静かな教室
朝は、米の匂いで始まる。炊き上がったばかりの甘い湯気に、油の焦げる匂いが薄く混ざり、食堂の入口に立つだけで腹の奥が空いていることを思い出させる。
「おはよう」
前に並んでいた友人が振り返り、軽く顎を上げる。
「おはよう」
「今日は魚だって」
盆を受け取ると、白い飯の表面がまだわずかに揺れていて、味噌汁の湯気が眼鏡を曇らせる。焼き魚の皮が端だけ黒くなり、そこから脂の匂いが立っている。
席に着くと、友人が小さく息をついて笑った。
「よく眠れた?」
「うん」
「それならよかった」
魚をほぐす指先が妙に丁寧で、小骨を一本ずつ皿の端へ寄せていく。
授業はいつも通りで、窓の外では鳥が断続的に鳴いている。後ろの席の誰かがそれを指差し、隣の者が少しだけ振り向く。教師の声は単調で、教室は暖かく、眠気が底の方からじわじわ上がってくる。
遠くで何かが落ちたような音がしたとき、数人が顔を上げたが、それだけだった。
また音がして、今度は近い。
廊下を走る足音が途切れず続き、教室の空気が見えない膜に覆われたように硬くなる。
扉が開く。
男が立っている。
手にナイフを持っているのが分かるまで、少し時間がかかった。
教師が椅子を引き、立ち上がりかけたところで乾いた音がした。体が折れ曲がるように崩れ、床に当たる鈍い音が教室の中央で止まる。
悲鳴が遅れて上がる。
椅子が倒れ、机が擦れ、誰かが出口へ走る。
空気が急に凍る。
僕は息が吸えず、胸の奥が内側から締めつけられるように痛んだ。視界の端が暗くなり、音が遠のく。
男が歩いてくる。
刃先がわずかに上下し、そのたびに光が細く揺れる。
怖い、と思うより先に、どこへ来るのかが分かる。
壁際に立てかけられた金属バットが目に入る。体育のあと戻されなかったのか、床に触れた先端だけが鈍く光っている。
男が腕を上げる。
体が横へ滑り、気づいたときにはバットを握っていた。冷えた金属が手のひらに張りつき、その重さが、胸の奥の痛みを押し返すように確かだった。
振る。
衝撃が腕の骨に沿って走る。
もう一度。
肉に当たる感触が鈍く伝わり、男の体が傾く。
さらに振ると、膝が折れ、手をついた姿勢のまま動かなくなる。
それでも腕は止まらなかった。
倒れた背にもう一度振り下ろしたとき、何かが砕ける手応えがあり、ようやく手が止まった。
教室は悲鳴で満ちているはずなのに、その音が膜の向こう側にあるように遠い。
代わりに、自分の呼吸だけが異様にはっきり聞こえる。
胸の痛みが消えていた。
息が深く入る。
頭の奥にこびりついていたざらつきが洗い流されるように消え、輪郭の曖昧だったものがすべてくっきりと見える。
静かだった。
教室ではなく、自分の内側が。
近くにいた友人がこちらを見ている。
顔色が抜け、目だけが不自然に開いている。口を動かすが、声にならない。
何か言おうとしているのは分かるが、言葉として届かない。
僕が一歩前に出ると、彼は反射的に後ずさり、椅子に膝裏をぶつけてよろめいた。
周囲の者たちも同じだった。
触れようとはせず、ただ距離を空ける。
視線だけがこちらに残る。
バットを握る手を緩めると、指が思ったよりも開かず、金属の表面に汗が張りついているのが分かった。力を入れていないのに離れない。無理に剥がそうとすると、逆に強く握り込んでしまう。
掌が熱い。
骨の奥まで、さっきの衝撃がまだ残っている。
手を離してはいけないとだけ分かった。
近くで誰かが泣いているが、どこから聞こえてくるのか分からない。
友人がまだこちらを見ている。
その目に映っているものが、自分なのだと理解するまで少し時間がかかった。
握ったままでも、腕は疲れなかった。
むしろ、離してしまう方が不自然に思えた。
椅子の軋む音も、布の擦れる音も聞こえない。
さっきまで確かにあったはずの物音が、教室の外へ押し出されたみたいに消えている。
朝と同じように、ただ静かだった。




