ! なんで忘れてたんだろう!
あたしはガバッと起き上がって、夢中で画面を操作する。
……あった。
……いた。
画像のフォルダには、笑っているフィリップ、あ、このときは三四郎だ。そして、竈に火を付けてる獣人フィリップ。きっと、ここまではセリーナも魔術師たちも、考えつかなかったに違いない。
本当に、あって、いたんだ!
動画、動画、あたしは慌てすぎて、何度も携帯を取り落とす。あった! 再生。
{何をする気だ! 今すぐやめろ!うわああああ}
「ぷっ」
{何をする気だ! 今すぐやめろ!うわああああ}
「あはははは」
{何をする気だ! 今すぐやめろ!うわああああ}
「あ、あは、バカだフィリップ。あはは、あは、あ……う、うああああああ」
あたしは、堰が切れたように思い切り泣きじゃくる。
「さんし……ああああああ、うあああああん」
三四郎、三四郎、そこで幸せにしているんだよね。フィリップと仲良くやってるよね。
「夕ちゃん、どうしたの!?」
「お母……さ……うわあああああ」
これは嬉し泣きだよって言ったら、お母さんどんな顔をするだろう。
三四郎はね、置いてきたの。あっちに置いてきたの。フィリップが居るから大丈夫なんだよ。フィリップにはセリーナさんも居るんだよ。
あ、お父さんは遺体もないのに、あたしを納得させるために庭を掘ったのか。誰だってあの血じゃ死んだと思うよね。でも、あたしの痣もコブも、向こうに行ったら無かったんだよ。三四郎も元気だったんだよ。
すべてが有難くて、いよいよあたしの涙は止まらない。えんえんと泣いて、いつの間にか泣きつかれて眠ってしまったらしい。起きたら、食卓にはあたしの好きなものばかりが並んでいた。
「お母さん、あたし、美容院に行きたい」
「え?」
「ちょっと内巻きにパーマかけたい。二学期が始まるまでには取れるよ」
お母さんが驚いたようにあたしを見る。それはそうだ、今までは面倒がってお母さんに切ってもらってたんだから。
「新しい服も欲しい。随分痩せたし、背も少し伸びたし、合うのがないの」
そうねえ、とお母さんは複雑そうに笑う。
「あとね、お化粧品も買って。クリームとか、リップとか、爪手入れするやつ? とか?」
「ねえ、どういう風の吹き回しなの? 夕ちゃん」
「夕子は、お化粧なんかしなくても可愛いよ」
お父さんもお母さんもあたしの変化にきょとんとしている。
「来週、友達と映画を見に行くから、可愛くして行きたいの」
わかった、それじゃあ明日は大忙しね、と言いながら、お母さんは目の端を拭った。お父さんは酔ったのか、いつか嫁に出す日の心配を始める。あたしはうふふ、と笑って席を立った。
二階の部屋に戻って、そっと窓を開けて、夜空に浮かぶ月を見上げる。
あたしはあたしのままで、少しだけ新しい世界をのぞいてみよう。自分の手で新しい扉を開けよう。
異世界で見たより、少し濁った色の月を見上げながら、温んだ夏の夜の空気を、胸いっぱいに吸い込む。
ああ、神様。
どうか、どうか。
大切なあの人たちが、この瞬間も、これからも、ずっとずっと幸せでありますように。
【FIN】
次回、エピローグで終了です。




