帰ってきました
「あ、い……や……! 三……郎! フィ……プ!」
「夕ちゃん! 夕ちゃん! 大丈夫よ、もう、大丈夫よ!」
目覚めた瞬間、あたしは自分がどこにいるのかわからなくてパニックを起した。
お母さんの声に、やっとここが病院だということに気がつく。慌しく看護婦さんが出入りして、あたしの脈を取ったり、モニターを確認したり、点滴に何か薬を入れたりして帰っていった。
「夕ちゃん、わかる?」
「……お……母……さん」
喉がカラカラ。水、水が欲しい。綿に含ませた水で唇を濡らしてもらうと、少しづつ、頭がはっきりしてきた。お母さん、泣いてる。そうだ、あたし車にはねられたんだ。あたしは何て親不孝な事をしてしまったんだろう。なんて思いをさせてしまったんだろう。
「……三四郎、ね。……置いて、来たの」
ごめんね、お母さん、三四郎は置いてきちゃったの。せっかく、飼うの許してくれたのに、ごめんなさい。お母さんは泣きながら何度も何度も頷いている。
「夕ちゃんを守ったのね。三四郎、偉かったね」
お母さんはあたしの頭を優しく撫でる。三四郎はフィリップのところに居るんだよ。だから、大丈夫だよ、お母さん。
ああ、それにしても、別の瞬間に戻すことはできなかったんだろうか。あ、そうか、事故にあったと伝えておけばよかったのかもしれないなあ。
「三四郎が心配しちゃうからね。夕ちゃん、しっかりしないとね」
お母さんはあたしの手を握りしめる。うん、そうだ。しっかりしなくっちゃ。三四郎と約束、したもの。
「夕子!」
病室にお父さんが駆け込んできた。仕事、終わったのかな。そういえば今、何時かなあ。
「今さっき、意識が戻ったの。脳には異常ないそうだから」
お母さんの言葉にお父さんは頷く。お母さんに代わって椅子に座り、あたしの手を握った。
「夕子、何か欲しいものはない?」
「……大丈夫」
「食べたいものは?」
「……大丈夫」
お父さんが泣いてるの、初めて見た。いつも整えている髪がこんなに乱れているのも、初めて見た。
「……泣かないで、お父さん、ごめんなさい」
うん、うん、と頷くお父さんの目から、あとからあとから涙が零れて落ちる。良かった。あたし、帰って来られて良かった。ありがとう、お父さん。
コンコン、とノックする音が聞こえ、看護婦さんがあたしのリュックを持って入ってきた。ここに置きますね、といってリュックを下ろす。
「夕子ちゃん、痛いところとか、気分の悪いところはない?」
といいながら、あたしの手をとって脈を計り、メモを取って出ていった。
ありがとうございます、と言って、ベッドに目を戻すと、リュックの隣に三四郎のリードが見えた。
……なんで? それは三四郎の首についてるはずなのに。向こうの世界にあるはずなのに。
「……お母さん、三四郎、は?」
お父さんとお母さんは困ったように顔を見合わせる。その顔で気づいた。気づいてしまった。でも、認めたくない。認めたくない。だけど、どんなに必死に否定しても、あたしの心はひとつの可能性を見つけてしまっていた。
―――全部夢だった? 三四郎はあたしの代わりに車に轢かれた?
「いやああああ! 三四郎! いやだ、いやだ! どこ! 三四郎はどこ!!」
「夕ちゃん! おちついて! 夕ちゃん!」
「夕子! すみません!」
お父さんが叫んで、看護婦さんが部屋に駆け込んでくる。ちがうの、聞いて、教えて!
「信号が赤だったの! 三四郎があたしを押したの。あたしの代わりに撥ねられたの? 怪我してるの? ねえ、三四郎、今どこにいるの!」
「わかった、夕ちゃん、わかったから」
「三四郎は? 三四郎はどこ! ねえ、三四郎は今どこにいるの!」
お母さん、教えて、三四郎は今……フィリップと居るんだよ。ここには居ないんだって言って。何で泣いてるの、お母さん。お父さん、どうしてそんなに悲しそうなの。
「……お母さん」
知りたくない。
聞きたくない。
「三四郎……死んだの?」
お母さんは困ったようにお父さんを振り返る。お父さんはお母さんに頷いてあたしを見つめる。手を伸ばして、そっとあたし頬の涙をぬぐう。そのお父さんの目からも涙が零れている。
「おうちに帰ったら、お弔いしてあげような」
お弔い。金魚が死んだとき、小鳥が死んだとき、動かなくなってしまった彼らを、庭の湿った土の中に埋めてお父さんは言った。
―――お弔いしてあげようね、夕子。
小さな石をのせて、お花を飾って、お線香をあげて。手を合わせた。冷たい体。冷たい土の中。冷たい石。
「……はっ ……はっ ……はっ」
息が出来ない。息が上手くできない。
あたしのせいだ。あたしが悪いのに。あたしが死ぬはずだったのに。冷たい体。冷たい土の中。冷たい石。
「……はっ ……はっ ……はっ ……はっ」
ざくり、ざくり、とあたしの胸に何かが刺さる。そこから何かが溢れて、喉まで詰まった。だから息が出来ない。息が、出来ない。
「大丈夫よ、すぐ落ち着きますからね」
看護婦さんが、あたしの点滴に何かを入れる。嫌だ。入れないで。それ、嫌。
★
次の日、校長先生と担任の先生が来た。「いじめはなかったよな」と何度も確認され、「なかった」とあたしは言い続けた。
午後からは、仲の良かった友人達がやって来た。彼女たちは泣きながら謝った。いいよって言ったら、二学期始まってすぐの修学旅行、班が一緒だよ、楽しみだね、と笑った。
あたしは寝たり起きたりを繰り返しながら、とても上手に対応していたと思う。
それ以外は、三四郎がもう味わえない喜びを、あたしが味わってはいけないと思ったり、そんなの三四郎は望んでいないから元気を出さなくちゃと思ったり、誰かにひどく罵って殴ってもらいたいと思ったりしながら、一日を過ごした。
幼い妄想たちは一つもやってきてはくれなかった。
ただ繰り返し。
繰り返し。
繰り返し。
三四郎が死なないストーリーを思い描いた。




