樹登りとムチの使い方
次の日。
私はとりあえず情報集めから始めることにした。
この森には絶対に何かある。そんな確信だけはあった。
「苔ばっかりだな……」
村を歩き回りながら、昨日から気になっていた光景を眺める。
どこもかしこも苔、苔、苔。
村そのものが苔に飲み込まれつつある、そんな印象すらあった。
しゃがみ込んで苔を眺めていると、大きな籠を背負った男が声をかけてきた。
「それ、食えるぞ」
「何味だ?」
即答する私。
「自然の味だな」
「そっか……」
今の気分じゃない。
もっとこう、味の主張が強いやつが欲しい。
「甘かったら最高なのにな……」
そういえば最近、甘いものをとんと見ていなかった。
常備していたタンパ君も、すでに空っぽだ。
「あんた、狩猟士だろ?」
男がじっと私を見てくる。
「まあ、そうだが?」
立ち上がり、胸元から狩猟士の証を取り出す。
取り出そうとしたら、服と胸がやたらきつくて手間取った。
「疑ってたわけじゃねぇよ。この村に来る外の人なんて、狩猟士ぐらいだからな」
「ひとつ聞きたかった。どうしてこんな場所にキケ管の支部が?」
「この村、危険区域の境にあるからよ。とはいっても危険なのは獣じゃなくて植物の方だ。だから村自体は安全なんだ」
「なるほど……」
私は合点がいった。
カーボみたいに私兵のいる街じゃないのに境界に建っている理由。
植物は動かない。
だから、人間はここに暮らせる。
「苔に興味津々って顔してるな」
男はどこか得意げだ。
「この時期になると、虹苔ってのが発生してな。その影響で村中が苔まみれになるんだ」
「虹苔? なんだそれ」
「世界樹に生えるって噂の苔だよ。俺も見たことねぇけどな。まあ、伝説級の代物だ」
「うまいのか?」
「一度だけ食ったが……あれはヤバい。味が変わるんだよ。デザートなら甘く、主菜ならしょっぱく。どれも味に深みがあってな。どうだ? 食ってみたくなったろ?」
妙に誇らしげな言い方だ。
私は垂れかけていた涎を慌てて拭いた。
「ど、どこにあるんだそれは!?」
反射で男に詰め寄ってしまう。
「知らん。でも、苔が導いてくれるさ」
男はそれだけ言い残し、足早に去っていった。
嘘とも本当とも言えない。
しかしあの男の横顔は、まるで何か強烈な思い出を見つめているようだった。
つまり、虹苔は“ある”。
「苔の導き、か。面白いじゃない」
私は宿へ戻り、旅支度を整える。
向かう先はひとつ。危険区域だ。
準備を終え、最低限の荷物を肩にかけた私は、村をあとにした。
とはいえ、入ってきた方角ではない。世界樹を探すなら、もっと奥へ踏み込む必要がある。私は森のさらに深くへと足を向けた。
道は細く、すぐにでも見失いそうだった。
だが、不思議と足取りは軽い。
「冷静に考えたら、苔の導きとは何なのだろうな」
歩きながら、ようやく疑問が追いついてくる。
勢いよく出発したのはいいが、事前調査はあまりにも不足していた。あの職員に、もう少し情報を聞いておくべきだった。
私は方角だけは間違えないよう、北へ向かう。
陽の位置と時刻さえ分かれば、大まかな方向は割り出せる。資格試験で叩き込まれた知識の賜物だった。
しかし、それだけでは辿り着けない。
世界樹は、もっと巨大で、もっと目立つはずだ。
伝説から名前を取ったということは、それなりの見た目をしているはず。
だが、どれだけ歩いても、視界には現れなかった。
森そのものが、何かを覆い隠しているような、妙な圧を感じる。
「普通なら、あれだけ大きなものを見失うわけがないのだが」
私は足を止め、周囲を見回す。
ひたすらに同じ景色が続いている。茶と緑の壁が、視界を均一に塗り潰している。
昨日からずっとこれだ。
場所、時間、目的まで忘れてしまいそうだ。
その時だった。
ぐう、と腹が鳴る。
昼の出発前に軽く食事をとったのはいいが、森の探索は思った以上に体力を奪う。
「……腹が減った」
あの村の食事に文句を言うわけではない。
なんというか……自然派なのだ、あそこの食事は。
「め、めし……」
つぶやきと同時に、ランタンのオイルが切れたように辺りは暗くなる。
足元がふわりと明るくなった。
淡く滲む光。
苔が、まるで息をするように輝いている。
最初は気のせいかと思った。
だが、数歩進むごとに光は連なり、道のように形を成し始める。
「なるほど。空腹で気が散ったと思ったが……そういうことか」
光は北でも南でもなく、森の奥、まったく未知の方向へ伸びていた。
まるで、私を呼ぶように。
これが導きだというのなら、私は従うまでだ。
最初は本当にそんなものがあるのかと疑っていたが、この光を前にすれば、否定する方が難しい。
私は静かに息を吸い、光の道へと一歩踏み出した。
「案内してもらおうか」
そう呟くと、苔の光がゆるやかに揺れた。
まるで返事をするかのように。
……呟きではない。私の腹の音に反応していた。
今思えば、村に入った時から”今”は決まっていた気がする。
森の奥、見えない世界樹へ。
あの感覚が、微かに胸の内側を撫でる。
私は腹の虫と共に、光の道を進んだ。
苔の道はゆっくりとカーブし、斜面を登っては下り、さらに深くへと導いていく。
やがて、森の木々の密度が急に薄くなった。
そして、視界がひらける。
そこには、天へ突き刺さるような一本の巨木があった。
森の巨木とは明らかに違う。
幹は山のように太く、枝は空に浮かぶ雲をかすめるほど高く……見える。
実際は巨木より少し高いぐらいだ。遠くから見ても不自然はない。
「……なるほど。これなら、隠れるのも納得だ」
森の景色に完全に溶け込んでいる。
それでも、それが世界樹だと、心が認識している。淡く虹色の光が表皮のどこかから漏れるその荘厳さは、大きさなど些細な情報だということを示している。
自然という世界の中に、液体として、空気として流れているような存在だ。
私の足元で、苔がまた光った。
虹色に揺れながら、根の方を示している。
腹が減ったと感じた瞬間に、足元の苔が光り、その光はまっすぐ世界樹へ向かう。
あまりにも出来すぎた話だが、疑うより先に体が動いた。
「お腹が空いて導かれるとは、食い意地の証明か……」
自嘲気味に笑いながら、私は世界樹の根元へと歩み寄る。
目の前には巨大な幹。
見上げると、木の頂上付近、淡く虹色に光る苔が枝と枝の間から顔を出している。
あれが目的の“虹苔”だ。
「木登りとは、何十年ぶりだろうか」
私は少し楽しくなっていた。
腰に巻いた愛用のムチを外す。
細長く、しなやかで、必要以上に言うことを聞く相棒だ。
幹の中腹、少し突起が出ている箇所に向かってムチを投げる。
鋭い音を立てて先端が突起に絡みつく。
軽く引く。
確かな手応えが返る。
そのままムチを引きながら、私は歩き始める。
今の私にとっての地面は、この直立した幹だ。
腕力、脚力、体幹、全てを総動員して、木を登る。
途中、突起を手で掴み、再度ムチを高い位置へ投げる。
引き寄せ、身体を持ち上げる。
昔の私なら苦戦したかもしれないが、今の私にはムチがある。
まるで空中に階段を作るように、私は順調に高度を上げていく。
途中、風がひゅうと吹いて体が揺れた。
だが、ムチが勝手に振動を吸収し、私を安定させる。
相変わらず優秀だ。
「……あと少しだな」
虹苔が近づく。
淡く、優しく光り、夜の闇に漂う霧のようだ。
最後にムチを高所へ絡ませ、私は身を引き上げた。
枝と枝の間に立ち、手を伸ばす。
「食べてもいいか?」
鳴る腹の音を気にせず、私は世界樹に向かって聞いた。
ほんの少しだけ、夜の森がざわめく。
世界樹が大きく呼吸するように、風が吹く。
虹苔が、七色に輝いた。
「感謝を」
苔は温かかった。
摘み取った瞬間、虹色の光が指先から腕へと微かに流れ込む。
ふかふかの布団に包まったときのような温かさだ。
私は採取用の瓶に苔を入れ、きっちりと蓋を閉めた。
そしてムチを振り、滑るように下降を始めた。
微かな光のぬくもりは、まだ指先に残っている。




