私を助けるたび、誰かが消えた
人は、ときどき説明のつかない出来事に出会います。
今年、私は二十九歳になった。
七歳の冬、池に落ちたことがある。
凍りかけた水面が割れ、私は冷たい水の中に沈んだ。
岸まではほんの数メートルだったのに、手足が思うように動かなかった。
息ができない。
目の前が暗くなる。
そのとき、誰かに抱き上げられた気がした。
背中に回された腕は、不思議なほど温かかった。
冷え切った身体を包み込むような温もり。
その感触だけは、今もはっきり覚えている。
気がつくと、私は岸に横たわっていた。
救急車で病院に運ばれたが、命に別状はなかった。
あとになって、誰が助けてくれたのかを何度も尋ねた。
けれど、目撃者は見つからなかった。
池の周辺を調べても、救助した人物の手がかりはなかったという。
それでも私は、誰かが助けてくれたのだと信じていた。
十六歳の夏、今度はトラックに轢かれそうになった。
自転車で坂道を下っていたときだった。
交差点に差しかかった瞬間、横からトラックが現れた。
ブレーキの音が響いた。
次の瞬間、私は強い力で後ろに引かれた。
自転車ごと道路脇に倒れ込んだ。トラックは目の前を通り過ぎていった。
誰かが引っ張ってくれたのだと思い、すぐに振り返った。
誰もいなかった。
周囲には人影もなく、歩道にも道路にも、私以外の人間はいなかった。
ただ、肩には手でつかまれたような跡が残っていた。
赤くなった皮膚に触れると、そこだけが妙に温かかった。
そのことを家族に話しても、驚かれただけだった。
事故の恐怖で、何かを見間違えたのだろう。
そう言われれば、私にも否定する材料はなかった。
それから長いあいだ、私はその出来事を思い出さなかった。
三度目は、去年の夏だった。
工事現場の近くを歩いていたとき、頭上から鉄骨が落ちてきた。
金属がぶつかる音がした。
反射的に身をすくめた瞬間、背中を強く押された。
私は歩道に倒れ込んだ。
鉄骨は、ほんの数歩前に落ちた。
駆け寄ってきた作業員たちが、口々に何かを叫んでいた。
誰もが私の無事を確かめ、現場の責任者が何度も頭を下げた。
だが、私を押した人間はいなかった。
現場の防犯カメラにも、私の後ろに誰かがいた形跡はなかったという。
それでも、背中には手のひらの感触が残っていた。
あのときと同じ温かさだった。
私はその夜、七歳の冬を思い出した。
池の中で、背中に回された腕。
十六歳の夏、肩をつかんだ手。
去年の夏、背中を押した手のひら。
どれも、同じ温度だった。
それから私は、あの温かさについて考えるようになった。
偶然だったのだろうか。
それとも、私の知らない誰かが、ずっとそばにいるのだろうか。
自分でも馬鹿げていると思った。それでも、
三つの出来事を偶然という言葉だけで片づけることはできなかった。
先週、郷土資料館で働いている友人に、
三つの出来事があった町の地域新聞を調べてもらった。
池のあった町。
坂道のある町。
工事現場のあった町。
なぜそんなことをするのか、自分でもうまく説明できなかった。
ただ、三つの出来事を偶然で片づける気にはなれなかった。
数日後、友人から電話が来た。
「変なものが見つかった」
声がいつもより低かった。
「事故のあった年の新聞を、日付を頼りに調べたんだ。
事故の記事は見つかった。念のため翌日の紙面も確認したら、
若い女性の行方不明記事が載っていた」
私は黙って聞いていた。
「最初は偶然だと思った。でも、
ほかの二つの町も同じように調べてみたら、同じことが起きていた」
友人は、三つの新聞の記事を照らし合わせたという。
記事はどれも、紙面の片隅に載った短いものだった。
若い女性の行方不明。
三つの記事には、いずれも女性の年齢が記されていた。
二十九歳。
三人とも、同じ年齢だった。
「それだけじゃないんだ」
友人は、少し間を置いて続けた。
「失踪記事の前日には、君が話していた事故の記事が載っていた。
池で子供が溺れかけて助かった。別の町では、
少年がトラックにはねられそうになった。
三つ目の町では、工事現場で鉄骨が落ちて、一人が難を逃れている」
私は息を止めた。
どれも、私の身に起きたことだった。
三つの記事の日付を、私が事故に遭った日と照らし合わせた。
どの失踪も、私が助かった日の翌日だった。
電話を切ったあと、しばらく動けなかった。
三つの事故。
三人の女性。
彼女たちは、私の代わりだったのだろうか。
それとも、私が生き延びたことで、誰かが連れていかれたのだろうか。
答えは見つからなかった。
その夜、私はひとりで部屋にいた。
窓の外では、風が木々を揺らしていた。
時計の針が進む音だけが、妙にはっきり聞こえた。
ふと、背中に温かさを感じた。
振り返っても、誰もいない。
けれど、その温かさは少しずつ強くなっていった。
肩に、腕が回された。
見えない腕だった。
私は逃げなかった。
七歳の冬、池の底で感じた温もり。十六歳の夏、
肩を引かれたときの力。鉄骨が落ちてきた瞬間、背中を押した手のひら。
すべてが、ひとつにつながった気がした。
水の中で感じた腕の温かさを、私はずっと、誰かに守られた記憶だと思っていた。
けれど、今、背中に回された腕は、私をどこかへ連れていこうとしているようだった。
私は目を閉じた。
もう、抵抗する気にはなれなかった。
あの温度は、私を守るためのものではなかった。
私が帰ってくる日まで、ずっと、そこを温めていたのだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




