婚約者は私を見てくれませんが、私は見ています。不貞の現場も、全て。
婚約者は、私のことを見てくれない。
今日のお茶会でも、彼――ハインリヒは、私の歩調など気にも留めずにスタスタと前だけを見て歩き、私を近くで待たせているのに30分以上も仲の良い令息たちと話し込み、私が隣にいるのに美人で有名な公爵令嬢の顔とスタイルの話題で盛り上がっていた。
私は彼の歩幅に合わせて靴擦れの足(彼が今日のお茶会のために用意してくれた靴だけど、ヒールは高すぎるし、そもそもサイズが合っていない)で追いかけ、いつでも口にできるように彼が好きなカクテルを持って近くで待機して、彼が公爵令嬢の容姿を褒めてもにこにこと隣で聞いていた。
彼は私の話を聞いてくれないし、そのくせ自分の話を聞いていないとすぐ怒る。
私の好みなんて何も知らないくせに、自分の好みを忘れられていたら凄く不機嫌になる。
二人で過ごす時も、彼のやりたいことを優先しなければいけない。
そこに私の意見や意思なんて、何も反映されない。
私は、婚約者のことを見ている。
彼が何を欲しているのか常に気を配り言われる前に先んじて準備をして、彼の毎日のスケジュールを把握して不備がないようにサポートし、彼の交友関係が円満になるように陰で調整をしていた。
だって、それが貴族令嬢としての務めだったから。
私たちの婚約はまだお互い10歳に満たないうちに決まった。
貴族でありがちな政略結婚だ。
伯爵家の私の家門よりも侯爵家の彼の家門のほうが格上で、両親からは破談にならないように彼に尽くしなさいときつく言われていた。
実際は、家門は立派だが財政的には潤っていない彼の家のほうこそ持参金目当てで、どちらが上だか下だか分からないのに。
事業を成功させ莫大な財産を得たお父様は、次は名誉を求めていたのだ。
◆
侯爵令息である彼は、アルベルト王太子殿下の側近として王城に通っていた。
そして私は、婚約者として彼の事務作業のアシスタントをやっていた。
王太子殿下に依頼された資料を代わりに私がまとめ、依頼された極秘の調査も私が代わりに実行し、殿下主催のパーティーの準備も私が代わりに進めていた。
嬉しいことに、私の仕事は王太子殿下がお気に召したらしく、いつも婚約者が褒められていた。おかげで彼は、側近の中でも有能だと殿下に重宝されているらしい。
私の存在は、なかったことにされていた。
でも、貴族夫人とはそういうものらしい。
前に彼の手伝いで目の回るほど忙しい時、お母様にポロリと愚痴をこぼしてしまったことがある。
その時は「まぁ、ディアナ! なにを馬鹿なことを言っているの!?」と、珍しく声を荒げて窘められてしまった。
お母様曰く、貴族夫人が夫を陰でサポートすることは当然のことなのだ。
それが夫の評価になり、ひいては家門の格や威厳に影響していくそうだ。
だから、まだ婚約関係の今から私が彼の手伝いをするのも、当然の務めなのだ。
それに、王太子殿下に気に入られることは非常に名誉なことだ。だからこれまで通りに彼を支えなさい、って小一時間お説教をされてしまった。
そんなわけで、私は今日も彼の側近の仕事を水面下でこなしているのだ。
一度だけ、ひやりとしたことがある。
王太子殿下に、「この報告書を記したのは君か?」と問われたのだ。
この時ほど困ったことはなかった。
婚約者からもお母様からも、「陰で支えていることは決して誰にも言ってはいけない」と口を酸っぱく言われているし、かと言って王太子殿下に嘘をつくことなんて出来ない。
どうすれば良いか分からずすっかり思考が停止していると、王太子殿下はふっと笑って「なるほど。よく分かった」とだけ言って去ってしまった。
なんて素晴らしい王子様なのだと感動した。少しのあいだの私の仕草で、どう言う状況なのか気付いてくださったのだと思う。
こんなに怜悧な方に仕えられて、婚約者は幸せ者だと思った。世界には、愚かな王もいるらしいから。
◆
私は、婚約者を見ている。
彼をサポートするために、一挙手一投足を常に気を配っている。
だから、彼が不貞をしていることも知っている。
お相手はローゼ男爵令嬢で、小柄で華やかなピンクブロンドの、お人形さんみたいな令嬢だった。
初めて二人の関係を知った時は特に動揺しなかった。「ま、そんなものよね」って、不思議と納得してしまった。
だって、お母様が「貴族とはそういうものよ」と常々言っていたから。
実は、お父様の財産を狙って、多くの女性が近寄ってきたらしい。お父様も紳士の務めとして数々の女性を相手にしていたのだ。
「お母様は怒らないの? 悲しくないの?」って聞いたのだけど、それが貴族紳士の嗜みらしい。多くの女性を囲う力があることは、紳士にとって凄く自慢なことだそうだ。
でも、一方でお母様はお父様の不貞の記録を取っていた。
これも、貴族夫人の義務らしい。生き残る術でもあり、財産を守るためでもある。
だから私も、お母様に倣って婚約者の不貞の記録を残すことにした。
いつか私を守ってくれるかしら?
◆
こんな日々がずっと続くのか、貴族夫人の一生はこんなものかと思っていた頃、それは起こった。
「お前は何も見ていないな」
婚約者から、そう冷たく言われたのである。
一瞬、彼が何を言っているのか分からなかった。
え、私ほどあなたを見ている人間はいませんけど?
今日だって、彼が王太子殿下への誕生日プレゼントに東方の希少な茶葉が欲しいと言うので人脈と多量の金貨を使って手配したし、パーティーの警備計画を代わりにまとめたし、彼が行きたがっていたレストランを貸し切ったし。
そうやって、常に彼を見て、彼が欲することを先回りして準備していたのに、彼は何を言っているの?
私が言葉を失い立ち尽くしていると、
「ローゼ男爵令嬢は、君と違ってしっかり見ている」
と、あろうことか不貞相手の名前を口にしてきた。
「どういう……こと、ですか……?」
数拍して、私は震える唇をやっと開いた。あまりの動揺に、その瞬間も身体が震えてしまって、両腕で上半身を抱え込んでやっと抑えた。
婚約者は大袈裟にため息をついてから、
「先月、俺の領地に行っただろう。君は飢えている貧民たちに何も言わず、何も与えなかった。ただ見ているだけだ。
だが、ローゼは違う。彼女は昨日、俺と王都の貧民街を通った時に、腹を空かせている子供にパンを買い与えてやった。
彼女はよく人の気持ちを見ている。それに比べて、君は何も見ていない冷たい令嬢だ」
この時、初めて彼に否定の気持ちを覚えてしまった。こんな黒いモヤモヤする感情が芽生えたのは初めてだ。
え、どの口がおっしゃるのですか?
私がプレゼントした最高級の絹で仕立てた上衣、私がプレゼントした予約が数年後の超一流の職人が作ったした革靴、私がプレゼントした大粒ダイヤモンドの指輪を身に付けて。
貧民のことを。
その口が。
その後のことは、よく覚えていない。
ただただ茫然自失と立ち尽くし、ふらふらと屋敷に戻って、それからはとにかく無気力で、彼に頼まれていた書類の作成もやらずじまいだった。
彼からは責められたが、もう何の感情も湧かなかった。
私は一体、彼の何を見ていたのだろう。
これじゃあ、彼の言う通り、「見ていない」と、一緒なのかもしれない……。
◆
それから数日経って、屋敷は大騒ぎになった。
なんと王太子殿下がいらっしゃったのだ。しかも、私に会いに。
「突然の訪問、悪かったね」
「とんでもないことでございます、王太子殿下」
緊張でガチガチに身体を硬直させる私に、殿下は微笑みかける。それが眩し過ぎて、さらに身体が強張った。
「今日は君に提案があるんだ。君にとっても悪い話ではないと思う」
「どのようなご用命でしょうか」
「そんなに畏まらないで? ――ああ、そうだ。その前に君に聞きたいことがある」
殿下が近くに控えていた側近に目配せをすると、両手で抱えきれないくらいの書類がテーブルに広げられた。
次の瞬間、殿下の美しい瞳が鋭く光る。
「これは、全て君が作成したものだね?」
「……」
頂点に立つ、王族の目だ、と本能的に恐怖を感じた。この瞳の前では嘘も誤魔化しも許されないと思った。
一瞬だけ婚約者の顔が頭を過ったが、そう言えばどんな顔だっけ?と不思議な気持ちになった。
私は抑圧された何かから開放されるように深く息を吐いてから、
「……左様でございます」
正直に答えた。
殿下は再び笑顔に戻り、穏やかな声音で話を続けた。
「おかしいと思ったんだ。侯爵令息は素晴らしい仕事をしてくれるのに、直接意見を求めると要領の得ない話ばかりでね。実務との乖離が酷すぎる。そこで秘密裏に調査したんだよ」
「それで、私が代わりに作成していることが知られてしまったのですね」
「そう。侯爵令息には失望したが、ある意味で僥倖かもしれない。埋もれていた素晴らしい才能を発見できたからね」
殿下のおっしゃっている意図がよく理解できずに目を丸くする私に、殿下はくすりと笑ってウインクした。
「ここからが本題だ。君は侯爵令息の不貞を知っていて、証拠も確保しているね?」
「はっ、はいっ……! よくご存知でいらっしゃいますね!?」
私は驚きのあまり大きく目を見開いた。さすが王太子殿下、私などの下級貴族の情報は筒抜けだ。つくづく、殿下にお仕いできる婚約者が羨ましい。
「で、君はこのままでいいのか?」
「このまま、ですか……?」
やっぱり、殿下のおっしゃる意味が分からない。
王太子殿下は少しだけ私を見つめてから、すっと目を細めた。それを見た瞬間、なぜか私の脈が跳ねた。
「君が望むのなら、僕が婚約破棄を手伝ってあげよう」
「婚約破棄……」
現実味のない言葉が、急激に私に襲いかかって、ぐらぐらと視界が揺れた。
次の瞬間、王太子殿下は真剣な表情になって私をじっと見つめた。
「僕なら君にこんな惨めな思いをさせない」
◆
「ディアナ伯爵令嬢、貴様とは婚約破棄をする!」
貴族子女が集まる茶会で、婚約者が高々と言い放った。途端に周囲は静まり返って、私たちだけに視線が集まる。
「どういうことでしょうか?」
私はしっかりと婚約者を見つめ返して、冷静に言葉を返した。
「お前は侯爵家の女主人になるのに相応しくない」
婚約者はいかにも正論を述べていますみたいにキリッとした顔で言った。そして、ちゃっかりと彼の隣にいたローゼ男爵令嬢の腰を抱き寄せた。
「俺はこの、ローゼ男爵令嬢と婚約をする!」
侯爵令息の衝撃発言に周囲はどよめく。面白がっている者、軽蔑をあらわにする者、私に同情の視線を向ける者、逆に哀れな令嬢を笑う者……様々な反応だ。
「君はいつも見ているだけで、何もしない。だがローゼは見ているだけでなく、弱者に手を差し伸べている。これこそ、ノブレス・オブリージュだ!」
この時ほど、婚約者の頭を可哀想に思ったことはない。
彼は何も見えていなくて、何も見ることができない人なのだ。
「……私も見ていましたよ」
私は、婚約成立以来、初めて彼に反撃をした。
「はっ……!?」
私からの予想外の攻撃に、彼は素っ頓狂な声をあげる。
「えぇ、見ておりましたとも。ハインリヒ様と男爵令嬢の不貞です」
「な、何を言うっ! 俺たちはまだ――」
にわかに顔が真っ赤になる彼を無視して、私は証拠の書類を前に出した。
「証拠も揃っております。この場合は、不貞側に非があるそうですよ?」
「なっ……!」
「婚約破棄は応じますが、ハインリヒ様が有責です。それなりの制裁を受けていただきます」
「お前っ――」
元婚約者が証拠の書類を奪おうとした折も折、
「見ていないのは、君だよ。ハインリヒ侯爵令息」
私たちの間に、アルベルト王太子殿下がすっと割って入った。
「王太子殿下!?」
元婚約者は目を剥く。
逆に私は安堵感を覚えた。
殿下は私を見てにこりと微笑んだあと、両手に抱えるほどの書類を持った数人の騎士を呼び寄せた。
「ハインリヒ侯爵令息、これが何か分かるかな?」
それらは私が元婚約者に代わって作成した書類の山だった。彼もすぐに気付いたらしく、きっと私を睨み付けた。
「お前、喋ったな!?」
「いいや。僕が調査したんだ。君の普段の言動と、あまりに素晴らしい仕事ぶりの差に疑問を持ってね」
「そ、それは……」
元婚約者はたちまち顔を曇らせて、助けを求めるように視線を彷徨わせた。
彼は私の代理仕事にあぐらをかいて、学ぶことを続けなかった。だから目まぐるしく変化する政治経済の動きについていけなかったのだ。
すると、王太子殿下の目が鋭く光った。
あの時の、王族特有の威厳を感じた瞬間と同じ輝きだ。
「残念だが、君のような人間には僕の側近は務まらないな。もう来なくて良いよ」
「そっ……そんな……」
元婚約者は愕然と項垂れた。王太子殿下は懇願する彼を無視して、淡々と話を続ける。
「ディアナ嬢との婚約破棄は僕が証人になろう。君はそこの男爵令嬢と幸せになりたまえ。赤字経営の領地同士、協力して頑張りなさい」
「はぁっ!?」
「えぇっ!?」
元婚約者と男爵令嬢が、同時に叫んだ。
「男爵家は事業で成功したんじゃなかったのか!?」
「侯爵家なのに、お金持ちじゃないのぉ〜!?」
たちまち二人の醜い争いが始まる。なんて頭の悪いカップルなんだろうって、逆に感心してしまった。
「本当に何も見ていないんだね」
王太子殿下は、喚く元婚約者を蔑むように見下ろした。
「そこの男爵令嬢は、貧しき者にパンを与えた。だが、一度きりだ。パンがなくなれば、それまでだ。
だがディアナ嬢は、領地視察から戻ったらすぐに、領地の財政改革に取り組んだ。貧しき者にも労働の場を与えるためだ。賃金が入れば、パンなど欲しい時にいくらでも買える。
彼女は表面上では傍観していただけかもしれないが、ちゃんと行動していたぞ。僕も見習わないといけないね」
殿下は苦笑を浮かべて肩を竦めてから、私の腰を抱き寄せた。
「こんなに素晴らしい令嬢を見ていないなんて、実に愚かだ」
「は……?」
元婚約者の表情が消える。
「私、殿下と婚約することになりましたの」
「侯爵令息が僕たちを引き合わせてくれたも同然だね。感謝するよ」
「えっ……」
元婚約者は私に向かって手を伸ばした気がしたが、私は王太子殿下とともに踵を返したので、どうなったかもう見ていない。
「ディアナ……!」
元婚約者の私を呼ぶ声が聞こえた気がするが、私はもう見ていない。
今の私が見ているのは、隣にいるアルベルト王太子殿下だけだ。
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