牙えびパエリア
巨大な鋏が月光を弾き、狂気じみた光を放つ。
甲板には海水が流れ込み、足元がずるりと滑った。私は反射的に後退る。
「脚があるとは……驚きだな」
四本脚で甲板を踏み荒らすその姿に、背筋が震えた。海の怪物が、人間の領域に侵入してくるというだけで、こんなにも恐ろしいとは。
「ここは私に任せてくれ!」
叫んだ勢いのままムチを構え、触角へ牽制の一打を飛ばす。注意を引くには十分だ。
私が相手だ、と意思表示をする一撃。
恐怖か興奮か分からない熱が、心の奥で跳ねていた。えびと同じだ。
私は踏み込み、空気を裂く勢いでムチを振る。
しかし鋭い音のあと、手応えは弾かれるように軽かった。
その瞬間、牙えびが跳んだ。異常な跳躍力で目の前に迫る。
鋏が甲板をえぐり、木片が飛び散った。あと半歩遅ければ真っ二つだ。
だが同時に、私は思い出す。
──ムチは、傷をつけるだけじゃない。動きを“止める”道具だ。
牙えびが再び飛びかかる瞬間、私は低く身をひねり、ムチを地を這うように走らせる。
乾いた爆ぜる音。
狙ったのは外殻ではない。関節。動きの要だ。
牙えびの脚が揺らぎ、巨体がグラリと傾く。
その隙に、フーバーが滑り込んでいた。海水で濡れた甲板を、まるで自分の部屋の床みたいに静かに、速く。
彼は背中の短剣を抜き、片手で網をひょいと投げた。
迷いのない鋭い動作。網は牙えびの鋏を絡め取り、動けば動くほど締まっていく。
「ムチーノ、決めろ!」
私は息を吸い、腕の力を抜き、しなりに任せてムチを走らせた。
狙いは触角の根元。最大の弱点。
ムチが吸い込まれるように打ち込まれた瞬間、牙えびの巨体がビクリと震え、力が抜けていく。
鋏が下り、動きが止まった。
風が吹き抜け、静寂が留まる。
私は大きく息を吐き、笑ってしまった。
「戦えるのか……」
「盗賊は嘘つきだからな」
フーバーは伸びをしながら笑う。
「じゃ、いただくぜ」
殻の隙間に短剣を差し込み、仕留めの一突き。牙えびは月光の下で巨大な影を落とした。しばらく誰も動かず、その影を見つめた。
胸の奥に、確かな達成感だけがあった。
海は荒く、獲物は気まぐれ。
だが今だけは、海が私たちに味方した気がした。
そして、私は記録を取る。狩猟士になったからには、ここからも大切だ。
この牙えび、どうやら四足歩行なので“獣”扱いらしい。
「あんた、ちゃんと仕事すんのな」
フーバーが怪訝そうに覗き込む。
「当たり前だ」
私はじとっと睨み返す。
「フーバー、解体は任せていいか? 知識が足りなくてな」
「任せとけって。こういうのは得意分野だ」
彼が笑った瞬間、戦いよりも頼もしさを覚えた。
牙えびを仕留めた後、甲板の空気が変わった。
甲板だけではない、海の空気も確かに変わった。
「……来たぞ」
誰かが呟いた瞬間、海面がざわりと隆起した。
闇の奥から光が散り、無数の影がうねる。
えびだ。だが普通のえびではない。
牙えびに付き従うように群れで動く、大ぶりな野生のえびたち。
その触角はどれも淡く光っていた。
「綺麗だな」
私は思わずその光景を眺めてしまう。
しかし、漁師たちはそうも言っていられないようで、網を投げ、鉤を操り、海に手を伸ばす。
次々に甲板へ放り上げられるエビの山。音が絶えない。
「手伝おう」
ムチで海面を打つと、衝撃に反応したエビの群れがわずかに散り、その隙を狙って網が入る。
ただ殴るのではなく、誘導する。狙った線を通すように水面を切る。
ムチのしなりが海図のように獲物を動かした。
夜明けまでに甲板は山のようなエビで埋まり、船がわずかに傾くほどだった。
半日で何もとれず焦っていたのが嘘のようだ。
五日ぶりの快晴の中、帆が張られ、船は町へ向かう。
潮風は軽く、甲板にはかすかに甘いエビの匂いが立ちこめていた。
「今年は最高だ」
フーバーは牙えびの殻を乾かしながら笑う。
解体は綺麗に終わったようで、切り分けられた牙えびの身は、船内の氷蔵に保管されている。
殻も工芸品か何かに使えるらしく、陽の力を借りて下処理をしているようだ。
「えびは食えるんだよな?」
私は真面目に聞いた。
これが一番大切なことだ。
「結局はそれか」
「そのために居る」
フーバーは呆れたように肩をすくめ、私に干しえびを投げてよこした。
それを受け取り、かじる。
海の味が強い。凝縮されている。健康だ……
町の影が水平線に見え始めるころ、船上では誰もが疲れていたが、空気は軽かった。
勝利と大漁のあとに流れる、静かな満足の匂いがあった。
「ムチーノ、帰ったらどうするんだ」
「書類をまとめる」
「真面目だな」
「たぶん、食べたら、寝てしまう……」
フーバーは笑い、私も小さく息をついた。
海は相変わらず荒々しい。
だが、この帰路だけは穏やかに見えた。
「なあ、ムチ使い。ひとつ聞いていいか?」
急に声を低くしたフーバー。
漁師ではなく、盗賊としての目だ。
「この町に来る前、俺はある武芸者に薬を売ったんだ。遥か昔に存在したと言われる黒魔術師が作った薬らしくな……」
私は”武芸者”という単語に眉を動かす。
「おっと、誤解するなよ。俺は悪人からしか盗みはしなかった。それも地下競売からくすねたものだぜ」
フーバーは少し焦ったのか、両手を上げる仕草をした。
「それで、その武芸者は確か、『あの憎きムチ使いに飲ませてやる』とか言っていた……まさかだが、あんたがそうか?」
「質問に質問で返して悪いが、彼はどんな見た目だった?」
「はっ、クソガキだったよ。一応言っておくが、オークって場所だ。珍しい食い物も結構出品されていたぜ。なにせ競売の街だったからな」
「食い物!?」
これは良い情報を得た。
私の様子を見て、フーバーはこれ以上の追及を止めた。
漁師に戻り、ただ笑う。
牙えびの巨大な殻が、船尾で朝日の光を受けていた。
それは戦いの証であり、五日間の答えでもあった。
町に戻ると、荷揚げの手伝いを終えた私は、そのまま宿屋へ向かった。
牙えびとの遭遇、その生態、そして処理。
机に向かうと、身体の疲労がじんわりと蘇る。
今やらないと、もうやらない気がする。
頑張れ、私。
筆を動かしていると、指が少し震えているのに気づいた。戦いの余韻か、空腹か。
おそらく後者だ。
気がつけば、窓の外は真っ暗になっていた。書類をまとめ終えた瞬間、私は椅子に沈み込む。
胃がきゅうっと鳴った。
腹が限界だった。五日間の航海で食べた漁師飯の記憶がじわじわ蘇る。胃袋が抗議している。
「……食べよう」
私は立ち上がり、灯りの少ない路地へ出た。この時間に開いている店はほとんどない。だが、一軒だけ、橙色の灯りが薄く揺れていた。
古びた酒場だった。木の看板は欠け、扉も少し傾いている。どう見ても、素朴なつまみと安酒だけが出てくる場所だ。
「おう、あんたがムチーノか。噂は聞いてるぞ」
中に入るなり、陽気な店主が声をかけてきた。まるで待ち構えていたかのようだ。
「私がムチーノだ。えびは……えびはあるか」
我ながら情けないほど切実な声だった。
「あいよ。牙えびなら入ってるぜ」
「なぜそこまで……」
「フーバーの野郎がな。むちむちの嬢ちゃんが絶対に来るからって、強引に置いてったんだよ」
フーバー……仕事ができる男だ。
私は小さく笑い、空いていたテーブル席に腰を下ろした。
酒場の中は妙に静かだった。
客は何人かいるが、皆ゆっくりと酒を飲んでいる。
仕事終わりに一杯、という人が多いかと思ったが、この町では夜に漁へ出ることが多い。
私が乗っていた漁船の船員たちは、もう飲み終わったのか、きっと疲れて寝ているのだろう。
ほどなくして、店主が大皿を運んできた。
「お待ちどうさん。牙えびのパエリアだ」
私は固まった。
パエリアだった。酒場に似つかわしくない。
……パエリアってなに?
「パエリアとはなんだ……」
「昔ちょっと異国を旅したことがあってな。趣味で作ってるんだよ。味は保証するぜ」
結局パエリアについては分からなかったが、今はそれどころではない。
これは絶対においしい。それだけは分かる。それで十分。
皿の上には黄金色のライス? がぎっしり詰まり、その上に牙えびの身が豪快にのっている。他の海鮮の類も芸術作品のように並べられ、湯気が立ち、香ばしい匂いが鼻を突いた。汁気はなく、ライスは粒がしっかり立っている。
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【今日のメニュー】
・牙えびパエリア
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「感謝を」
私はスプーンを入れた。
一口目で、私は海に戻っていた。
えびの旨味がライスに染みている。噛むほどに海の甘さが広がり、香草の香りが後を追った。牙えびの身は驚くほど弾力があり、口の中で跳ね返るようだった。火がしっかり通されているのに、まるで生を食べているかの感覚だ。
私は気付けば夢中で食べていた。
大皿は一人前とは思えない量だったが、数分後にはすっかり空になっていた。
「すごい勢いだな。フォカッチャもあるぜ。食べ放題だ」
「フォカッチャ……?」
また分からない料理がきた。聞いた感じはおしゃれだ。
私は差し出されたフォカッチャを手に取り、ちぎって口に放り込む。香ばしい香りとほのかな塩気。外はカリッと、中はふわふわだった。
一枚目を食べ終えると、体が自然と次に手を伸ばしていた。
なんとなく、卓上にあった緑色の油をつけて食べる。脂肪と糖の相性は最高だ。
結局、私は三枚食べた。
腹が落ち着くと、ようやく人心地ついた。書類仕事で日付が変わるまで机に張り付いていた疲労が、一気に溶けるようだった。
店主は笑って皿を片づけながら言う。
「噂以上の食いっぷりだな。とりあえず、お疲れさん」
「労働後の飯は格別だ。感謝する」
本当に、死ぬほど空腹だったのだ。
カウンターの奥では、牙えびの殻が静かに光を反射していた。戦いの名残を思い出しながら、私は深く息をついた。
満腹の夜は、久しぶりに優しかった。
店主は満足げに笑い、私は席を立った。
酒場を出ると、夜風は冷たく、静かだった。町の灯りが海に反射し、ゆらゆら揺れている。
私は宿へ戻り、鍵を開け、薄暗い部屋へ入った。
机の上にはまとめていた書類が残っている。依頼達成報告、遭遇記録、牙えびの分類。すべて片付けたはずなのに、まるでまだ仕事が残っているような気がした。
ベッドに腰をおろした途端、身体の奥から疲れがどっと押し寄せる。
まぶたが重い。
私は横になり、天井をぼんやりと見つめた。
波の音が耳の奥に残っている。
あれは……ただの風の音だろうか。
それとも、まだ海が私を呼んでいるのだろうか。
考える前に、意識が沈んでいく。
静かな夜に、潮の匂いがかすかに揺れた。
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【牙えびパエリア~フォカッチャを添えて~】
海の味! 海そのものの味!
ひと口めでまず圧倒されるのは、牙えび特有の濃密な甘みだ。火をしっかり通しているにもかかわらず身は硬くならず、むしろぷりっと弾む。噛むたびに凝縮された旨味がほとばしり、海の奥深い場所で生きてきた獣の力強さが舌の上でほどけていく。雑味が少ないのは、漁師と料理人の両方の腕が良い証拠だろう。
ライスはさらりとしており、汁気はない。だが牙えびの旨味を吸い込んだ一粒一粒が、小さな宝石のように輝く。ライスが主張しすぎず、えびの味を背負うためだけに存在しているような、そんな潔さすら感じる一皿だ。
具材は控えめに留められている。異国風の香草がほのかに香るが、決して派手ではない。店主が語った『昔、遠い土地で学んだ』という話にも納得がいく。酒場らしからぬ気取りがありながら、どこか土の匂いが残っているのが面白い。
フォカッチャは食べ放題らしい。意味はよく分からないが、手に取ってみれば素朴な香りがあり、表面は軽く香ばしい。噛むほどに広がる小麦の甘みが、牙えびの強靭な旨味を優しく受け止めてくれる。
食べ終えたあとに残るのは、海風と焚き火を同時に浴びたような、不思議な余韻だ。荒々しさと上品さが同居し、どちらにも偏らない“海そのものの調和”があった。




