森の村と世界樹の行方
一面に広がる森。
天へと伸びる巨木が果てしなく連なり、視界のすべてを茶と緑に塗り替えていく。風が枝を揺らすたび、葉の重なりが低く鳴り、どこかで変な鳴き声が響く。まるで森そのものが呼吸しているかのようだ。
「こんなところにキケ管の支部があるとはな……」
私は獣道を踏みしめながらつぶやく。足元には苔の柔らかな感触、湿り気を帯びた空気が喉にまとわりつく。
港町での依頼を片付けた私は、完了報告のため、この深い森の奥にある危険区域管理庁の支部へ向かっていた。
森は深かった。
歩けば歩くほど、外界の音は途絶え、聞こえるのは風のざわめきと、木々が軋む低い声だけになる。
やがて、道が終わった。
地図上ではこの先に村があるはずだが、目の前に広がるのは、ただの木の壁のような密林だ。
「ここか……なんか、いいな……」
語彙力のない感想が漏れる。
巨木の根がゆるやかに持ち上がり、その隙間がほのかに光を漏らしていた。
まるで誰かが『気づいたなら来ていい』と言っているようだ。
私は身をかがめ、根のトンネルを抜けた。
その瞬間、視界が一気に開ける。
森の中に、村が浮かんでいた。
木々の高い位置には、いくつものツリーハウスが吊り橋でつながれ、地上には丸太をくり抜いた住居や、苔むした石の道が静かに続いている。
背中に大きな籠を背負った人々が、地上と空を行き来する。
横への視線だけでは、この村では生きていけないらしい。
「ここか……」
私は立ち止まり、思わず息を吸った。
湿った木の香り。
日差しを吸い込んだ葉のあたたかい匂い。
そして、どこかで焚かれた甘い草の煙。
港町の雑多な空気とはまるで違う。
人が自然を削った場所ではなく、自然の余白に人が住んでいる。
木々の合間に家が生え、木の橋が空中で交差し、枝道が複雑に絡み合う。
どの建物にも釘の跡はない。全部、木の成長に合わせて造られたような、自然と人が共に形を作った痕跡があった。
所々に生える苔は、僅かに光っている。
夜になれば、きっと星空のように輝くのだろう。
それにしても静かな村だ。
異質と言えば異質だが、敵意は感じない。
私は肩の力を抜き、ゆっくり歩き出した。
森の香りを胸に吸い込みながら、その“不思議な静けさ”をかみしめた。
村の中心に近づくと、巨木の根元に小さな建物が見えた。
扉の横には木板に刻まれた看板がかかっている。
『危険区域管理庁・森の支部』
拍子抜けするほど質素だった。ツリーハウスの壮観さの後では、むしろ存在が埋もれている。
扉を押すと、木の香りがふわりと広がった。
中には机が二つ。古い棚が一つ。それだけだ。
その部屋の真ん中で、一人の職員が椅子に座っていた。
髪は肩まで伸びているが不潔ではなく、森の人らしい飾らない格好をしている女性だ。
彼女は、ほんわかとした垂れ目をこちらに向けている。
「こんにちは」
職員が先に口を開いた。
「よろしく頼む。ムチーノだ。港町シーフにおける危険区域同行任務の完了、および遭遇した獣の討伐報告をさせていただきたい」
私は身分を証明する金属のプレートを見せ、書類束を机に置く。
海で震え続けた紙は、端が少し波打っていた。
職員はそれを丁寧に開き、一枚ずつ確かめる。
木漏れ日の中で、ページをめくる音だけが静かに響く。
「確認しました。問題ないです……いえ、むしろ完璧ですね。報告書がこんなに早く、しかも整っているなんて、珍しい」
「……そうか」
私は淡々と答える。実際は夜更けまでかかって書いたものだ。
今まで会った狩猟士に比べたら遅いと自覚している。
「牙えびの個体情報、行動域、遭遇時の状況……それに、対処法まで書かれていますね。今後の指針にもなりえる貴重な情報です」
職員は少し目を細めた。尊敬というより、驚きに近い表情だ。
「ムチーノさん。もしよければ、しばらく森に滞在していってください。この村には……あなたが興味を持つものが多いと思います」
その言い方には、どこか含みがあった。
ただの勧誘ではない。何か、理由がある声色。
「というのも、最近、この森でも“あの感覚”に近い現象が起き始めているんです」
私の背筋に、海とは違う冷えた風が通る。
ここには”なにか”ある。
そしてそれは、私が知る“あの感覚”とつながっているかもしれない。
「ちょうど私も気になっていたところだ。楽しませてもらおう。ところで、飯屋はどこだ?」
「正面三本先の木の上にありますよ。宿屋も兼ねていますので、ごゆっくり」
職員は最後まで笑顔だった。ただ、どこか眠たげでもあった。
私は報酬をしまい、外へ出た。森の中はいつの間にか夕方の色に沈み、巨木の影が細長く伸びている。食事にはちょうどいい時間帯らしい。
風に合わせて木々が鳴らす音。
この村そのものが、世界という名の樹の根、その一部なのではないかと思う。
……まただ。
胸の奥が、かすかにざわついた。
私は立ち止まり、深く息を吸う。
違う。
これは “あの感覚” ではない。
だが、どこか似ている気もする。
前のように、ただの空腹だと片付けていいものか。
森の奥に、何かがある。
私を呼ぶように、静かで、曖昧で、しかし確かなものが。
「……少し歩いてみるか」
巨木の根を踏み、淡い光を返す苔が足元で揺れる。
私はその光の道に導かれるように、村の中をゆっくり歩き始めた。
村はどこを見ても異質だった。
枝と蔦で編まれた橋が、木と木の間を静かに渡している。
ツリーハウスは幹に溶け込むように寄り添い、部屋には灯り代わりの光苔が並べられていた。
ひとつひとつが森の呼吸に合わせるように、淡く、鼓動のように明滅している。
やがて、木の上にある食堂へ続く階段に辿り着いた。
上るたびに木の香りが濃くなる。
巨木の中腹で、私は古びたドアを押し開けた。
「飯と宿を頼みたい」
食堂の中は、外よりさらに静かだった。私の声だけが、くっきりと響く。
「珍しいねぇ……うちはメニューがないけど、それでもいいかい?」
年老いた女性が、鍋をかき混ぜながら笑う。
「問題ない。もうおいしいことは確定している」
匂いだけでライス五杯はいける。
「荷物を置いておいで。準備しておくよ」
木製の鍵を受け取り、食堂の奥へと進む。
こじんまりとした部屋が三つだけ。本当に小さな宿だ。
最低限の家具が置かれただけの部屋に荷物を置き、一息ついてから食堂へ戻る。
丸机の上には、森の恵みを煮込んだスープ、焼いた根野菜、香草を混ぜた穀物の団子が並んでいた。
「感謝を」
私は一つずつ口に含む。
どれも素朴だが滋味が深く、身体の奥まで染み渡る。
黙々と食べ進め、満足感がじわりと広がる。
……だが、あの感覚は起きない。まあ当然だ。
少しだけ残念だが、酷使しすぎたお腹が喜んでいるので、今日はそれで十分だった。
フォークを置き、深く息をつく。
「おいしかったかい?」
女性が、優しく微笑む。
「もちろんだ」
今の私に必要だったもの。
胃に向かって『ありがとう』と言うためのものだった。
私は自室へ戻り、窓を開ける。
木の上から見下ろす景色は、昼とは違う静かな輝きをまとっていた。
視線を感じる。
圧ではなく、包み込むような、柔らかい気配。
虹色に淡く揺れる光苔のような、かすかな導き。
「寝よう……」
簡素なベッドに身体を倒した瞬間、心地よい“あの感覚”が全身を包む。
まぶたの裏には、森の奥で光る虹色の影。
眠りに落ちる直前、私は確信した。
この村での一歩が、きっと何かを変える。




