極東の島と部活動
大陸の端から出発して、船に揺られること丸一日。
私は、東の果てに位置する小さな島へと辿り着いた。
この島は、国と国との境目にある。
さらに東へ船を進めれば、巨大な島国があるらしいが、ここはその手前に浮かぶ中継点のような場所だ。
どの国にも属さない中立の島。
だからこそ、私のような事情持ちの旅人や、純粋な観光客が入り混じっている。
島の名は、私の国の言葉で――ファット。
由来は、向こうの国の言葉である──不合島。
音が訛り、簡略化され、今の呼び名になったらしい。
甲板から見えていた島影は、近づくにつれて色を変えた。
濃い緑に覆われた丘。
白く縁取られた砂浜。
陽光を反射する、浅い海の青。
山の街マギとはまるで別の、異世界だ。
船が岸に横付けされ、渡し板が下ろされる。
私は荷を肩にかけ、ゆっくりと下船した。
板張りの桟橋が、ぎしりと鳴る。
その音を確かめるように、一歩、地面へ足を下ろす。
暖かい。
地面も、風も、空気そのものも。
こうして私は、食と境界の島に足を踏み入れた。
島の中を歩く。
小さな島だと聞いていたが、思っていたよりもずっと広い。
一日では到底、全てを見て回れないとすぐに理解した。
「宿でも探すか……」
腹が鳴ったが、聞こえなかったことにする。
まずは荷物を置ける場所を確保しなければならない。
港を離れると、すぐに道は細く入り組み、大通りと呼べるものは見当たらなくなった。
低い家々が並び、洗濯物が潮風に揺れている。
住宅地だ。
よそ者が踏み入る場所ではなかったかもしれない。
私は少し申し訳なくなり、来た道を引き返そうとした。
そのときだった。
「そこのお方。食べるのが好きとみた」
不意に声をかけられる。
振り返ると、そこにいたのは一人の青年だった。
背は平均的、体格も細すぎず太すぎず、服装も、顔立ちも、立ち姿も、驚くほど特徴がない。
あまりに普通だ。
だからこそ、逆に印象に残る。
この青年を表す言葉を探すとしたら、”普通”という語以外に思いつかなかった。
ただ一点を除いて。
彼は両手にバーガーを持ちながら話しかけてきたのだ。
「……わんぱくだな。どうして分かった?」
「勘ですよ。腹の音も、歩き方も、視線も」
青年は屈託なく笑う。
「実は明日、この島で食の大会がありましてね。大食いの、しかもペア戦なんです」
話の流れが分かった気がした。
「誘った方が急に来られなくなりまして。困っていたところなんですが……」
青年は私の腹部にちらりと視線を落とし、にこりと笑った。
「お腹、空いてますよね?」
普通の顔で、普通の声で、彼は言った。
どうやらこの島、到着早々、穏やかでは済まないらしい。
地元民が通うような、住宅街の一角にある飯屋。
そこで私と青年──ゼツという名らしい──は飯を食っていた。
ゼツは、にこりともせず、しかしどこか必死な目で、こちらを見ている。
「良い食べっぷりですね。実に正直で、見ている僕までお腹が空きます」
「うまいな。ライスが、いくらでもいけてしまう」
私が食べているのは、定食と呼ばれる、ライス、おかず、スープが揃った食事だ。
中でも、魚を甘辛く煮たおかずが秀逸で、ライスとの相性が抜群だった。
人目もはばからず、私は何度もおかわりをする。
何をどれだけ食べたのか分からなくなる頃、背もたれに体を預けた。
「ふう……満足だ」
「大盛を五杯、ですか……甘いものもいけますか?」
「デザートまであるのか。いただこう」
そうして運ばれてきたのは、もちもちとした大きな球体だった。
ゼツが頼んでくれたものらしい。
これが、思った以上に腹に溜まる。
名前も分からない異国の菓子だが、甘くておいしい。
噛んだ感触は、どこかライスにも似ている気がした。
腹は膨れ上がり、急激な眠気が押し寄せてくる。
「餅を三個……すごいですね。ムチーノさん。大会に出ましょう。あなたしかいません」
「いいだろう」
「え、いいんですか!?」
あまりにあっさりした返事だったのだろう。
ゼツは目を丸くしていた。
「私にも、少し頼みがある。大会が終わったら聞いてくれ」
そう言って、私は立ち上がる。
とにかく、今は寝たい。
思ったのだが、ライスという穀物は、どうしてこうも眠気を誘うのだろう。
「とりあえず、明日の朝、港で会おう」
そう告げて歩き出す。
この機会を、逃したくないと思った。
適当に選んだ宿の寝台は想像以上に柔らかく、私は目を閉じた瞬間から記憶が途切れた。
夢も見ない、完全な睡眠だった。
――そして朝。
港には、すでに潮の匂いと人の気配が満ちていた。
水平線から昇る朝日が海を照らし、波は静かに岸を叩いている。
大会の日らしく、どこか落ち着かない空気も混じっていた。
「おはようございます、ムチーノさん!」
先に来ていたゼツが、大きく手を振る。
相変わらず普通の青年の顔だが、今日はどこか気合が入っているようにも見えた。
「よく眠れましたか?」
「おかげさまでな。久々に何も考えずに寝た」
「それは良かった。その様子だと、消化もうまくいったようですね」
そう言ってから、ゼツは少し言いづらそうに視線を逸らした。
「……あの、改めて説明しておきたいことがありまして」
「大会のことか?」
「はい。それと、僕自身のことも」
港に積まれた木箱に腰を下ろし、ゼツは深く息を吸った。
「僕、この島でドカグーイ部の部長をしているんです」
「ドカグーイ卿か……カーボは良い街だったぞ」
「行ったことあるんですか!? 羨ましいなあ……じゃなくて! 驚かないんですね」
「別に。だが、それがどうしたというのだ」
「それがですね……ムチーノさんは知っていますか? ドカグーイ部が、廃部寸前だということを……」
ゼツの声は、心底困ったように沈んでいた。
「向こうではドカグーイクラブ、でしたっけ。呼び方は違っても、ドカグーイ卿の意思を継ぐ活動を、僕はこの島でひとり続けてきました」
「良い心がけだ」
「ただ、以前ここを通った旅人が教えてくれたんです。国中、いや、世界中でドカグーイ部の部員が、次々いなくなっているって」
「そうなのか……」
私の声は、自然と低くなった。
確かに、これまでの旅路で、同じ志を持つ者に出会った覚えはない。
「みんな、どこへ行ったんでしょうね……」
ゼツは困ったように、しかしどこか諦めたように笑った。
「寝ているんじゃないか?」
「はい。今もどこかで、ぐっすりです」
朝日はすっかり昇り、海はきらきらと光っていた。
港のざわめきも、潮騒に溶けて穏やかに響いている。
今も世界のどこかで、あの満たされる感覚に身を委ね、深く眠っている者がいるのだろうか。
そう思うと、不思議とお腹が空いた。
そして私は、この島で迎える一日が、ただの大会だけでは終わらない予感を、確かに覚えていた。




