体力検査とダイエット
──痩せたい。
いや、違う。痩せなければならない。
宿屋の自室。
鏡の前で、たるんだ自分の身体を眺めながら私は思った。
「ぷにぷにだ……」
腹、二の腕、胸、尻、太もも。
掴むたび、脂肪がぷるんと反抗してくる。
かつて速さと力を併せ持った理想の身体。
それは今や影も形もなく、体のあらゆる部分に重りをぶら下げた存在になってしまった。これはこれで修行中なのかもしれないが……
「実技試験、やばい気がしてきた」
あれほど『余裕だ』と構えていた実技試験。
その中でも特に体力検査が、急に不安へと変わる。
私はいま、資格試験の真っ只中だ。
筆記試験の合格発表は驚くほど淡々としていた。
掲示板に並んだ番号。そこに私の番号。すなわち合格。
それを見た瞬間、私は拳を握りしめた。
私は、勉強もできるのだ。
その事実に、少し泣きたくなるほど嬉しかった。
……だが、その喜びは長く続かなかった。
宿に戻り、ふと鏡を見た瞬間。
そこに映ったのは、見慣れた顔と――見慣れたくない身体。
「これは……ない」
私は思わず首を振る。
以前より肉が付きやすくなった体。
骨格の変化もあるのだろう。特に胸と尻が……デカく見える。
「私は……私、だよな?」
いつもの自己暗示も今日は効かない。
思い返す。
あの日から続いた、幸せに満ちた暴食の日々。
獅子肉バーガー、ポテト、揚げパン、龍骨ラーメン、ラーメンライス、揚げパン、ポテト……
記憶の境界線が油でコーティングされている。
だが、目を逸らしてはいけない。
明日は体力検査だ。
ここで落とされたら……落ちるのは脂肪だけにしてほしい。
「よし、やるか」
私は両頬を叩き、鏡に映る自分へ宣言した。
かつて数多の武芸者を打ち倒したムチ使いが、脂肪ごときに負けるわけにはいかない。
まずは屈伸。
──たった千回で膝が悲鳴を上げた。
「……今のは、床が軋んだだけだ」
気のせいにする。そうしなければ心が折れる。
続けて腕立て伏せ。
──胸が邪魔で肘を曲げられない。
「これは……」
額から汗が流れ落ちる。
昔なら準備運動にもならなかった動きすら、今では厳しい。信じたくない現実だ。
それでも私は続けた。なんとか方法を考え出し、続けた。
屈伸、腕立て、腹筋。
呼吸は荒く、全身は震え、脂肪は揺れる。
だが、その揺れが、逆に私の闘志を煽った。
「覚悟しておけよ、脂肪。私は試験に受かる。お前がどう思おうと関係ない」
言いながら、自分が何を脅しているのか分からない。
だが、戦う理由があるなら、それで十分だ。
しばらくして私はベッドに倒れ込んだ。
息は荒く、脚は痙攣し、腕は震えている。
だが、確かな達成感があった。
「……いける。まだやれる」
眠気がゆっくり襲ってくる。
体は限界だが、心は軽い。
おかしなものだ。
運動すれば腹が減ると思っていたが、疲労は食欲さえ上回った。
私はタンパ君をかじりながら思った。
栄養補給は大切。
明日は体力検査。
逃げない。折れない。私はムチ使い。
自分の弱さにすらムチ打てなくてどうする。
翌朝。
私は目を開けた瞬間、全身が悲鳴を上げた。
筋肉が存在を主張している。
「戻った……? 戻った。うん、戻った。私は私だ」
強がり以外の何ものでもない。だが、声にすると不思議と勇気が湧いてくる。
自分の認識を意図的にねじ曲げ、鏡の世界を都合よく修正する。
「実技試験が終わったら、なに食べよう」
消費した分は回収しなければいけない。これは義務だ。
身支度を整え、笑顔で宿を出た。
早朝の空気は冷たく澄んでおり、胸の奥まで染み渡る。
空はまだ薄暗く、街は静かだ。
試験会場へ向かう通りには、同じ受験者と思われる者たちが歩いていた。
実技試験は日の出と同時に開始される。
にもかかわらず、彼らの顔には不思議な余裕と活力が浮かんでいた。
私はその流れに加わりながら、大きく息を吸い、自分の腹をそっと撫でる。
「……満腹だろ?」
腹はぷに、と控えめに反応した。
やがて視界が開け、広場のような場所へ辿り着く。
そこには訓練器具らしきものがずらりと並び、中央には大きな看板。
《危険区域特例狩猟士・実技試験会場》
受付では、体力検査の案内が始まっていた。
手続きを終えた受験者たちは、身体をほぐし準備をしていた。
ぐう……
「黙れ」
反射的に口から出た。
近くの受験者たちが、一斉にこちらを見る。
「申し訳ない。内なる自分と戦っていた」
私が頭を下げたその時──
「ムチーノさん!」
聞き慣れた声が響く。振り返ると、アルコルが大きく手を振っていた。
魔術学校の白い制服は今日も目立つ。いや、今日は別に着なくてもいい気がする。
「サクッと終わらせて、資格取っちゃいましょー!」
アルコルは明るく笑った。
私は、自分の顔が情けなく引きつっているのを自覚した。
それにしても、不思議なものだ。
他人とここまで自然に仲良くなったことは今までなかった。
まだ十日も経ってない縁だというのに、彼女は迷いなく距離を詰めてくる。
そして私も、彼女には無理をせず素で話せている。
その時、係員の声が響いた。
受験番号が読み上げられ、呼ばれた者から集まるよう指示される。
どうやら、最初の組が始まるようだ。
私の番号も呼ばれた。
並び順ではなく、どうやら完全なランダムらしい。
「余裕だ」
私はアルコルに親指を立て、一歩踏み出す。
脂肪も筋肉も、全部まとめて連れていく。
体力検査とは──危険区域で最低限生き残れる能力があるかを確認するための検査。
各項目ごとに、試験官たちは淡々と無表情で記録を取っている。
明確な基準がある以上、それが当然なのだろう。
まずは持久力検査。
私はただ『倒れたら恥ずかしい』という理由だけで走った。
気づけば、他の受験者ははるか後方。肩で息をし、歩き始めている者すらいた。
しかし、いつも以上に視線を感じたのはなぜだ?
続いて筋力検査。
腕は震えると思ったが、不思議と安定していた。
鉄棒にぶら下がり、身体を軽く引き上げる。それを繰り返すだけ。
ここでも視線が集まる。
私の上下動に合わせて、それら視線も上下していた。
次は柔軟検査。
しなやかな関節は健在だった。
ムチ使いは、自らの体すらムチとする。柔軟は修行の基礎だ。
私の前屈は額が地面に触れる程で、試験官も思わず二度見していた。無表情のまま顔だけ赤い、器用な男だった。
最後は動体視力検査。
高速で飛ぶボール、変則軌道、予測不能。
しかし、ムチ使いは狙いを外さない。
私はただ感覚のままに手を伸ばし、すべてを掴んだ。
そして試験官が、絞り出すように告げた。
「ええと……全種目、最高評価です」
あきらかに取り繕った声だった。
私は淡々と返す。
「そうなのか……」
どうやら余裕だったらしい。
それにしても、試験官たちは何かを隠している。
さっきから、私を見るなり視線を逸らす。
……なるほど。
検査中、私に向けられていたあの熱い視線。
私が凄腕のムチ使いだと、気づいてしまったか。
「やれやれ」
私は額に手を当て、静かにため息をつき、颯爽と会場を去るのだった。




