スキとかキライとかの問題
その日の午後は、ずっと上の空だった。三四郎にとって、あたしにとって、今この時、戻ってからの時。ぐるぐるぐるぐる、思考は回って、景色すらも見えなかったけど、やがて流れはひとつのところに流れ着いた。
あたしは、今、三四郎を恋愛対象としては見ていない。戻って犬の姿になった三四郎に対して、恋愛感情を抱くことはないだろう。
だから、三四郎は、ここに残ったほうがいい。
犬に戻った三四郎が、寒い夜も玄関で毛布ひとつで寝て、朝晩二回のドッグフードと散歩しか楽しみがない生活に戻るのはつらいだろうって思う。お母さんはどんなに頼んだって、三四郎を家には入れてくれないし、学校もあるから一緒に居られる時間は限られてる。
フィリップは案外いい奴だから、きっと三四郎を大事にしてくれる。今の三四郎なら人型になっても何かお手伝い出来る。犬の姿でもあの移動ハウスなら、暖かい暖炉の前で眠ることが出来るだろう。
あたしは……あたしは……一人でも大丈夫だ、うん、大丈夫。
「三四郎は犬に戻ったら、今の記憶はなくなっちゃうんですかね?」
夕飯の後、三四郎が居眠りを始めたので、あたしはフィリップに聞いてみた。
「さあな、わからん」
あっさりですね。
「まあ、全くって事はないだろうな」
うんうん。だよね。きっと今までとは、違ってしまうよね。
「フィリップなら、完全な人型化魔術、使えるんですよね?」
「当然だ、俺様を誰だと思」
「その場合、ええと、今の不完全な人型のまま精神を入れ替えて、その後に三四郎を完全な人型にした場合、どうなるでしょう?」
一瞬むっとした顔をしたあと、フィリップは考え込む。
「恐らく、中身は今の三四郎で、この姿になるだろうな」
フィリップは自分を指さす。
「その魔術って解けたりは?」
「俺が解くか、俺以上の魔術師に解かれるか。まあ、俺様以上の魔」
「死ぬまで、解けないって仮定して、寿命は人間分ですか? 犬分ですか?」
「……今までの文献が本当なら人間分だな。おぞましい話だが、その昔に虫を……」
うん。よしよし。あたしは皿を片付け始める。話し続けるフィリップを虫、ならぬ、無視して台所に運ぶ。すると、フィリップが三つのマグを持ってついてきていた。うわあ。初めてだな、手伝ったの。
「フィリップ」
「ん?」
「三四郎をお願いできますか」
皿を洗う手を止めないまま、あたしは言う。本当はちゃんと頼まなきゃいけないことだってわかってるけど、目を見たら泣いてしまいそうな気がする。多分、泣いてしまう。
「……それはかまわん。だが、間違えるなよ?」
フィリップはマグを置いて立ち去る。言いたいことは伝った。でも、間違えるなって何をだろう。
「三四郎君、寝るよ」
あたしは三四郎を揺すり起して、二階へとあがる。部屋に入ると、三四郎は何か言いたげにしたあと、あたしに向かって手を伸ばした。
「話があるの。座って」
あたしの真剣な声に三四郎は、少し驚いた顔をして、手を引いてベッドに腰掛ける。あたしは丸椅子を引きずってきて、三四郎の真正面に座った。
「三四郎はね、ここに残るべきだと思うの」
ゆっくり、伝える。意味を理解した三四郎の表情が、ゆっくりと、歪む。
「嫌、だよ……どうして」
搾り出される掠れた声。心にずぶり、と何かが刺さった音が聞こえた気がした。
「だって、犬に戻っちゃうんだよ? 寒い夜も玄関で寝なくちゃだし、ご飯はドッグフードだし」
「そんなの、今までと同じだよ」
「同じじゃないの。三四郎はもう人と同じ心をしてる。だから犬の生活はつらいよ。あたしが犬の体になってその生活をしろといわれたら絶対に嫌だもん。三四郎にそんな思いさせられない」
わかって、三四郎。
「ユーコは俺のこと、もう要らないの?」
暗く沈んでいく三四郎の瞳。あ、間違ったのかもしれない。唐突にあたしは思った。
フィリップの言葉がよみがえる。今、じゃなくて良かったのかもしれない。言い方を、間違えたのかもしれない。わからない。でも、多分、あたしは何かを間違えた。
「違うの。大好きだよ、三四郎。だから残って欲しいの」
「そんなの、おかしいよ。好きなら一緒に居たいでしょ!」
三四郎の言葉に怒りが含まれる。
「ちがう! ちがうよ! 好きだから三四郎に幸せになってもらいたいんだよ!」
あたしは必死に叫ぶ。
「犬でいい! 寒くても、お腹が空いてもいい! ユウコと一緒がいい!」
「此処で暮らせば楽しくなる。ね? 残ってよかったって、きっと思うから」
表情がなくなる三四郎。あたしは間違った、間違ってる、と思いながら、引き返せなかった。
「ユウコ、俺を捨てるんだ」
「違う! 三四郎のためなの。あたしだって三四郎と一緒に居たいよ。三四郎が居ないと淋しいよ。でもね」
「ユウコだけなのに。俺はユウコ以外、何にもいらないのに」
三四郎の目がどんどんどんどん、冷たく冷たく沈んでいって、寒くないのにあたしの体は凍えるようにブルブルと震えている。
「ユウコが俺を犬としか見なくたって、他の誰かを選んだって、ユウコの側に居られればそれでいいのに」
「三……」
「要らないんでしょ。気持ち悪くて、面倒くさい犬はもう要らないんだ」
だめだ。ちがう。あたしは本当に間違ってた。三四郎の幸せを願ってるのは本当の気持ち。でも、あたしが先に言わなくてはいけないことは、これじゃなかった。
「ちがう、そんなことな」
「もう、いいや」
三四郎は立ち上がり、扉へ向かう。
「どこいくの? ねえ、待って! 三四郎! お願い、聞いて!」
三四郎は部屋を出て階段を駆け下りる。あたしは慌てて追いかける。
「待って!」
伸ばした手が三四郎の上着にかすかに触れて、流れる。三四郎は振り向きもせず走り、玄関の扉が開かないことを確認すると、台所の扉へと向かった。
「だめ! 三四郎、出ちゃだめ!」
「出るな! 三四郎!」
騒ぎに気がついたフィリップが、階段を飛び降りて三四郎を追う。あたしも慌てて後を追い、台所から戻ってくるフィリップとぶつかった。
「三四郎! 三四郎!」
「落ち着け! 庭から出ちまった。待ってろ、探してくる」
「いや! いやだ! 三四郎! あたしも!」
どいて、フィリップどいてよ! あたしが三四郎を探しにいかなくちゃいけないの!
「お前が行っても邪魔なんだよ!」
パン! と音がして、急な衝撃にあたしは尻餅をつく。遅れて、頬がジンジンと痛んだ。あたしは痛みに平常心を取り戻す。
「間違えちゃった。フィリップ、あたし、間違えちゃった。どうしよう」
倒れたまま、為す術もなく呆然とつぶやく。フィリップはあたしを引き起こして、抱きしめた。
「大丈夫だ。俺が絶対に悪いようにしないから」
優しくあたしを離すと、おでこに唇を寄せる。触れるか触れないかの瞬間、吸い取られるようにあたしは意識を失った。スキとかキライとかの問題だったんだ、と思いながら。