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TS無知ムチ使いの異世界ドカ食い気絶旅~脂肪と糖を添えて~  作者: Seabird(シエドリ)
4回目 牙えびパエリア~フォカッチャを添えて~
11/24

漁師と荒波

 一晩ぐっすり眠り、いよいよ今日から七日間の漁が始まる。

 えびが一定量捕れた時点で契約は終了するが……さて、どうなるだろう。


 私は荷物をまとめ、朝の薄闇が残る港町を歩いた。

 空気はひんやりとしていて、昨日食べた海鮮の余韻が、まだ舌の奥に微かに残っているような気がした。


 港へ向かう途中、開いたばかりの店の暖簾がゆらりと揺れ、魚の匂いが風に乗って流れてくる。

 町はすでに朝の準備を始めており、漁師たちは荷を積み、網を広げ、掛け声と笑い声が交じり合っていた。


「ムチーノさん、おはようございます!」


 昨日会った町長の青年が駆け寄りながら声を掛けてきた。


「準備は整ったか?」


「もちろんです。今日は初日ですからね。慎重にいきましょう。危険区域までは半日の航海です」


 青年はそう言ったが、その声にはほんの僅か、緊張が滲んでいた。


「不安か?」


「……少しだけ。でも、毎年やってることですからね」


 青年は少しだけ息を吐き、笑みを作る。

 その笑顔には若さと責任の色が混ざっていた。


「心配なら、昨日魚に交渉していた盗賊を連れてくればよかったな」


「もう来てますよ。ほら、あそこ」


 指差す先には、朝からやる気に満ちたのか落ち着きがないのか判断がつかない、鋭い目つきの男たち。

 そのうちの一人は、私を見るとさっと目を逸らした。


 船は想像よりも大きく、帆にはこの町の紋章――交差した魚と鍵――が描かれている。

 舵を握るベテラン漁師は髭も腕も太く、まるで海そのものを背負っているような風格だった。


「乗れ。全員揃った」


 低く太い声に促され、私は甲板に足を踏み入れる。


 ギシ、と木が鳴る。


 ロープが引かれ、港にいた海鳥たちが騒ぎ、船はゆっくりと岸を離れた。

 波を滑るように進みながら、町が少しずつ遠ざかっていく。


 青年が大きく手を振って見送っている。


 潮風は冷たく、しかし心地よい。

 強くなる海の匂いは、新鮮な魚介の味がした。


「えび、か……」


 私は遠くを見つめながら、腰のムチにそっと手を添えた。


 空は青く広がり、朝日が水平線の先から姿を見せる。

 昇ったばかりの光は海面を照らし、金色の道のように続いていた。


 波はまだ穏やかだ。


「……今年はどうなるかね」


 いつの間にか隣で腕を組んでいた男が、ぽつりと呟いた。

 黒いフードは被っていないが、昨日路地裏で暴れていたあの怪しい男だ。雰囲気は全く違うが声で分かる。


「昨日の調子からして、てっきり留守番だと思っていたが」


「はっ、俺だって働く。盗まねぇと決めた以上、魚は自分で捕るんだよ。誇りってやつだ」


 胸を張る姿は妙に楽しそうだ。

 目つきは鋭いが、どこか無邪気にも見える。


「……誇りがあるなら、漁師から魚を奪おうとするな」


「昨日のは……反射だ。癖みたいなもんだ。あれでも理性で止めた方だぜ?」


「止めきれていなかったように見えたが」


「うるせえ」


 男は頭をかきながら笑った。

 根は悪くない。むしろ、分かりやすい。


「名前は?」


「フィッシュバイトだ……長いからフーバーとでも呼んでくれ」


 妙に力を込めて名乗る。


「噛むのか?」


「昔、海に落ちて魚に引きずられたことがあって、それ以来のあだ名だ。昔の俺に名なんてなかったから、これでも満足しているよ」


 苦笑いの理由が理解できた。


「ムチーノ。今日から同行する」


「知ってる。あんたの噂、聞いてるぜ。むさくるしい漁師町に現れた紅一点だってな」


 紅、か……


「なにを考えている?」


「牛丼たべたい」


「はあ……変な奴だ」


 フーバーは呆れたようにため息をつき、自分の持ち場に戻って行った。

 彼に言われたくはない。




 船が港を離れてから、しばらくは穏やかな航海だった。

 波は低く、空は高く澄んでいる。海鳥が頭上を回り、船員たちは無駄のない動きで網や道具の準備を進めていた。


 だが、昼を過ぎた頃、海は少しずつ表情を変え始めた。


 風が強くなり、波頭は砕け、白い泡を散らしながら船腹を叩く。

 甲板はわずかに揺れ、桶に張った海水が跳ねて足元を濡らす。


「ムチーノ、振り落とされるなよ。ここからが危険区域ってやつだ」


 甲板で周りを警戒していた私に、フーバーが帽子を押さえながら言った。


 空は晴れているのに、海だけが荒れている。

 まるで生き物の縄張りに踏み込んだような……そんな気配があった。




 日が落ち始め、水平線が橙に染まる頃、船長の声が響く。


「灯を点けろ! 今夜から漁に入る!」


 ランタンに火が灯り、甲板が暖色に照らされる。

 海は既に暗く、重く静かだ。

 遠くで波が砕け、断続的に低い音が響く。


 私は船縁に立ち、黒々とした海面を見つめた。


「ここに……えびが潜んでいるのか」


「普通の海じゃねぇよ。逃げ道がねぇ狭い海底谷がある。そこに群れが集まるんだとよ」


 フーバーが解説する声は意外と落ち着いていた。


 しかし、夜の海はすべてを飲み込む。

 船の灯りの届く範囲以外は、深淵の闇だ。


 しばらくして、漁が始まった。

 網が沈み、巻き上げ、沈め、また巻く。


 だが——


「……空だな」


 フーバーが首を鳴らしながら呟く。


 二度、三度、四度。

 どれだけ網を入れても、引き上げても、網の中には小魚と海藻ばかりだった。


 甲板に落ちた海水がランタンの光に反射し、冷たい光を返す。


「初日からこれか……」


 船長が眉間を揉みながら唸る。

 空気は沈んでいるというより、静かに焦り始めていた。


 私は空を見上げた。


 雲はなく、星々が()()えと瞬いている。

 その中に浮かぶ細い月は、まるで細長いえびのような形をしていた。


「……なぜ、えびのことばかり考えているんだ私は」


 自分に呆れつつ、小さく息を吐く。


 夜の風は冷たい。

 けれど、心が折れるほどではない。


 私は今まで、食べたいと思ったものを食べてきた。

 えびに惹かれる今も、きっと運命だろう。


 まだ始まったばかりだ。


 船は暗い海の上を、静かに進み続けた。




 二日目の昼。

 正午だというのに、海上の空気は刺すように冷たい。


 昨夜行われた初日の漁の成果は、残念ながら芳しくなかった。

 短い仮眠を終えた私は、眠気をまだ引きずりながらも、今日の準備に取り掛かっていた。


「今日は昨日より動くぞ」


 漁師のひとりが短く言う。

 その声は張り詰めていて、昨日がまだ続いていることを告げていた。


 私は甲板に立ち、荒れ始めた海を見つめる。

 波頭が白く砕け、風に乗って聞き慣れぬ海鳥の鳴き声が遠くから響いてくる。


 潮の匂いは濃く、風は容赦なく肌を切るように冷たい。


「……静かだな」


 小さく呟くと、いつの間にか隣に立っていたフーバーが肩をすくめた。

 昨日もそうだったが、彼は気づけば私のそばにいる。


「静かなときほど怖ぇんだ。嵐も獲物も、前触れなしに来る。気ぃ抜くなよ」


 言葉に反して、彼はどこか楽しそうだった。

 危険に触れて生きてきた者特有の、あの妙な昂揚がにじむ表情だ。


「飯にすんぞー!」


 甲板の空気が一気に緩む。

 船長と数人の漁師が、両腕いっぱいに食材を抱えてやってきた。


「さあ、食え。海の上の飯ってやつだ」


 手渡されたのは、少し乾燥したパン。

 その上には香ばしく焼かれた魚と、薬草のような香りを持つ海藻、そして軽く火を通したぷりぷりとした身が乗っていた。


 一口かじる。


 塩は控えめ。だが、驚くほど旨い。

 まるで海がそのまま味付けをしてくれたかのようだ。


 噛むほどに魚の旨味と脂が染み出し、海藻の香りがそれを上品に引き締める。

 パンはほとんど味がないのに、不思議と全体をまとめてくれていた。


「……これは、いいな」


 私の感想に、周囲の漁師たちが一斉に笑った。


「だろ? 海の飯は腹じゃなく、体ん中に染み込むんだ」


「見た目は雑でも、海の上で食うと最高にうめぇんだよ」


 彼らは肩を揺しながら笑い、豪快にパンを頬張る。


「……いい」


 海に試されている。

 そう思うと、不思議と冷たい風さえ心地よかった。


「よし、午後はもっと深く入るぞ!」


 声が響き、船員たちが一斉に網や縄を手に動き始める。

 風は強くなり、波は荒れ、空はゆっくりと灰色に変わっていく。


 だが私の心の芯だけは、まだ温かいままだった。


「待っていろ、えび」


 波間へ視線を送りながら呟く。

 答えるかのように、大きな波が船体を叩いた。




 三日目。

 海は相変わらず荒れ、船はまるで巨大な獣に揺さぶられているかのようだった。

 二日間も成果がなかった船は、獲物を探し転々とする。

 昨日よりも深い場所へ網を落としたが、引き上げた中身は――藻、藻、そして少量の小さな貝。


「……えびの影もねえな」


 フーバーがぼそりと漏らし、漁師たちは黙ったまま網を畳む。

 焦りは声にならず、空気に混じって重く沈んでいく。




 四日目。

 空は曇天、風は冷たく、潮は荒い。

 海鳥すら寄ってこない静かな海域で網を落とす。


 結果──ほぼ空。


「これはひどいな……」「今年は外れか……?」


 誰も決定的な言葉を言わない。

 だが全員が理解していた。


 このままでは終われない。




 五日目の昼過ぎ。

 船上には重い静けさが漂っていたが、その沈黙はこれまでとは違っていた。焦りでも、諦めでもない。張り詰めた空気は、嵐の前触れのようだった。


「……危険区域の奥まで入る。引き返すなら今だ」


 船長の声は低く響き、海の音に飲まれず残った。


 しかし、誰も動かない。誰も口を開かない。

 代わりに、強くなった潮風だけが返事のように吹き抜けた。


「行くしかねぇよな」


 フーバーが肩を回し、薄く笑う。

 漁師たちは無言のまま頷き、視線を前へ向けた。


 船が奥へ進むにつれ、黒い海はその深みを増した。波は牙をむき、海底から響くような低く不気味な振動が足裏へ伝わってくる。


 この海は、ただ危険なのではない。

 “何かが(ひそ)む海”だ。


 空は急速に暗くなり、遠雷が響いた。雨が少しずつ甲板を濡らしていく。ここにいると、時間の感覚すら曖昧になる。


 漁師たちは網を投げ入れ、慎重に作業を始めた。

 しばらくして――


「来た! 引け! 大量だ!」


 誰かが叫ぶ。

 網は重く、魚と小えびがびっしり詰まっていた。


 甲板に笑顔が戻る。


 その中、私の隣でフーバーが眉をひそめた。


「……感じるか?」


「ああ。空気が変わった」


 言った瞬間、船底から突き上げるような衝撃。

 甲板が跳ね、漁師のひとりが網にしがみつく。


「網だ! 切るな、耐えろ!」


 怒号。

 巻き上げ機は悲鳴を上げ、縄は弦のように張り詰めて震える。


「重……!」「なにこれ、岩かよ……!」


 全員が網へ駆け寄る。

 波しぶきが乱れ、海面が割れる。


 ――それは現れた。


 朱と墨を溶かしたような殻。

 鎌じみた腕。

 額から伸びた、二本の牙。


 海を割って現れたその巨体は、船上の空気を一変させた。


「……最悪だ」


 誰かが呟く。


 船長が息を呑み、言った。


「牙えびだ」


 その名は雷鳴より重く、船全体に落ちた。


 フーバーが私を見る。

 その顔は恐怖ではなく、どこか楽しげだ。


「頼んだぞ、狩猟士さん」


 私はゆっくりと腰のムチに触れ、息を整えた。


「任せろ」


 牙えびは網ごと暴れ、船体を揺らす。

 赤い目がぎらりと光り、泡混じりの唸り声を上げる。


 四日間の沈黙。焦り。空振り続きの時間。

 そのすべてへの答えが、今目の前にある。


「デカえびよ。君はいったい何食分だ?」


「牙えび、な」


 フーバーの冷静な声は、荒れる海へ消えていく。


 私はムチを構えた。


 食べることは、運命に決められている。

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