婚約破棄されたので、仕立て代をいただきます――そのドレスには、私の名前が縫ってあります
「リディア嬢のドレスを切り裂いたのは、お前だな」
王太子アルヴィン殿下に問い詰められたとき、私の手にはまだ裁ち鋏があった。
白い刃に、薄紅色の糸が絡まっている。
春の祝宴のために磨き上げられた大広間で、着飾った人々が私を遠巻きにしていた。誰もが見ている。床に落ちた絹の切れ端を。私の指の傷を。そして、長椅子に横たえられ、衝立の向こうへ運ばれていく男爵令嬢を。
「はい。私が切りました」
そう答えると、殿下はどこか安堵したようだった。
私が泣いて否定するより、そのほうが話を進めやすかったのだろう。
「嫉妬に駆られ、祝いの席でこのような暴挙に及ぶとは。王太子妃となる者の振る舞いではない」
「殿下。先に医師のお話を」
「言い訳は聞かぬ」
六年も聞いてきた言葉だった。
商人に支払いをしなければなりません。
言い訳は聞かぬ。
その期日では、お針子たちが徹夜になります。
言い訳は聞かぬ。
私は、その色よりも。
――言い訳は聞かぬ。
思い返してみれば、私はずいぶん長く、言い訳の多い娘だったらしい。
「ロザリア・シェルトン。お前との婚約を破棄する」
どこかで扇が閉じる音がした。
私は殿下を見た。十八歳のときから、いずれ夫になると信じていた人だった。初めて二人で出席した舞踏会では、私が靴擦れを起こしたことにも気づいてくれた。
ただし、踊るのをやめてよいとは言わなかった。
王族の隣に立つなら、痛みを顔に出すな。
そう教えてくださったのだ。
「……承りました」
頭を下げると、殿下の眉がわずかに動いた。
「それだけか」
「王家からの正式な書面は、父にお届けください。私からも、本日の経緯を書面にして提出いたします」
「まだ自分の立場が分からぬようだな。破いたドレスの代金は、当然お前に弁償してもらう」
八百金貨。
今夜、リディア嬢が着ていたドレスの価格だった。
私は鋏を閉じた。
「では、私からも請求書をお送りいたします」
「何の話だ」
「そのドレスの仕立て代です」
殿下は笑った。
「針遊びの報酬を、この場でねだるのか」
会場の端で、誰かが小さく息を呑んだ。
私はそちらを見なかった。見れば、かろうじて保っている顔が崩れそうだったから。
「ええ。遊びではありませんでしたので」
*
その日の昼まで、私はまだ、殿下と結婚するつもりでいた。
結婚したかったのかと問われれば、うまく答えられない。
父の領地には、十年前の水害で積み上がった借金があった。王家との縁組によって返済の猶予を得て、ようやく堤防の修復を終えたばかりだ。
私が婚約を解消したいと言えば、父は頷いてくれたかもしれない。
けれど、頷く前に必ず帳簿を見る。その一瞬が怖かった。
だから私は、裁縫箱にしまった母の指貫を握りしめ、今日も大丈夫だと自分に言い聞かせてきた。
母は伯爵夫人になる前、服飾商の娘だった。
縁談の折には、金で爵位を買ったと陰口を叩かれたという。それでも母は実家の工房を手放さず、王都の裏通りに小さな店を残した。
白い扉に、青い糸巻きの看板。
私が七歳で初めて縫ったのは、そこで働くお針子の人形の服だった。左右の袖の長さが違い、裾は斜め。それでも母は笑わなかった。
『着る人が困っていなければ、まずは合格』
『じゃあ、きれいじゃなくてもいいの?』
『きれいにできたら、もっと嬉しいでしょう』
母が亡くなったあと、工房は私に遺された。
もっとも、王太子の婚約者が店を営むなど、褒められたことではない。
殿下は工房の存続を許す条件として、私の名前を表に出さないよう求めた。
『君が考えた図案を王室で使ってやれば、十分な援助になるだろう。いちいち商売の話にするな』
最初は、ありがたいことだと思った。
王室から注文が入れば、皆の暮らしが安定する。私が作った服を誰かが着てくれる。それだけで嬉しかった。
やがて王太子妃教育の合間に図案を引き、夜に刺繍をし、殿下の急な注文に合わせて納期を縮める生活になった。
代金の催促をすれば、王家に嫁ぐ身で金に細かいと言われた。
私は自分の預金で不足を埋めた。
そのことを、工房の皆には黙っていた。
王家から大きな仕事を任されているのだと誇らしげに笑う彼女たちに、言えなかったのだ。
そんな私の工房に、一月前、薄紅色のドレスの注文が来た。
着るのはリディア・ベルク男爵令嬢。
海運業で財を築いた家の、一人娘だった。
殿下が最近、あらゆる催しに伴っている女性でもある。
採寸の日、リディア嬢は工房の鏡の前に立ったまま、私の顔を見ようとしなかった。
「私が来て、ご不快でしょう」
「採寸中に肩をすくめられるほうが困ります」
うっかり本音を言うと、彼女は目を丸くした。
私は慌てて付け足した。
「……息を、普通になさってください」
「普通に?」
「はい。お食事もできますし、笑うこともできる寸法にいたします」
そのとき、彼女は初めてこちらを見た。
「そういうドレスも、あるんですね」
妙な言い方だと思った。
しかし私は、彼女の腰に巻いた採寸紐の下に、赤い痕があることに気づき、何も尋ねられなくなった。
仮縫いのドレスを着せると、彼女は何度も両腕を上げた。
踊るための服で、腕が上がることを喜んでいた。
帰り際には、焼き菓子を一つ食べた。
私が勧めた二つ目は、少し迷ってから断った。
そのドレスを、私は今夜、自分の手で切ったのだった。
*
祝宴の会場を出ると、夜風がひどく冷たかった。
迎えの馬車はなかった。
殿下と同じ馬車で来たのだから、当然である。
裏口の石段に腰を下ろし、私はようやく、自分が裁縫用の鋏を持ったままだと気づいた。
祝宴の直前まで王宮の衣装室でほつれを直していて、そのまま腰の小袋に入れていた。淑女が夜会に持ち込むには、いささか物騒な品だ。
けれど、持っていてよかった。
あのとき、リディア嬢の唇は青くなっていた。
最初は暑いだけだと言い、次に椅子を求め、それから返事をしなくなった。私が背中の留めを探ると、あるはずの鉤がなかった。
仮縫いのあとで、背面を縫い閉じられていたのだ。
内側の締め紐にも手が届かない。
侍医が駆け寄り、胸元を緩めるよう命じた。私は刺繍の入った背縫いを切り、内側の布を裂き、締め紐を断った。
途端に、彼女の胸が大きく上下した。
それでよかった。
あれは、切ってよかったのだ。
何度も自分に言い聞かせていると、石畳を急ぐ足音が聞こえた。
「ロザリア」
顔を上げる前に、肩に外套がかかった。
雨と、羊毛と、少しだけ煙の匂いがする。
「ユーリ」
「表から入れてもらえなくて。納品口を回ってきた」
母の工房で育った、仕立て職人だった。
私より三つ年上で、幼いころは私が曲がった縫い目をほどくのを、隣で辛抱強く待ってくれた。今は独立して、紳士服を仕立てている。
王宮に礼服を届けに来て、騒ぎを聞いたのだという。
「皆が、何か言っていた?」
「いろいろと」
「そう」
「でも、聞く相手を間違えるところだった」
ユーリは私の前にしゃがんだ。
「何があった?」
その問いに、私はすぐには答えられなかった。
何をした、と聞かれることには慣れていた。
なぜそんなことをした。どう責任を取る。自分の立場を分かっているのか。
けれど、何があったのかを、最初から話してよいと言われるのは久しぶりだった。
「ドレスが、違っていたの」
声が震えた。
「私が仮縫いしたものより、ずっと細くなっていた。背中も縫い閉じてあって、裏地まで違って……だから」
「うん」
「切らないと、息が」
「うん」
ユーリはそれ以上、何も挟まなかった。
私は最後まで話した。
婚約を破棄されたことも、代金を求められたことも、自分が仕立て代を請求すると言い返したことも。
話し終わるころには、膝の上に涙が落ちていた。
「困ったな」
ユーリが言った。
私は肩を強張らせた。
「泣いている人に渡せるような、きれいなハンカチがない」
差し出されたのは、端に青い糸の印がある白布だった。
「明日納めるシャツの、余り布」
私はそれを受け取り、とうとう声を出して泣いた。
泣きやむまで、彼は少し離れて隣に座っていた。
帰ろうとは、言わなかった。
*
翌朝、父は朝食の席で新聞を畳んだ。
王都の噂は、焼きたてのパンより早く食卓に届く。
「王家から使者が来た」
「申し訳ございません」
「謝る前に、これを見なさい」
差し出されたのは、婚約解消を告げる書面だった。
昨夜の発言が王の承認を得たのである。ただし、私の有責については、後日調査すると記されていた。
その下に、もう一枚。
薄紅色のドレス、損害賠償八百金貨。
請求元は王太子宮だった。
「支払う必要があるものか」
「ありません」
思ったより、はっきり声が出た。
「私どもの工房が納めた品ではなくなっていました。侍医の指示もございました。確認を求めます」
「分かった」
父は二枚を分け、婚約解消の書面にだけ受領の署名をした。
それから引き出しを開けた。
領地の帳簿が見えた。
私は俯いた。
「王家への返済は」
「続ける」
「猶予を取り消されたら」
「私が出向いて交渉する。駄目なら、南の別邸を売る」
「あそこは、お父様が」
「お前の母と暮らした家だ。だから、売りたくなかった」
父は指で、机の端を撫でた。
「それを、お前が嫁ぎたくない理由より重くしてよいと思っていたわけではない」
私は父を見た。
父もこちらを見ていた。
「言ってくれればよかった、と言うのは簡単だな」
その声は、ひどく疲れていた。
「言えなくしたのは、私でもある」
すぐに抱き合ったりはしなかった。
私は父に、工房の未払い金について話した。預金で埋めた額を告げると、父は椅子に深く座り直した。
叱られると思った。
実際、叱られた。
「職人たちに知らせず、お前一人で工房が続くかどうかを決めていたのか」
「……はい」
「それは、よくない」
「はい」
「今日、話してきなさい。私も領地の帳簿を、夕方に見せる」
父は冷めた紅茶を一口飲んだ。
「お互い、数字を見るのを怖がっていたら、いつまでも片づかん」
その日のパンは、固くなるまで食卓に残った。
それでも私は、久しぶりに朝食を全部食べた。
*
工房に入ると、誰もが仕事の手を止めた。
窓辺には刺繍枠が並び、壁には紙の型が吊られている。煮出した糊の匂い。布を裁つ乾いた音。私の知っている場所だった。
ただ一つ、皆の顔が違った。
「お嬢様」
工房を預かるノラが、きっぱりと言った。
「今朝、お使いが来ました。王太子宮のお仕事は、すべて取り消しだそうです」
「ええ」
「完成品も受け取らない、と」
作業台の上に、十二着の礼服が積まれていた。
来月の式典のために縫ったものだ。
私は一着に触れた。襟の金糸刺繍は、見習いのミナが初めて任された仕事だった。何度もほどき、夜遅くまで練習していたのを知っている。
「皆に、お話ししなければならないことがあります」
私は支払いのことを話した。
三年前から、入金が滞り始めたこと。
自分の貯金で、その穴を埋めてきたこと。
このままでは、次の月の給金を払えなくなること。
言い終えても、誰も口を開かなかった。
ノラが眼鏡を外した。
「私どもは、王家に施しをしていたんでしょうか」
「そのつもりは」
「では、お嬢様に養われていたんでしょうか」
言葉が詰まった。
ノラは怒っていた。
子供のころ、私が高価な絹を勝手に切ったときよりも、ずっと静かに。
「私どもは、働いて、お代をいただいているつもりでした」
「……ごめんなさい」
「ええ。そこは、謝っていただきます」
彼女は眼鏡を掛け直した。
「それで。これからは、どうなさるんです」
私は裁縫箱を机に置いた。
母の指貫を、箱の蓋に乗せた。
「請求します。これまでの分を、すべて」
「王太子殿下に?」
「王太子宮に。注文を受けて、納めた仕事ですから」
「断られたら」
「商業組合に、裁定を求めます」
皆が顔を見合わせた。
伯爵令嬢が、王太子を相手に商売の訴えを起こす。
噂好きの人々がどんな顔をするのか、簡単に想像できた。
けれど、今ここにいる人たちの顔のほうが、私には大切だった。
「私が図案を描いたことも、公にします。皆にだけ、説明のつかない仕事をさせることは、もういたしません」
ノラは少し考えてから、棚の鍵を取った。
「では、帳簿を出しましょう」
その途端、あちこちで声が上がった。
「あの式服、追加分の伝票も残っています」
「夜会の手袋は、三回作り直しましたよね」
「殿下の猟装、裏地を替えた分がまだです」
机の上に、紙が積み上がっていく。
私は呆然とした。
自分一人で抱えていたつもりのものには、こんなにも多くの人の手が触れていた。
昼過ぎ、ユーリがやってきた。
差し入れのパンと、商業組合の請求書式を抱えていた。
「分からないところがあれば、組合の書記を紹介する」
「ありがとう。でも、あなたのお店まで巻き込むかもしれない」
「もう巻き込まれてる」
彼は礼服の山を指した。
「その袖、俺が手伝った」
「……そうだったわね」
「二晩かかった。ちゃんと請求してくれ」
笑ったら、ノラに叱られた。
「笑い事じゃありません。ユーリ、手伝った時間を書いておいで」
「はい」
工房に、いつもの声が戻った。
*
薄紅色のドレスが返ってきたのは、三日後だった。
運んできたのは、リディア嬢本人である。
彼女は王宮の馬車ではなく、貸し馬車を降りた。顔色は悪かったが、足取りは確かだった。
「お返しに来ました」
抱えていた包みを、両手で差し出す。
「あと、お礼を」
私は慌てて中へ招いた。
応接用の椅子に座ると、彼女は小さく息を吐いた。前に来たときより、肩が自然な位置にある。
「お加減はいかがですか」
「深く息をすると、まだ少し痛みます。でも、お医者様は、しばらく休めば治ると」
「それなら、今日は」
「今日、来たかったんです」
彼女は包みを見た。
「私が黙っている間に、あなたが悪者になってしまうから」
私はしばらく、言葉を探した。
新聞は、私がリディア嬢への嫉妬からドレスを破いたと書いていた。祝宴にいた客の大半は、倒れる前の彼女を見ていない。
私が刃物を手にしていたことと、殿下の宣言だけが、よく見えていた。
「殿下は、何とおっしゃっているのですか」
「少し気分が悪くなっただけなのに、あなたが大げさに騒いだと。私もそう話すように、と」
リディア嬢の指が、膝の上で固く組まれた。
「婚約のお話もいただきました」
「そうですか」
「嬉しいと、思わなければいけないはずでした」
彼女は私を見た。
「ずっと、そう言われてきたので」
父親は遠い港町にいて、王都のことは王太子宮に任せていたという。新しく爵位を得た家が宮廷で受け入れられることを、何より望んでいたから。
殿下が彼女の振る舞いを褒めれば、周囲も褒めた。
殿下が彼女の食事を減らせと言えば、周囲もそう勧めた。
あのドレスは仮縫いのあと、王宮の衣装係へ渡されていた。
歴代王妃の肖像画と同じ細さにするように、と。
「苦しいと申し上げたんです」
彼女は淡々と続けた。
「でも、皆様、このくらい我慢なさると。慣れていないだけだと」
私はドレスの包みを開いた。
薄紅色の絹は、切り裂かれたままだった。
背中を縫い直した針目は粗い。急がされたのだろう。飾りの下には、元の縫い目が残っている。
その内側で、私は指を止めた。
「これは……」
裏地の色が違う。
私が納めたのは、汗を吸いやすい上質な薄麻だった。けれど今ついているのは、目の詰まった硬い綿布だ。
胸の部分には補強が重ねられ、胴を逃がす余地がない。
「どうしました?」
「裏地を、取り替えた記録を確認しないと」
糸を少しほどく。
縫い代の奥から、赤い小さな織り印が現れた。
私はその印を知っていた。
昨冬、王太子宮が主催した慈善事業のために、私が見本を選んだ布だ。
避難所の寝具に使う、丈夫で安価な綿布。
王太子宮の倉庫から、なぜこれが出てくるのだろう。
全部、北部へ送ったはずなのに。
「リディア様。このドレス、少しお預かりしても?」
「もちろんです」
「それから、つらいお願いですが。覚えていらっしゃることを、書いていただけますか。私に都合のよいことではなく、あったことを、そのまま」
彼女は頷いた。
私が紙とペンを持ってくると、リディア嬢はすぐには書かなかった。
「一つ、聞いてもよろしいでしょうか」
「はい」
「どうして私のドレスを、あんなに着やすくしてくださったの」
窓の外で、荷車が通った。
私は少し考えた。
彼女を、好きだったわけではない。
殿下の隣で笑う姿を見るのは、つらかった。自分には向けられなくなった穏やかな声を、彼女が受け取っているのも知っていた。
けれど。
「あなたが着るドレスでしたから」
そう答えると、リディア嬢は俯いた。
しばらくして、鼻をすする音がした。
私はきれいなハンカチを持っていたけれど、なぜか裁断台の余り布を手に取っていた。
*
請求書を出してから一週間、王太子宮から返事はなかった。
その代わり、取引先から注文の取り消しが続いた。
王宮に睨まれた工房の服を着るわけにはいかない。
理由を正直に話す人もいた。病気や旅行を口実にする人もいた。
ノラは一件ずつ、予約帳の線を引いた。
その音がするたび、私は顔を上げた。
「そんなふうに見ていないで、こちらを縫ってください」
ノラが寄越したのは、料理屋の前掛けだった。
ユーリが近所から集めてきた仕事だ。儲けは少ないが、確実に代金をいただける。
私は白い布に針を刺した。
まっすぐ縫うだけなのに、なかなか線が整わなかった。
夕方、針で指を刺したところをユーリに見られた。
「今日はもうやめたほうがいい」
「まだ二枚あるの」
「明朝で間に合う」
「間に合わなくなったら」
「俺も縫う」
「あなたには、あなたの仕事があるでしょう」
きつい声が出た。
工房が静かになった。
ユーリは何も言わず、私の前の椅子を引いた。
「あるよ」
「だったら」
「だから、明日の昼までは手伝えない。今夜なら、一時間ある」
私は彼を見た。
「無理なときは、無理だと言う。勝手に俺の分まで決めないでくれ」
父と、ノラと、同じことを言われた。
唇を噛むと、彼は前掛けを一枚取った。
「ロザリアが頼んだら、俺は断れないと思う?」
「……少し」
「昨日、襟の形で君の案を三回却下したけど」
ミナが吹き出した。
つられて私も笑った。
「四回よ」
「じゃあ、なおさらだ」
彼は針に糸を通した。
私は、その手を見た。
節が太く、指の腹が硬い。殿下の白い手とは似ても似つかない。けれど、布を扱うときには、いつも丁寧だった。
「一時間、お願いします」
「承りました」
仕立て職人らしく答えてから、ユーリは付け足した。
「そのあと、飯を食べに行こう」
私は頷いた。
返事をしたあとで、それが仕事の話ではなかったことに気づいた。
*
慈善用の布について調べてくれたのは、父だった。
北部には、父が水害の際に世話になった領主がいる。
手紙を出すと、思いがけない返事が来た。
寝具は届いた。
ただし、王都で発表された半分の数しかなかった。
私はその手紙と、ドレスからほどいた布と、工房に残していた見本帳を並べた。
同じ織り印。同じ太さの糸。
それだけでは、盗まれたものだと断定できない。同じ織元から別に仕入れた可能性もある。
そこで父は、届け先の受領証の写しを取り寄せた。
私は商業組合の書記に相談し、王太子宮への未払い請求と合わせて、材料の出所を調べるよう王室会計局に申し立てた。
受け取った役人は、最初、私の肩越しを見た。
伯爵家の代理人が来ると思っていたらしい。
「お嬢様。こうしたことは、ご家族にお任せになっては」
「工房の持ち主は私です。縫い方と納品した状態についても、私からご説明いたします」
役人は困った顔をした。
けれど、書類を突き返しはしなかった。
工房の請求書には、注文日、納品日、受領した衣装係の署名が揃っていた。ノラが、一度も省かなかった記録だ。
窓口を出たとき、膝が震えた。
ユーリが建物の外で待っていた。
同行を頼んだのは私だった。
「出せた?」
「ええ」
「じゃあ、昼飯だな」
「あなた、食事のことばかりね」
「君、緊張すると食べなくなるから」
歩き出しかけて、私は立ち止まった。
「……覚えていたの」
「子供のころ、刺繍の品評会の前に倒れただろ」
「十三年も前よ」
「俺の焼き林檎を半分食べた」
「それは、忘れてもよいと思うわ」
「大きいほうを取った」
私は初めて、その日の昼食を少し楽しみにした。
だが、工房に戻ると、王太子宮の使者が待っていた。
殿下が、私と直接話したいという。
*
王宮の小応接室は、何も変わっていなかった。
暖炉の上の絵も、私が刺繍した椅子の張り地も。
窓際には、殿下が座っていた。
「痩せたな」
席に着くなり、そう言われた。
以前なら、気遣ってくださったのだと思おうとしただろう。
「お話は何でしょう」
「金のことだ。わざわざ外部へ持ち出す必要があったのか」
「お返事をいただけませんでしたので」
「王太子宮には、優先すべき仕事がある」
「私どもの工房にも、給金を支払う日がございます」
殿下は指で肘掛けを叩いた。
私が引き下がるのを待つときの癖だった。
「請求は取り下げろ。相応の金は、私から渡す」
「相応とは、おいくらでしょう」
「君の実家が困らぬ程度には考える」
「工房が請求した額を、お支払いいただけますか」
殿下の顔から、柔らかい表情が消えた。
「君は、そんな女だったか」
私は膝の上で手を重ねた。
左の人差し指に、新しい針の傷があった。
「私も、最近まで存じませんでした」
「ロザリア」
「自分が何に腹を立てるのか、何を怖いと思うのか。口に出さなければ、そのうち分からなくなるのですね」
殿下は立ち上がった。
「婚約を戻すことも、不可能ではない」
胸が、一瞬だけ痛んだ。
愛情が残っていたからではなかった。
その言葉を、ほんの一月前の私が聞いたなら、どれほど安心しただろうと思ったからだ。
「君が反省し、リディアに詫びれば、父上に取りなそう。長く王太子妃教育を受けた君のほうが、宮廷の務めに慣れている」
「リディア様のお気持ちは」
「彼女にも、ふさわしい居場所を用意する」
「私の工房は?」
「今度こそ、畳んでもらう。こんな揉め事を二度も起こされてはかなわない」
私は椅子の肘に触れた。
蔓薔薇の刺繍。
十九歳の冬、指を腫らしながら縫ったものだ。
殿下が気に入ってくださったと聞いて、本当に嬉しかった。
「お断りいたします」
声は震えなかった。
「意地を張れば、君だけの問題ではなくなるぞ」
殿下の視線が、私の手に落ちた。
「働いている者たちの暮らしもあるだろう。君が少し頭を下げれば済む話ではないか」
それは、よく効く言葉だった。
昨日までの私なら、きっと迷った。
けれど今は、ノラの怒った顔が浮かんだ。
私どもは、働いて、お代をいただいているつもりでした。
「皆に話して、決めました」
私は立った。
「請求を続けます」
殿下は、追ってこなかった。
扉を開けるとき、背後から声がした。
「お前がいなくても、服など作れる」
「はい」
私は振り返った。
「今度は、作った方にお代をお支払いください」
*
調査の間、工房は忙しくなったわけではない。
前掛けを縫い、古い外套を直し、近所の子供の制服を仕立てた。
ミナは金糸の刺繍より、破れた膝を繕うほうが難しいとぼやいた。ノラは、だから両方できるようになりなさいと言った。
私は値札の書き方を覚えた。
値段を口に出すとき、どうしても声が小さくなる癖を直した。
安くしてほしいと言われ、反射的に頷きそうになって、ノラに脇腹をつつかれた。
王太子妃の教育では、一度も習わなかったことばかりだった。
リディア嬢も、たびたび訪ねてきた。
彼女は私たちの前で証言書を書き上げ、医師の所見とともに会計局へ提出した。王太子宮の衣装係に命じられたことと、殿下自身に言われたことを、分けて記した。
父親にも、手紙を書いたという。
「叱られました」
彼女は針に糸を通そうとしながら言った。
「もっと早く知らせなさい、と」
「私も、父に叱られました」
「お父様というのは、皆そうなのかしら」
「私たちも少し、上手に隠しすぎたのかもしれません」
糸はなかなか針の穴に入らなかった。
リディア嬢は諦めずに、先を切り揃えた。
ある日、彼女は港町から届いた布見本を持ってきた。
父親の商会が扱う品だ。
ノラは広げた絹を撫で、値段を聞き、すぐに首を横に振った。
「今のうちでは、仕入れられません」
「お代は、あとでも」
「リディア様」
私は彼女を見た。
彼女も私を見て、やがて苦笑した。
「……そうでしたね」
「見本はお預かりしても? 注文が入ったら、その分をきちんと買わせてください」
「はい」
その話がまとまると、彼女はどこか嬉しそうだった。
恩を返すための施しではなく、最初の商談ができたからだろう。
私にも、その気持ちが少し分かった。
*
王室会計局から呼び出しが来たのは、婚約破棄から一月半後だった。
場所は、祝宴の大広間ではない。
長い机と、明るい窓のある部屋だった。
国王陛下の代理として王弟殿下が座り、会計局の役人、商業組合の代表、侍医が並んでいた。
殿下もいた。
私は、薄紅色のドレスを抱えて入った。
「始める前に」
会計局長が書面を持ち上げた。
「ロザリア嬢に対する、衣服の損害賠償請求について確認する」
侍医が立った。
あの夜、衣服による強い圧迫を認め、呼吸を確保するために緩めるよう指示したこと。私の処置によって、その指示が速やかに果たされたこと。
淡々とした説明だった。
私の名誉を守るための美辞麗句はなかった。
それが、ありがたかった。
続いて、リディア嬢が話した。
「私は、ロザリア様の処置に感謝しております。被害を申し立てたこともございません」
殿下が口を開きかけたが、王弟殿下に止められた。
「順に聞く」
次に、ドレスの確認が行われた。
私は、納品前に工房で控えた寸法と、返ってきたドレスの寸法を示した。
背中の縫い代には、ほどいた元の針穴が並んでいる。
「こちらが納品時の位置です。左右でこれだけ詰められています。胸の部分も、同じように」
机の上に、二本の紐を置いた。
元の胴回りと、縫い直したあとの胴回り。
数字だけでは動かなかった人々の目が、その長さの違いを追った。
「変更の指示書も見つかっている」
会計局長が、殿下の署名のある紙を示した。
歴代王妃の肖像に倣い、胴を細く整えること。
殿下は顎を上げた。
「見栄えを整えよと言ったまでだ。実際の加減は衣装係がするものだろう」
「リディア嬢から苦しいとの訴えがあった際、我慢するよう命じられた件は」
「それは」
殿下はリディア嬢を見た。
彼女の手が、椅子の上で強張った。
私は見ていたが、代わりに答えなかった。
やがて彼女は、自分で顔を上げた。
「おっしゃいました。覚えております」
そのあと、慈善用の布の話になった。
調査で、王太子宮の倉庫から未発送の綿布が見つかっていた。
納品された数は、工房に示された計画どおり。
北部へ送られた数は、その半分。
残りは倉庫に置かれ、一部が王太子宮の衣装や調度に流用されていた。
支出の帳簿では、別の高価な生地を買ったことになっている。
差額は、祝宴や贈答品の費用へ移されていた。
会計局長は一枚ずつ、出金を承認した署名を読み上げた。
殿下の名が、何度も出た。
「倉庫の余りを使えとは言った。しかし、帳簿の細かな処理までは知らぬ」
「すべて発送したとの報告に、殿下ご自身が署名しておられます」
「実務の者が確認したと思っていた」
「その実務の者から、発送延期の報告書も提出されております。祝宴の費用を優先するとの、お返事つきで」
殿下の指が肘掛けを叩いた。
誰も、引き下がらなかった。
私は薄紅色のドレスを見た。
最初から、これで殿下の不正を暴こうと思っていたわけではない。
ただ、あの夜に何が起きたかを確かめたかった。
自分たちが作ったものに、責任を持ちたかった。
その縫い目をほどいたら、別の誰かが隠したものまで出てきたのだ。
「工房への支払いについても、確認が取れた」
会計局長が、別の帳簿を開いた。
「王室から王太子宮へは、全額が交付されている」
私は息を止めた。
資金が足りないのだと思っていた。
いずれ王家の一員になる私が、多少の出費を負担するのは仕方ないのだと。
「未払い分の一部は、殿下の私的な贈答品購入に充てられていた。残りも、別の支出に移されている」
「ロザリアは納得していた」
殿下の声が響いた。
「婚約者として、協力すると言った。今になって、すべて金に換えようとしているだけだ」
私は机の下で、両手を握った。
確かに、言ったことがある。
お力になりたいと。
私にできることがあればと。
それは嘘ではなかった。
「協力したいと、思っておりました」
私は答えた。
「ですが、工房の請求を免除するとは、申し上げておりません。催促の書面も残っております」
「そんなもの、形だけだと」
「お針子の給金は、形だけでは払えません」
殿下は私を睨んだ。
私は、ドレスの裾を返した。
裏側に、小さな青い刺繍があった。
糸巻きの印と、その隣に、さらに小さく縫った文字。
「これは、工房の印です。その横は、図案を担当した者の名前です」
ロザリア。
表に出すことを許されなかった、自分の名前。
母が始めた習慣だった。
誰の手が作った服か、修繕のときにも分かるように。
「襟の刺繍はノラ。袖の小花はミナ。ほかにも、六人の手が入っています」
私は裾を戻した。
「私が殿下をお慕いしていたことと、この人たちの仕事にお代が支払われることは、別のお話です」
部屋は静かだった。
初めて殿下が、ドレスを見た気がした。
私でも、リディア嬢でもなく、机の上に広げられた布と縫い目を。
しかし、それが何を意味するのかを、最後までお尋ねにはならなかった。
*
決定がすべて出るまでには、さらに日数がかかった。
私への損害賠償請求は取り消された。
祝宴で告げられた非難には根拠がなく、侍医の指示に従った処置だったと、王室から訂正が出された。
未払いの仕立て代は、まず王室が立て替え、その額を殿下の私有財産から返還させることになった。
殿下は王太子宮の会計と慈善事業から外された。
やがて王位継承者を定め直すという告示が出た。理由は財務上の不正と、監督責任の放棄。私との婚約については、一行も触れられていなかった。
それでよかった。
私に冷たかったことを理由に、王位を失ってほしいわけではなかった。
ただ、北部へ届くはずだった毛布と、工房の給金は、きちんとあるべき場所へ戻してほしかった。
工房の口座に入金された日、ノラは三度、金額を確かめた。
私は立て替えていた分を戻してもらい、皆に残業代を払った。
臨時の褒美も出そうとしたが、その前に修繕が必要な箇所を数えられた。
雨漏りする屋根。歪んだ窓枠。腰が痛くなる椅子。
「お嬢様が一人で抱えなくなると、ずいぶんお金の使い道が増えますね」
ノラがそう言って笑った。
私も笑った。
笑いながら、新しい椅子は人数分買おうと決めた。
父は南の別邸を売った。
私は反対しかけたが、父が見せた返済計画を読み、最後には頷いた。
母が植えた薔薇は、挿し木をして王都の屋敷へ運んだ。
父は毎朝、庭へ出るようになった。
私も帰りが早い日には、隣で水をやった。会話が続かない日もあったが、以前ほど沈黙を怖いとは思わなくなった。
*
リディア嬢の新しいドレスは、夏に完成した。
王太子の隣に立つためのものではない。
父親の商会が開く、取引先との晩餐会のための服だった。
彼女は見本帳を前に、長く迷った。
「薄紅色は、嫌いになってしまった?」
私が聞くと、彼女は首を振った。
「好きです。でも、青も着てみたくて」
「では、青にしましょう」
「それで決めてもよいんですね」
「お代も、あなたがお支払いになるのでしょう」
彼女は声を上げて笑った。
仮縫いの日、鏡の前で両腕を上げ、椅子に座り、深く息を吸った。
ノラがお茶と焼き菓子を運んでくると、二つ食べた。
私はそれを見ながら、裾の長さを測った。
彼女は秋から、父親について商いを学ぶという。
「海の向こうへ行くかもしれません」
「それなら、旅行用の服も必要ね」
「売り込みがお上手になりましたね」
「練習していますから」
リディア嬢は、鏡越しに私を見た。
「ロザリア様。あのドレスは、どうなさいますか」
切り裂いた薄紅色のドレス。
調査が終わり、私の工房へ戻されていた。
「あなたのお品よ。ご希望を聞こうと思っていました」
「では、直せますか」
私は少し驚いた。
「元どおりには、ならないけれど」
「元どおりでなくてよいんです」
彼女は自分の背に手を当てた。
「あのとき、切っていただいたところが分かるようにしてほしい。私、あそこから息ができたので」
私は頷いた。
破れた背中には、白いレースを入れた。
詰められた胴を広げ、新しい裏地をつけ、留め具は自分でも外せる位置にした。
レースの縁には、小さな青い花を刺した。
その服を受け取りに来た日、リディア嬢は請求書を見て、笑顔で言った。
「お支払いします」
私も、笑顔で答えた。
「ありがとうございます」
*
秋になって、工房の看板を掛け替えた。
青い糸巻きの下に、私の名前を入れたのだ。
ロザリア服飾工房。
文字を彫った板は、思っていたより大きかった。
「少し目立ちすぎない?」
脚立に上がったユーリに聞くと、彼は振り返った。
「店の看板だからな」
「そうなのだけれど」
「名前、間違ってる?」
「いいえ」
「じゃあ、いい」
釘を打つ音が、通りに響いた。
開店祝いには、父とリディア嬢が来た。近所の料理屋の主人も顔を出した。前掛けの紐が丈夫で助かると、大きな籠にパンを詰めて持ってきてくれた。
工房は王宮の注文だけを受けていたころより、さまざまな布で賑わっていた。
絹も、麻も、丈夫な毛織物もある。
お客は公爵夫人のときもあれば、初めて給金を得た女中のときもあった。
皆に同じ値段の服を売ることはできない。
けれど、誰に対しても、何を着たいかを聞くことはできた。
夕方、客が帰ってから、ユーリが小さな箱を差し出した。
「看板とは別に」
中には、銀の指貫が入っていた。
縁に、小さな青い花が彫られている。
「母のものが、あるのに」
「知ってる。だから、迷った」
彼は照れたように頬を掻いた。
「でも、これから縫う分には、君のものがあってもいいと思って」
私は指貫をはめた。
ぴったりだった。
「いつ、寸法を測ったの?」
「昔の革の指貫、直しただろ。そのときの控え」
「職人の記録は、怖いわね」
「役に立つんだ」
私たちは笑った。
笑い終わると、少しだけ静かになった。
工房の奥では、ノラたちが片づけをしている。戸棚を閉める音が、やけにゆっくり聞こえた。
「ロザリア」
「はい」
「今度の休みに、一緒に出かけないか」
「また、布の市?」
「それも行きたいけど」
ユーリは言い直した。
「仕事じゃなくて」
私は銀の指貫を見た。
六年間、誰かと出かけるときには、着る服も、話す相手も、笑い方も決められていた。
何も決まっていない約束は、少し怖かった。
そして、嬉しかった。
「どこへ?」
「川沿いに、林檎の焼き菓子を出す店ができた」
「大きいほうを取っても?」
「今回は二つ頼む」
私は顔を上げた。
「ええ。行きたいわ」
奥で、何かが派手に落ちた。
ノラが咳払いをした。
ユーリの耳が、みるみる赤くなった。
*
冬を越え、もう一度春が来た。
私は自分の花嫁衣装を縫っていた。
王宮から指定された図案ではない。
裾を引きずらず、一人で歩ける長さ。肩を楽に動かせて、食事の席でも苦しくない形。
鏡の前で腰に手を当てると、ノラが後ろから言った。
「もう少し、絞ることもできますよ」
「いいえ。このままで」
「よろしい」
彼女は満足そうに頷いた。
「披露宴のお料理、たくさん召し上がれます」
「そこが一番大切というわけでは」
「ユーリは、そこを一番気にしていました」
私は笑ってしまった。
結婚を決めるまでに、楽しいことばかりあったわけではない。
父は平民との結婚に、一晩考える時間を欲しいと言った。翌日にはユーリを呼び、互いの店の借入金について二時間話した。
ユーリとは、工房を一つにするかどうかで揉めた。
私は一緒のほうが便利だと思い、彼は、自分の店で育てている弟子のことを気にした。
二人で帳簿を持ち寄り、仕事場を見て回り、ひとまず店は別にして、家だけ一緒にすることにした。
決めることは、いくらでもあった。
そのたび、私は自分の希望を口にした。
彼も、口にした。
断られて傷つく日もあれば、聞いてよかったと笑う日もあった。
それでも、どちらかが黙って終わらせることはしなかった。
式の前日、最後の試着を終えた私は、スカートの脇に手を入れた。
「ちゃんとついているわ」
「何を確認していらっしゃるんです」
「隠しポケット」
ノラが呆れた顔をした。
「花嫁衣装にまで」
「ハンカチが必要でしょう」
「それだけですか」
私は答えなかった。
小さな糸切り鋏を入れようと思っていたのが、顔に出たらしい。
「明日は、他人のほつれを直してはいけませんよ」
「気になるかもしれないわ」
「私が直します」
その言葉に、私は手を止めた。
そして、頷いた。
「お願いします」
式の朝、ユーリは工房の前で私を待っていた。
自分で仕立てた礼服を着ている。襟の内側には、私が青い花を一輪だけ刺繍した。
私の姿を見ると、彼は何か言おうとして、やめた。
「どう?」
尋ねると、彼は真面目な顔で答えた。
「きれいだ」
「仕立ては?」
「それもいい」
「どこか、直したほうがよいところはない?」
「ロザリア」
彼は笑いながら、手を差し出した。
「今日は、着る人でいてくれ」
私はその手を取った。
教会へ続く道には、昨日の雨が少し残っていた。
ユーリが歩幅を緩める。
私も、慌てずに歩いた。
ドレスの裾の裏には、工房の印と、私の名前が縫ってある。
その隣には、ノラとミナと、手を貸してくれた皆の名前。
銀の指貫は、裁縫箱に置いてきた。
隠しポケットには、きれいなハンカチだけを入れた。
「緊張してる?」
ユーリが聞いた。
「少し」
「朝は食べた?」
「ええ。パンを二つ」
「よかった」
道の先で、教会の鐘が鳴った。
私は胸いっぱいに息を吸った。
どこも、苦しくなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ロザリアが自分の名前と、大切な人たちとの暮らしを取り戻す物語、いかがでしたでしょうか。
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彼女たちのこれからを、少しでも好きになっていただけたなら幸いです。




