むちのたび
大会は無事に終了した。
喧騒を離れ、私は島を歩いている。
「そういえば、僕が以前誘った彼女。探し人がメスートさんだったなんて、偶然ですね」
「メスートは、いつ頃ここに来た?」
「うーん……先月くらいですかね。あまり自分のことを話す方じゃなかったので、正確には分かりませんが」
「そうか……だが、まだ島にいるはずだ」
私は、これまでの経緯を簡単にゼツへ説明した。
島を案内してもらう途中、彼の紹介で港の人々にも話を聞いて回っている。
小さな女の子が島に来た、という証言はあった。
だが、まだ島から出てはいないらしい。
島の出入り口は一つしかない。
夕暮れ時、空はゆっくりと橙色に染まり始める。
海岸沿いを歩いていると、突然、声がかかった。
「おーい、ゼツちゃんやーい。ちょっと手伝ってはくれんかねー」
網の手入れをしている老婆だった。
「ばっちゃん……まったく、何してるんだよ」
「行ってこい。だいたいのことは分かった。あとは私ひとりで、ゆっくり散策する」
「すみません。うちのばっちゃん、目を離すとすぐ働こうとするので。でも、ムチーノさん。本当に助かりました。また、きちんとお礼させてくださいね」
ゼツは頭を下げる。
そして、思い出したように付け加えた。
「メスートさんのお気に入りの店があります。この海岸沿いを、ずっと先へ行ったところにある古びた店です。青い看板が目印ですよ」
それだけを伝えると、彼は足早に戻っていった。
海岸沿いの道を、ひとり歩く。
潮風は強く、塩の匂いが肌にまとわりつく。
古びた店へ向かう道の途中、ぽつんと開けた場所に、それは建っていた。
銅像だ。
だが、英雄像ではない。
剣も槍も掲げていない。
堂々と立ってもいない。
腹を前に突き出し、どこか満ち足りた顔を空に向け、どっしりと座り込んだ人物像。
肩は落ち、手はだらりと垂れ、今にも眠りに落ちそうな姿勢だ。
潮風に晒され、表面はところどころ緑青に覆われている。
だが、その腹だけは、妙に光っていた。
私は足を止め、像の傍らに置かれた石碑へと目を向ける。
簡素な文字で、こう刻まれていた。
キ・ゼツ──異国に生まれ、世界を食べ、この島で眠り、そして目覚めなかった美食家。
「……なるほど」
私は、ゆっくりと息を吐いた。
忘れられた美食家。
名を残さず、国を動かさず、伝説にもなりきれなかった男。
それでも、確かに“ここにいた”。
幸せそうに食べ、満ち足りたまま眠り、そして、そのまま帰らなかった。
私は像の前に立ち、自然と声を落とす。
「キ・ゼツ……あなたは、幸せでしたか」
答えはない。
だが、像の表情は穏やかだった。
私は軽く頭を下げ、そして、そっと像の腹に手を置く。
やはり、そこだけがよく磨かれている。
多くの人が、ここに触れてきたのだろう。
「これからも、美味しい食べ物に、出会えますように」
願いはそれだけだ。
最初から、今までずっと。
食べて、笑って、眠る。
それ以上の望みなど、私にはない。
顔を上げると、道の先に、青い看板が見えた。
潮に色を抜かれ、文字も読みづらい、古びた店。
メスートが立ち寄ったという店。
そして、私が辿り着くべき場所。
足取りは軽い。
空腹を胸に、期待を腹に、世界の真理を、全身で抱えながら。
青い看板の店は、外見の古さに反して、中は清潔だった。
焼き台の熱。油の匂い。鉄板に落ちる肉の音。
カウンターの一番奥に、先客がいた。
小柄で、ぷにぷにとした身体つき。
勝ち気そうに吊り上がった目。
高い位置で結ばれた、二つの尾のような髪。
ツインテールの少女が、バーガーにかぶりついている。
私は何も言わず、彼女の隣に腰を下ろした。
「バーガーを一つ。シェイクも頼む」
店主が無言で頷く。
隣では、少女が乱暴に紙を剥がし、指にソースをつけながら食べていた。
相変わらず、行儀は良くない。
「……」
一瞬、視線が交わる。
少女の動きが止まった。
「なに見てんだ、よ……ムチーノ……?」
生意気な口調。
だが、その目は確かに私を捉えている。
「久しぶりだな」
「……っ!」
少女は口の中のものを急いで飲み込み、顔をしかめた。
「なんでここにいんだよ、ムチ野郎」
「今はムチ乙女と呼んでくれ」
「知るか! ……まだ生きてたのか」
強がった笑み。
だが、肩がほんの少し強張っている。
「似合っているぞ」
私は優しく笑い、少女の姿を眺めた。
「見るな。ライバルに薬を盛られたんだ……」
「ライバル? 私ではないのか?」
私は少女の顔に、くっつきそうになるほど近づいて問いただす。
「なあ、教えてくれ。ムチーノとメスートは、ライバルじゃなかったのか? 私“が”ライバルに薬を盛られたんじゃないのか?」
「ひっ……」
少女の顔が、さっと青ざめた。
まるで、過去を思い出しているかのように。
「ムチーノは、その……」
「その?」
「……家族だから……」
「そうだったのか。確かに、そうだな」
私は静かに頷いた。
その時、店主が私の前にバーガーを置いた。
分厚いパン。
香ばしい肉。
滴る肉汁。
私はそれを手に取る。
「なあ、メスート」
「……なんだよ」
私は一口、かぶりついてから言った。
「一緒に飯を食わないか」
少女は一瞬、言葉を失ったようにこちらを見る。
「……は?」
「それだけだ」
「意味分かんねえ……」
だが、彼女はバーガーを置かなかった。
むしろ、もう一口、強く噛みついた。
脂肪、糖、二人分の咀嚼音。
それで、十分だった。
我思う、ゆえに食う。
食えば眠い。
それでいい。
ムチを振るってきた私の旅は、無知なまま腹を空かせ、いつの間にか、むちむちと肉を蓄えながら続いてきた。
だが、それも悪くない。
これは、食の旅。
そして、食事の度。
腹が減ったら、また食べよう。
私は、もう一口、バーガーをかじった──
TS無知ムチ使いの異世界ドカ食い気絶旅~脂肪と糖を添えて~ 完
笑顔で美味しい飯を食う。
色々と試行錯誤をしながらの作品になりましたが、主人公が単純な幸せを享受する物語を描けて、本当によかったと思います。
読んでくださった方々には、感謝の気持ちしかございません。
ありがとうございました!
それでは、またいつか、どこかでお会いできればと思います。
シエドリ




