虹苔パンケーキ
地面に両足が着き、私は幹から距離を取った。
見上げると、世界樹がぼやけて見えた。視界に入っているはずなのに、意識が輪郭を拒む。森そのものが、それを”ただの巨木”として隠そうとしている。
私は選ばれたのだろう。
役目を終えた樹は眠りにつく。また来年、新たな腹の虫が寄り付くまで。
ぐう、と音が鳴った。
正直なところ、もう限界だ。
「……帰ろう」
ムチを巻き取り、踵を返す。
すると不思議なことに、先ほどまで絡み合っていた根や下草が、わずかに道を譲った。帰り路まで案内してくれているようだ。
歩くたび、目の前の草木が揺れる。
迷わせることも、急がせることもない。空腹の身体に合わせた、ちょうどいい導きだった。
森は優しい。
少なくとも、腹を空かせた者には。
私は陽の位置を確認することなく、そして危険だと言われている植物を警戒することもなく、ただただ歩き続けた。
気がつけば、木々の密度がゆるみ、見覚えのある巨木が現れた。村の外縁だ。ツリーハウスの灯りが、枝の間から点々と見える。
「助かった」
誰に向けた言葉でもない。
それでも、背後で風がそよいだ気がした。
村へ戻ると、空気が変わる。
人の気配、火の匂い、生活の音。
半日にも満たない冒険だったはずなのに、とても懐かしく思う。
虹苔は手に入れた。
「まずは飯……報告だな」
規則は規則だ。自然と共に生きる者として、責務は果たそう。
森は十分に応えてくれた。
あとは、私がそれをどう扱うかだ。
私はキケ管の支部に辿り着くなり、急いで報告を行った。
職員は手慣れた様子で、テキパキと書類をまとめていく。
「“あの感覚”の正体、分かりましたか?」
途中、手を止めることなく、雑談めいた問いが投げられる。
「そうだな。満腹のあとに似た、温かな感覚だ」
「そうなのです。実は私、その感覚に敏感でして……というのも、この村へ来る前までは、ドカグーイクラブに入っていたほど、食事に固執していたんです。でも、ここでは食事がなくても、なぜか満たされる気がして」
話が一段落するころ、虹苔に関する書類はすべて整ったようだった。
職員は一枚の紙を差し出してくる。
「こちらが、虹苔の使用許可書です。危険区域管理庁の手続きに則り、正式にあなたの所有物として認められました」
「感謝を。ありがたく食べさせていただこう」
「もし本気で痩せたくなったら、この村に滞在なさってください。村も森も、あなたを歓迎していますよ」
「世の中の飯を一通り食べ尽くしたら、その時はお願いしよう」
私は支部を後にした。
別に、この村が嫌いというわけではない。
ただ私には、まだ見ぬおいしい食べ物たちが待っている。
さて、どうしよう。
この虹苔を食べるにしても、問題はどう食べるかだ。
私は今、強烈に甘いものが食べたい。
この村で、それが食べられるだろうか……
いくら考えても、向かう先は一つしかない。
この村で、唯一食事を提供している店だ。
「すまない。急なお願いなのだが……」
私は食堂に入るなり、厨房に立っていた年老いた女性へと頭を下げた。
「甘いものが食べたい。作っていただけるだろうか?」
「頭を上げな。あんた、いいところに来たねぇ。ちょうどさっき、息子が蜂蜜を届けてくれたんだよ。食べていきな」
「蜂蜜だと?」
驚きのあまり、思わず声が大きくなる。
蜂蜜は、小さな虫たちがせっせと集めた蜜だ。
とても貴重で、私自身も人生で一度しか口にしたことがない。
「息子さんはどちらに? ぜひ挨拶をしたい」
私は周囲の気配を探るが、人の姿は見当たらなかった。
「今朝方に会ったはずだよ。今は夜の採取に出ちまったがね。『むちの嬢ちゃんに、これでも食べさせてやってくれ』なんて言ってさ。私の料理が薄味だって言いたいのかねぇ。まったく、失礼なやつだよ」
女性は怒っているのか、それとも誇らしいのか分からない表情で笑った。
「ほら、早く荷物を置いてきな。今日はパンケーキだよ。息子にも、よく作ってやったものさ」
促されるまま、私は宿屋の自室へ向かう。
自室で最低限の身だしなみを整え、食堂に戻ると、丸机の上にはすでにパンケーキが並んでいた。
私が椅子に腰を下ろそうとする間にも、その枚数は静かに増えていく。
幸せだ。
この温かさ。
私にはよく分からないが、これが家庭というものなのだろう。
「冷めないうちに食べちゃいな。どんどん持っていくよ」
女性にそう言われ、私はナイフとフォークを手に取った。
そして、いったん置く。
隣に置かれた小瓶。
中には黄金色に輝く蜂蜜が入っている。
それを手に取り、わずかに震える。
「なにやってるんだい。これはね、こういくのさ」
私の様子を見かねた女性が小瓶を取り上げ、そのまま豪快にパンケーキの上へとかけた。
「ぜ、贅沢だ……」
輝くパンケーキ。
それはもはや、食べ物というより絵画だった。
同じようにすればいいのだろうか。
私は女性を真似て、袋から取り出した虹苔を、パンケーキの上に豪快に振りかける。
女性が目を丸くした。
「それ、虹苔じゃないのさ!」
「問題ない。手続きは済ませてある」
「そういうことじゃないよ。こんなにも貴重なものを……はっ、贅沢だねぇ。楽しむんだよ」
女性は一瞬焦った表情を見せたが、私の顔を見るなり呆れたように変わり、大きく笑った。
そして、そのまま調理場へと戻っていく。
私は何がそんなにおかしいのか分からなかったが、気にしている場合でもない。
ナイフとフォークを手に取り、改めて目の前の食事に向き直る。
黄金と虹色。
輝きが止まらない傑作が、そこにあった。
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【今日のメニュー】
・虹苔パンケーキ
・蜂蜜
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「感謝を」
まずは一口。
ナイフで切り分けたパンケーキを口に運ぶと、蜂蜜の濃厚な甘さが舌に広がる。ここまでは想像どおりだ。だが、その直後、虹苔が静かに仕事を始めた。
甘さの輪郭が、ふっと変わる。
蜂蜜の直線的な甘みが、奥行きを持つ。花の蜜の香りがふくらみ、森の朝露のような涼やかさが後味に残った。甘いのに重くない。むしろ、自然ともう一口を欲してしまう。
「……芸術」
思わず、そう呟いていた。
虹苔は自己主張をしない。合わせた食材の性質を受け取り、それをほんの少しだけ理想の方向へ押し出す。パンケーキの素朴さはそのままに、蜂蜜の甘さだけを丁寧に磨き上げている。
パンケーキという名のキャンパスに蜂蜜で絵を描き、虹苔という額縁がすべてを完成させる。どれもが一級品で、完璧な調和を成していた。
二口目、三口目。
温かい生地の水分に触れた部分では、虹苔はより丸みのある甘さを引き出す。一方、焼き目の香ばしい部分では、ほのかな木の実のようなコクを添えてきた。同じ皿の上なのに、食べる場所で印象が違う。
私は無言のまま、淡々と食べ進める。
胃が満たされていく感覚と同時に、頭と胸の奥がじんわりと温かくなる。あの感覚だ。
だが、以前のような衝撃はない。今回は最初から最後まで、穏やかだった。
気づけば、皿の上はきれいになっていた。
私はフォークを置き、深く息をつく。
虹苔は、丁寧に味わうこと。その前提があってこそ、真価を発揮する。
……しかし、私は止まれなかった。
もう一度だけ、黄金色の小瓶へと目をやる。
「……さすがに、だめだ」
伸びかけた右手を、左手で押さえる。
「あんた、本当に息子と同じだね。誰も見ちゃいないよ。飲んじまいな」
そう言って、パンケーキを載せた新しい皿を持ってきた女性。
「やってみた、かったんだ……感謝を」
私は小瓶に入った蜂蜜を、そのまま口に流し込んだ。
喉を通った瞬間、甘さが広がった。
ただ舌に乗せ、ゆっくりと飲み込むだけ。それだけで、胸の奥まで温かいものが落ちてくる。
ほんの少しだけの酸味。直接のんで初めて感じる。全く角がない。
幸福そのものを液体にしたものだとしたら、きっとこういう味なのだろう。
私は目を閉じ、しばらく動けずにいた。
腹の底から満ちていく。疑いようのない、正しい幸せだ。
「……これは、危険だな」
小瓶をそっと卓に戻す。
すると、女性が何事もなかったように、次の皿を置いた。
「まだあるよ。息子が多めに置いていったからね」
追加の蜂蜜。
追加のパンケーキ。
私は一度、深呼吸をした。
そして、フォークを取る。
その後のことは、あまり覚えていない。
一枚食べては、蜂蜜を垂らす。
時折、虹苔を指でつまみ、焼き目の強い部分に乗せる。
甘みが変わるのを確かめ、静かに頷く。
それを、繰り返した。
気づいたときには、皿が積み重なり、女性が呆れた顔で息を吐いていた。
「……二十枚だよ」
「そうか」
否定する理由はなかった。
私の腹も、完全に同意している。
私は最後の一口を飲み込み、フォークを置いた。
満腹という言葉では足りない。身体の隅々まで、行き渡った感覚がある。
小瓶に残った虹苔を取り出し、卓の上に置く。
「これは、あなたと息子さんで食べてほしい」
女性は一瞬、驚いた顔をしたが、すぐに柔らかく笑った。
「いいのかい」
「私の役目は終わった。あとは、家族の食卓にあるべきだ」
「……そうかい。息子も喜ぶさ……」
女性は虹苔を大事そうに眺める。
「ありがとう」
「こちらこそ、感謝を」
私は立ち上がり、腹の重さを確かめる。
悪くない。むしろ、安心する重さだ。
部屋へ戻ると、木々の間を渡る夜風が、静かに窓を揺らしていた。
私は服もそのまま、ベッドに身体を沈める。
あの感覚が、また来る。
今度は、何も疑わない。
私は知った。
材料も大切だが、それ以上に、温かさこそが食事をおいしくするのだと。
そろそろ、向き合うときが来たのかもしれない。
私の家族であり、私に薬を盛ったライバル──メイス使いのメスート。
彼にも、この幸せを分けてあげた……い。
満ち足りた余韻と、明日へ踏み出す静かな決意を胸に、私は眠りに落ちた。
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【虹苔パンケーキ~蜂蜜を添えて~】
幸せが作った芸術作品!
ひと口目で感じるのは、生地そのものの素直さだ。パンケーキは甘さを前面に押し出すでもなく、かといって食事用のパンほど無骨でもない。香りが穏やかに立ち、焼き目の香ばしさがまず舌を落ち着かせる。これは主食なのか、それともデザートなのか。その境界線に、静かに立っている。
そこへ流し込まれる蜂蜜は、明確にデザートの顔をしている。濃厚で、直線的で、疑いのない甘さだ。しかし不思議なことに、生地がそれを受け止めることで、甘さは暴走しない。パンのように受け、ケーキのように広げる。そのバランスが心地いい。
決定的なのは虹苔の存在だ。合わせる食材によって性格を変えるこの苔は、ここでは仲裁役に回っている。蜂蜜をただの甘味に終わらせず、香りと余韻を伸ばし、生地の滋味を一段引き上げる。結果としてこれは、パンでもケーキでもなく、ひとつの芸術作品として完成した。
主食としては甘く、デザートとしては重くない。朝でも夜でも成立し、空腹でも満腹でも受け入れてしまう危うさがある。実際、枚数を重ねても手が止まらない。静かに満たし、気づけば深く満たしている。
総じて言えば、この一皿は問いを投げかけてくる。
これはパンか、ケーキか。主食か、デザートか。
答えは一つではない。ただ確かなのは、また食べたくなる、という事実だけだ。




