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TS無知ムチ使いの異世界ドカ食い気絶旅~脂肪と糖を添えて~  作者: Seabird(シエドリ)
5回目 虹苔パンケーキ〜蜂蜜を添えて〜
15/24

虹苔パンケーキ

 地面に両足が着き、私は幹から距離を取った。


 見上げると、世界樹がぼやけて見えた。視界に入っているはずなのに、意識が輪郭を拒む。森そのものが、それを”ただの巨木”として隠そうとしている。

 私は選ばれたのだろう。

 役目を終えた樹は眠りにつく。また来年、新たな腹の虫が寄り付くまで。


 ぐう、と音が鳴った。

 正直なところ、もう限界だ。


「……帰ろう」


 ムチを巻き取り、踵を返す。

 すると不思議なことに、先ほどまで絡み合っていた根や下草が、わずかに道を譲った。帰り路まで案内してくれているようだ。


 歩くたび、目の前の草木が揺れる。

 迷わせることも、急がせることもない。空腹の身体に合わせた、ちょうどいい導きだった。


 森は優しい。

 少なくとも、腹を空かせた者には。


 私は陽の位置を確認することなく、そして危険だと言われている植物を警戒することもなく、ただただ歩き続けた。


 気がつけば、木々の密度がゆるみ、見覚えのある巨木が現れた。村の外縁だ。ツリーハウスの灯りが、枝の間から点々と見える。


「助かった」


 誰に向けた言葉でもない。

 それでも、背後で風がそよいだ気がした。


 村へ戻ると、空気が変わる。

 人の気配、火の匂い、生活の音。

 半日にも満たない冒険だったはずなのに、とても懐かしく思う。


 虹苔は手に入れた。


「まずは飯……報告だな」


 規則は規則だ。自然と共に生きる者として、責務は果たそう。

 森は十分に応えてくれた。

 あとは、私がそれをどう扱うかだ。




 私はキケ管の支部に辿り着くなり、急いで報告を行った。


 職員は手慣れた様子で、テキパキと書類をまとめていく。


「“あの感覚”の正体、分かりましたか?」


 途中、手を止めることなく、雑談めいた問いが投げられる。


「そうだな。満腹のあとに似た、温かな感覚だ」


「そうなのです。実は私、その感覚に敏感でして……というのも、この村へ来る前までは、ドカグーイクラブに入っていたほど、食事に固執していたんです。でも、ここでは食事がなくても、なぜか満たされる気がして」


 話が一段落するころ、虹苔に関する書類はすべて整ったようだった。


 職員は一枚の紙を差し出してくる。


「こちらが、虹苔の使用許可書です。危険区域管理庁の手続きに則り、正式にあなたの所有物として認められました」


「感謝を。ありがたく食べさせていただこう」


「もし本気で痩せたくなったら、この村に滞在なさってください。村も森も、あなたを歓迎していますよ」


「世の中の飯を一通り食べ尽くしたら、その時はお願いしよう」


 私は支部を後にした。


 別に、この村が嫌いというわけではない。

 ただ私には、まだ見ぬおいしい食べ物たちが待っている。




 さて、どうしよう。

 この虹苔を食べるにしても、問題はどう食べるかだ。

 私は今、強烈に甘いものが食べたい。

 この村で、それが食べられるだろうか……


 いくら考えても、向かう先は一つしかない。

 この村で、唯一食事を提供している店だ。


「すまない。急なお願いなのだが……」


 私は食堂に入るなり、厨房に立っていた年老いた女性へと頭を下げた。


「甘いものが食べたい。作っていただけるだろうか?」


「頭を上げな。あんた、いいところに来たねぇ。ちょうどさっき、息子が蜂蜜を届けてくれたんだよ。食べていきな」


「蜂蜜だと?」


 驚きのあまり、思わず声が大きくなる。

 蜂蜜は、小さな虫たちがせっせと集めた蜜だ。

 とても貴重で、私自身も人生で一度しか口にしたことがない。


「息子さんはどちらに? ぜひ挨拶をしたい」


 私は周囲の気配を探るが、人の姿は見当たらなかった。


「今朝方に会ったはずだよ。今は夜の採取に出ちまったがね。『むちの嬢ちゃんに、これでも食べさせてやってくれ』なんて言ってさ。私の料理が薄味だって言いたいのかねぇ。まったく、失礼なやつだよ」


 女性は怒っているのか、それとも誇らしいのか分からない表情で笑った。


「ほら、早く荷物を置いてきな。今日はパンケーキだよ。息子にも、よく作ってやったものさ」


 促されるまま、私は宿屋の自室へ向かう。




 自室で最低限の身だしなみを整え、食堂に戻ると、丸机の上にはすでにパンケーキが並んでいた。

 私が椅子に腰を下ろそうとする間にも、その枚数は静かに増えていく。


 幸せだ。


 この温かさ。

 私にはよく分からないが、これが家庭というものなのだろう。


「冷めないうちに食べちゃいな。どんどん持っていくよ」


 女性にそう言われ、私はナイフとフォークを手に取った。

 そして、いったん置く。


 隣に置かれた小瓶。

 中には黄金色に輝く蜂蜜が入っている。


 それを手に取り、わずかに震える。


「なにやってるんだい。これはね、こういくのさ」


 私の様子を見かねた女性が小瓶を取り上げ、そのまま豪快にパンケーキの上へとかけた。


「ぜ、贅沢だ……」


 輝くパンケーキ。

 それはもはや、食べ物というより絵画だった。


 同じようにすればいいのだろうか。

 私は女性を真似て、袋から取り出した虹苔を、パンケーキの上に豪快に振りかける。


 女性が目を丸くした。


「それ、虹苔じゃないのさ!」


「問題ない。手続きは済ませてある」


「そういうことじゃないよ。こんなにも貴重なものを……はっ、贅沢だねぇ。楽しむんだよ」


 女性は一瞬焦った表情を見せたが、私の顔を見るなり呆れたように変わり、大きく笑った。

 そして、そのまま調理場へと戻っていく。


 私は何がそんなにおかしいのか分からなかったが、気にしている場合でもない。

 ナイフとフォークを手に取り、改めて目の前の食事に向き直る。


 黄金と虹色。

 輝きが止まらない傑作が、そこにあった。


 ------


 【今日のメニュー】

 ・虹苔パンケーキ

 ・蜂蜜


 ------


「感謝を」


 まずは一口。


 ナイフで切り分けたパンケーキを口に運ぶと、蜂蜜の濃厚な甘さが舌に広がる。ここまでは想像どおりだ。だが、その直後、虹苔が静かに仕事を始めた。


 甘さの輪郭が、ふっと変わる。


 蜂蜜の直線的な甘みが、奥行きを持つ。花の蜜の香りがふくらみ、森の朝露のような涼やかさが後味に残った。甘いのに重くない。むしろ、自然ともう一口を欲してしまう。


「……芸術」


 思わず、そう呟いていた。


 虹苔は自己主張をしない。合わせた食材の性質を受け取り、それをほんの少しだけ理想の方向へ押し出す。パンケーキの素朴さはそのままに、蜂蜜の甘さだけを丁寧に磨き上げている。


 パンケーキという名のキャンパスに蜂蜜で絵を描き、虹苔という額縁がすべてを完成させる。どれもが一級品で、完璧な調和を成していた。


 二口目、三口目。


 温かい生地の水分に触れた部分では、虹苔はより丸みのある甘さを引き出す。一方、焼き目の香ばしい部分では、ほのかな木の実のようなコクを添えてきた。同じ皿の上なのに、食べる場所で印象が違う。


 私は無言のまま、淡々と食べ進める。


 胃が満たされていく感覚と同時に、頭と胸の奥がじんわりと温かくなる。あの感覚だ。

 だが、以前のような衝撃はない。今回は最初から最後まで、穏やかだった。


 気づけば、皿の上はきれいになっていた。


 私はフォークを置き、深く息をつく。


 虹苔は、丁寧に味わうこと。その前提があってこそ、真価を発揮する。


 ……しかし、私は止まれなかった。


 もう一度だけ、黄金色の小瓶へと目をやる。


「……さすがに、だめだ」


 伸びかけた右手を、左手で押さえる。


「あんた、本当に息子と同じだね。誰も見ちゃいないよ。飲んじまいな」


 そう言って、パンケーキを載せた新しい皿を持ってきた女性。


「やってみた、かったんだ……感謝を」


 私は小瓶に入った蜂蜜を、そのまま口に流し込んだ。


 喉を通った瞬間、甘さが広がった。


 ただ舌に乗せ、ゆっくりと飲み込むだけ。それだけで、胸の奥まで温かいものが落ちてくる。

 ほんの少しだけの酸味。直接のんで初めて感じる。全く角がない。

 幸福そのものを液体にしたものだとしたら、きっとこういう味なのだろう。


 私は目を閉じ、しばらく動けずにいた。


 腹の底から満ちていく。疑いようのない、正しい幸せだ。


「……これは、危険だな」


 小瓶をそっと卓に戻す。

 すると、女性が何事もなかったように、次の皿を置いた。


「まだあるよ。息子が多めに置いていったからね」


 追加の蜂蜜。

 追加のパンケーキ。


 私は一度、深呼吸をした。

 そして、フォークを取る。


 その後のことは、あまり覚えていない。


 一枚食べては、蜂蜜を垂らす。

 時折、虹苔を指でつまみ、焼き目の強い部分に乗せる。

 甘みが変わるのを確かめ、静かに頷く。


 それを、繰り返した。


 気づいたときには、皿が積み重なり、女性が呆れた顔で息を吐いていた。


「……二十枚だよ」


「そうか」


 否定する理由はなかった。

 私の腹も、完全に同意している。


 私は最後の一口を飲み込み、フォークを置いた。

 満腹という言葉では足りない。身体の隅々まで、行き渡った感覚がある。


 小瓶に残った虹苔を取り出し、卓の上に置く。


「これは、あなたと息子さんで食べてほしい」


 女性は一瞬、驚いた顔をしたが、すぐに柔らかく笑った。


「いいのかい」


「私の役目は終わった。あとは、家族の食卓にあるべきだ」


「……そうかい。息子も喜ぶさ……」


 女性は虹苔を大事そうに眺める。


「ありがとう」


「こちらこそ、感謝を」


 私は立ち上がり、腹の重さを確かめる。

 悪くない。むしろ、安心する重さだ。


 部屋へ戻ると、木々の間を渡る夜風が、静かに窓を揺らしていた。

 私は服もそのまま、ベッドに身体を沈める。


 あの感覚が、また来る。

 今度は、何も疑わない。


 私は知った。

 材料も大切だが、それ以上に、温かさこそが食事をおいしくするのだと。


 そろそろ、向き合うときが来たのかもしれない。


 私の家族であり、私に薬を盛ったライバル──メイス使いのメスート。


 彼にも、この幸せを分けてあげた……い。


 満ち足りた余韻と、明日へ踏み出す静かな決意を胸に、私は眠りに落ちた。



 ------



 【虹苔パンケーキ~蜂蜜を添えて~】

 幸せが作った芸術作品!


 ひと口目で感じるのは、生地そのものの素直さだ。パンケーキは甘さを前面に押し出すでもなく、かといって食事用のパンほど無骨でもない。香りが穏やかに立ち、焼き目の香ばしさがまず舌を落ち着かせる。これは主食なのか、それともデザートなのか。その境界線に、静かに立っている。

 そこへ流し込まれる蜂蜜は、明確にデザートの顔をしている。濃厚で、直線的で、疑いのない甘さだ。しかし不思議なことに、生地がそれを受け止めることで、甘さは暴走しない。パンのように受け、ケーキのように広げる。そのバランスが心地いい。

 決定的なのは虹苔の存在だ。合わせる食材によって性格を変えるこの苔は、ここでは仲裁役に回っている。蜂蜜をただの甘味に終わらせず、香りと余韻を伸ばし、生地の滋味を一段引き上げる。結果としてこれは、パンでもケーキでもなく、ひとつの芸術作品として完成した。

 主食としては甘く、デザートとしては重くない。朝でも夜でも成立し、空腹でも満腹でも受け入れてしまう危うさがある。実際、枚数を重ねても手が止まらない。静かに満たし、気づけば深く満たしている。

 総じて言えば、この一皿は問いを投げかけてくる。

 これはパンか、ケーキか。主食か、デザートか。

 答えは一つではない。ただ確かなのは、また食べたくなる、という事実だけだ。

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