表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/24

紅角牛丼

「牛よ……お前の気持ち、確かに受け取ったぞ」


 私は姿勢を正し、そっと両手を合わせる。


「感謝を」


「いやいや! 違う違う、そいつは食べなくていい。もう暴れねえし、人間側に敵意もない。放っておいていい」


 ランが慌てたように私と紅角牛の間に割り込んできた。


「冗談だよ。冗談……だよ……? 私の……牛……」


 私は未練を引きずりながら、ちらちらと牛を盗み見る。


 ランは大きく息を吐き、呆れたように肩を落とした。


「……そんなに食いたいのか、あんた。はあ……仕方ねぇな。食える店がある。低温熟成とか、なんか難しい工程で保存されてるらしい」


「いいのか!?」


 思わずランへ詰め寄り、距離をゼロにした。


「ちょ、ま、待て! 近い! あと押し付けんな!」


 ランは顔を真っ赤にし、目をそらす。


「それで店は!? どこだ!?」


 一歩下がったランにさらに詰める。


「くっ……落ち着け俺……北門近くだ。予約必須だが、まあ……俺がいれば入れる」


「ラン! 君は最高だ!」


 歓喜が胸からあふれ、思わず空に拳を突き上げる。


「……食事に誘えるとは……いや待て違う。冷静になれ俺。これも仕事だ。仕事……」


 ランは自分の頬を二度叩き、表情をいつもの無表情に戻した。


「まずは牛を帰す。ムチーノ、頼んだ」


「任せろ」


 私はゆっくり紅角牛の前に立つ。


 先ほどまで戦闘態勢だったその瞳は、今はどこか柔らかい。

 頭を撫でながら、静かに語りかける。


「驚かせてすまなかった。よく耐えた。さあ、森へ帰るといい」


 紅角牛は一度私の手に鼻を押し当て、名残惜しそうに低く鳴く。


 そして、ゆっくりと柵の向こうへ歩いていった。


 風が吹く。草が揺れる。


 静寂の中、私はぽつりとつぶやいた。


「いい牛だった……いや、いい肉だったな……」


「最後の一言はいらないですね」


 隣に居たアルコルの冷静なツッコミが、草原に響いた。




 紅角牛が草むらの向こうへ消えていくのを見送り、私は深く息を吐く。

 緊張の余韻と、満たされない食欲だけが残る。


「さて、とりあえず終わりだな」


 ランが気だるげに言いながら、腰のポーチから数枚の書類を取り出した。

 それは見覚えのある試験用紙ではなく、様々な個所が訂正された書類だった。


「試験内容は”迷い獣討伐”として処理しておいた。あんたらの評価、全部最高だ。あと……」


 そう言って、ランは懐から小さな金属プレートを取り出した。


 光沢のある黒い金属に、赤い紋章。

 中央には一頭の角牛が彫られ、その下には文字が刻まれている。


 《危険区域狩猟士・乙種》


 間違いなく、合格証だ。


「名前が刻まれている。まるで最初から用意されていたみたいだな」


 私は疑問に思い、首をかしげる。


「俺が試験官だ。俺がよしと言えば、よしだ。文句あるか?」


「ない」


 私は即答した。

 こんな時くらい素直でいい。


「おかしいな~。私の名前も刻まれていますね~」


 横で、アルコルも首をかしげていた。


「あんたは例外中の例外だ。それで、書類関係は全部俺がやっておいた。報告も申請も承認も、なんなら経費処理まで終わらせた」


「経費……?」


「まあいろいろだ。キケ管からきた仕事には経費が認められるんだよ」


 ランは、にやりと笑う。


「だから今日は、遠慮なく食え」


 その言葉を聞いた瞬間、私の胃袋が高らかに鳴いた。

 もはや意思表示ではなく宣戦布告だ。


「行くぞ!」


「お、おちつ……ムチーノさん!? 走るんですか!? 街まで結構ありますよ!?」


 アルコルが慌ててついて来る。

 ランは剣を肩に乗せたまま、呆れ顔でゆっくりと歩いてくる。


「まったく……腹に支配されて生きてるのか」


「違う。これは――使命だ」


 私の宣言に、アルコルはなぜか感動し、ランはため息をつき、それでも口元だけは笑っていた。




 街の灯りが近づき、石畳が再び足元に戻る。

 中央広場を通り過ぎ、さらに奥まで進む。

 南側では静かな畑と風の音だけだったが、北門近くは違う。


 まだ夕日の昇っていない時間帯。

 体を動かしたせいで、数時間前に食べたものは消えていた。


 光、香り、人の気配。

 高級店の立ち並ぶ通りには、香辛料と肉の焼ける匂いが漂っている。


「……ここだ」


 ランが立ち止まった。


 目の前にあるのは、黒い木の扉と重厚な石壁。


「たのもう!」


 私は迷わず扉を開いた。


 高級店特有の、静かで上品な空気。


「ご予約はされていますか?」


 皺ひとつない制服を着た女性が、微笑みながら声をかけてきた。


「いや、俺だ」


 ランを見た途端、店員が深く一礼し、丁寧に言う。


「ラン様、そして皆さま、ご案内いたします」


 私は店員の後に続いた。


 照明が落ち着いた店内を進む。

 椅子が向かい合い、白いクロスが整えられたテーブルへ案内される。


「いきなりですまないな。それで、紅角牛はまだ余ってるか?」


 椅子に座ったランが、店員に聞く。


「はい。以前ラン様に納入していただいたものを熟成させております」


「なら、今日は量重視で頼む。技法より豪快さを優先だ。形式は東方の料理……丼物にしよう。それから、例のやつ。牛の乳を熟成させた濃いやつだ。惜しまず使ってくれ」


 ランはテキパキと注文をしていた。

 注文は無駄がなく、妙に具体的だ。

 彼の慣れようは、無知な私とは正反対だ。


 店員は微笑み、静かに頷き、厨房へと向かった。


 やっと一息ついた。

 今日はずっと歩いていた気がする。


 それにしても、私は狩猟士になったのだ。

 ようやく実感が湧いてきた。


 そろそろ、この街ともお別れだ。


「ムチーノさんらしくないですよ。悲しそうな顔して」


 アルコルが心配そうに、こちらを覗き込む。


「どうした? 店が気に入らなかったのか……?」


 ランまで不安そうだ。


「いや、違う。この街との別れが、少し寂しくなっただけだ。私は旅の途中でな」


「そうだったんですね……私も楽しかったです」


「アルコル、君は学校に戻るのだろう?」


「はい。明日の早朝には出発します。マギって名前の街ですから、もしよければ寄ってくださいね!」


 アルコルはにっこり笑った。


「あんた、やっぱりそうか……」


 ランは少し寂しそうに眉を寄せながらも、静かに頷いた。


「どういうことだ?」


 私は気になって尋ねた。


「ラキムって奴に会っただろ? あいつは俺の弟子だ。それで、ある男と同じ名のムチ使いがいるって聞いた」


「用件は?」


 私は腰のムチに手を添えた。


「いや、なんもねぇよ。最初は興味本位だった。ただ……会っちまって、それでもいいって思った俺がバカってだけだ」


 ランは言い淀み、視線を落とす。

 傷だらけの顔が、照れたように赤く染まった。


「……ま、まあ俺はこう見えて、凄腕の狩猟士だ。国中から依頼が来る。だから……だからよ……」


 その声は悔しさと、未練と、言葉にならない想いを含んで震えていた。


「いつかまた……会おう」


 その呟きは決着ではなく、続きを願う言葉だった。

 私は、その感情に警戒を解いた。


「そうだな。人生は出会いと別れの連続だが、結局は同じ世界に生きている。どこにも逃げられんさ」


 私は微笑んだ。


 ちょうどその時、店員の女性が戻ってきた。


 最初に運ばれてきたのは、湯気。

 器の上に立ち上る白い蒸気に、私の胃袋が先に挨拶をする。


 香りが鼻をつく。

 甘辛いタレ。焼けた脂の香ばしさ。ほんのり感じるスパイス。

 そのすべてが、私の意識を強制的に“食事”へ切り替えた。


 ------


 【今日のメニュー】

 ・紅角牛丼


 ------


 丼の中央には薄切り肉とは違う、厚く、堂々と切られた紅角牛肉。

 一枚一枚に淡い照りがあり、噛む前から柔らかさと旨味を保証している。


 その上に、雪のようにふわっと降り積もりながら、舌に絡みつくほど濃密な白い誘惑がとろりと広がっていた。


「尊い……感謝を」


 私は箸を握り、肉を一枚すくう。

 そしてひと口。


 柔らかい。

 肉汁が舌に触れた瞬間、溶ける。

 噛むのではなく、味が流れていく。


「う……」


 声にならない息が漏れる。

 チーズとタレが肉の旨味を包み、米の甘さが最後に支える。

 完璧だ。

 料理が私に語りかけてくる。


 ――お前の選択は正しかった、と。


 私は沈黙のままもう一口、さらに一口……


 気づけば丼は空だった。


「おかわりを」


 感情はどこにもない。

 ただ事実として必要だから言った。


 店員は笑顔で新しい丼を持ってくる。


 二杯目も、三杯目も、幸福は薄れない。

 身体が熱くなり、心が軽くなる。


 四杯目を食べ終えたとき、ランが苦笑した。


「よく入るな」


「牛は飲み物だ」


「ちがうぞ」


 私は湯飲みで口の中を流し、深く息を吐いた。


「……これなら、また試験があってもいいな」


 そう呟いた私の口元には、自然と笑みが浮かんでいた。




 アルコルとランとは、さっぱりとした別れをした。

 いつかまた会える。根拠のない自信が、私たちにはあった。


 宿へ向かう帰り道。

 私は中央広場でドカグーイ卿の像の前に立ち、そっと祈りを捧げた。


「私は、幸せです」


 伝えたかったのは、それだけだった。

 美味しいものを食べ、いい出会いを得た。


「卿の街、また来ます」


 一礼して広場を離れる。


 腹はまだ余裕があるが、心は十分に満ちている。


 このままなら、”あの感覚”を味わえそうだ。


「そこの嬢ちゃん、このドデカい揚げパンはどうだい?」


「……いただこう」


 今日も私は、幸せだ。



 ------



【紅角牛~チーズを添えて~】

 幸せの味! いつもの味!


 まず、目に飛び込んでくるのは、どんぶりからはみ出さんばかりの紅角牛の肉だ。ただの肉ではない。これは、全てにおいて最高評価の肉だ。

 甘辛いタレは、遠慮という概念を知らない。口に入れた瞬間、『甘いのか? 辛いのか?』と問い詰めてくる。答えられずに戸惑っているうち、肉が暴力的な旨味で殴りかかってくる。

 極めつけは、上に雪のように降り積もった、白くてなめらかな背徳の塊。それが熱気でゆっくり溶け、肉とタレへ絡みつく瞬間、すべての意志力は崩れ去る。

 最初は『重いな……』と少し思う。途中で『うまい……』だけに変わる。最後には『もっと……』になっている。

 毎日食べたい”幸せ”は、確かに存在していた。

 これは、旅の途中で偶然巡り合った”運命”だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ