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契約書

作者: やしろ



「恭ちゃん、いいもの見せてあげるー」

 隣のおばさんに来い来いと手招きされ、恭子(きょうこ)は彼女に近づいた。

「じゃーん、懐かしいでしょ」

 ぴらっと目の前にぶら下げられた紙には、それを持つ手の主の字で、「せいやくしょ わたしたちはおたがいをあいし しょうらいけっこんすることをちかいます」と書かれている。問題はそのあとだ。

 ミミズののたくったような幼い字で、「きょうこ」「りょうじ」と署名されている。しかも小生意気なことに当時覚えたての拇印まで押してあるのだ。

「あああああー!!」

 恭子は思わず叫び倒した。さっと手を伸ばしたが、相手に読まれていて、ひょいと避けられる。

「おっ、お、おばさん、それ捨てて……!」

「やあだ、だっておばさんの宝物なんだもの。思い出すわー、ちっちゃかった恭ちゃんとうちの遼路(りょうじ)がふたりでとことこやってきて、せいやくしょ書いてー書いてーって」

「ぎゃああああああ」

 玄関先の水撒きついでのご近所との交流に、まさかこんな罠が隠れているとは思うまい。恭子はきれいさっぱり忘れていたおおよそ二十年前の恥をほじくり返され、思わず悶絶した。誓約書、などという言葉を教え込んだのもこのおばさんだということは言うまでもない。

「遼路がいい歳になってもお嫁さんが来なかったら、これ使おうと思ってたの」

「そんなもの、時効です時効!」

 いい歳、ってだいたいまだ二十五でしょうが、と言いたいのを恭子は堪えた。同い年の自分に、二十五ってまだ若いだろ、若いよな、と心中確認するのが虚しかったからだ。

「あらやだ、完全に乗り気で拇印まで押しといて」

 恭子の記憶は鮮明ではないが、それもこのおばさんが誘導したに違いない。

「そんなの、りょーちゃんの方で願い下げに決まってますっ! それに、だいたい、りょーちゃんとは何年も会ってないし、この先会う予定もありません!」

 遼路とは中学までは同じ学校だった。恭子はそのまま公立の高校へと上がったが、遼路は全寮制の男子校へと進んだのだ。おまけに大学は東京へと上京してしまい、ものの見事に確実に五年は会っていない。

「あら、遼路、帰ってくるのよ。会社の配属先、こっちになったの」

 にこにことおばさんは言い放った。



「あーお腹減った……」

 恭子はてくてくと帰途についていた。さすがに九時五時勤務とまではいかないが、七時には家に帰れるのだ、立派なものである。

 今日のご飯はなにかなー、とふんふん鼻歌を歌いだし、恭子は門の近くに誰かが立っていることに気づいた。背が高い。どうも煙草を吸っているらしい。

「あ、きょうちゃん、お帰り」

「げっ」

「なんだ、ご挨拶だな」

 いえいえ、と恭子は返事をもごもご飲み下した。隣の家の若い男。といえば当然一人しか思いつかない。煙草吸うから家追い出されたんだ、と訊いてみると、うん、と返事が寄こされた。

「帰ってくるの、早かったんだね。お盆終わってからかと思った」

「ああ、早めに夏休みもらったから。とっとと引き払ってきた」

「あ、そうなんだ……」

 恭子は会話の種を失った。気まずい。壮絶に気まずい。だいたい五年ぶりに会って、なにを話せというのやら、と恭子はこの場にいないおばさんに怒りをぶつけていた。あんなもの見せるから、意識してしまってたまらんじゃないか、と思ってしまう。

 煙草を吸う男はあまり恭子の好みではないが、しかし、目の前の男はそのしぐさがやたらと様になっているのである。背もすらっとしているわ黒のTシャツが似合うわ、少し長めで目にかかる前髪がいい感じだわ、そうとうくだらない観察をしてしまった。

「あー、あの、さ、りょーちゃん。おばさんに変な紙見せられたりしなかった? 誓約書、とかいうやつ」

「あ、うん、見た、なっつかし」

「取ってきて!」

 みなまで言わせず、恭子は遼路の言葉を遮った。

「あんなもん、残ってたら恥ずかしいでしょ? あんな古いもん持ち出してからかわれるの嫌でしょ? だからこっそりおばさんから取り返して私にちょうだい!」処分するから、と恭子は畳み掛け、なんとか遼路から是の返事を引きずり出した。

「じゃっ、そういうことで!」

 しゃっと片手を上げるとそそくさとその場を離れ、「ただいまー、ああお腹減ったあ!」とわざとらしい大声で恭子は玄関のドアを開けた。



 それから何度か恭子は遼路に会ったが、いまだ首尾は空振りである。よっぽどわかりにくいところに隠してるのかな、と恭子は思考をめぐらせた。

 みっともないことをしているな、とは考えている。だいたい、子供の戯れごとき、恥ずかしいね、とか、懐かしいね、などと言って濁しておけばいいのだ。むきになって取り返すほどのことではない。

 しかし、恭子にはそれができなかった。なにしろ、当時の恭子は本気だったのだ。一途にその想いを守っていたわけではないが、それでも、いまになってもわずかな期待を抱いてしまうほどなのだ。あんなの子供の頃のお遊びだろ、放っておけよ、などと言われてしまったら立ち直れない、かもしれない。

 だから、からかいの種になってしまう以上にその想いが軽く評価されないうちに、全部なかったことにしてしまいたいのだ。

 そんなことを最近ぐるぐると考えすぎていた所為であろうか、その週末の夜、恭子は会社の同僚と行った飲み会でべろべろに酔っ払ってしまったのである。酔いが過ぎた恭子は、たまにすっぱり記憶をなくしてしまうほどなので自分ながら恐ろしい。

 危うげな足つきでよろよろ夜道を歩いていると、またしても遼路に会った。

「きょうちゃん、いかにも酔っ払ってます、って感じだな」

「うん」

 首を振った拍子にぐらんと頭が転げそうな恭子に危うさを感じたのか、遼路は親切に手を繋いでくれた。

 家の前にたどり着き、恭子は「あー」と声を上げた。「あー、あーあーあ」

 がっくり、という感じに語尾は落ちた。

「どうした、きょうちゃん」

「鍵……忘れた」

 家から持って出るのを忘れたのである。もちろん家内に人はいるのだが、月も冴え冴えとしたこんな夜中にぴんぽんぴんぽんとチャイムを鳴らすのも忍びない。

「ん、じゃあ、俺んちで飲みなおす? いま仕入れてきたところだから」

「へ?」

 顔を上げた恭子に、遼路は手に提げていたコンビニの袋を掲げてみせた。

 そしてその後の恭子の記憶はすっぽりと抜け落ちている。



 目が覚めて最初に見たのは遼路の寝顔だった。

「ひ」

 ひきつった声を上げ、恭子はベッドからがばりと起き上がった。同じベッドに遼路が眠っている。思わず自分の服装を確認してしまったが、もちろん、どこにも乱れた様子などはない。見回した室内に、アルコールの空缶がごろごろと転がっているばかりである。

「おはよう」

 恭子が現状を把握しようと頼りなげな記憶を悪戦苦闘引っ張り出そうとしていると、その気配に当てられたのか、遼路が目を覚まして起き上がった。

「お、おは、おはよう」

 動揺しつつ恭子は返事を返す。昨日はどうも、とか、とりあえず思い出せたいくつかの事柄についてお礼を述べてみる。遼路は、そうそう、と思い出したかのように手を打って、ベッドから離れた。

「きょうちゃん、はい、これ取って来たからやるよ」

 と遼路はくだんの紙切れをひらりと恭子の目の前に差し出した。恭子は思わずひったくるようにそれを奪い取る。ほっとした。とりあえず一段落したのはいいが、遼路と会う理由がなくなるのが少し寂しい気がした。

「きょうちゃんってさ、酔うと素直だよな」

 唐突に告げられた言葉に、恭子の咽喉が、げふ、と妙な音を立てた。

「代わりに、これもらっといた」

 幼い戯れの誓約書の代わりに、遼路の手の中にひらひらと振られていたのは、正真正銘の婚姻届である。遼路と恭子両名の署名がなされ、ご丁寧に押された印鑑が、燦然と輝く朝の光に照らされていた。

「ぎゃああああああ!!」

 恭子は可愛くない声で絶叫した。親子揃って悪魔である。

「な、なん――それ」

 口をぱくぱくさせるのが精一杯の恭子に、遼路はにっこりと凶悪な笑みを見せた。

「うん、俺もさ、きょうちゃんに操立ててたわけじゃないけど、でもやっぱり初恋の子って特別なんだよな。いや、それにしても、きょうちゃんがあんなに俺のこと好きだったとは思ってもみなかっ」

「やめてええええええ」

 酔っ払った自分はいったい何と口走ったのだろうか。恭子は頭を抱えた。



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