紅角牛丼
「牛よ……お前の気持ち、確かに受け取ったぞ」
私は姿勢を正し、そっと両手を合わせる。
「感謝を」
「いやいや! 違う違う、そいつは食べなくていい。もう暴れねえし、人間側に敵意もない。放っておいていい」
ランが慌てたように私と紅角牛の間に割り込んできた。
「冗談だよ。冗談……だよ……? 私の……牛……」
私は未練を引きずりながら、ちらちらと牛を盗み見る。
ランは大きく息を吐き、呆れたように肩を落とした。
「……そんなに食いたいのか、あんた。はあ……仕方ねぇな。食える店がある。低温熟成とか、なんか難しい工程で保存されてるらしい」
「いいのか!?」
思わずランへ詰め寄り、距離をゼロにした。
「ちょ、ま、待て! 近い! あと押し付けんな!」
ランは顔を真っ赤にし、目をそらす。
「それで店は!? どこだ!?」
一歩下がったランにさらに詰める。
「くっ……落ち着け俺……北門近くだ。予約必須だが、まあ……俺がいれば入れる」
「ラン! 君は最高だ!」
歓喜が胸からあふれ、思わず空に拳を突き上げる。
「……食事に誘えるとは……いや待て違う。冷静になれ俺。これも仕事だ。仕事……」
ランは自分の頬を二度叩き、表情をいつもの無表情に戻した。
「まずは牛を帰す。ムチーノ、頼んだ」
「任せろ」
私はゆっくり紅角牛の前に立つ。
先ほどまで戦闘態勢だったその瞳は、今はどこか柔らかい。
頭を撫でながら、静かに語りかける。
「驚かせてすまなかった。よく耐えた。さあ、森へ帰るといい」
紅角牛は一度私の手に鼻を押し当て、名残惜しそうに低く鳴く。
そして、ゆっくりと柵の向こうへ歩いていった。
風が吹く。草が揺れる。
静寂の中、私はぽつりとつぶやいた。
「いい牛だった……いや、いい肉だったな……」
「最後の一言はいらないですね」
隣に居たアルコルの冷静なツッコミが、草原に響いた。
紅角牛が草むらの向こうへ消えていくのを見送り、私は深く息を吐く。
緊張の余韻と、満たされない食欲だけが残る。
「さて、とりあえず終わりだな」
ランが気だるげに言いながら、腰のポーチから数枚の書類を取り出した。
それは見覚えのある試験用紙ではなく、様々な個所が訂正された書類だった。
「試験内容は”迷い獣討伐”として処理しておいた。あんたらの評価、全部最高だ。あと……」
そう言って、ランは懐から小さな金属プレートを取り出した。
光沢のある黒い金属に、赤い紋章。
中央には一頭の角牛が彫られ、その下には文字が刻まれている。
《危険区域狩猟士・乙種》
間違いなく、合格証だ。
「名前が刻まれている。まるで最初から用意されていたみたいだな」
私は疑問に思い、首をかしげる。
「俺が試験官だ。俺がよしと言えば、よしだ。文句あるか?」
「ない」
私は即答した。
こんな時くらい素直でいい。
「おかしいな~。私の名前も刻まれていますね~」
横で、アルコルも首をかしげていた。
「あんたは例外中の例外だ。それで、書類関係は全部俺がやっておいた。報告も申請も承認も、なんなら経費処理まで終わらせた」
「経費……?」
「まあいろいろだ。キケ管からきた仕事には経費が認められるんだよ」
ランは、にやりと笑う。
「だから今日は、遠慮なく食え」
その言葉を聞いた瞬間、私の胃袋が高らかに鳴いた。
もはや意思表示ではなく宣戦布告だ。
「行くぞ!」
「お、おちつ……ムチーノさん!? 走るんですか!? 街まで結構ありますよ!?」
アルコルが慌ててついて来る。
ランは剣を肩に乗せたまま、呆れ顔でゆっくりと歩いてくる。
「まったく……腹に支配されて生きてるのか」
「違う。これは――使命だ」
私の宣言に、アルコルはなぜか感動し、ランはため息をつき、それでも口元だけは笑っていた。
街の灯りが近づき、石畳が再び足元に戻る。
中央広場を通り過ぎ、さらに奥まで進む。
南側では静かな畑と風の音だけだったが、北門近くは違う。
まだ夕日の昇っていない時間帯。
体を動かしたせいで、数時間前に食べたものは消えていた。
光、香り、人の気配。
高級店の立ち並ぶ通りには、香辛料と肉の焼ける匂いが漂っている。
「……ここだ」
ランが立ち止まった。
目の前にあるのは、黒い木の扉と重厚な石壁。
「たのもう!」
私は迷わず扉を開いた。
高級店特有の、静かで上品な空気。
「ご予約はされていますか?」
皺ひとつない制服を着た女性が、微笑みながら声をかけてきた。
「いや、俺だ」
ランを見た途端、店員が深く一礼し、丁寧に言う。
「ラン様、そして皆さま、ご案内いたします」
私は店員の後に続いた。
照明が落ち着いた店内を進む。
椅子が向かい合い、白いクロスが整えられたテーブルへ案内される。
「いきなりですまないな。それで、紅角牛はまだ余ってるか?」
椅子に座ったランが、店員に聞く。
「はい。以前ラン様に納入していただいたものを熟成させております」
「なら、今日は量重視で頼む。技法より豪快さを優先だ。形式は東方の料理……丼物にしよう。それから、例のやつ。牛の乳を熟成させた濃いやつだ。惜しまず使ってくれ」
ランはテキパキと注文をしていた。
注文は無駄がなく、妙に具体的だ。
彼の慣れようは、無知な私とは正反対だ。
店員は微笑み、静かに頷き、厨房へと向かった。
やっと一息ついた。
今日はずっと歩いていた気がする。
それにしても、私は狩猟士になったのだ。
ようやく実感が湧いてきた。
そろそろ、この街ともお別れだ。
「ムチーノさんらしくないですよ。悲しそうな顔して」
アルコルが心配そうに、こちらを覗き込む。
「どうした? 店が気に入らなかったのか……?」
ランまで不安そうだ。
「いや、違う。この街との別れが、少し寂しくなっただけだ。私は旅の途中でな」
「そうだったんですね……私も楽しかったです」
「アルコル、君は学校に戻るのだろう?」
「はい。明日の早朝には出発します。マギって名前の街ですから、もしよければ寄ってくださいね!」
アルコルはにっこり笑った。
「あんた、やっぱりそうか……」
ランは少し寂しそうに眉を寄せながらも、静かに頷いた。
「どういうことだ?」
私は気になって尋ねた。
「ラキムって奴に会っただろ? あいつは俺の弟子だ。それで、ある男と同じ名のムチ使いがいるって聞いた」
「用件は?」
私は腰のムチに手を添えた。
「いや、なんもねぇよ。最初は興味本位だった。ただ……会っちまって、それでもいいって思った俺がバカってだけだ」
ランは言い淀み、視線を落とす。
傷だらけの顔が、照れたように赤く染まった。
「……ま、まあ俺はこう見えて、凄腕の狩猟士だ。国中から依頼が来る。だから……だからよ……」
その声は悔しさと、未練と、言葉にならない想いを含んで震えていた。
「いつかまた……会おう」
その呟きは決着ではなく、続きを願う言葉だった。
私は、その感情に警戒を解いた。
「そうだな。人生は出会いと別れの連続だが、結局は同じ世界に生きている。どこにも逃げられんさ」
私は微笑んだ。
ちょうどその時、店員の女性が戻ってきた。
最初に運ばれてきたのは、湯気。
器の上に立ち上る白い蒸気に、私の胃袋が先に挨拶をする。
香りが鼻をつく。
甘辛いタレ。焼けた脂の香ばしさ。ほんのり感じるスパイス。
そのすべてが、私の意識を強制的に“食事”へ切り替えた。
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【今日のメニュー】
・紅角牛丼
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丼の中央には薄切り肉とは違う、厚く、堂々と切られた紅角牛肉。
一枚一枚に淡い照りがあり、噛む前から柔らかさと旨味を保証している。
その上に、雪のようにふわっと降り積もりながら、舌に絡みつくほど濃密な白い誘惑がとろりと広がっていた。
「尊い……感謝を」
私は箸を握り、肉を一枚すくう。
そしてひと口。
柔らかい。
肉汁が舌に触れた瞬間、溶ける。
噛むのではなく、味が流れていく。
「う……」
声にならない息が漏れる。
チーズとタレが肉の旨味を包み、米の甘さが最後に支える。
完璧だ。
料理が私に語りかけてくる。
――お前の選択は正しかった、と。
私は沈黙のままもう一口、さらに一口……
気づけば丼は空だった。
「おかわりを」
感情はどこにもない。
ただ事実として必要だから言った。
店員は笑顔で新しい丼を持ってくる。
二杯目も、三杯目も、幸福は薄れない。
身体が熱くなり、心が軽くなる。
四杯目を食べ終えたとき、ランが苦笑した。
「よく入るな」
「牛は飲み物だ」
「ちがうぞ」
私は湯飲みで口の中を流し、深く息を吐いた。
「……これなら、また試験があってもいいな」
そう呟いた私の口元には、自然と笑みが浮かんでいた。
アルコルとランとは、さっぱりとした別れをした。
いつかまた会える。根拠のない自信が、私たちにはあった。
宿へ向かう帰り道。
私は中央広場でドカグーイ卿の像の前に立ち、そっと祈りを捧げた。
「私は、幸せです」
伝えたかったのは、それだけだった。
美味しいものを食べ、いい出会いを得た。
「卿の街、また来ます」
一礼して広場を離れる。
腹はまだ余裕があるが、心は十分に満ちている。
このままなら、”あの感覚”を味わえそうだ。
「そこの嬢ちゃん、このドデカい揚げパンはどうだい?」
「……いただこう」
今日も私は、幸せだ。
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【紅角牛~チーズを添えて~】
幸せの味! いつもの味!
まず、目に飛び込んでくるのは、どんぶりからはみ出さんばかりの紅角牛の肉だ。ただの肉ではない。これは、全てにおいて最高評価の肉だ。
甘辛いタレは、遠慮という概念を知らない。口に入れた瞬間、『甘いのか? 辛いのか?』と問い詰めてくる。答えられずに戸惑っているうち、肉が暴力的な旨味で殴りかかってくる。
極めつけは、上に雪のように降り積もった、白くてなめらかな背徳の塊。それが熱気でゆっくり溶け、肉とタレへ絡みつく瞬間、すべての意志力は崩れ去る。
最初は『重いな……』と少し思う。途中で『うまい……』だけに変わる。最後には『もっと……』になっている。
毎日食べたい”幸せ”は、確かに存在していた。
これは、旅の途中で偶然巡り合った”運命”だ。




