実技試験と牛の口
会場を出た私は、喫茶店で優雅なひと時を過ごしていた。
昨日の筆記試験に続き、体力試験まで難なく終えられたことで、胸の奥にじんわりと自己肯定感が満ちてくる。
「コーヒーの黒だって余裕だ」
私は小さなカップを片手に持ち、真っ黒な液体を口に近づけた。
――そして顔が歪む。
「……さ、さとう……」
無理だ。これは完全に“健康の味”がする。
私は角砂糖を鷲掴みにし、カップがざらつくほど投入する。
液体というより砂糖にコーヒーをかけた状態だが、これがいい。
「染みる……」
脳内に直接響く糖分が『頑張ったね』と優しく囁いてくる。
そのまま眠ってしまいたいほど心地よい。
ありが……糖……
「ムチーノさーん!」
思考が砂糖に沈みかけていたところで声が飛んできた。
私は瞬きをして周囲を見渡す。
「こっちですー!」
喫茶店の外でアルコルが手を振っていた。
私は目をこすり、会計を済ませて外に出る。
すでに三軒はしごしていたので、食後という概念はとうに消えている。
「まだ食べるんですか!?」
アルコルが呆れた声を上げた。
私の手には、細長い揚げ生地に砂糖をたっぷりまぶした菓子が握られている。
「これは昼飯かもしれないだろ」
「何言ってるんですか……そのお腹で……」
視線が腹部に刺さる。
変わっていない。……はずだ。ほんのちょっとだけ膨らんだ気もしなくはないが、気のせいだ。
「まあいい。それで、話とは?」
「あ、はい! まずはおめでとうございます! 発表にも来られない余裕っぷり! 本当に全種目最高評価でしたよ!」
「当然だ」
私は堂々と胸を張る。
アルコルは満面の笑みで紙を差し出した。
「ではこちらが、このあと行われる実技試験の詳細です」
私は紙を受け取り、目を通す。
だが内容は、試験というより依頼書のようだった。
「……変わったのか?」
私は眉をひそめる。
本来ならこの後は、模擬戦闘、獣の解体、植物採取、そして調理“実習”。
すべて準備してきた。完璧な流れだったはずだ。
私の表情が曇ったのに気づいたのか、アルコルが慌てて説明を始める。
「じ、実はですね……街の近くに迷い獣が出まして! それを討伐した人は、すべての実技試験が免除で合格になるそうです!」
「調理実習……」
「現地調理できますよ! 珍しい素材ですよ! 相手は、あの、紅角牛です!」
「……それなら、ありだな」
私はあっさり切り替えた。
食材さえ取れれば、調理内容は自由だ。
「しかし、討伐隊はこの人数だけなのか? 体力検査はもっといたはずだが」
「そ、その話題は……その……風の音がしますねぇ~」
アルコルは下手な口笛を吹きながら歩き出す。
私は肩をすくめ、彼女の後に続いた。
今の私が考えるべきことは夕食の献立だ。
今日の夜は、牛で決まり。
しばらく歩くと、街の喧騒は徐々に遠のいていった。
舗装された石畳は次第に途切れ、いつのまにか土の道へと変わっている。
周囲から建物が減るにつれ、風の音が耳に届きはじめた。乾いた草を揺らす、軽やかで澄んだ音だ。
「こうして歩くと、街って意外と狭いですよね」
アルコルが鼻歌まじりに言う。
「南側には門がないのだな」
街を出た覚えはない。ただ歩いていたら、自然に景色が切り替わっていた。
境界線すら曖昧な街、それがカーボ。
「そうなんですよねー。変な街です。それにしても……ムチーノさんにしては珍しく、食べるの遅いですね」
アルコルが私の手元を見ながら言った。
私は顔の高さまで持ち上げた揚げスイーツを、ふらふらとした動きでかじっていた。
砂糖は口の中で甘く溶ける。けれど、脳がそれ以上を受け付けない。
「牛の口になってしまった……」
「綺麗な唇ですよ?」
「いや、そういう意味ではない」
最後のひとかけらを口に放り込むと、風に干し草と鉄の匂いが混じって漂ってきた。
視線を上げると、広い草原と柵が続き、その先に古い木造の建物がぽつんと建っている。
屋根には青い苔。壁には無数の引っかき傷。
生半可な動物の痕ではない。
「……着きましたよ。例の牧場です」
「思ったより静かだな」
「それが逆に怖いんですよ」
私たちは柵の前で立ち止まり、周囲に目を配った。
風は穏やかだが、空気は緊張している。
まるで見えない何かが、こちらを伺っているかのようだ。
草原には踏み荒らされた跡がいくつも走り、土がむき出しになっている。
巨大な蹄跡がいくつも残されていた。
「紅角牛は臆病で繊細な生き物なんです。だから、怖かったり怒ったりすると……」
「暴れるのか?」
「暴れます。あと、ついでに突進します」
「……つまり、うまい」
「今の話でそこに行くんですか!? ……で、でも慎重にいきましょう。相手は性格以外完璧な最高級牛ですから」
「なるほど。性格以外全部いいなら、許そう」
もう食材としての未来しか見えない。
私は軽く肩を回し、牧場へ向けて歩き出す。
空は澄み、風は静かに草を揺らす。
その奥から、低く響く咆哮が聞こえた。
私はゆっくり、足音を立てないように進む。
うし、うし、めし、うし、うし、めし、めし……
甘いものの後だから、しょっぱいものが食べたい。胃が牛の準備運動を始めている。
「あの……ムチーノさん……たぶんその……集合場所……私たち、とっくに通り過ぎました……」
アルコルが背後でしおれた声を出す。
「戻ります? 戻りませんよね!? うん、ですよね! このままいきましょう!」
ひとりで結論を出し、ひとりで自分に拍手している。アルコルもやる気満々だ。
私も止まらない。すでに牛との対話が始まっていたのだ。
──牛だけではない。
気配がある。
誰かいる。
その瞬間、前方の干し草山の上で風が舞った。
赤い髪が揺れる。
陽光を反射する二本の刃。
それらを片手で器用に肩へ担ぎ、男はゆっくりとこちらを振り返った。
「お前、ムチーノって名前だったよな。聞いたことある気がするんだが……気のせいか?」
その声を聞いた途端、私の脳内にこってりと油と出汁が混ざった記憶が浮かぶ。
……というか一昨日の話だ。
「ラーメンの人か」
「自己紹介がまだだったな。俺はラ……」
「ラーメンの人だろ?」
「……くそ、教えなきゃよかった。もっと格好良い登場の予定だったのに……」
赤髪の二刀流剣士は額に手を当ててため息をついた。
その悔しがり方が妙に人間味があって、少し親しみが湧く。
「俺はランだ。ラーメンじゃない。似てるけど違う。甲種狩猟士で、今回の特別試験官だ」
「は、はい! ごめんなさい!」
突然、アルコルが手を挙げたかと思うと、次の瞬間には私の足元で土下座していた。
「ムチーノさん……勝手に登録しました!」
「……なるほど。やはり牛が私を呼んでいたのだな」
「なんで納得してるんですか!?」
私は深く頷いた。
導きだ。食の運命だ。否定する意味はない。
ランが肩を竦めて言う。
「本来なら虚偽登録で即失格だが……まあ本人がやる気ならいい。ただし、一つ言っとく」
ピタリと空気が変わった。
「他の受験者は全員辞退した。ここに残ったのは、お前ら二人だけだ」
そう言うと、ランは干し草に寝転び、両手を頭の後ろに組む。
「心配すんな。死なねぇ程度に見ててやる。いい感じにやれ」
私は返事をせず、遠くの草原へ耳を澄ませた。
低く響く咆哮。
蹄が地を踏む重低音。
空気が震え、風の匂いが変わる。
私は腰に手を添え、静かに待つ。
遠くで巨大な影が柵を押しのけた。
その動作は荒々しいはずなのに、どこか慎重で丁寧。まるで品のある怪物だ。
太陽の下、紅い角が鈍く光る。
──紅角牛。
ついに、現れた。
紅角牛がゆっくりと頭を下げた。
地面に擦れる角が、まるで大地を警告しているかのように低く唸る。
その動きだけで、空気が張り詰めた。
「頑張れよ」
ランが小さく呟く。
だらけているように見えて、しっかり視界の一部に紅角牛を入れている。
その視線は、まるで戦場の剣士そのものだった。
対して私は、深呼吸しながら腹に手を置く。
「今の私なら、牛一頭ぐらい余裕だ」
「ムチーノさんが言うと、どっちの意味とも取れますね……」
アルコルが嬉しそうな呆れ声と共に、私の肩に手を当てた。
「ムチーノさん、強化魔術を使いますね」
その宣言はやけに堂々としていた。
断れない。いや、断る気すら起きない。初めて受ける魔術だ。
しかし次の瞬間、周囲にふわりと広がったのは、どう見ても気合い不足な、ゆるいキラキラの光。
「……これは?」
「精神的に頑張れる感じの魔法です! あと、筋力強化、反射強化……あ、ついでに脂肪燃焼も入れておきました!」
「そんなに雑に詰め込めるものなのか」
「気持ちって大事なんですよ!」
身体は特に変化していない。
だが、彼女の言う通り、気分というものは大切だ。
否定する理由もないので、とりあえず頷いておく。
そして、待ってくれていた紅角牛がとうとう痺れを切らしたのか、蹄で地面を削った。
次の一歩で、戦いが始まる。
風が止む。
紅角牛が爆ぜたような勢いで走り出した。
地面が振動し、空気が裂けるほどの突進。
角はまっすぐこちらを狙い、逃げ道など存在しないように見える。
私は静かに、横へ一歩。
それだけで突進が背後を抜けていった。
巨体とは思えぬ速度。
しかし身体は自然に動いていた。
ランが片眉を上げる。
「その動き……やはりな」
意味深な言葉だが、聞いている余裕はない。
紅角牛はすでに次の攻撃態勢に入っている。
蹄が空を蹴り、角が大きく弧を描き襲いかかる。
まるで砲弾だ。
私は腰をひねり、滑るように回避した。
風圧が頬を刺し、砂が舞う。
「気分がいい……脂肪と共に、私の心も燃えている……」
腰のホルダーからムチを引き抜く。
革が空気を裂き、しなやかに伸びる。
再び突っ込んでくる紅角牛。
一歩踏み込んで、ムチを振るう。
鋭い衝撃と音が弾けた。
それは雷鳴のように鋭く、乾いた音。
紅角牛が一瞬、たじろぐ。
動きが止まった。
私はすかさず前へ歩み寄り——
角と顔の間に、そっとムチを添えるように軽く打ち込む。
控えめな音。
力ではなく、意志を伝える一撃。
紅角牛は動きを止め、ゆっくりと首を下げた。
沈黙。
風が戻り、草が揺れ、世界に音が戻る。
紅角牛は、降参するように静かに地面へ横たわった。
「……終わった?」
アルコルが小声でつぶやく。
ランは腕を組んだまま、ふっと笑う。
「知らなかったみたいだが……これは躾の原理だ。力じゃなく、尊厳にムチを入れたんだよ」
「なるほど。いい牛だ」
私はゆっくりと紅角牛の頭を撫でた。
牛は気持ちよさそうに鼻を鳴らす。
実に、良い肉の気配がする。
「……さすがに食べないですよね?」
アルコルが心配そうに言う。
私はほんの一瞬考え、一応確認した。
「食べていいか?」
紅角牛は低く、モォと鳴いた。
それは敗北ではなく、妙に誇らしく、そして……なぜか嬉しそうだった。




